皇女は嘆き出す。
「十年も前の話を持ち出すなよ」
「今からでも、あたしはいいわ。やっぱりあなたを好きだもの」
「都合がよすぎるよあんた、それは」
「誰でもいいのよ八条宮以外なら。あんな男と人生交ぜるのなんか御免よ」
「そうとも。男は選ばなきゃ。女帝になっちまえ」
ウィルスは皇女をけしかける。
「一番偉い女になって、好きな男を寝床に侍らせりゃいい。協力するぜ。代償は貰うけど」 皇女は右手の人差指をウィルスにたてた。ウィルスは苦笑してしまう。
「御指名ありがとうよ。でもゴメンナサイだ。十年前なら考えたけどな」
懐かしい顔をする。過ぎ去ってなお鮮やかな、激動の少年時代。
「でも今は駄目。俺は禁婚者で、もう跡取りも決めた。子供が生まれても公爵家はそいつのものにならない」
「要らないわよ、たかがトゥーラの公爵家なんて」
皇女の発言を冷やかすように、公爵家の跡取りのミツバが口笛。トゥーラ王国のサージ公爵家領といえば旧ブラタル海峡主の所領殆どを含む、王国内でも最も豊かな場所。
「いっそあなたが貧乏騎士ならよかった。あなたは新興王国の実力者よ。性は悪いけど金持ちで力持ちよ。歴史と名誉に埋もれて埋没しかかってる、あたしのところなんか魅力がないんでしょう」
「魅力的だったよあんた自身は」
「嘘つき」
「は、あんたの方だ。知ってるぞあんたが俺に惚れたのは、俺が新興王国の実力者だからだろ」
「なに言ってるの、あたしは」
「こんな見た目をしてるせいでな、好きだとか惚れたとか言われるのは、大げさに言えば毎日のことだから」
毎日どころではない時期もあった。十四、五才から二十歳にかけて、日に二度も三度も聞かねばならなかったりした。
「分かるんだよ。本当に惚れられてるのか単に気に入られてるのかの区別が。目安はそうだな、一緒に来いとか連れていけとか、人生混ぜてもいいようなことを言い出すとき」
つい先日もそんなことがあった。難民船の甲板の上で。
「イケてるツラで笑ってるだけじゃ可愛がってもらえるのがせいぜいだけど、俺が強いって分かると女はいきなり色めき立つ」
「あたしは帝国の皇女よ。お前の身分や財力をあてにしようと思うほど浅はかではないわ」 甲板の上の女たちも、ウィルスの身分や学歴、財力なんかは知らなかった。
「だいいちあの時のお前は、公爵家の息子といっても次男で、将来分家してもらえるかどうかも分からなくて、気楽な身分だと自分で言っていたじゃない」
「でも強かった。あんたに手ぇ出しかけたザカートを殴り倒せるくらい」
「腕っ節の強さなんて、なんの役にも立たないわ」
「けっこう色々便利だと思うけど、そうだな。お前は俺があいつを殴り倒した時までは笑ってみてた。真剣になった時はその後。俺がやつにタンカをきってから」
学生時代、学園の裏庭で。
彼女を挟んでザカートと向き合った。いつか一回、ケリつけなきゃと思っていたから丁度良かった。奴が自分を、裏で『お姫様』なんて呼んでることを知って居たから。
タラシとか悪党とか呼ばれることは気にならない。でも、女の子扱いされるのは我慢できない。多分、子供の頃に女の子と間違われるのが多かった反動だろう。
体格に恵まれたザカートは当時から背が高く、厚い胸板と拾い肩幅を持っていた。粗削りな顔立ちは羨ましくないこともなくって、一撃あてて、ひっくり返した瞬間は愉しかった。
ふざけやがってと口元を拭ったザカート。ふざけてんのはどっちだと再び構えながら、でもウィルスには余裕があった。先にあてたリードは大きい。ザカートは既に膝が緩んでいて、反撃してきたところでいなせる自信があった。調子に乗って、うそぶいた。
「なんて言ったっけあの時。なんか生意気なことを言ったよな」
「わたしのことを言ったわ、あなた」
皇女は覚えているらしい。淀みなく答える。「自分は世界征服に行く男なんだって。彼女はその跡取りを生む女なんだって。お前なんかにさわらせるかって、あなたは言って、笑ったの……」
