「兄貴に?」

「取り返しのつかないことを」

「どんなことだよ」

「俺からは言えない。ウィルが戻ったら直接訊け。あぁ、でも、出来れば訊かないでやってくれ」

「そんなキツイ事なのかよ。だったら尚更、あんたが今話せよ。傷つけたあんたが言えないくらいのコトを、傷つけられた兄貴の口から俺に聞かせる気か?」

 国王は視線を上げる。

「話せよ」

「一昨日、皇女の部屋に招き入れられた」

 ウィルスでなくて、国王が。

「へぇ……、なるほど。目ぇつけられたのはあんただった訳か。まぁ、ちょっと計算できる女なら兄貴よりあんたを選ぶよな。兄貴は禁婚者だし、海千山千だし。あんたはまたウブくって」

 国王は首を横に振る。ウブではない、と言いたいらしい。

「そんな俺に見栄はらなくってもいいだろ。十六歳の国王で愛妾の噂もないのは十分ウブいうちさ。俺が皇女でもあんたを選ぶ。手玉にとれそうだから」

 ミツバは言葉をとぎらせる。国王は、今度は黙って聞いている。同感、ということ。

「大人しいフリしてたけど、ありゃ相当のタマだぜ。本来なら帝国の皇位継承になんの権利もないサラブを、攻守同盟結んでるからっつって帝都に引き込んだのはあの女だ。女帝支持の代償に、サラブと海上航路について密約してるって噂もある」

 ミツバは帝都の情勢に詳しい。

「皇帝になりたいんだよ彼女。まぁ俺だって、五十近い死んだ伯母さんの旦那と」

 八条宮、と呼ばれるその男が男子皇族では最有力候補。帝国の廷臣たちは皇女とそいつを結婚させ共同統治者にしようとしている。「結婚するよりあんたに身体使うな。使われたのか?」

 寝たのか、という問いかけ。

 国王は首を横に振る。

「さすが、あんたは用心深い。据え膳くっちゃ腹こわしてる兄貴とは違う。それで?」

「ウィルは俺を助けに来て、代わりに捕まった」

 国王の言葉には多くの省略がある。それは後から側近たちに聞くことにして、ミツバは先を促した。

「で?」

 捕まったが逃げ出して、サラブの艦に海上で保護された。それだけならばこの国王が傷のなんのと口走る筈がない。

「写真が送られた」

「写真って、どんな」

「お前には見せたくない。ウィルの写真だ。ひどいめにあっているところ」

 国王はテーブルに肘をつき掌で顔を覆う。まるで自分が痛めつけられたみたいに傷ついてる。

「……普通の拷問じゃなかった訳だな?」

 歯切れの悪さでだいたい見当ついていたけれど確認のために尋ねる。国王は頷く。断頭台にのぼる人間のように虚ろな仕種。

 さすがにショックでミツバも黙り込んだ。しかし。

「まぁ、でも、殺されるよりマシさ」

 ミツバにしてはありきたりな慰め。

「女の子じゃないんだし。俺らも忘れようぜ」

 無駄だ、という風に国王はかぶりをふる。

「写真は帝都に駐屯している、主な国々の大使館に撒かれた」

「……なんだって」

 さすがに今度こそ、ミツバの顔色が本当に変わる。

 トゥーラ王国のウィルス・サージ公爵といえば切れ者で諸国に知られた男だ。剛毅で強面で売っている。

 なのにそんな真似をされては敵に睨みがきかなくなってしまう。とびきりのつわものとしてのしてきた男にとって、尋常一様の屈辱ではない。

「ヤッた証拠写真ばらまいたのかよ。えげつない事しやがる」

 奥歯を噛み締めてミツバは数秒の沈黙。

「相手の顔だけでいいから拡大して寄越せ。穴が開くほど見て覚えとく。何処ですれ違ってもすぐさまぶち殺せるように」

「今のところうちでそれを見たのは俺だけだ。パルスやオリブスには口止めをして、写真もこちらへ渡してもらった。が、そうできない国もある」

 独断専行タイプのウィルスには、支持者も多いが敵も多い。敵にとっては千載一遇の好機だ。手強い対抗者を蹴落とす格好の醜聞。

「ウィルが戻って、状況次第では駐屯中の他国の陣地を襲撃することになるかもしれない。だからお前を呼び戻した。覚悟して、用意して待機していろ」

 最後の言葉は国王としての命令だったから、「承知」

 片膝をついて服従をあらわす腕組みの姿勢でミツバは頷く。

 

「それはもう、大変な騒ぎでしたとも」

 用意された部屋でミツバは着替える。その途中、国王の側近筆頭がやってきてミツバに詳しい事情を説明してくれた。

「一昨日は後継会議でした。諸国の君主たちの集まりに陛下は主席なさっておいででした」

 国王の側近筆頭はかつてウィルスの部下だったこともある。そして当然、ミツバのことはどつけば転ぶガキの頃から知っている。

「兄貴じゃなくて?」

「はい。公は今回はなるべく表立たないようにされていました。御自身でなく陛下を売り込むおつもりと、お察ししていました。陛下も立派にお役目を果たしておられましたし」「まぁいい時期だよな。国内も落ち着いたし、昔に比べてあいつも喋るし」

