すべからく、すべて・20

 

 

 主人の帰宅を使用人たちは揃って、緊張して出迎えた。中でも執事は深々と頭を下げ、開口一番、留守中の不始末を詫びる。

「お前達のせいじゃないさ。ジム使わせろって言ったのは俺だ」

 主人は落ち着いていた。物分りのいい様子で失策を許す。そして。

「……何処に居る?」

 一旦は逃げ出して、また舞い戻ってきた、鳥。

「離れのお部屋にいらっしゃいます。お帰りをお待ちです」

「ふーん」

 主人は上着を脱ぎ、カジュアルな服装に着替えた。なんでもなさそうな風を装いながらも、手前の自分の居間で服を脱ぐ様子には、やはり含みがある。対面するまでの時間を稼ごうとしているように、見える。いつもなら挨拶を聞き流しながら小鳥の肩を抱いてずかずかと、奥の巣穴に篭りに行くのに今日は、えらくゆったりとしていた。

「どうしてる?」

「出て行かれる前と同じです。普通にしておられます。お元気です。食事も、ちゃんと」

「……ふーん」

 着替え終わって、脱いだ服をメイドが引き取っていっても、主人は執事と立ったまま話し続けた。

「出て行った時は一人か」

「わたくしどもが、気づいた限りでは」

「帰って来た時は?」

「お一人でした。少なくとも、門の前に立たれた時は」

「なにか、話したか。逃げてた間のこと」

「私どもには、一言も」

「……」

 話すことがなくなって、主人は執事に行けと合図した。主人は出迎えた時と同じ、深い一礼の後で。

「お食事の用意を中庭に、しています」

 主人にそっと告げる。告げられて主人は眉を寄せる。外は既に暗くて、時計の針は午後の十時を廻っている。中庭で食事、という時刻ではない。

「メシは喰ってくた」

「……あの方のご要望で」

「分かった」

 執事が居なくなってから、主人は荷物の中から小箱を取り出した。深くくすんだ緑色のビロード張りの小箱に白いリボンが掛けられている細長い箱を。

 片手にそれを持ったまま歩き出す。奥の鳥篭へ。

 

 暗い中庭のガーデンテーブル。その上には蝋燭の炎が揺れていて、白い美貌を恐ろしく高雅に浮かび上がらせていた。落ち着いた大人びた表情は愛した相手にあまりにも似ていて、男の胸を疼かせる。

「……ただいま」

 優しく、言えた。

「お帰りなさい」

 椅子から立ち上がりながら白い小鳥が答える。うっすら頬に、微笑みを浮かべるが一瞬だけ。すぐに静かに伏せられた目蓋に、男はそっと、くちづけた。

 抱き寄せるより先に自分から、小鳥は男の腕の中に入ってきた。自分から手を伸ばし男の肩に触れる。額を喉の下に押し付けるように顔を寄せた。抱き締めるというより、縋っているような仕草。それでいて手指は添えられるだけで、指先に力は入っていない。……怖がっている。

 男はゆっきり抱き返す。少しかがんで頬を寄せた。手触り肌ざわりのいい小鳥だ。ダイスキだった恋人にそっくりで、匂いまで同じで。今はまだ記憶より小さく細い手足さえ、最後の形を、まざまざと思い知らせる。

「……怒って、ねぇよ……」

 髪を撫でてやりながら言った。寄り添っていると気持ちはやっぱり、否応なく安らぐ。掌の中に大人しくしていれば、これは可愛らしい愛玩物。

 そう。

 あの人と、同じだと思うから腹が立つのだ。

 これは贋物。恋人とは別人。そう考えていれば憎しみはわかない。せめて大切に、優しくしてやろう。愛らしい時期だけ美しい声で鳴かせた、あとは羽根を毟って饗応のご馳走になる運命の。

 悲惨な、鳥。

「イタズラしたかったのか、閉じ込められたのが不服だったか?心配したけどまぁ、戻ってきたから、もう怒ってねぇよ」

 これは彼ではない。彼なら、出て行けば二度と戻らない。逃げ出したという知らせを聞いた後の絶望。そして翌日の昼、戻ってきたという知らせを受けた瞬間の安堵。ほっとした裏で、苦々しくもあった。二度と戻らない覚悟もなく、逃げては帰って来る。その習性は彼にはなかった。覚悟の良かった、あのキレイな人には。

