養子の気苦労・近藤勇さんの悲哀

 

 

 外に向っては猛々しく、ちょっとしすぎて、敵対者を情け容赦なく斬殺し、タメに敵も多かった新撰組局長・近藤勇さん。彼が三代目天然理心流宗家・近藤周斎さんの養子であることは周知の事実です。そうして沖田もまた、勇さんでなく養父の三代目が引き取った、天然理心流道場の内弟子です。両者の歳の差は十歳。『流儀上の親子』にしては、ちょっと近すぎます。もしかして、勇さんのことを周斎がちょっと気に入らなくなって、それで「つぎ」「予備」として迎えられたんじゃないかな、という邪推も成り立つほどです。

 そう、勇さんは養父・周斎さんの奥方、養母に当る人とあまりうまくいっていませんでした。というより、はっきり反目していました。(沖田もいびられていたようですが)いつの世も旦那は奥方に引きずられるもの、養父の周斎も自分が気に入って跡取りにした勇さんがけむたくなってきます。近藤さんが近隣に出稽古に行っていた留守にこの養父母が家財道具をまとめて家出(!)して、近藤さんが流儀の後援者に泣きついたこともあります。

 

「この苦難を乗り越えて流儀が継承できたら、死ぬまで、ううん、死んでも感謝し続けます」

 

 これでは親子逆転して、武者修行にでも出た跡取り一人息子(しかもけっこう出来がいい)の行方を捜す親の手紙のようです。この後も近藤さんは、幕府講武所の師範になろうとして活動してまわったり、奥さんを貰ったり、頑張りますが、なかなかうまくいきません。「燃えよ」では、疫病の流行で道場の経営が成り立たなくなって京都へ行くことになっていますが、史実で道場は近藤さんの上洛後も経営を続けています。

 土方さんの年賀状にもありましたが、彼らが上洛した「浪士隊」の職務は将軍上洛の先払い及び警護、ですから京都滞在はせいぜい数ヶ月、大枚の支度金が出るってよー!という(清川八郎がわざと流した)噂につられて、ついでに流行の攘夷をするんだと、腕に覚えの面々は集まってきた訳です。

 結局、本来の募集人員の五倍ほど浪人が集まってしまい、「よ、予算足りないよ、どーしよ」「でも断ったら、きっとあいつら暴れだすよ!」という騒ぎになります。責任を取って松平上総は辞任、清川も無役になり、口のうまい鳩翁がみんなをなだめて京都へ向わせます。が、懐は寂しく、「出稼ぎに行ってくる!」と妻子におそらく言い残して旅立った、近藤さんの心中やイカニ。

 京都に着いたら着いたで、将軍警護のための集団を、清川八郎が勝手に「尊皇攘夷」の団体にするべく関白に書状を差し上げ、「攘夷をします。生麦事件で横浜に攻めてくる(だろうというのが当時もっぱらの風説)外国人を討ちます」と言い出し、それにびっくりした江戸の幕閣が「ちょ、ナニやってんだ、江戸に呼び戻せ!」と怒るわ、もう散々です。小説や漫画でははしょって書かれますが、浪士隊江戸引き上げの命は幕府から出ています。その時、「俺たち京都に花見に来たんじゃない!(出稼ぎに来たんだー!)」と、江戸へ帰りたがらなかった一行が、のち会津藩お預かり新撰組となります。

 幕命に逆らったわけではありますが、将軍警護の先払いに来ておいて将軍の到着も待たずに帰るになんてイヤーっ!という、策士・清川に手を焼く幕府にとっては、可愛げのある訴えだったでしょう。加えてこの頃、幕府の頭脳部の意見も一枚板ではなく、中でも、近藤さんが師範になりたがった武講所の中で、高橋泥舟・山岡鉄舟(義理の兄弟。勝海舟と親しかった)は清川八郎と親しかったのです。(山岡は清川と親しすぎて後に謹慎処分ともなります。清川の首を邸内に隠してやったりのマブダチです)

 二人とも腕が利いて頭がよく、誠実さで知られた義理の兄弟ですが、新選組にはあまり好意的ではありませんでした。清川八郎のマブだったから仕方ないかしれません。勝海舟もイマイチ冷たかったのは、この二人と仲良しだったからかもしれません。明治となって、勝海舟が人に憎まれて引っ込んだ後も、明治天皇の侍従になったり、ラストオブショーグンにどこまでも頼られたり、結局、人柄と実力が世間には買われるんだなぁ、というカンジの二人です。