「あまりにもお戻りが遅いので使いをやったところ、皇女の私室に入られたまま出てこられないと聞いて、顔色を変えられました」

「で、急いで迎えに行ったわけだ。過保護な」 呆れたミツバのコメントに、

「……若は聞いておられないのですか?」

 秘書官は意外な声を出す。

「サージ公から何も?」

「何もってなんだよ。なんかあったのか」

「陛下のことですよ」

「別に。最近は連絡とってなかったし」

「然様ですか……」

 秘書官は暫く考えていたが、

「これは私の独言として聞いていただきます。今後の為に、若には知っておいていただきたいのです」

「今後ってなんだ。為って、誰の為だ」

「陛下と公の為にですよ。……陛下は二カ月ほど前、伽の女を脱臼させています」

「へぇ。あいつも一応、そういう女は居るんだ」

「おられませんでした。ですので我々が協議して、適当と思われる娘を差し向けたのです。高等裁判官の娘で、高貴な生まれという訳ではないけれど卑しくもなくて、健康で頭も悪くない、国王の庶子の母親となっても恥ずかしくない女を」

「脱臼って、なんで」

「お怒りのあまり、のようです。詳しい事情はわたくしも存じません。お察しするだけですが、どうやら陛下は不躾に参上した女にひどくご機嫌を壊された様子で。随分と乱暴に扱われたようです」

「股関節かよ、もしかして」

「女には足を引き摺る後遺症が残るとか」

「無茶苦茶な話だな、おい」

 ミツバは思わず手を止める。一つ年上の国王をウブ扱いするわりに彼自身、色めいた噂とは縁がない。十五歳という年齢は王家に連なる男子にとって幼いというほどではないが、今は女より野心のほうが魅力的。

 といっても勿論、女嫌いではない。ウィルスは昔から華やかな女を複数連れ歩いていたし、その弟ということでミツバも随分と女たちに可愛がられた。手を伸ばそうとしないのはいつでも手に入るからだ、という解釈も成り立つ。

「兄貴はなんて言ってた?怒ったろ」

 女にもてるだけあってウィルスは女に優しい。妙齢の、セックスの対象になる女ばかりではない。その母親や祖母のような年齢の相手にも女とみればみな優しい。甘い。結果、先に母親がウィルスのファンになってしまって、娘をけしかける場合も多々ある。

「国王のご意向を伺わなかった我々も悪うございました」

 秘書は質問を誤魔化す。

「身近な侍女に手をつけられないのは恥ずかしがっておられるだけだと勝手に誤解して、余計な真似をしてしまったのです」

「余計な真似がお前の勤めだろ。寝間の事情も何もかも承知の上で仕えるのが秘書だ。……あいつ好みうるさそうだもんな。思い込んだら一途そうだし。好きな相手、居るのか」「おられるようですね」

 妙な顔で秘書官はそう答える。

「サージ公が奔走されて、結局その件は内々で済んだのですが、どうも陛下は女性をお嫌いらしいですな。二の舞を心配して、公は宮廷に駆けつけられた訳です」

「女嫌いかぁ。それも困るけど。まぁまだ若いし」

 自分のことは棚に上げて、ミツバはブツブツ口の中で呟く。

「密告した女官が居たらしく、その頃には宮廷の廷臣たちが事情をききつけて参上していまして。我々と小競り合いになりました。姦通罪で陛下を引き渡せと言われても、出来る筈はございません」

「姦通って、あいつは寝てないって言ってるぞ」

「お話されていただけだとは皇女殿下からもお伺いしました。しかし、世間がそれを信じると思いますか」

「うーん」

 ミツバは考え込む。

「そういやそんな判例があったな、夫婦でもない男女が一室にとじこもれば、人類の経験から照らして性交の意志ありと認めなければならない、とかなんとか」

「最終的には実力行使です。我々の方が早く皇居の御殿に到着しました。御殿は広い庭で表とは区切られていまして、皇女も陛下も、そんな騒ぎになっているとはつゆ御存じなく」「気の毒に」

「後からは騒ぎをききつけた八条宮も駆けつけていて一刻を争いました。結局、ウィルス公の指示で我々は二手に別れ」

「兄貴が囮になった訳だな?で、陛下は無事に逃れられたが兄貴は捕まった、と」

「その通りです」

「なんか世間の噂とは違うな。兄貴が皇女を連れて逃亡中って、俺は聞いた」

「若はそれを信じられたでしょう?」

「だってありそうな話だったから」

「噂の出所はここですよ。陛下の指示です。皇女殿下がここにおられることを各国に悟らせない為に。そしてもう一つ、捕えられたサージ公が実は偽物だと、宮廷に思わせる意図で」

「……ふーん」

 ミツバはしばし、黙り込む。そして。

「いい判断だ」

 唸るように呟く。

「やられたよ。俺までまんまと騙された。皇居の廷臣たちもそれを信じて、兄貴はその隙に逃げ出したって訳か。……くそ」

 悔しそうなミツバに側近は聞こえないふり。「わかってた事だけどな。陛下は俺より役者が上だ。たいした男さ。兄貴が国王に選んだタマだ」

 悔し紛れのため息を一つ。

「口数が少ないだけで俺より上だって分かるよな。どつけば転がるガキの頃から、病気と間違えられそうに無口だった。……喋らないガキは頭のいいガキだ」

「若もなかなかのものですよ。そのお歳で帝都大学の最終課程を履修中だったのでしょう?サージ公にほぼ匹敵するではありませんか。それに若の口のうまさ……、失礼、社交性は必要なものです」