「生意気なことを言ったもんだ」
「惚れ惚れしたわ」
皇女はため息。
「あれ嘘じゃなかったでしょ。咄嗟に思いついた見栄でもない。本当にそのつもりで、あなたは本気で、計画を立ててたの」
「ガキだったんだよ」
「嘘よ」
「本当の望みはそう軽々しく、言葉にするもんじゃない。言っちまったのはあんたが目障りだったんだ。雄の喧嘩を笑いながら見下ろす皇女様がさ」
「狙われたわけ、あたし。心臓貫通だったわ今でも夢に見るもの。遠く遠征に行くあなたと、それを見送る私の姿をね。目覚めると最悪な気分になる。十年も前に、あなたが選んだのはあたしじゃなかったのに」
皇女の語尾が途切れる。泣きはしなかったが泣き出しそうではあった。ほだされたのか、ウィルスの腰がソファーから浮き上がりかける。抱く腕をきつくして、国王がそれをせない。
「で、形見の話なんだが」
いきなりウィルスは話題をもとに戻す。それには、ウィルスしか知らない事情があった。抱きついている国王の、爪が肩に食い込んだ。「うちの家には家訓があってな。皇帝が死去したらそのアクナテンの、写真と指輪を取り戻せって」
「もともとその人の持ち物だったの?」
「らしいね」
「どうして父が持っていたのかしら」
不審そうな皇女に、ウィルスは口元だけで笑ってみせる。
「なによ、言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「娘のあんたには言いにくいよ」
「聞きたいわ」
「旧オストラコン王国の最後の王女と、三角関係だったってさ」
「え?お父様とアクナテンと、王女が?」
「そう」
「知らなかったわ。お父様ふられたのね。王女はアクナテンの子供を生んでいるものね」
それが初代のトゥーラ国王である。
「ふられたんなら、形見は持っていないんじゃないかな」
ずいぶん遠回しな言葉だった。けれどもやっと、皇女はそれに気づく。
「三角関係って、じゃあ王女じゃなくって、虎をとりあっての?」
「癖悪かったそうだから」
「あなたの曽祖父でしょう?お父様はそりゃご高齢だったけど、まさかあなたの」
「そんなに歳は変わらないさ。ひじじは十六で息子作ってるし、その息子は十五で子供作ってるから」
早婚はトゥーラあたりの習慣。大人の男の期間はみな海に漕ぎ出して行く。南海、或いは西海を目指して数年がかりの航海だ。その間、消息どころか生きているかさえ、故郷の家族には分からない。
今では航海技術も発達して海難事故も減った。航海は長くても一年を越すことは希だ。けれど長年の習慣はなかなか改まらない。ミツバの父親もミツバを持ったのは十六の時。 だからアクナテン・サトメアンは、曽祖父といっても年齢的には祖父の世代。そして皇女は皇帝が、五十を過ぎてからつくった一人娘。
「でさ、どうしても形見の品が欲しいんだ。なんせ実質的なトゥーラ王国の創立者なのに、うちには彼の写真も形見もない」
「ないの?どうして?」
「なんか、そんな風な人だったらしいの」
自身の生の終焉さえ誰にも知れらずに、闇に紛れた。故郷と身内を愛していなかった訳ではないと思う。直筆の地理誌や植物の種が何度も送られてきて、その中には現在、トゥーラの特産品として定着したものもある。
「……捜してみるわ。ねぇ、一つだけ聞かせてよ」
「なに」
「あなたはその子供を好きなの?」
皇女は国王を指さす。
「子供って歳でもないと思うけど」
ウィルスは苦笑。
「あんたに色仕掛けされかける歳だ」
「ごまかさないで」
「……愛してる」
瞬間、広間に緊張が走る。
ミツバは信じられない、という風に目を剥き、言われた国王本人でさえぎょっとして腕を揺らした。皇女は唇を噛み俯く。平然としているのはウィルスだけ。
