すべからく、すべて・1
男のことを、俺は最初、何も知らなかった。
ただ、俺にすごく優しく笑ったから、きっと俺を好きなんだと思った。
笑われて、俺も嬉しかったから、男のことを好だったんだろうなと、思った。
詳しい事は何一つ、覚えていなかったけれど。
そんな俺に男は手を伸ばし抱き締めた。暫く、じっとそうしていた。そして。
「大丈夫だから」
囁くように、繰り返す。
「なんにも心配、しなくていいんだぜ。俺がついてる。ずっと、一緒に居る」
自分が誰なのか男がなんなのか、何も分からないまま、それでも。
ぎゅっと力強い腕に、包まれると、すごく安心した。
「地獄の底まで、一緒だ」
その言い方がそういえば、少し変だと、思ったけれど。
交通事故による記憶障害。
といっても、生活するのに不自由はなかった。俺からぽっかり落ちているのは記憶の中の「思い出」とでもいうべき部分であって、それから構成されたのであろう「知識」は、そのままで残っていた。
意識が戻った後で眠り、目覚めた時、俺はもう、別の建物に居た。天井の高い、広い部屋だった。家具は飴色の艶が出た上等のもので、中には服が、いっぱいに詰まっていた。
寝巻きを着替えて部屋を出る。廊下は天井まで全面ガラス張りで、暖かな日差しが溢れるほど注ぎ込む。中庭を右手に見ながら進んで着いたリビングにも、天窓がとられていて明るかった。
「……おはよう」
目覚めた部屋よりいっそう広い、リビング。床にはラグが敷かれ毛皮が置かれてその上に、男は胡座で直に座っていた。ソファやテーブルが並べられた応接セットも部屋の隅にあったが、新聞や雑誌、飲みかけのカップ、なんかは男の膝前に散らかっていた。
「気分は?具合が悪かったり、しないか?」
男は立ち上がり近づく。背が高い。俺が胸の中にすっぽり収まる。肩幅も広くて全身にまるで、鋼みたいな強さを感じる。
「俺が、分かるか……?」
腕の中に抱きこまれ覗き込まれる。鳶色の深い瞳の問いかけに、答える言葉を、俺はもたなかった。
「昨日、会った、人」
それしか、俺には分からなかったから。
俺がそう告げた途端、男はそっと息を吐く。落胆、諦め、そしてほんの僅かな、安堵?
「そうだよ。俺の名前は、啓介。高橋啓介、だ」
「高橋さん?」
「啓介」
「啓介さん」
「余計なのつけるな。啓介」
男の年齢は三十歳か、もう少し。俺より、十五歳は年長に見えた。そんな人を呼び捨てにするのは気が引けたが、
「……啓介」
そう呼ぶと男は笑った。笑うと目尻が下がって、子供みたいに無邪気な顔になった。ほっとして俺は笑い返す。大きくて頑丈そうな男が本当は、少し怖かったけど、押し殺して笑った。
「メシ、食いに行こうか。それとも作らせるか?何がいい?」
問われたところへ、ノックの音。俺が入ってきたドアとは違う、リビングの奥から。
「お茶をお持ちしました」
「入れ」
男の許可を得て扉が開かれる。その向こう側に居るのは黒づくめの、召使というよりは執事。大きなワゴンを押して部屋に入ってくる。ワゴンはとても大きいのに滑車が軽いのか、滑るように、部屋に入ってきた。
「後はいいぜ。俺がする」
男が立ち上がりワゴンを受け取る。執事は恭しく頭を下げて退室。男がワゴンから多いの布を取る。俺は正直、ごくりと喉を鳴らした。
乗っていたのは、サンドイッチに、スモークサーモン、サラミにチーズ、海老のサラダ。温野菜のグラタンが小さなキャセロールに入っておいしそうなチーズの香りをたてている。フライドチキン、オニオンスープ、味つきゆで卵。
「食べれそうなもの、あるか?」