「雄弁は銀、沈黙は金だろ。俺は口がうまい分、喋らない男の真価がよく分かるんだ」

 悔しそうに、それでもミツバは自分の負けを認める。

「若には若の素晴らしさがあります。陛下も公も若のこれからの活躍を期待しておられます。率爾ながら、このわたくしめも」

 

 その頃、公海上のサラブの軍艦。

「おい、頼みがあるんだが」

 傭兵のイルゲンが呼び止められて振り向くと、そこに将軍が立っていた。咄嗟に敬礼。

「すまん、その習慣はないから返礼の仕方が分からない」

 律儀に将軍は謝る。そして。

「ウィルスが部屋から出てこない。様子を見てきてくれないか」

「サージ公が?」

「続き間に用意した飯は減ってるが、奥の寝室からずーっと出てこないんだ。見てきてくれ」

「それは、もちろん行かせていただきます。でもなぜご自分で行かれないのです」

「俺があいつより強いから。今はな」

 しらっとした顔で将軍は言った。

「お前はあいつに殴り倒されてる。お前ならいいだろう」

 意味がよく分からないまま、イルゲンは将軍の部屋を訪れる。

「公爵、サージ公爵。イルゲン・ジアンです傭兵の。お目覚めですか?開けますよ」

 鍵はかかっていない。引き戸を滑らしてみる。内部には誰も居ない。

「サージ公爵?」

 返事はない。まさかと思ってベットの下を見てみたがそこにも居なかった。

 落ち着けと自分にいいきかせイルゲンは室内を見回す。闘争の痕跡はない。荷物……。彼はもともと何も持っていなかった。

 拉致ではない。ここはサラブの軍艦で、既に彼は捕虜同然だった。サラブの将軍は彼の身柄をトゥーラ国王に売るつもり、みたいなことを言っていた。身の安全は保障されている筈。

 だとすると逃亡?馬鹿な、その必要はない。第一どこにも逃げられない。まわりは海だし、陸地ははるか彼方。

 イルゲンは部屋を出る。後ろ手に扉を閉めると、

「どうしてた?」

 廊下で待っていた将軍に問われる。

「眠っておられます。深く」

「そうか。ならいいんだ」

 将軍は安心した顔。

「疲れていたんだろうきっと」

 同感、という風にイルゲンは頷き、

「ところで将軍。お願いがあるのですか」

「なんだ」

「船内を見てまわっても構いませんか。サラブの軍艦に、それも第一艦隊の旗艦に乗れるなど、二度とはない体験と思うので」

「好きにしろ。徒労させるのも気の毒だから言っておくが、機密室には網膜登録がないと入れないぞ」

「まさか。サラブから情報を取ろうとするほど、私は命知らずではありません」

 会釈して別れ、船内を歩き廻る。軍艦とは言え戦闘時でもない限りそう殺気だってもいない。非番の男たちがカードをしたりジムで走ったりしている。

 甲板に並べられた救命ボート、胴衣。そんなものの中をのぞき込んだが探す人影はない。数はきちんと揃っていて、彼が海に逃げた確率は低い。

 イルゲンがウィルスをようやく見つけだしたのは再びの日暮れ時。甲板のさらに上層、舳に張り出した艦橋の屋根の上。ドーム状のそこに低く腹這いの姿勢で、水平線に沈む太陽を眺めていた。

「お探ししました」

「知ってる。見えていた」

「眺めておられただけですか。意地が悪いですね。ここで何をしておられたのです」

「昼寝」

「そうは思えませんが」

 そこからは甲板が一望に見渡せる。そして屋根を横切れば、脱出用ボートを結んだロープに手が届く。

「降りましょう。危険です」

 屋根の傾斜はけっこうきつくて足もとが危うい。

「夜に入ると波が荒れますよ」

「うるさい奴だな。最初から、どうしてそう俺に構う」

「あなたの死んだ兄上を知っているからです」 その一言に効果があることをイルゲンは知っていた。思った通り、ウィルスは目を見開く。その顔は少しも変わっていない。

「十年前、留学から帰国されたとき、あなたは真っ先に兄上に会いに来られた。地方勤務中の兄上と私は同僚だったのです。一緒に食事をしましたよ。覚えてられないでしょうけど」

「お前、トゥーラ軍に居たのか」

「昔は。兄上とは仲良くしていました。酔うと家族の話をする男でした」

 ウィルスの兄は軍人だった。サージ公爵家は旧ブラタル海峡主の血統をもっとも濃く引き軍閥を誇っている。帝都への留学後、官僚の道へ進んだウィルスが異質なのだ。

 彼が文官のみちを選んだ時、生粋の軍人だった父と兄は嘆いた。それでも当時のウィルスは気楽な次男坊だったからすきに出来た。 管財府次官補佐を振り出しに超キャリアとして昇進していったが、そのまま何もなければ今頃は外務省、或いは内務省の上級行政官くらいだったろう。しかし兄の死によって彼は公爵家の跡取りとなり、更に二年前の政変によって宰相となった。