「詳しい条件はサラブの連中が揃ってからにしよう。今、あちらも条件を打ち合わせ中だ。夕食後になるかな」
「サラブ?どうせザカートでしょ。そういや彼もあなたを好きだったわよね。立場がないわ、私。こんないい女が居るのに」
「俺はあんたのこと好きだったぜ」
爆弾発言。
「あんたが俺にあんたをくれなかったから、あきらめたけどな」
「なに言ってるのよ、あなた……」
皇女の顔色が変わる。
「なにとぼけてるの。あたしはあげたわよ。覚えてないの?忘れてしまった?それとも別の女の記憶と混ざってるの?」
「くれたのは夜だけだろ」
身体だけ、もしくは処女だけ、という意味をうまく包む。
「トゥーラについて来てくれなかったくせに」「出来る訳ないでしょそんなこと。トゥーラ王国の公爵の次男坊と、帝国の皇女で女帝になる私と、どっちが重要か考えてみなさいよ」「あんたは俺より自分が大事だった」
「なによ、あなたはどうなのよ。帝国に残ってってわたしが言ったとき、自分がなんて言ったか忘れた?私は忘れないわ。あなたはね、故郷に歳とった親と育ててやらなきゃいけない甥っこが居るから帰らなきゃって、そう言ったのよ」
「覚えてる」
当時、ウィルスの兄は前国王に睨まれて、家には何年も帰れない状態だった。手紙も検閲の危惧があって留学中のウィルスを中継していた。書いてあるのは息子のことばかり。心配だ心配だ心配だ、と。
「それが、なによ。知っているわよあんた二年前トゥーラの大地震の時、親を見捨ててその子を助けたんでしょ。思い通りに操れる傀儡の子供を地震のどさくさに紛れて国王にして。野心のために親を見殺したくせ……」
「皇女殿下」
ぞっとするほど冷たい声で、女の台詞を遮ったのは国王。ウィルスの肩口に伏せていた顔を上げる。冷たい目をしている。
「わが国の王位に関する言及がありましたね。口を慎まれた方がいいここは大使館で、治外法権です。これ以上彼を傷つけるなら、窓から捨ててしまいますよ」
「骨抜きなのね、国王様」
女は皮肉に笑う。
「わたしにそんな口をきくものではないわ。私たちは仲間よ。その男に裏切られた」
「この人は誠実な人です」
「わたしも捨てられるまではそう信じてた。いつかきっと、あなたも裏切られて泣くわ。そいつひどい男だもの。それまでせいぜい、甘い肉にしゃぶりついていなさい」
皇女は駆け出して行く。ミツバはウィルスに伺いをたてる表情で彼を見、頷かれてあとを追う。昨夜からどうも、彼女を宥める役ばかりがまわってくる。
二人きりになった室内。
「いい加減離せ」
国王の体をウィルスは押しやろうとする。国王は離れない。背中も肩もべったり抱きしめたまま、
「甘いんだってさ、あなたの身体」
そんなことを囁く。
「本当?」
「俺が知るかよ」
「僕も知らない。でもあなたがひどい人だって事は、彼女に教えられるまでもなく知ってる」
「もっと別に言うことがあるだろ」
「なんて?」
「お前が無事でよかった。お前は?」
「あなた彼女を、まだ大事なんだね」
国王はウィルスと視線をあわせる。それは殆ど、睨み付けるようなつよさで。
「僕は彼女を嫌いだった。あなたの女で、昔結婚しようとした事を知っていたから。その彼女が僕を部屋に引き入れたって知って心配したんだろう?十年も前に別れた女なのに、駆けつけて」
「お前を助けに行ったつもりだけどな」
「挙げ句に僕に、彼女を押しつけて」
「あの状況で置いていけなかっただろ」
「挙げ句に、あんな……」
「写真見たのか」
気になっていたことをまっすぐ尋ねる。
「見たよ。燃やしたけど」
「悪かったな」
「なんであなたが謝るの」
「なんとなく」
国王が泣きそうな顔をしているから。
「嘘つき。謝らなきゃいけないことが、別にあるんだろ?」
静かな、でも怖い口調。
「皇居から脱出して、どうして難民船なんかに紛れ込んだの」
「一先ず追手をまこうと思って」
