すべからく、すべて・3
突然帰って来た主人のために、御雇いコックが急いで用意した昼食はサンドイッチ。
もっとも、オイルサーデーンに青紫蘇の細切りが挟んであったり、燻製肉がさっと炙られてピーラーでおろしたばかりのゴーダーチーズを添えてあったり、するのはさすがだった。
天気のいい中庭での昼食。早手間に用意されたそれらが俺には、凄く懐かしい。俺が事故から帰って来たその日に、啓介が用意して食べさせてくれたプレートに、似ていた。
昼間だけど土曜日だったから、昼食にはワインクーラーが添えてあった。辛口の白ワインをグレープフルーツジュースで割ってライムを垂らしたそれは、俺の大好物。こんなやさしい酒は、ドライ・マティーニさえジンを五分の四くらいで作らせる啓介にはジュースみたいだろう。でも、俺に付き合って同じものを飲んだ。
……やさしい。
いつも、この男は俺に、とても優しかった。
その優しさが、ダイスキで。
手放したくなかった。これからも、ずっとだから本当の、ことを知りたかった。
なぁ、啓介。
強くて大きい、リッパな、男。
そんなお前が、まだガキの俺に、どうしてこんなに優しい……?
俺と居る時はいつも、お前が俺に何もかも譲ってくれる。食事も酒も、席も部屋も。
どうして?
理由を、教えて。そしてそれを、揺るがないものにしたい。無償で与えられるものなんて俺は信じられない。愛情には理由がある。お前は俺の、ドコをどう愛してる?
本当のことを教えてくれ。
俺をどう、したくてお前は、俺にこんなに、甘いのか。
食事を俺は、おいしく頂いた。たくさん、食べた。啓介は食が進まなかった。殆ど手をつけていない。
メイド頭が皿を引きに来る。執事が休みをとっているからだ。ごちそうさまと、俺は微笑んだ。メイド頭は四十過ぎの目元の優しい人で、にっこり俺に笑いかけて、くれた。
食後には、啓介は珈琲。俺は紅茶。甘みをあまり好まない俺にはナッツ、ケーキが好きな啓介の前にはチョコレート色の一切れが置かれてる。
啓介は、珈琲に手をつけようともしない。
まるで、追い詰められたみたいに、思いつめて。
緊張、しきっているのが分かる。なにを、そんなに?
驚かないよ。俺は。……むしろ、お前の、告白を待ってる。
待っていた。もう随分と、前から。
「……俺は」
俺が口を開くと、啓介はびくっと肩を揺らした。
「啓介の、なんだったの?」
何度、尋ねても答えてくれなかった、問いを。
「啓介、俺の……、恋人だったのか?」
繰り返す。
「一緒に、寝てた?」
二年前。俺は十五、啓介は三十一歳。歳は随分、違ってる。けど年齢なんて、本当はあんまり関係がないんだと、それから二年のうちに俺は悟っていた。
だって。
威風堂々とした大人の啓介が、俺の目線で揺らぐのを何度も見てきたから。
「愛し合ってたのか?俺たち」
「……俺はね……」
啓介は俺に、とても優しく、丁寧に答える。いつもそうだ。まるで俺のこと同世代の、下手すれば年上の目上の相手に話すみたいに、丁寧に。
「俺は、あんたを、凄く、ダイスキだった、よ」
重い罪を告白、するような、台詞。
「……愛してた……」
苦しそうな呟き。手をつけないままの珈琲の、横に肘をついて啓介は自分の掌に顔を埋めた。唇から零れたのは、溜息。
どうして?
どうしてそんなに、苦しそうに、言うんだ?