「あなたのことが気になる理由はそれで十分でしょう。話を本当によく聞かされていたんです。あなたの事や、息子のことを」

「……引き離されていたからな」

 二十六才で戦死するまで辺境勤務が多くて、家族の住む帝都には滅多に帰れなかった。

「あなたが傭兵を嫌いなのは兄上の死因が、傭兵部隊の裏切りだったからでしょう?分かりますよ。奴はいい男だった。死なれたときは私もショックでした」

「そうか」

 海を眺めるウィルスの、横顔がずいぶん和んでいる。強気で剛毅で知られたこの宰相が、実はひそかにブラコンであったことを知るものは少ない。

「逃亡できる隙はなかったでしょう。サラブ海軍の中でもピカ一の将軍の旗艦ですから、ここは。さぁ諦めて下におりましょう」

「なんでお前は俺が逃げると思うんだ」

「逃げたそうな顔をしておられたからです。難民船の甲板の時から、どうしてもあなたがサラブの迎えを待っていたとは思えませんでした。帝都の目を眩ませる為の逃亡と聞きましたが、もかして本当は、本当に逃げていたのではないんですか」

「試してみただけだ。……アクナテン・サトメアンって男知ってるか」

 いきなりそんなことを問われて、それでもイルゲンは答える。

「伝説の英雄ですね。辺境の海峡主に生まれながらトゥーラ王国の根幹を作った。公の御先祖でしょう」

「ひじじだ。憧れてる。あの人の伝記を締め括る決まり文句があってな」

「その終わるところを知らず、ですか」

「あぁ」

 真赤な夕日が沈んでいく。地平線の果てへ。「十六歳で西国境戦争に大勝、十七歳で隠居。二十六歳で出家。二十八歳で南大陸戦争に出征、勝利するけれどそのまま行方不明。戦死した事になっていたが、どうやら失われた大陸の探索に行っていたらしい。地理誌が残ってる」

 消息が何年も跡絶えて享年を書き記すたびに、忘れた頃に生きている証拠が海の果てから送られた。見たことのないような真っ青な宝石、香り高い茶の種。手紙は一度も添えられていなかった。とうとう伝記著者は享年を記すのをやめた。代わりに書かれた一行が、『その終わるところを知らず』。

「真似してみたかっただけだ。同じことが出来るかどうか」

 夕日を眺めるウィルスに気づかれないよう、イルゲンは口元だけで笑う。

 最後の海峡主が十七歳で隠居した理由は、帝国の廃王子と女をとりあい市街戦を起こした責任をとって。二十六での出家は、帝国の母太后を略奪した代償。十七の時にとりあった女というのがオストラコン女王で、彼女が生んだ子供がトゥーラ王国の初代国王。

 この人と似ている。人騒がせな美男っぷりが。

「出来ましたか」

「いや」

 逃げられなかった。気になることが多すぎて、何もかも捨ててはいけなかった。

「俺はまだすることがある。出家遁世するのは早いらしい」

「そうですよ。あなたはあいつの息子を託されているでしょう?息を引き取る間際、息子を頼むって繰り返していたそうじゃないですか」

「あぁ」

「戻ってあげなければ」

「……そうだな」

 

 夕暮れ時、帝都には細い雨が降りだした。

 空調を、国王は切っていた。

 部屋の気温は低い。そのことが彼の意識を澄ませる。側近さえも下がらせて彼は考えるふりをしていた。本当は何も考えていないのに。

 何かを判断をするには自分が動揺しすぎていることを、若い国王は自覚していた。心も体も、ひどいコンディションだ。こんな調子で何かを決めてもろくな結果は招かない。自覚していたから、彼は守りに徹していた。

 全てはウィルスが戻ってきてからだ。

 戻ってきたら、どうする?

 昨夜ずっと、眠らずに考えたことを今夜も繰り返す。心が決まらない。なぜならそれは、妄想に過ぎないから。手元に囲い込んで二度と離さないことも、爵位も地位も権限も何もかも剥奪して閉じ込めることも、現実には出来ない。

 深いため息をついた瞬間、扉がノックされる。

「……わたくしよ、トゥーラ国王」

 自分だと名乗りさえすれば扉が開くと思っている、自信に満ちた女の声がする。

「ねぇお願い、ここを開けて頂戴。私たち話し合わなければならないわ、そうでしょう?私たちの将来のことを決めなければ」

 そんなのを彼女と話し合うつもりはなかった。彼女と将来を分かち合うつもりはなかったから。そうしたいのは別の相手だ。彼女とではない。

 けれども国王は部屋のロックを解除した。彼女は微笑んで入ってくる。踊るような足取りも、喋る言葉も国王は聞いていない。ただ視線は、じっと彼女の髪に注がれている。蜂蜜色の、美しい髪に。