心配そうに男が問い掛ける。おいしそうだと俺が答えると、男は嬉しそうにワゴンを押してきた。俺に大きなクッションをとってくれる。そこに座って、膝前にランチマットを敷いて、サンドイッチの大きな皿が据えられる。こまごました、料理も。
「手、動くか?ムリしなくていいぜ?」
箸が使えないなら手で食べろよと告げられる。でも、手渡されたのをもってみると大丈夫そうだった。俺が水気の多い、甘くてプチプチの海老のサラダを口に運ぶのを、男はじっと見ていた。
「大丈夫か?吐き気とか、しないか?」
ぜんぜん平気。おいしい。
「そうか。良かった」
ほっとした表情で男は俺に茶を注いでくれる。暖かな紅茶を片手に、俺はサンドイッチをぱくついた。粒マスタードの効いた荒引きソーセージとポテトのサンドイッチはとても美味しくて、ばくばくと食べていく。
「啓介は、食べないのか?」
ふと、俺は見ているばっかりの男が気になって、尋ねる。
「いいよ、俺は」
男は、とても幸せそうに笑った。
「あんたがメシ、食ってるのを見てる方が、愉しいから」
「俺の名前、なんていうの?」
男が俺を『あんた』って呼んだのが少し、違和感で尋ねる。
「……涼介」
「姓は?」
「高橋涼介」
「もしかして、啓介、俺の兄さん?」
「違うよ。……近いけど」
曖昧に男は微笑む。目元になんだか、暗い影があった。
「親戚の、従兄弟とか?」
「まぁ、そんなところ」
誤魔化された、ような気がした。けど追求はしなかった。それよりも、俺は自分の周囲の情報を吸収するのに忙しくなった。この屋敷のこと、毎日の暮らしのこと、そして啓介の、こと。
屋敷は広かった。そして、俺が与えられた部屋というか離れは、啓介の暮す一角からだけ回廊を通じて繋がっていた。屋敷の中にはたくさんの人が居るみたいだったけど、俺は殆ど、誰とも会わなかった。啓介の部屋に運ばれる食事を日に三度、一緒にとって、あとは中庭や家の中を歩いて、本を読んだり新聞を見たりして過ごした。
記憶障害についての本を読みたいと思ったけど、啓介はそれを許してくれなかった。事故と病気に関わる刺激は医者から禁止されていると、言われるとそれももっともな気がして俺は、諦めた。他に、することは沢山会ったから。
中でもイチバン、大事なことはリハビリというか、運動。特に体調が悪かったり、痛かったり苦しかったりはないけれど、俺は体力がなかった。回廊を往復するのがやっと、という感じで走れば息が切れる。そんな俺を、啓介は痛々しく眺めた。
「ずっと寝たきりだったからね、あんた」
ゆっくり、焦らないで、ちょっとずつ馴らしていけばいいさと、俺を慰める。
「こっちおいで。マッサージしてやるよ」
俺をソファに座らせて、足指から膝まで、揉みほぐしてくれる。
「上手だな」
「馴れてっから」
「啓介、マッサージ師なのか?」
「いや、される方」
「スポーツ選手?」
「そうだよ」
それきり啓介は黙ってしまう。なんとなく、俺は続きを聞けない。訊かれたくない啓介の気持ちが伝わるから。この屋敷で、俺と話してくれるたった一人だけの相手を怒らせたく、なかった。
「なぁ、啓介」
「ん?」
「俺の両親、どうしてる?居ないのか?」
「……あぁ」
「死んだの、か?他に身内は?家族は?」
「……居ねぇ、よ」
啓介の言葉は、嘘とは思えなかった。
「あんたと俺、二人っきりの家族、なんだ」
真摯な瞳で見つめられて。
「だから、あんたが目覚めてくれて、嬉しい……」
何も知らない、知らされないままでそれでも、呟く男の愛情を、俺は信じたのだ。