「嘘つき。本当は逃げたかったんじゃないの」 オリブス半島は旅客船の中継地。そこで適当に船を乗り換えれば行方を追うことはひどく困難になる。
「さぁな」
逃げたかったのは本当だ。難民船の女たちと、あのまま何処かへ流れて行くのは楽しかっただろう。でも戻ってきた、理由はここに、この国王が居たから。
置いていくことは出来なかった。国王の背中には重責が乗っていて、それは自分が肩代わりさせたもの。叶う限りは助けてやると、この口で、確かに約束した。
「なぁ、アケト。茶が飲みたい。緑色の、濃いいのが」
未練をふりきってウィルスはそんなことを言う。
「皇居を逃げた日はそれどころじゃなかったし、サラブの艦には真っ黒のコーヒーしかなかったんだ。緑色のが、飲みたい」
「ミツバと似たこと言うんだね。いいよ」
国王はウィルスを離す。インターホンで茶を持ってこさせ、戸口で受け取って振り向いた時、ウィルスはソファーに沈み込むように寝入っていた。
午後九時。
一等礼服を着込んだザカートは堂々とトゥーラ王国大使館へ乗り込んだ。護衛車両二台にお供は六人。その全員を背の高い色男で揃えて。しかし彼の努力は報われなかった。彼一人が入室を許された室内で、彼を待っていたのは。
「遅かったわね」
彼が最も会いたくない女だったのだ。
「ゲ……」
「座りなさいよ、さっさと」
指し示された席の隣には少年。
「ウィルスは?」
一時間以上かかった身仕度を、見てもらいたい相手が見あたらない。
「眠っています」
答えたのはミツバ。
そこでようやくザカートハ少年を見た。そして黒髪と黒い目にはっとする。漆黒の髪と目は始祖アクナテン・サトメアン以来、トゥーラ国王の伝統になっている。
「トゥーラ国王陛下、でいらっしゃいますか」 まさかと思いながら尋ねる。サラブには選帝投票権がなくて、当然、皇居で幾度が行なわれた選帝会議にも出席していない。トゥーラ国王の顔は知らなかった。
「いえ違います。代理の者です」
名乗るより先に差し出された手。手袋も外さないまま、ザカートはそれをいい加減に握り返した。が。
「……ッ」
思わず息を飲む。少年の指にはめられた指輪を見て。あきらかにサイズの合わない指輪には鷲の刻印。サラブ海軍の旗と同じ。
見えないがその内側には番号が彫られている。SA−2891。ザカート自身の士官認識番号。
かつて敵の大将に奪われた指輪だ。より正確に言えば、捕虜となるところを見逃してもらった代償に奪われた。
サラブ首長国とトゥーラ王国が直接に戦争したことはここ四十年ばかりない。しかしよその紛争に双方が介入したり後援したりはよくあること。戦場で相対したことは幾度もある。そしてかつて一度だけ、ザカートは敵軍に身柄を拘束された。
その時、敵の大将はザカートの名前を確認するなり見逃してくれた。弟の友人から身代金を取る訳にはいくまい、と言って。兄弟揃って負かされたのが悔しくて、友人なんかではないと言ってやりたかったが我慢した。捕虜になるのは嫌だった。サラブの習慣では敵の捕虜となった軍人はひどい恥辱を受ける。 ただし、負けた証拠に指輪は奪われた。貸しの証文だと笑った敵将の、顔を時々夢に見ていた。しかしその敵将は死んだ。そして記憶も、忘れかけていたのに。
「ミツバ・サージと申します」
「ディクライ将軍のご子息か」
「今はウィルスの養子になっています。養父を保護していただいて、ありがとうございました。これは、心ばかりですが」
少年は手をひく。サイズのあわない指輪はそのまま、ザカートの掌に残った。それをさりげなくザカートは握り込む。
少年は笑っている。これでチャラだぜと、その夜色の目は言っている。どれだけの身代金を奪い取れるかと、わくわくしていた気持ちを削がれてザカートは嫌ぁな気分だった。金は要らないから一晩、とか言ってみようと思ってみたりしたのに。