「なぁに?」

 視線に気づいて彼女は首を傾げた。自分が魅力的だということを知っていて、知らないふりをした方が男心をくすぐると、承知している女の仕種だった。

「奇麗な髪ですね」

 彼女はそう?という風に横髪をかきあげ耳に掛ける。実に嬉しそうに。無口な若い国王に口をきかせて満足。さらに容姿を誉めさせて大満足、といったところ。

 上機嫌な目尻が、

「わたしの好きな人も、蜂蜜色の奇麗な髪なんです」

 国王の言葉に吊り上がる。国王は気にせず立ち上がり彼女の髪に触れた。

「その人はあなたより、ずっと柔らかで、いい髪をしていますが」

 パン、と乾いた音がする。国王の頬がみるみる腫れてゆく。女の瞳に憎悪が浮かぶのを見て、国王はゆっくりと笑った。

「誰かに言われませんでしたか?一人でわたしに近づくなと」

 皇女は身を翻そうとする。その前に、国王は彼女の腕を捕えた。

「離しなさい、無礼もの」

「何もしませんよ。あなたは預かりものですから」

 三日前、王宮で混乱のさなか。

 どん、と彼女を胸元に押しつけられ、

『預ける。逃げろ』

 そう言われた。言われた通りに逃げた。ウィルスが捕えられ、皇女との身柄の交換を申し込まれた時も拒んだ。それがまさか、あんな結果を招くとは想いもせずに。

「したいとは思いますけれどね。痛めつけたらどんなにすっとするでしょう。わたしは女を嫌いなんです。とくにあなたみたいな奇麗な女の人を。何故って、わたしの愛している人は奇麗な女をとても好きでして」

「何を言っているのか分からないわ」

「女と向き合ったとき、その人はとても優しい顔をする。わたしはあなたのこの、柔らかな胸とかくびれた胴とか、弾む尻とか、髪とか顔とかが」

「離して……、誰か」

「とても憎いんですよ」

「誰か……ッ」

 皇女は悲鳴をあげる。国王はしかし、彼女を傷つけようとした訳ではない。ただ腕を掴んだまま見下ろしている。それでも彼女は真剣に怯えた。女の直感でわかったのだ。国王の憎悪が本物であることが。

 皇女は無茶苦茶に暴れる。ふりまわした手が国王の顔に触れた瞬間、咄嗟に頬に爪をたてた。磨かれ尖らされエナメルで補強された爪は国王の皮膚を破り、三本の浅い溝を掘る。「ヒッ」

 悲鳴をあげたのは彼女の方だった。マニキュアが剥がれて、真赤な血が彼女の指を汚す。清楚な桜色よりも、彼女の本質に似合う色かもしれなかった。

「お行きなさい。二度と私の側に、一人では来ないように」

 傷つけられたことに、まるで満足したかのように国王は腕を離して彼女を開放した。

「あなたの愚かな策略のせいでうちの表看板には消えない傷がついた。知っていますよ八条宮に密告したのがあなた自身だっていうこと。後にはひけない騒ぎが欲しかったんでしょう?」

 泥沼の帝都に巻き込まれることを避けて、トゥーラ王国とサラブ首長国は緊張しつつ牽制しあっていた。そこにつけこんで皇女の結婚は着々と準備が進められ、彼女はかなり焦っていた。

「この責任は、とっていただきます。覚悟をしておくように」

 皇女はおびえた速さで部屋を出ていく。ばたんと扉が閉じた瞬間、国王は大きなため息。 言ってしまった。せっかくの手札を、見せてしまった不用意に。ウィルスが戻ってくるまではそっとしておくつもりだったのに。

 女の自惚れと勘違いが鼻について我慢出来なかった。腹が立って、いじめたくなった。もともと彼女が気に入らないのだ。だから候補者選びをなかなか進めなかった。

 彼女が焦っているのを見るのが楽しかったから。部屋に呼ばれた時もてっきり、泣きつかれるのだと思ってついていった。惨めに哀願する女を見たくって。しかし彼女は茶を飲みながらお喋りをするだけ。いい加減しびれを切らしかけた頃、騒ぎが聞こえてきて、

『アケト、無事か』

 部屋のロックを強制解除して飛び込んできたウィルス。襲撃部隊に紛れる為だろう、黒の戦闘服がよく似合っていた。いつも裾長の文官服ばかりを着てるから、身体の線が見えるその服は扇情的で、舌舐めずりしたい気分だった。

 その後に、あんなことになるとも知らずに。 苦い回想に国王がひたけかけた時、卓上のインターホンが鳴る。受話器を取るなり、

『顔、手当した方がいいんじゃねぇ?』

 聞こえてきたのは耳慣れた声。一緒に育った従兄弟。

「大丈夫だ」

『あ、そ。じゃあな』

 通信は簡単に途切れる。多分いま、それどころではないのだ。錯乱する皇女を宥めているのに違いない。何があったのか聞き出そうとして、大したことではないのにほっとするだろう。言葉で脅しただけだから。

 傷つけるつもりはなかった。女性に憎しみを持っているのは本当だ。でも女を傷つけたことは一度しかない。その一回も、本当の相手は女ではなかった。

 女の向こう側に、隠れた影が憎かった。

 二カ月前。

 『兄弟喧嘩』の原因。

 

