すべからく、すべて・22

 

 

 残酷な人はでも、最後の最後、ほんの暫くの時間、とても優しかった。
それは多分、俺が泣いてばかりだったからだと……、思う。
 出血と、切断された足首の治療のために都会の病院に運び込んで、そこじゃ設備が整っていなかったから米軍基地の医療施設へ。俺を軍に売った政治家に、歯噛みしながら口添えを頼んだ。俺が囲ってる『女』を連れ込んだと思った政治家は最初、可愛がっているんだなと笑っていたが、
『……アニキだよ。日本人』
 俺の言葉に顔色を変える。
 独立派のゲリラを一人殺せば、独立されれば不利益をこうむる何処かの国の誰かから、報酬が外貨で払われる、そんな国で。
 自国民の命は塵よりも軽がると扱う連中にも、理性もしくは打算は存在する。エコノミックアニマルなんて言葉はもう古臭いが、日本は明かに世界有数の強国だ。日本人を殺してしまうことを国情不安定な国の政治家は怖がる。日本円が、流通しなくなるから。
 救急チームが編成されて、彼は集中治療室で処置された。切り落とされた足首はと尋ねられ、俺は頭を横に振る。あの屋敷の中で今ごろは、鎖をつけたまま焼け焦げだ。
 破傷風の措置、止血、そして縫合。重傷だが命に別状はない、という知らせにほっとする。彼の身分を明らかにする必要があって、日本大使館にも連絡をとった。
 行方不明だったアニキが見つかった、と。
 世間には、それで通った。日本で失踪した筈のアニキがどうして俺の別荘のあるアジアの片田舎で発見されたのか、いぶかる人間もいたが彼自身が説明してくれた。俺を脅迫するための人質として東京でさらわれて船に乗せられ船腹に隠されて、国外へ連れ出された、と。
 彼が俺を弾劾しなかったのは、俺が泣いてばかりだったからだと……、思う。
 打撲の具合を調べるために撮られた胸部CT。白く、なにも映らない、場所。
 医師が眺めるモニターを、横目で見ていた彼にはそれが何だか、すぐにわかったらしい。ニッシェ?と尋ねた彼に驚いた米軍の軍医は、自身もドクターだという彼の事実を認めた。告知なんていう重々しさもなくモニターを見せて、その瞬間、彼は何かの祝福を受けたように微笑んだ……、そうだ。
 俺に知らされたのも同じ日のうちで、俺は聞いた瞬間、雷で打たれたような気が、した。
 武装ヘリの銃撃なんかとは違う、もっと重厚で厳粛な、閃光が俺に向かって空から落ちてきた。
 世界が、終わる音だった。
 俺にとっての、世界中の滅亡。
 最後の審判で地獄に打ち落とされた罪人みたいに、脅える俺に、彼は優しかった。
 何年ぶりかで笑いかけて、くれた。
「さようなら、だな」
 そんな残酷な言葉と一緒に、だったけど。
 手を伸ばして抱き締めて、くれた。
 多分、それは俺が見栄も欲もなく。
 なんにも出来ずに泣いていたから、だった。


 病院でなく、新しく買った中庭つきの別荘。中庭に面した離れを病室にして、そこで彼は穏やかに過ごした。日本には戻らなかった。両親や友人との面会さえ、彼は拒んだ。
 卓上カレンダーをくれって言われて、手渡したそれに、彼はペンで予定を書き込んでいく。彼の予定ではなかった。彼の『予定』は、既に曖昧に途切れてる。そこに書かれているのは俺の予定。レースと、契約更新と、休暇の詳細な、それ。
 オフシーズンの休暇が終わってチームの本拠地に旅立つ予定日には、大きく×がつけられていた。それは、宣告された彼の『余命』と微妙に重なっていた。シーズンが始まれば、少なくとも二週間はここへ戻って来ることはできない。その日がさよならだと、彼はもう、決めているようだった。
 毎晩、一緒に眠った。我慢できなくて、時々そっと手を伸ばすと、彼は嬉しそうに抱き返してくれた。痩せた体にセックスは負担が大きすぎて、俺は彼の匂いを嗅ぎながら、すりつけて慰められるだけだった、けど。
 その間中、彼は大人しく俺を抱いていたくれた。
 そして、朝。
「何時に帰って来る?」
