手首が痛い、タバコに火をつけろ、喉が渇いた、空腹だ。退屈だから本を読ませろ、ページを捲れ。
などと次々に告げる我侭な人質を誘拐犯たちは持て余していた。
「沢田綱吉からの連絡はまだありませんか」
一同のボスが部下に尋ねる。人質にタバコを咥えさせ、火を点けてやっていた部下は無言でかぶりを横に振る。人質と時計の交換を申し出て既に半日。ムクロウに持って行かせた手紙には何の返答もない。
「なんということでしょう。あなたは見捨てられてしまったのかもしれませんね、獄寺隼人」
うんざり顔で、やる気のない挑発をした返事は。
「オマエそのナップル頭、どーやってセットしてんだぁー?」
たいへん可愛くない口調での生意気なもの。骸と呼ばれる幻術士はソファに深々と腰掛けてため息をつき、そして。
「拘束をはずしなさい、千種」
うんざり顔のまま部下に告げる。無口な部下は淡々と指示に従い人質の手首の紐を解く。解かれた紐は蛇に変化して、差し出された骸の手指に絡みつき、黒曜石に似た石を宿す指輪に変化した。
「日本は今、何時でしょう」
「午後の二時を過ぎたところです」
「とすると、山本武は、成田からの飛行機に乗りましたね」
幾つもの指輪を嵌めた手指を組み、そこへ額を埋めるようにして骸は俯き、はぁっとため息をつく。
「ローマのフィウミチーノ空港到着に12時間、それからここまで列車で……、いや彼のことですから車でやって来るでしょう。それまでにカタがつかなかったらどうしましょう」
困惑を表明する声は静かだった。この芝居がかった男が淡々と喋る様子はかえって、本気で困り果てているのだと分かる。
「アリタリア航空の飛行機が北海上空で迷子になっってくれることを祈りますが、沢田綱吉がこちらの要求をのまなければ……」
組んだ指の隙間から骸が獄寺を見る。見られて、ニッと、アッシュグレイの美形は性悪く笑う。本気の加害はされないと分かっている。試合でもゲームでもなく、大義名分なしに傷をつけるにはあまりにも大物である自身の立場を、よく理解しているのだった。
だからこそ敢えて連れ去られた。この連中の『狙い』を晦ますために、わざと。
「放すか、連れて行くかしかないと思います」
千種も同じく淡々と答える。
「連れて行けば山本武がどこまでも追ってくるでしょう」
「だなぁー。考えるだけでうんざりだよなぁー」
と、声を出したのは人質の獄寺。自由になっても逃げようとしないのは幻術による措置がしてあることを承知しているから。嵐の気性は霧の幻術を見破ることは不得手だ。効率の悪い抵抗はしないでおこうという頭のいい判断と聡明さが、小癪だが見事でもあった。
「オレもよぉ、ナニかされたかとかってアイツにしつこく問い詰められんのは考えただけでもうぜぇ。解放してくれりゃあ悪ふざけだってことにしてやってもいーぜ」
「……本当に?」
「おぅ。土産次第だけどな」
「手土産に何を差し上げれば大人しく帰ってくださいますか?」
「オマエの指輪」
「どれを?」
「全部」
「無茶を言わないでください」
妙に美しい骸の指にはヘルリングが二つ嵌っている。たいそう希少なそれらを譲れる訳がない。
「んじゃ、ソイツ」
タバコの先端の赤みで獄寺隼人が指し示したのは柿本千種。
「……」
千種本人は眼鏡のブリッジを押し上げる。
「それは指輪より無茶です」
黒曜という群れのボスとして、威厳を示して骸は獄寺の提案を拒んだ。本気になった骸のことを、くく、っと喉の奥で笑う様子が憎らしい。
「殴ってやれたいところですが、殴って後がのこって、それを沢田綱吉や山本武に見られて妙にエキサイトされても困る……」
「おーい、ココロん中、ダダ漏れしてっぞぉー」
「ああ憎らしい。ボコボコにしてやりたい。そもそもアナタが小癪なまねをしてくれなければ、我々がこんな苦労をすることもなかったのに」
「俺ぁ小癪だぜ。知らなかったのかよ?」
「知っていましたよ。思った以上でしたが」
「風呂」入りてーんだけど」
「奥の右手です」
「お湯は出るんだろーなぁ?」
「贅沢ですよ、あなたは」
「てめーらが質素なんだよ。昔っからなんでこー廃墟ばっかに潜みやがるんだ。どーせならヴァリアーかキャバッローネに誘拐されたかったぜ。ふかふかベッドとバラの風呂に漬かってよぉー」
ぶつくさ言いつつ、獄寺は骸に近づいて手を出す。
「なんですか?」
「タオル」
「……千種」
「……」
獄寺隼人は無言で差し出されるタオルを手にして、そして。
「一緒に、こねぇ?」
深々と腰を折り、さらさらの前髪が骸のそれに触れるほどの近さでそう、囁く。
「行きませんよ」
「遠慮すんなって。人質の味見はボスの特権だろぉー?」
「あなたのような色悪にひっかけられて大火傷をするほど、わたしは粋な生き方をしていないのです」
「よく言うぜ。ヒバリにゃ手ぇだしやがったくせに」
「それは誤解だと何度言えば……」
頭を抱えて骸が嘆く。何度いっても聞く耳を持たないことは分かっている、という諦めのため息をつく。そこにコツンと、額を優しくぶつけて、獄寺隼人はシャワーのある奥へと廊下を歩いていく。
「千種、行ってはいけません」
見送って、それから暫くして、そっと席を立とうとする部下を骸は止めた。
「アレは怖いモノです。いい匂いでも触れてはいけません。私やお前の手に負える相手ではない。食い散らかされるのはこっちです。山本武も怖いですがアレはもっと怖い」
殆ど自棄の勢いで骸は心中を部下に告げた。
「自分の魅力を承知している点と雌雄どちらにも変貌可能な点で雲雀恭也より性質が悪い。私たち間のような堅気が関わっていい相手ではありません。アレには顔だけ爽やかな山本武が実によくお似合いです」
「骸さま」
「ボンゴレ史上最悪の色悪カップルとして歴史に君臨させておけばいい」
「ご自身に言い聞かせておられるのですか?」
「……そうです」
アッシュグレイの髪の、愛想のなさがかえって愛嬌になっている美形が。
「拉致された」
と、聞いた銀色は即座に、
「オマエんとこでかぁー?」
澤田綱吉の隣の雲雀に確認する。大切なことだった。一行に背中を向け、シャツのボタンを留めていた男もそっちを思わず見たくらい。
「……」
された雲雀はクチを開かないままで頷く。屈辱に耐えていることが口元の力の入り方で分かる。
「マジかよ。相手は?」
防諜も警備もザルなボンゴレ日本支部と違って並盛財団の警戒は厳しい。そこへ乗り込みボンゴレの幹部を拉致したというのは、並の相手ではない。
「六道骸」
「なんだ、ガキどもの内輪揉めかよ」
途端に前のめりになりかけていた銀色の姿勢がもとに戻る。男も手首のカフスボタンを留める動きを再開する。
「内輪って言うか、骸は確かにオレの守護者だけど、今度のことは本気の敵対だよ。獄寺君と引き換えに時計を寄越せって言ってきたし」
「とけいー?」
銀色の鮫が大きな声を出し、彼らに背中を向けてカフスボタンを嵌めた男が振り向く。