「無茶しやがって、馬鹿」

 医者のカルテを投げつけられる。国王はよけなかった。カルテの束は顔に当たってバッと散らばる。

 自分を国王に擁立した時、二度と殴らないと誓ったくせに物を投げるのはいいのかと、ぼんやりそんな事を考えていた。

 ウィルスは散らばったカルテを拾い集めて丸め、机を叩く。

「右手首と股関節を脱臼してる。一カ月ほど入院が必要らしい。足の骨のズレはひどくって、元通りになる望みは薄いそうだ」

 医者が望み薄だと言うとき。それは殆ど、絶望的という意味。

 後遺症が残ると聞いても国王の良心は痛まなかった。その件に関して責任を負うべきは自分ではない。

「償いとして父親は彼女を正式な側室にするよう求めてきてる。もっとも肝心の娘が怯え切ってて、お前には二度と会いたくないって泣きわめいてるがな」

 なんでそんなことを知っているのかと不思議で、あぁ、会ってきたのかと思う。

「賠償金の額は今後の交渉次第だが、示談ですませる以上はむしりとられるのを覚悟しておけよ」

 よくまぁ示談ですんだものだ。娘の父親は裁判官だ。正式な傷害事件として刑事告訴すると怒りまくっていたのに。

「一体、お前、どんな無茶したんだ」

 国王は答えなかった。言葉では。怒鳴り散らすウィルスの手首を掴んで、テーブルに張り付けた。

「……おい」

 ウィルス台詞の、語尾が剣呑に掠れる。なんの真似だと問われる前に、

「脱臼は、困る」

 耳元でつぶやいた。

「どうしたらいい?」

「ンなことは宮廷医師どもに尋ねろ。連中は専門家だ」

 タラシな男は案外と口が固い。自分もけっこうな専門家のくせして。

「聞いたよ」

 嘘だった。

「その通りにしたけど、失敗した」

 言った途端、ウィルスから怒りが消える。確信犯じゃなくって事故だったのかと、そう思い直した気配。国王は心の中で笑った。なんでこう、簡単に騙されるのか。

「……お前、どんな風にしたんだ」

 その言葉を待っていたのだ。

「女の脚は開くようになってる。外そうって思ったってなかなか外れないぞ、あれは」

「だから、こう」

「おい」

 机に腰掛けさせて脚を掴むとウィルスは嫌そうに眉を寄せた。構わず足首をひねる。ウィルスは何か言いかけて、でも口を閉ざした。同じ『失敗』をもう一度されるよりいいと思ったのだろう。

 刑事訴訟を取り下げてもらう為に一週間、父親の許へ通いつめたこと、滅多に下げない頭を女とその父親に向かって深々とさげたことを、後になってきいた。

 片方の膝を浮かせてテーブルの縁に乗せる。スラックスの内側がつれて腿にはりつく。空いた手で触ってみると、布地の上からでもわかるひたりとした感触。引き締まった肉に、噛みつきたくなった。

 足首をまわして膝を開かせる。そのまま上に押し上げた時、

「ッ、馬鹿、無茶すんな」

 悪罵がとんできたが気にせず腰を、脚ごと抱きしめた。

「こんな感じだったのか?こんなんで間接外れやしないぞ俺は痛いけど、女は。……もしかして病歴があったかな」

 だとすると側室候補に選んだ自分らの責任だと、そんなことを考える気配。

「こんなんじゃなかった」

 もっとひどい真似をした。

「痛いって、手ぇ離せ。んな、無茶苦茶に脚開かせなくってもちゃんと入んだよ」

 ウィルスはテーブルに肘をついて上体を起こす。といっても、腰から下は捕えられたままで、情けない姿勢なのは変わらない。

「仰向けて膝さえ立てりゃ女の子はひらくようになってる。お前ちゃんと濡らしてやるか、濡れるまで優しくしてやるかしたか?」

「してない」

 優しいとか、そんな甘い気持ちは少しもなかった。今と違って。

「馬鹿。だから入らなかったんだ。彼女だって初めてなんだから、お前がちゃんと段取りしてやらないと……、おい?」

 開かせた股間に国王は手を添える。そっと添えただけ。でもそれだけで、十分な意図。「……賠償金は、あなたが支払え」

 若い国王がウィルスの耳元に、囁いたのはそんな言葉。

「なんで俺が」

 強ばりながらもウイルスは反問する。

「あなたのせいだから。そんなに僕が恐かった?」

「……なに言ってやがる」

 答えは一瞬だけ遅れた。国王は口元だけで笑う。政治家として知謀権謀の限りをつくすこの男が、自分のことに関してはろくに嘘さえつけない。

「あなには恐かったんだよ」

 だから彼女を使って逃げようとした。

「僕があなたをどうしたいか、なにしたいか、あなたは分かってた。だから彼女を送り込んだ。そうだろう?」

「アンケセアム……、手ェ離せ」

「過剰防衛だったな」

 言いながら国王は脚を離す。ウィルスは脚を閉じようとするが、間に国王が挟まったままなので出来ない。

「あなたをレイプするつもりはない。頭のなか以外では。だから女を、身代わりにしようとするのは止めろ」

「アケト」

「身代わりの女を押しつけて逃げようとする、一番卑怯なやり方だ」

「……アケトッ」

 股間に当てていた手を動かすと、ウィルスは死にそうな声を上げる。

「よせ……、やめろ」

「傷ついたよ僕は。あなたにまさか、そういう逃げ方をされるとは思わなかった」

「レイプは、しないんだろ?」

「こんな可愛いのそうはいわないさ。これは罰だよ。あなたが僕とちゃんと向き合わなかった」

「今すぐ手ぇ離せ。これ以上、なんかしてみろ、舌噛むぞ」

 短い脅しだった。けれど国王には効いた。ため息をついて彼はウィルスを開放する。ずるり、彼はテーブルからずり落ちて床に座り込んだ。

 そのまま頭を抱え込む。国王は彼にあわせて膝をつく。蜂蜜色の髪にキスした。子供の頃から大好きだった髪に。

「触れるな」

 ウィルスの声は細いけど固い。諦めて国王は身体を引き距離を置いた。レイプする気がないのは本当だ。だってこの人は自分のものだから。誰だって自分の持ち物は大切にするものじゃないか?