 いつも俺はそっとベッドから身体を抜いた。彼を目覚めさせないために。たくさん眠ればその分、長く隣に居てくれるような気がしてたから。でも彼は、いつもベッドから問い掛ける。哀しそうな、顔で。
「トーニングと取材だけだから、昼には戻るよ」
「そうか」
 行くなとは、一度も言われなかったけど。
「早く、帰って来い」
 痩せて行く体のわりに、面窶れはそれほどでもなかった。顔色は青いというよりも白くて、その中で、黒目の澄んだ目が俺を、じっと見てた。
「早く帰って来てくれ」
 続きの言葉を聞きたくなくて、俺は着掛けたシャツのボタンもそのままでベッドに歩み寄る。唇を重ねる。内側は、彼は開いてくれない。あの日から、ずっと。
 怒っているのかと、尋ねたことがあった。
 匂いがするからと、彼は、答えた。
 薬品を入れた身体は匂うから、と。なんて答えたらいいのか分からなかった。タイムリミットは毎日、近づいてくるのに俺は、なにをどうしたらいいのか少しも分からないまま、ただ時だけが容赦なく流れて行く。
『一人で死ぬの寂しいから、早く返って来てくれ』
 そんな風に言われるのが怖かった。彼が俺にもう、隠そうとしない彼自身の弱りが俺を追い詰める。俺はまだ現実を信じきれていないのに、刻々と、その時は近づく。
 こんなのはウソだって、悪あがきしてる俺の内心をたしなめるように、彼は覚悟をきめていく。俺に凄く優しくしてくれた。いつも笑って、抱き締めて。
「……、なぁ……」
 俺がまだ、信じていない、信じられない、信じたくないのに。
「泣くなよ。取材だろう?写真うつりが悪くなるぜ」
 そんなことを、言って俺の髪を撫でる。
「行っておいで。……早く帰って来い」
「アニキ」
「……ん?」
「俺に行って欲しくない?」
「……あぁ」
「行かないよ」
 ベッドサイドのインターホンをとりあげて、今日の予定は中止だと秘書に告げる。秘書はあきらかに困惑していたが押し切って電話を切った。彼は嬉しいのか困ったのか、複雑な表情をしていたけど。
「……」
 抱き締めて、シーツの上に一緒に横たわると、身体から力が抜ける。
「……ごめん」
 彼の方が、なんでか謝った。
「ごめんな、我儘、言って、ごめん」
 あんたの我儘じゃないよ。俺はしたくて、そうしてるだけ。
「ごめん。……、もう少しだけ、だから」
 爪まで薄くなったんじゃないかと思うほど、細くなった指が俺の、ハンパに着かけた外出用のカラーシャツを掴む。額がそっと、胸元に押し付けられる。震えてるのは俺の気のせいじゃない。彼の指も声も。
「あと、ちょっとだけ……、だから……」
 残り時間を言い訳にするこの人と、それを考えたくもない俺の、意識のこの距離を詰めるにはどうすればいいのか。
「離れて行くな。……そばに、居てくれ……」
 そんな風にようやく言ってくれる人が、どうしてか、とても悲しかった。


 アサメシも喰わずに抱き締めあって、眠ってるとも起きてるともつかない曖昧なまま、いっそこのまんま、時間が止まりのゃいいのに、なんて思いながら、過ごす。
 シアワセなのか不幸せなのか分からない時間は、生理的欲求に中断される。腹が減って。腹の虫が鳴いたのを聞きつけてくすくす、彼が笑い出す。自分でインターホンをとって食事の用意をさせてくれた。自分にはヨーグルト。それだけ。
 メシ、喰ってよと俺が願うと、これくらいが一番、体調がいいんだと笑う。笑いながら、目がちらっとカレンダーを見るのを俺は見逃さなかった。残り時間と残りの体力を測るみたいな、その目はシビアでしたたかで、メソメソしてばっかりの俺を叱咤するようにも、見えた。
 殆ど部屋の中、というよりもベッドの上から動かないまま、俺に腕をさし伸ばしてくれる人は優しかった。優しさが、かえって俺には痛かった。俺が願うと、なんでも話してくれる正直さも。……それは。
 最後の、本当の終わりを、もう分かってる覚悟だったから。
 ねぇ。
 あの日、あんたが俺に愛想づかしをした、あの時の、ことが。
まだ俺は分からない。納得出来ないんだ。なぁ、あんたどうして俺のこと、棄てたの……?