俺がこんなに、待っていた言葉を。
紅茶の最後の一口を飲み終えて、俺は立ち上がった。ガーデンテーブルを回り込んで、椅子に座った啓介の隣に立つ。そうして肩を、抱いてやった。泣いているのか泣くのを我慢してるのか、知らないけれど震えてる、肩を。
「大丈夫だぜ、もう」
「……」
「俺、もう十七だから、大丈夫」
この国では、同性愛は刑事罰の対象じゃない。道徳的な問題を除けば、それは個人の嗜好の範疇だ。ただし。
十六歳以下に対する淫行は、それが同意であっても罪になる。抱かれた側からの告発で成立するんじゃない。発見され次第、身柄は抑留され、二年以下・三百万以下の刑罰に従うことになる。
それに加えて、啓介は有名人だ。社会的には、殆ど『名士』に近い扱いを受けてる。だから、きっと、歳の離れすぎた俺とのことは、ヒミツだったんだろうと、思った。二十五歳と四十歳なら苦笑で許される歳の差も、十五と三十じゃ眉を潜められちまうから。……でも。
俺はなくした、俺自身の過去を受け入れ理解した。したつもり、だった。きっと俺は啓介のことを、スキで好きでたまらなかったんだ。一番近くに、居たかったんだろう。その気持ちが俺にはよく分かる。だって俺も今、啓介をとても好きだから。そばに居たいから。これからもずっと。……ずぅっと……。
「最初にちゃんと本当のこと」
俺が意識を取り戻した時に。
「教えてくれれば良かったのに」
そしたらきっと、お前を苦しめなくて済んだのに。
「なぁ、けいす……」
告白に応えようとした、俺を。
掌の中から顔を上げた啓介の視線が、射抜く。
その目線には、愛の告白のは不似合いな鋭さと固さがあった。……なに?
どうしてそんな目で俺を見るの、お前。
まるで憎んでる、みたいな顔をしないで。
「覚えてねーから、そんな事を言うんだよ、あんたは」
責める口調だった。何をそんなふうに、咎められているのか分からずに戸惑う。
「自分が俺になにしたか、覚えて、ねーから……ッ」
抱いてた肩を、俺は離した。俺を間近で見返す啓介の表情は、それまで俺が見た事もなかった厳しさで、俺を咎める。
「なに、したんだ?」
脅えを押し殺しながら俺は尋ねる。
「何したのか、教えてくれ。……俺は、なんにも、本当に知らないんだから」
向けられる、憎しみに近い敵意が怖かった。けど俺は啓介から目をそらさなかった。
……だって。
「お前が怒る、ことをしたんなら、教えて、謝らせて」
……だって、俺は。
「償わせて、くれ」
そうして俺を、許して、くれ。
そんな目で見ないで。頼むから。
こんなにお前を好きになっちまった俺を、憎しみで責めないで。
「よく、言う」
口調は嘲笑。
「よく言うぜ、その口で。……俺と、寝たのを間違いだったって、あんた」
男の指が伸びてくる。唇に触れられる。怖さに耐えて、じっとして、いた。
「この唇で言ったんだ。あんなに愛し合ったのに……、全部を、間違いだったって、俺に……ッ」
男の指に力が篭る。けどその力は俺には及ばなかった。ぎゅっと俺に触れてる以外の指を握りこんで。
「俺を棄てたんだぜ。二度と会わないって。酒場の女、乗り捨てるみたいに俺を、棄て……」
首を傾げて、顔を傾けて。
唇に触れてる啓介の、指を、舐める。
そのまんま口に含むと啓介は驚いた。驚いて、黙り込む。俺は啓介の指に熱心に舌を絡めた。俺への悪罵を、聞くのが辛かったから。もっと優しく、されたかったから。
「ごめん、なさい」
指を咥えたまんまだったから、あんまりはっきりした言葉にはならなかったけど。
「ごめん、なさい」
繰り返す。
覚えてないけど、嘘とは思えなかった。だって啓介は本当に震えてたから。怒りで。そうして多分、悲しみで。
「ごめん、なさい」
繰り返す。
「……離しな……」