 この二人に、敵対というほどでもないですが対立くらいはしていたんじゃないか、という感じの旗本が一人。わたくしご贔屓の、「小太刀をとっては日本一」と称された佐々木只三郎です。もとは会津の生まれですが、腕と頭があんまりよかったので江戸で修行をしている時に親戚の旗本の養子になって、浪士隊上洛の時期、武講所の剣術師範でした。清川八郎を討った実行犯(幕命が出ているので暗殺とは呼びにくい)の実行犯、坂本竜馬暗殺(こっちは蜜命なので暗殺)の嫌疑も濃くかかっています。会津に残ったアニキも出来がよかったらしく、会津の名家に養子に行っています。会津出身・幕府の剣士とくれば当然、新撰組とは深く関わってきます。むしろ、新撰組が会津藩のお預かりになるに際しては佐々木が兄の、会津藩公用方(渉外担当部長といったところ)・手代木直右衛門氏に、カオを繋いでやったんじゃないか、という説も濃厚です。

 ともあれ、佐々木は後に京都見廻組の頭目となり、近藤さんやひーちゃんと一緒に時々は飲みに行ったり遊郭へあがったりしつつ、京都で浪人たちを震え上がらせます。この仲のよさを見ていると、上洛当時、世話になったんじゃないかな、という気がします。坂本竜馬の首を新撰組も狙っていましたが、結局は見廻組に先に上げられてしまい、それでも近藤さんは、「今日は佐々木が坂本を討ち取ったから愉快に酒が飲める」発言をしています。(彼の愛妾の証言)これが本当なら、手柄を競り合うはずの男同士、競合組織のトップ同士でありながら尚、相手の成功を喜ぶ尋常でないナカヨシです。

 しかし歴史は皮肉に展開。清川のマブダチだった高橋泥舟・山岡鉄舟は、謹慎させられていたことが幸いして浪士たちの恨みを買うことも無く、江戸明け渡しや明治維新に幕臣側の交渉役として大活躍します。佐々木さんは鳥羽伏見の戦いで奮戦及ばず、戦死してしまいます。

 

「くちはてて かばねの上に草むさば 我が大君の駒にかはまし」

 

 剣の腕前のみならず、某あまえんぼうの、「報国の心忘るる女人かな」とは比べ物にならない詠みっぷりです。ひーちゃんの歌は本当にひどい。「燃えよ」と違って史実では、ヘタの横好きを隠しもせず、上洛後も色紙に書き散らし親戚に送ったりして、得々としているのが本当に恥ずかしいです。(でもかわいい)

 

 

 ……で、養子・近藤さんの苦労ですが。(話の本筋を忘れていました)

 そんなこんな、けっこう追い詰められた挙句のイキアタリバッタリ、だったんじゃないかなと思える近藤さんの京都残留ですが、歴史は彼を維新の大舞台へ押し上げます。その最中、文久3825日。上洛から半年、禁門の政変からほんの一週間、芹沢鴨をどう除こうかと頭を痛めていただろう時期に、遠い江戸では養父の周斎が、門人の三人と連盟で、おなじみ・日野の彦ちゃんにお手紙を出します。

 

「こんにちは。あの、ちょっとお伺いしますが、うちの勇って、どーなっているんですか?帰って来いって俺から手紙を送っても、返事も寄越さないんです。もう人をやって連れ戻すしかないな、って思っているんですが、その前にもう一度、手紙を書こうかとも思っています。彦さんは勇と仲良しだから、何か事情を聞いていないかな、と思って、お伺いさせていただきました。どうですか?」

 

 日野には長々と報告の手紙をマメに送っている勇さん、しかし養父からの「カエレコール」には無視を決め込んでいたようです。本社の会長および役員たちは困り果て、若社長と個人的に親しい多摩支社の代表格(ただし無給、どころか援助)に向って、本当に遠慮しながら、ナンか聞いてませんか、つまり、「若社長は我々を悪くいってなかった?」と伺っているわけです。老いた会長の威光を背景に、若社長をいびった前代からの役員たちが、若社長に家出(モドキ)されて右往左往、困っている様子が伝わってきます。ちなみに原文は確認できていません。上記は研究論文からの引用です。

 

 

その後、多摩支店代表・彦五郎さんからも、江戸本社役員一同及び会長からも、「若社長」勇さんを江戸本社へ呼び戻すべく、書簡が京都へ送られます。が、勇さんのお返事は。

 