 問いに暫く、彼は答えなかった。ごまかしや拒絶ではなく、自分自身の内心をさぐる表情。
 そうしてゆっくり、口を開く。随分長い間、俺を苦しめてきた決裂の原因は。
「お前が、俺を要らなくなったから……」
 思い掛けない言葉で現された。
「そんなこと、ナンで思ったのさ。俺があんたを要らないって、なんで」
「話を、してくれなくなっただろう、お前。……何時だったかな……。お前が海外チームに移籍して、二年目、くらいから」
 そんな覚えはなかった。俺はいつでも、休暇がとれると真っ先に、この人のところへ帰って来ていた。
「……抱きにな……」
 辛い告白を、するように彼は口を開く。言わせる俺はその時、彼にひどい真似をしてたのかも、しれない。
「お前が俺を憎んでるように」
 彼の言葉に、俺はかぶりを振る。そんなことはないよ、少しも、欠片も。俺は……、あんたを愛してる。
「俺もお前を、恨んだんだ。少しだけ。外で立派にやっていけるようになってから、お前は俺に、態度を変えた。言葉もな。……仕方ないことだけど、やっぱり少し、恨んだよ」
 そんな事はないって。
 言いかけて、止めた。
 彼があんまり悲しそうだったから。思い出しただけでも耐えられないみたいに、辛そうに、泣き出しそうだった。俺は彼の頬に手を当てる。殴ったことが、何度もあった頬。
 触ると肉が落ちてるのが分かる。掌を外して頬を寄せた。彼も首をかしげて自分から、俺に寄り添ってくれる。
「……あんたが、居ないと」
 俺にとっては、ごく当たり前の、現実。
「俺、生きていけないよ……?」
 だからこそ、俺からあんたを取り上げようとしたあんた自身を、俺は憎んだのに。
「……どー、して……?」
 どうして、そんなことを思ったの。
「ごめん」
 彼がそっと、俺を抱き締めてくれながら囁く。その優しさは、多分、俺が泣いてる、からだった。
「ごめんな、啓介。俺が悪かった。許せなかった、んだ」
 なにを?
「お前が俺を、必要じゃなくなること」
 そんな風に、なった覚えは、ない。
「お前が……、『自立』するのか……、許せなかった、俺がおかしいんだ……。おかしかった。自分で分かってた、これは異常だって。……だから」
 だから?
「お前と、寝なきゃ良かったって、思ったよ。そうしたらきっと許してやれてた。寂しくはあっただろうけどな、それでも。でも、まぁ……、『アニキ』なら、それでも」
 きっと今よりは楽だった。そんな風に、彼は曖昧に笑う。
「……いいんだ……」
 諦めたみたいに目を閉じて。
「お前が俺に、愚痴や不平を、言わなくなった時に、俺はもう、終わったんだ」
 そんな勝手に終わらないで。俺はただ、あんたにいつまでも、甘えてるのが苦しくて。一人前の男になりたかった。そんであんたと、愛し合いたかっただけ……。
 短い逢瀬の時間を、俺の愚痴だけで埋めちまうのは悪いって思った、だけ。
「あの時に、全部終わってたんだ。お前に頼られなくなった瞬間。……だから、もう」
 もう、なに。
 ……死んでもいい、なんて言うなよ……、許さねぇ……。
 そんなのは許せねぇよ。俺がこんなに痛いのに、あんただけ。
「あと、少しだけだから。昔みたいに、そばに居てくれ」
 つまり、あんたは。
「……俺にウソ、ついてたの……?」
 俺の問いに彼は、長い沈黙の後で。
「ごめん」
 小さく、謝ることで、俺の質問を肯定した。
「俺が海外チームに行ったときも、レースで勝った時も、ステップアップしてくたびに、おめでとうって、言って喜んでくれたのは、嘘だったのかよ……?」
 だまされて、たのか、俺は。……ずっと?
「……ずっと、俺に嘘ついて、たの……?」
 笑顔も祝福の言葉も、全部、偽者だったのかよ。
 それのために、一生懸命、やってた俺は、なんだ?