 児戯に等しいたわむれだったけどウィルスには本当にショックだったらしい。唇をわななかせて俯く彼を見ているうちに、キスしていなかったことに気づいた。

 手を伸ばす。顎を掴んで、力づくで上向かせる。最初抵抗し、やがて覚悟を決めたようにまっすぐ上げられた視線には責める強さ。自分に与えられた行為は不当だと全身で訴えている。国王はキスを諦めた。無理矢理したら本気で舌を噛みそうだ。

 噛みつかれるのは構わないけど、自分の舌をかまれるのは困る。見ててこっちが可哀想になるから。

「そんなに嫌なの、僕のこと」

「当たり前だろ、馬鹿野郎」

「震えてるのが可哀想だから今は見逃してあげるけど」

 そう言った途端、ウィルスは一瞬だけ敵意を見せた。拳が握りしめられる。殴られるつもりで国王は口を閉じ歯を食いしばった。けれど。

 拳はぎこちなくとかれた。

「殴ればいいのに」

 殴り倒してしまえばいい。どうしても嫌なら。

「……しない」

 呟いてウィルスはもう一度、俯く。

「お前に手は上げない。誓ったからな、昔」

 二年前の政変。国王に即位する条件。そうあの時から、

「そうだよ。あなたは自分で誓った。あなたは僕のものなんだ」

 往生際の悪い想い人に繰り返し言い聞かせる事実。

「最初からそういう約束だった。あなたは僕に自分をくれるって言った。僕が国王になる代償に」

「セックスするなんて一言も言わなかった」

 座り込んだ宰相に国王は視線を会わせる。深刻な顔をする宰相と対照的に国王は笑っている。話が進んでいくのが嬉しかった。途中でどんなにこの人が暴れても結末は決まっている。最終的にはそこにたどり着く。

 国王の寝台。

「僕はそのつもりだったんだ」

「正気かよ。俺はお前の親代わり、みたいなもんなのに」

「男の子が最初に恋する相手って母親なんだってさ。僕の場合はあなた」

「俺は女じゃない」

「愚かな理屈だ、あなたらしくもない。身体の性別なんかなんの理由にもならない」

「セックスは普通女とするもんなんだよッ」

「男同士でしてる連中はいっぱいいる」

 ああ言えばこう言う。ウィルスの前で国王は口数が多くなる。再会したガキの時からそうだった。

「連中とお前は違う。お前は国王だ。個人の趣味じゃ済まない」

「庇えよ」

 卑怯な逃げ口上が憎らしくなって、そんな台詞をぶつけてみる。

「国王になる不利は極力、フォローしてくれるって言ったじゃないか。あなたがうまく、僕の欠点を庇え」

 それはひどく簡単なこと。抱きたい男が彼自身なのだから、委ねてくれればそれで解決する。

「だから俺は、男とは寝ないんだって」

「今更そんな我ままはきけないよ」

「何処が我ままだ。俺の趣味に、なんでお前が口を出してくる」

「あなたが僕の妻だから。僕は退かないよ。どうしても僕が嫌なら幽閉か監禁するんだね」「出来るか、そんな事」

「出来ないなら僕と寝るしかないよ。僕は国王だ。あなたがそう決めた」

「アケト、なぁ話を聞いてくれ。俺はお前を好きだよ。大好きだ」

「嬉しい告白だね。でも、『だけど』って続くんだろ」

「お前は家族同然なんだ。他のことならなんでもしてやるから、俺をそんなに苦しめないでくれ」

 嘆く様子が少しだけ可愛い。床にぺたんと座り込んだ姿勢を以前、一回だけ見たことがある。

 二年前、大地震の夜。ウィルスの両親が死んだあの時。

「それはこっちの台詞だ。あなたの百倍くらい僕は苦しいんだ」

 我慢している。油断したら下腹が震えそうな、欲望の衝動。

 二年間、ずっと我慢してきた。自分がまだガキだって自覚していたから。ようやく最近、やっと自信がついてきたのだ。この人の身体に爪を歯をたてて、雄として食い尽くせる自信が。

「お預けくってんのは苦しい」

 抑圧された欲望は開放されれば歓喜に変わる。その瞬間が愉しみで今まで我慢してきたけれど、限界が近い。愛情からの衝動が憎悪に、変質する前に開放して欲しい。

 限界が近い。

 痛めつけたかったのは本当は彼女をじゃない。彼女を寄越したこの人。

 権力も実力も要らない。名誉も評価も歓声も。欲しいのはこの人だけ。昔も今も、たぶんずっと、永遠に。

「二度と女は寄越さないように。何人だって同じめにあわせてやるよ。観念してあなた自身が来るまで」

 

 ミツバが大使館に入った翌日、昼過ぎ。

 トゥーラ公邸にサラブの紋つきの高級車が入った。公邸を監視していた公安からその話を聞くなり主不在の宮廷はざわめき出す。二つの勢力が協調したとあっては、古い権威だけで立っている帝国は危うい。

 その高級車の後部座席、姿勢を低くして身を隠していた人物を認めていれば、騒ぎ程度ではおさまらなかっただろう。トゥーラ王国宰相、ウィルス・サージ公の三日ぶりの帰還。

 