「俺は帰れません。こっち大変なんです。五代目は彦さんに継いでもらってください」

 

 というものでした。日付は9/20。芹沢鴨を暗殺した後で、そりゃあ大変だったでしょう。が、勇さんの言っているコトはむちゃくちゃです。江戸牛込本社をいきなり、多摩支社長に任せると言い出されても、本社には本社の役員も居れば思惑もあります。

京都での仕事が大事だったのも本当でしょう。が、要するに帰りたくなかったんだろうな、と思えます。妻子はともかく、養父養母に関しては、いびられた恨みが身に沁みていたのかもしれません。もちろん彦ちゃんには日野名主としてのお仕事が山積み、こんなムチャは通りませんでした。

が、彦ちゃんは責任を感じたのか単に稽古が好きだったのか、本社の稽古日にはまめにやってきて門弟に指導もしてやれば、神文帳を持ち歩いて門人の取り立てを代行もしています。道場の屋根の修理もしました。「彦さん、お世話かけてます」という近藤さんのお礼のお手紙には、真情がにじみ出ていますが、本当にお世話かけています、この甘えん坊め!そういえば勇さんも生家では末っ子でした。

 

 

 翌年、禁門の変が起こります。7/19でした。そして7/28には小野道の鹿ちゃんのところへ、「近藤勇・討死」の急報が飛び込んできます。鹿ちゃんは彦ちゃんに知らせ、彦ちゃんは飛び上がって江戸の近藤周斎さんにお知らせ、一同は大騒ぎでした。が、勇さんの生家の宮川家から会津藩江戸藩邸を訪ねて書類を見せてもらい(大名飛脚便があるから早く着く)、死亡者に近藤勇の名前がないことを確認、ほっと一安心、でした。

 しかし8/11、フタタビ、討ち死にの風聞が聞こえてきます。

「もうこんなドキドキ心配はごめんじゃー!!」

 ぶちっとキレる、彦ちゃん&鹿ちゃん。他に親しい連中と連名で、なんと、京都飛脚を買います。コレは当時、ものすごい蛮勇です。当時、町飛脚は大阪、京都、江戸の飛脚仲間が月に三度の定期便(10日ほどかかる)をだしていたのですが、この場合は買い切りの特急便です。一周忌の引き菓子の発送をアホな何処かの店長が忘れていて、ヤマトの定期便ではもう間に合わないから、福岡・羽田間をヘリで飛ばせた、というくらいのものです。

もともと、宿場の名主の二人ですから、大名飛脚・町飛脚とはおなじみ、多少は割り引いてもらえたかもしれませんが、普通の費用で四両、現代の物価に直せば大工さんの二か月分のお給料、それに「買った」とあるからには買い切りなので、ご祝儀数倍・経費は全部こっちもち、です。それも往復買いです。想像しただけで根がケチな私は卒倒しそうです。

彦ちゃん・鹿ちゃんはケチでなかったのでしょう。そして、近藤さんと、一緒に居るはずのひーちゃんのことが心配でたまらなかったのでしょう。近藤・土方・沖田・山南・井上に宛てて書簡をとばします。実際に飛脚はかっ飛んでいきます。お前ら無事なら無事って一筆さっさと寄越せ、こっちは心配で酒も苦いんだよ!(ちょっと彦ちゃん・鹿ちゃんの気持ちになってみました)

そうこうするうちに、飛脚の帰りより早く、禁門の変の当時、京都にいた近藤・沖田の兄から彦さんへ、「みんな元気だよ」という知らせが届きます。多分、こっちは戦争後すぐに出された手紙が、町飛脚の普通便で届いたのでしょう。

やがて飛脚は近藤さんの手紙を持って帰ります。「……無事です。遅くなってゴメン」ざっと内容はそんな感じです。本人は、既に隊士募集のために江戸へ出発しようかな、というような時でした。この時、伊藤のカッシーをナンパ、じゃなかった、スカウトしたりもするのですが、その前に一報しておきなよ、勇さん。

 募集のために江戸へ帰った近藤さんは、彦ちゃんと鹿ちゃんに叱られたことでしょう。

 

 日本史の中で幕末は大化の改新と並んで胡散臭いです。130140年しかたっていないので、胡散臭さも生々しく、時に生臭くさえあります。

 が、多摩の面々と新撰組を繋ぐ絆だけは正直で、なんかいい匂いがすると思います。