 馬鹿みたいじゃないか。あんたに喜んで欲しくて、喜ばせたくて、嫌なことばっかりな世界でそれでも、歯噛みしながら今までやってきたのに。
 それが、あんたをなくす原因になったなんて……、じゃあ、俺は……。
「そばに居るよ、ずっと」
 衝撃に息もできない俺を、彼は。
「自由になったら、ずっとお前の、そばで守ってて、やるよ」
 抱き締めながら慰める。まただ、と、俺は思った。俺の衝撃と彼の慰めはどっかズレてる。次元が違う。彼は自分が死んだ後のことを話してる。俺はそんな怖いことは考えたくもなくて、ただ、過去の齟齬に、今更ショックを受けているのに。
「ごめんな。俺が、おかしかった。やっぱり……、間違いだった……」
 まだそんなこと、あんた言ってんの。
「……ごめん」
「なんで、言わなかった、の……」
「ごめん」
「行くなって、言ってくれれば、行かなかったのに。あんたが言えば、俺はどこにも、行かなかった……」
 薄くなった肩を掴む。摘んで揺すぶる。力を入れたら折れそうに細い肩を、でも、我慢できずに、激しく。
「行かなかったよ……ッ」
 彼は暫く、俺を哀しそうに、見て。
「……うそだ……」
 ぽつりと、呟いた。
「嘘じゃない……。ホント……、絶対……、あんたの方が、いつでも……、ダイジ……」
 夢や野心、そんなのは、まとめてドブに棄ててやる。
「そばに……、居てよ。……死ぬな……」
 抱き締めてくれる、この腕の中で一生、終わっても、俺は満足なのに。
「一人に、しないでくれ……」
 必死の哀願は、でも、彼には多分、届いていない。
「そばに、居るよ。ずっと」
 そんな慰めなんか、耳に入らないくらい。
「ずっと」
 俺は今、こんなに痛いんだ。息も出来ないくらい。そのあとのコトなんて考えられねぇよ。……第一。
 あんたが居ない世界で俺が一瞬でも、生きていけると、あんたが思ってることが俺には、信じられねぇよ。
 俺をこんな風に、したのはあんた自身なのに、これは酷い裏切りだ。俺が……、あんたが居なくて生きて『いける』って、あんたが思ってること自体が、俺には……、残酷な宣告。
 あんたは俺を、少しも信じてない。
「……大丈夫」
 微笑まないで。笑われたって、ナンの慰めにもならない。
「大丈夫だ。ずっと、一緒に、居るよ」
 同じ言葉を、返そうか。
……うそだ、絶対、そんなのは。
 あんたは一人で安らかに眠ってるさ。だって俺を置いてけるんだろう?俺が、それで、生きていけると思ってる。……冗談じゃ、ねぇよ……。
 あんた一人で、そんなに安らかなのは……、許せない。
 卓上カレンダーに手を伸ばした。×の印がついた部分から先を破く。そこから先に、書かれていた俺の予定を破く。レセプション、マシン開発、調整、開幕戦……。そんなのは……。
「……一緒……」
 俺の意図を分からずに、彼が困った表情で曖昧に笑ってる。
「一緒に、いく……」
 俺もようやく笑えた。彼に笑い返した、つもり。
 情けない泣き顔だったかもしれない。
「うそじゃないって、証明、するよ」
 簡単なことだ。あぁ本当に、そう決めたら楽だ。あんたが笑うみたいに、俺もやっと。
「後追いじゃ信じてくれなさそーだから、俺が死ぬよ、この日」
 ゆっくり彼の、顔色が変わっていく。
「なんにも、要らない……、ホント……」
 トレーニングも、もうしない。一日に三時間も、そのために裂くなんて馬鹿げてる。 二度と、あんたのそばから離れないから。
 あんたの前で、全部を棄ててみせる。……平気。
 どうせあんたが居ないなら、何もかも、どうでもいいんだ。本当に。
 抱き寄せて口付ける。呆然と力の抜けた唇を押し開いて、舌で内側に触れた。震えながら俺を押し戻し、なにか言おうとする人をそっと解放する。
 もう決めたんだ。もう遅い。
 あんたに棄てられるのはもう、嫌だ。だから。
 あんたの『死後』の俺のことなんか考えるな。俺は考えられないから。考えたくないんじゃないよ想像も出来ない。そんなのが存在……、するわけないんだ。
「……愛してるよ」
 他には、本当に、なんにも要らないんだと。

 あんたに分かってもらいたい。それだけが今生の、望み……。