「よぉ、ミツバ」

 戻ってきた彼は元気そうだった。多分そうだと思っていたからミツバも自然に笑えた。「案外背ぇ伸びてねぇなぁ、お前。もう追い越されてるかと思ってたのに」

「あんただって威厳ぜんぜんついてねぇぜ。なんか帝都の学生みたい」

「若くてハンサムなまんまって言え」

「苦労足りなんじゃねぇの?いてて、痛いッ」 頭をぐりぐりされて暴れる。じゃれついているところへ、

「国王陛下と皇女殿下のおでましです」

 一応の威厳を演出して扉が開く。脇に抱え込んでいたミツバをウィルスがふっと、押しやるような仕種で手放す。それは礼儀上とすうより何かをはばかるような硬さで、一瞬、ミツバは違和感を覚えた。

 ふたりが入ってくる。皇女の手前、ミツバは腕組み膝をついた。ウィルスは帝国の男爵位を、領地も職能もない名誉的な物だが、持っているので膝はつかない。腕を組み斜めに腰を屈める。顔を伏せて何か言い出す前に、屈んだウィルスを国王が抱きしめた。

「……っと」

 膝を折っていたせいでウィルスが一瞬、バランスを失う。そこを強引に抱きしめて、国王は頬を寄せた。

 キスはしなかった。でもその仕種は明らかに性的なもの。情人に与える愛撫。

 ウィルスは抗議はしない。目を伏せて俯く様子は恋人との再会を喜ぶ顔ではなかったが、それでも国王を押しやりはしなかった。

 皇女はそれを怯えた顔で見ている。

 ミツバの方はわりと平静。やっぱりか、という気分が濃い。昔からこの幼なじみはウィルスに執着していた。

 国王は彼を抱きしめ、愛撫同然にあちこち触れて、ようやく開放する。大きなソファーに先に座らせてもう一度、背後に立って、屈んでぎゅっと、抱きしめる。

「よく躾たものね」

 皇女が思わず嫌みを口にした。先に座られることに慣れていない女だ。国王もミツバも反応しないなか、

「あんた、一番悪い馬に張り込んだな」

 ウィルスだけが皇女に語りかける。男相手には切れ味のいいべらんめぇが、女に向かうと優しい言葉になる。

「こいつは、俺のものなんだ」

 後ろから抱きつく国王の髪を優しく撫でてやる。ミツバはぎょっとした表情をしたが声は出さない。皇女も無言で頷いた。

「聞いたわ。彼、蜂蜜色の髪をした人が好きなんですってね。誰のことだか、すぐに分かった」

「こいつをたらしこんで八条宮を追い払わせて、トゥーラの鼻面引き回すつもりだった?させないよ。帝国は泥沼だ。火中の栗を拾うつもりはない」

「もてるの相変わらずなのね、ウィル」

 親しげな呼び方にミツバは驚く。国王の、ウィルスの背中を抱いていた指に力が入った。「同窓なんだ。帝都学院の」

 ウィルスはそっと言い聞かせる。

「本当のことを言いなさいよ、それとも知られたら困るの?恋人だったって、婚約寸前までいった仲だったって、あたしたち」

「知られて困るのはあんたの方だろ」

「わたしまたあなたに負けるの。国王様のこと可愛いって本当に思ったのに」

「この子に関して俺と張り合える奴なんか何処にも居ない」

 自信満々にウィルスは答える。

「だって俺、この子の代わりに地獄で焼かれてもいいから」

「……馬鹿だわ、わたし」

 女はため息とともに呟く。

「あなたに復讐したかった。十年前、わたしを簡単に棄てていってくれたあなたに。助けてやらなきゃいけない身内が居るから国に帰るって、あなたは言った。わたしを捨てて選んだ国王と、あなたとの仲を裂ければどれだけ楽しいだろうと思ったのに」

「あんたは、可哀想だけど捕虜だよ」

 静かにウィルスは宣言。

「身代金を払ってもらおうかな」

「何をしろっていうの」

「宗主権の放棄」

 即座に答える。

「そんなもの」

 皇女は自棄じみて微笑む。

「いまさら誰も有り難がりはしないわ。領地も年金も渡せない。名前だけだもの」

「それでも困るんだ。叙勲や処罰が一本じゃないのは。うちの臣下に帝国が、勝手に位をくれたりするのは」

「好きにすればいいわ」

「もう一つ。死んだ国王の遺品の中から、欲しいものがある」

「なに?」

 今度はさすがに慎重に、皇女は尋ねる。

「指輪と写真」

「そんなものあったかしら」

「ある筈だ。探してもらう」

「いいけれど、どんな写真なの」

「うちのご先祖様の写真さ。ブラタル海峡の最後の海峡主。東方の虎とか言われたアクナテン・サトメアン。知ってるな?」

「もちろんよ。英雄の名前ですもの。侵略者を二度も撃退してこの帝国を守ってくれたの」

「帝国を、かな。単に地元を守ったら帝国もその傘の下にあったか、もしかしたら、帝国もまとめて自分の地元と思ってたのかも」

「失礼ね。でもそうかも。多くの地域を支配したけど何一つ滅ぼしはしなかったって、父上が仰っていたわ昔」

「覚えてるよ。お前と一緒にお目にかかったことがあったね」

「父上が会いたいと仰ったから。珍しいのよ、あの父が他人と会いたがるのは。父上はあなたを気に入ってた。花婿に迎えてもいいって言ってくださったのに……」