啓介が指を引く。俺は未練げに吸い付いてから、離した。
抜き出された瞬間、まるで切り取られたみたいに、痛くて寂しかった。
「で?」
俺の唾液でぬれた指を、啓介はテーブルクロスで拭った。
「で、どーすんの?」
意地悪に、問い掛けられて。
「……一緒に、寝よう……」
震えながら、応える。
「へぇ?」
唇の片方を上げて、凄く意地の悪い笑み。からかうように笑われて悲しい。けど。
「お前と、寝たい」
それで、過ごしでも啓介の気がはれるなら。
「啓介のこと、好きなんだ。だから、寝たい。……イヤか?」
正面きって問い掛ける。啓介は嘲笑を表情に残しながら、頬杖ついて俺を眺めた。値踏み、するみたいに見られる。怖さに俺は瞬いて、少しでも視線の痛みを紛らわそうと、した。
「……昔のあんたから」
震えそうな俺とは対照的な、啓介の落ち着き払った、声。
「そんなこと言われたら俺は有頂天だったぜ。抱き上げてベッドに運んで、休み中、外に出さなかったろうよ」
「今の、俺は?嫌いなのか?」
「……どうかな」
「キライなら、そう言ってくれ」
「……そしたらどーすんの、あんた」
「出て行くよ」
「……ドコに」
「二度と、会わない」
「……」
「お前のこと好きになったから、憎まれてるの、辛いから」
「……」
「どうしても、許してくれないのか?」
「……」
覚えていない、俺が犯した、罪を。お前を傷つけた?
返事を俺は、随分待った。けど啓介は何も、こたえてくれなくて。
……ダメ、なのか……?
絶望の裏側で、でも不思議と驚いちゃいなかった。なんとなく、そんな気はしてた。不自然なくらいの優しさの、裏か、底かに何かが、あることは薄々察していたから。
「……、さ」
さようなら。ありがとう。
そう、言おうとした俺を。
「ッ……!」
いきなり、だった。
突然の激高。
襟首掴まれて振り回され、テーブルに、叩きつけられて。
衝撃に、息もできなかった。
「最後は、コレかよ……」
ぎゅうぎゅう、俺を押さえつける啓介の声が、低い。
「なんにも覚えてねぇくせに最後は、コレか。出て行くって言や俺が、ナンでも言う事、きくって思って、ンのかンッ」
……、け、い……
「ふざけんなよ。いつもいつも、俺がアンタの思いどーりになっと、思ってんなら、オオマチガイだぜ……」
す……、け、
「人を、バカにすんのも、大概にしとけよ……ッ」
ちが、う。俺は、ただ……
「ぐちゃぐちゃにして、俺を棄てたくせに。もぅ騙されねーよ。あんたまた、そーやって」
お前を好きに、なった、だけ。お前と抱き合い、たかっ、た……
「優しくしといて、裏切るつもりだろ。させねーよ、二度も三度も、同じ真似はッ」
そんなこともしたのか……。ごめん……
「……、ぐ、から……」
「……あぁ?」
「脱ぐから、破かないでくれ。制服……」
「ガッコウにまた戻るつもり?戻れると思ってんの?オメデタイねぇ、あんたって」
……ぁ、あ……、そう、か……
「抱いてやるよ。ヤルだけヤッて、飽きたらボロ屑みたいに棄ててやる」
……いいよ……
「文句は言わせねぇぜ。あんたが俺に、したとの同じことだ」
……うん……
「その前にあんたの息が止まんなきゃ、の話だけど、な」
クックッとのど奥で笑いながら。
俺に暴虐を、企てる男を俺は、抱き締めた。
ねじあげられた腕は自由にならなくて、気持ちと、ほんのかすかに頬を寄せることしか出来なかったけど。
いいよ。なにしても。
いいから、お前の、痛みが癒えるなら。
同じ傷を、俺につけて、いい。
「大人しく、してたら俺がほだされて可愛がると思ってる?」
……そうして欲しい、とは少しだけ。
「ジョーダンじ、ねぇよ……」
……啓介。
「ごめん、なさい」
「謝られて赦せることじゃねーんだヨッ」
そう、か。そうなの。……でも。
ごめん。
……ごめんな……。