「サージ公爵家の男と、わたしは相性が悪い」 思わず呟く。三度続けて負け戦なんて今までにないこと。目の前でにこにこ笑う少年を眺める。悪びれなもせず堂々とした態度。出会い頭に一発かまされた状態なのにどうにも、憎めない。
「いつまで見つめ合ってるの。座ったら」
事情の分からない皇女は尖った声。
「さっさと座って、早く決めてちょうだい。お前たちで帝都を食い尽くす算段を」
「殿下、そんなことはしませんよ」
困った顔でミツバは皇女に近づく。そっと背中に手を添えて上座の椅子に座らせる。
「あなたの帝都をなるべく壊さずに、我々はあなたを帝位につけたいと思っているんです」「だまされないわ」
皇女は言ったが、顔は泣き笑い。強がりと頼る気持ちが混在する、複雑な表情。
「だまそうなんて思っていません。あなたは頭がいい」
「大馬鹿ものよ。だから今、こんなところで捕まっているわ」
「いい判断でしたよ。よく逃げて来られました。八条宮の手に落ちてしまった後では、奪い返すのに骨を折ったでしょう」
「……ウィルスの身内だな」
ザカートは呆れた声を出す。女を宥めるのが、うまい。ザカートの知る限り、この皇女がこんな風に弱いところを見せたのは初めて。「あなたは現実をよく分かっている。時代がかって苔むした皇族ばかりの中で、貴重な人材です」
「皇族になんの価値もないって事だけは知っているわ。少女の頃に恋人に見捨てられて」
「それが養父のことなら違うと思いますよ」 あちこち飛んでいく皇女の話に、ミツバは根気よく付き合う。
「養父には育ててやらなきゃならない豆が二匹いて、故郷に帰らなきゃならなかっただけです。考えてください十年前ですよ。わたしは本当に、こけたら泣き出すしか出来ない子供だったんです」
右に左に転がる話をうまく軌道に戻しながら、最終的にミツバは皇女に出兵依頼書を書かせた。これでサラブ・トゥーラ両軍の帝都での軍事行動に法的根拠ができた。
「遅くなってしまって申し訳ありません。ゆっくりお休みください殿下。明日は海でも眺めながらブランチをどうぞ。午後のお茶は、皇居で飲ませて差し上げます」
「紫蘭がもうすぐ咲くの。荒らしては嫌よ」
「心がけます」
皇女が部屋を出ていくまでザカートは殆ど発言しなかった。ミツバの手腕があまりに見事だったら、邪魔することができかねて。女タラシとか宥め上手とか、そんなレベルではない。これは大した外交官。羊皮紙を巻きながら、
「お疲れ様でした」
会釈する少年に思わず問いかける。
「失礼だが、年齢は?」
「十五です」
ぐうっと、心の中でザカートは唸った。
若手とか若造とか、ずっと言われる側でいたけれど。
時は流れる。もう既に自分より十も年若い次が出てきている。
「今まではウィルスの秘書か何かを?」
「いえ、帝都に留学中でした」
「今後は国許に?」
「養父の指示に従うとおもいます」
そのつもりのくせにミツバはうまく誤魔化す。
「……いいかな」
ザカートはもう一度、今度は手袋を外して自分から右手を差し出す。ミツバは気安く握り返す。直に触れる手はまだ小さい。身長も、ザカートより二十センチほど低い。
けれど少年には大器の予感がした。手強い敵対者になりそうな気がした。
「君は父上と、ウィルスではない実の父上の方だが、よく似ている。彼はわたしが尊敬している唯一の軍人だ」
「どうも」
自信満々に少年はザカートの言葉を受け取る。
「明日の正午に、あなたは港から我々は山手から皇居を目指す。それでいいですね」
「異論はない」
「帝都及び皇居を占拠後、間髪いれずに彼女を女帝にしてしまう。秩序を回復して住人の流出を食い止めるのが最優先、ですから」
「そうだな。……ウィルスに会えないか」
未練がましいとは思ったが顔を見たかった。「すみません。本当に眠っているんです」
そう、ウィルスは本当に寝ていた。
