政略結婚・14

 

 

「よく分かったね」

 顔はフードに覆われて、声も出さなかったのに。

「手を、見て」

 ネーブル・オレンジの皮を剥くその指先で。

 剣ダコが関節を歪ませるほど盛り上がった、そんな手の持ち主は、この世に何人も居ないだろう。

「いまさらわたしを笑いに来たの……?」

「君の望みを、叶えようとはしたよ。間に合わなかっただけだ」

 確かに出来ればしたくなかったからギリギリ精一杯に粘って、そのせいで眼鏡の宰相に先を越されたけれど。

「遅れてすまなかったね」

「今からでも、叶えてくれたら、許してあげる」

 裸のまま上体を起こして、肌が露になるのも構わず、女は生成りの宦官服に包まれた肩に顔を埋める。カラダの線を隠す麻の生地は頬に硬いが、その下の、樫の一枚板に似た強靭な筋骨は、何年も寄り添って馴染んだもの。

「他殺って分かるようにして」

「実は一昨日から、様子を見ていたのだがね」

「……意地悪」

「君が幸福なら現れずに去るつもりだった。分からなくなったから君に直接、望みを尋ねようと思って来たのだ」

「このまま絞め殺して」

「わたしはできれば、君には生きて欲しい。あの若い国王は君を愛している様子だし、そう悪い男ではなさそうだが、君とは合わないのかな。耐えかねるほど下手かね?」

「ここは辛い。殺して」

「わたしがせめて君と同じ歳なら、戦争が始まる前に君の手を引いて世界の果てまで逃亡したが」

「仮定の話には興味がない」

「君の春秋をわたしはもう、長くは守れない。あの国王は順当にいけば私より四十年、きみを長く愛してくれるだろう。それを思うと、これでよかったのかとも……、違うのかね?」

 抱き合った女に腕の中でかぶりを振られて、宥めるように、隻眼の男は黒髪を撫でた。絨毯の上で起き上がった女の、白い背中が腰まで見えている。半透明の白い玉に似た、艶やかな素肌には幾つも鬱血が散って、それは昨夜、この女を抱いた男の情熱を証明するように赤い。

 腕にも腰にも、その花は咲いていた。何かを嘆く女を慰めながら、隻眼は深く物想うように瞳の色を濃くする。国体としての義務を果たす為の床入り、政略結婚のセックスで、こんな風になるとは、老練な男にはどうしても思えなかった。

 女の嘆きと状況証拠とが、あわない。

「もうすぐあなたの宰相がここへやって来る」

 女連れの旅の進みは遅く、宿場宿場で駿馬を乗り換えてやって来た隻眼の男とは随分、差がついてしまった。それでも大晦日の頃にはこの地に到着するだろう。新しい女王さまをお披露目するために。

「それまでに考えておきたまえ。自分が本当はどうしたいのかを」

「お願いきいてくれないの?」

「それが君の本当の願いなら叶えてあげるがね」

 恨めしく見上げてくる麗しい瞳に、隻眼が細められる。夫婦であったことはこの国の法廷で否定されて、母国の司法もそれを追認したから、くちづけはしなかったが。

「きみの苦しみが本当は何処にあるか、わたしは知っている気がするのだ。あの宰相の前でだけはいつも、君は小鳥のようだった」

 楚々とした美貌とは裏腹に腹の座ったこの女王様が、あの男の前では顔も上げず抗弁もせずに、何もかもを頷いて受け入れた。王室の財産を国家の管理下に置くことも、見目と実質はともかく、既に老齢と呼ばれてもおかしくない辺境領主との婚姻も。

女が男に従順な理由は一つしかない。けれども、幼なじみの宰相を愛しているから若い国王の掌に包み込まれた今が辛いのかというと、それも不自然なことだ。強制された婚姻というなら隻眼の男も同じで、なのに。

「わたしには優しくしてくれた君が、あの国王にそう出来ないのが不思議だ。微笑んで一言、それだけで、あれは君の為に死に物狂いだろう」

 今でも外聞を構わず、かなり強引な買収工作を繰り返して、この年上の美女と添い遂げようと、それだけを目標にしている。

「きみへの愛情という意味で、わたしはこちらの国王に共感を持っている。分からないのは、宰相殿のことだ。王家の子女が国家の駒といっても、あまりにも情けが薄すぎる。君を国王に突き出したまではともかく、どうして新しい王女が必要なのか、私には理解できない。……共同統治で、いいではないか」

 戦争によって植民地化され、戦勝国から収奪を受けている現実は否めない。しかし女王様が宗主国の王妃として正式に叙されれば、同君連合体としてそれも少しは手控えてくれるだろう。実際、既に関税の重圧は撤廃が決まった。

「ここの国王も、そのつもりで居るのだろうに」

 母国での結婚は無効にさせたが戴冠は否定していなくて、正妻に戻す以上は生まれる子供に両国の王位を譲るつもりだと思えるのに。

「それが気に入らない連中も多いでしょう」

 歴史ある老大国の貴族や重臣、そして国民の中にも、新興国家に吸収合併さながらに統合されることを是としない者は多い。

「意識など一世代で変わる。必要なのは、たかが二十年だ」

「でも百年後に亡霊のように蘇る。民族意識というのはそんなものでしょう」

「そう。そこで一番、確実なのは血を溶け合わせることだ。君の子になら、わたしは忠誠の誓いをしてもいい。父親が誰であっても。忠誠とはそんなものの筈で、あの宰相は、少々了見が狭い」

「ヒューズを悪く言わないで、ブラッドレイ」

「きみはいつもそうやって彼を庇う。そんなに好きなのかね」

「レイプ、したことがあるから」

 あっさり言われた一言に、隻眼が見開かれる。

「だからあいつがわたしを嫌っても憎んでも、それは仕方ないの」

 驚きに、ごく短い時間、隻眼の男は凍り付いていた。海千山千、歴戦のこの男を強張らせる驚愕の言葉を吐いた、女は静かに目を閉じて、逞しい胸板に頬を寄せている。

 やがて、見開かれていた隻眼が、再び細められて。

 剣ダコのある固い掌が、女の白く、細い指を包み、持ち上げて。

「さすがだ、ロイ」

 うずうずと、男の肉のかたそうな頬が、緩む。

「それでこそわたしの女王さまだ」

 手の甲に、君主に対する、ひどくうやうやしい、キスを。