「プレゼントが、あるんだ」

 言いながら手にした箱を手渡そうとする。小鳥はそっと、身体を男から離す。そして。

「……ゴハン、食べよう」

 惚れ惚れするような優雅さでテーブルの向こう側に行こうとするのを、引きとめて。

「それより、ほら、手、出しな」

 ビロードの箱を渡そうとする。

「ごはん、食べてから」

「俺はもうメシは喰ったよ」

 言うと、瞬間、小鳥は表情を変えた。

 凍りついたような、泣き出す寸前の、ような。

「……そう……」

 力が抜けたように椅子に座り込む。その前に、男は小箱を置いた。

「開けてみろ。気に入るといいけれど」

「……」

「自分からちゃんと帰ってきたから、ご褒美」

「啓介」

「ん?」

「ダイスキ」

 その言葉に、男は苦笑して。

「……そ。サンキュ」

 照れたように髪をかきあげ目をそらす。そらすのを、小鳥はじっと見ていた。本当は照れているのではないということ。そらされた目線はそっぽを向いて、口元には冷笑。

 オウムが唄を繰り返すような、無意味な音に動揺する自分を笑っているように、見えた。

「あのな。俺、啓介に、謝らなきゃいけないことが、あるんだ」

「逃げ出した以外に?逃げてる途中でなんかやったのか?」

「……うん」

「なんだ。言ってみろよ」

 軽い気持ちで促して煙草に火をつけ、そうして顔を上げた男は。

 煙草の煙を吸い込むことさえ忘れて小鳥を、見詰めた。

 それは人形でも贋物でもなかった。その瞬間に少年の顔に宿った表情は、そんな生き物の容ではなかった。

「赦してくれるか?」

 唄うような声。透明で艶めいて、男の心を揺さぶる。こんな声を以前に聞いた事があった。男に向けられたものではなかった。命がけの危機を脱するために、傭兵隊長を誑し込むために昔、こんな声を出した人がいた。媚びている訳ではなく、むしろ恫喝するように強く、それでいて不安そうに揺れる……。

「啓介が、赦してくれたら、俺、これを受け取っても、いいよ」

 白い指先をビロードの箱に伸ばす。懼れるように脅えるように、触れる指先はなにか別の行為を連想させる風にはこの表面をなでていく。

 なにをかと、反問することさえ出来なかった。

 何を言い出すのかという、怖れで。

「……殺しちゃった……」

 顎を上げて、掬い上げるように上目遣いの流し目で。

「殺しちゃった」

 同じ言葉を繰り返す。その目は哀しくもあったし愉しんでもいた。顔色の変わって行く男を映しながら。

「殺しちゃった、んだ……」

 そっと首が傾げられる。赦してくれと、媚びる角度で。

「ごめんね」

「……誰を?」

「分かってるくせに」

「誰を、どうしたって?」

「啓介の……」

 媚びを浮かべた笑顔の表面が、細かくひび割れて。

「大事な人。殺しちゃったんだ」

 だんだん、本音の泣き顔に。

「培養槽の中に浮いていた、人」

 男の表情が深刻な憎悪を宿すのに比例して。

「殺したよ、もう……、目覚めない。……二度と会えないよ。悲しい?」

 声まで、偽りの張りをなくしていく。歳相応の脆さを語尾に宿しながら。

「……イイキミ……」

 最後は、やはり、したたかに強靭だった。

「悲しい?怒った?ならどうぞ、俺も殺せば?俺を、殺すことは罪には、ならないんだろう?」

 ほら、と、白い喉を見せ付けるように首を仰け反らす。

「ほら」

 許せないなら殺してくれと。

 それは……、切ない挑発だったのだが。

 

 叶えられなかった。

 前髪を掴まれ、何度かテーブルに頭をぶつけられたせいで割れた額から、使用人たちが揃って悲鳴を上げるほど派手に地を流しながら。

 ガレージに引き摺られる。そこで男は人形を手放した。その目は事情の説明をと乞う執事でもやめてくださいと泣き出したメイドたちでもなく、流血で目がうまく開かない人形自身でもなく、もっと。

 遠くを、見ていた。

 吸殻を路傍に棄てるように人形をコンクリートの床にうち棄てて、指紋照合の車のドアを開く。人形は掌で目に入った血を拭い、這って。

 車の前に、はいずった。

 行くなと止めたのか、轢いて欲しかったのか、それは分からない。

 男の目には障害物にしか見えなかった。ガレージは広く、バックして切り返せば十分だった。爆音に似たエンジン音が遠ざかる。執事やメイドが人形を取り囲み、傷を見せろと声を掛ける。

 糸が。

 切れたように、人形は無反応だった。

切れてしまったたのかもしれなかった。