本拠地に帰りついてようやく心から安心したらしい。緩めた心の奥底で夢を見ていた。とてもつらい記憶。兄に死なれた時の夢。
十七歳だった。生意気を絵にしたような彼が通夜でぼろぼろ泣きっぱなしだったことは今でも身内の語り草だ。
アケトの母親が、医者の未亡人だったが、アケトを引き取りたいと言い出したときはぼろぼろどころではなくダーッと涙が出た。喉が詰まって、止めてくれとも言えなくて、そんな様子に母親は諦めてくれたから、ウィルスは泣き落としで甥っこ一人、譲ってもらったことになる。
兄を好きだった。頼りにしていた。負けたのを見たことがない、強い男だった。独裁で知られた前国王に刃向かったただ一人の男。そのせいで地方回りをしていたが、でもあれは負けじゃない。雌伏に耐えながら再戦の機会を狙っていた。
念願をかなえられなかった兄が可哀想で、残された兄の息子が更に可哀想で。息子を頼むと遺言を残したのが、父親にではなく自分にと知って慄然とした。父親は有能な男だったけれど、前国王に首根っ子キッチリ押さえられていた。
そうだ、と、ウィルスは夢の中で思う。
奴に逆らえたのは兄だけだった。俺を奴から庇ってくれたのも。当時生きてた親父には申し訳ないがあの時、俺は庇護者を失った。卒倒しちまいそうなほど心細かった。
通夜の翌日、葬儀では泣かなかった。涙が枯れたとかそういう理由じゃない。葬儀には奴が来たからだ。兄の仇だった当時の国王。奴が遺影に花を手向ける間、列席の全員が深く頭を下げていた。無論、遺族席の俺も。
奴は最後にやってきて最初に退席した。その途中、俺の前で足を止めて、
『あまり嘆くな。身体に障るぞ』
そう言った。ありきたりな言葉だが親族たちはざわめく。奴が優しい言葉をかけたのは親父さえ初めて聞いたと言っていた。
励ますように肩を叩かれ、俺は膝につくほど頭を下げながら誓った。今日からは、俺が仇だ、と。
サージ公爵家代々の墓陵はブラタルにある。兄貴の棺を埋めにいって、俺は歓迎された。最後の海峡主、行方不明のひじじ、二度の大戦の勝利者アクナテン・サトメアンに生き写しだと老臣たちは口々に言って、俺は下にも置かぬ扱いを受けた。
『そうかな。俺、髪黒くないけど』
『最後の海峡主も茶色の髪でしたよ』
そう聞かされて驚いた。真っ黒な髪と目が、俺が抱いていた彼の印象だったから。
『十七歳で隠居される前は、黒い軍服ばかりだったので黒髪のままでした。でも隠居して私服を召されるようになってからは茶色というより赤毛に近いくらい、染めておられました。黄色や青の派手なシャツがお好みでしたから、黒髪ではあわなかったのです』
そんな話をしてくれたのはブラタル家臣団の長老。家臣といっても独立不覊で知られたブラタルの、決してトゥーラ国王に従順とは言いがたい存在。でも俺には優しかった。俺を自分の、孫かなんかみたいに見た。
『知らなかった。王宮じゃ誰もそんな話はしなかった。見事な黒髪と黒い瞳だって。夜から抜け出したみたいだったって』
言いながらつい顔をしかめる。聞くたびに不快になっていた記憶。国王近親者のなかで、俺だけが黒髪でないから。
『連中は何も知らないのですよ。最後の海峡主は十七歳以来、一度もオストラコン王国に足を踏み入れておられません』
トゥーラ王国の首都は旧オストラコンの領地にある。
『わたしの言うことの方が確かです。わたしはあの方を、五歳の時からお育てしたのですから』
『……なぁ、聞いてほしいことがあるんだ』
老人の優しさにつけこむみたいにして、俺はずっと気になっていたことを言い出す。
『海峡のことだけど、今のままじゃ絶対通行量が足りない。工事、したいんだ』
『拡張すれば防衛力が落ちますよ』
老人はやんわりと拒絶する。かつて戦乱の時代、海賊に襲われたりナカータ公領に弊呑されかかったりと苦労してきたブラタルは、そういう理由で長年、工事を拒み続けてきた。『分かってる。俺がしたいのは拡張じゃない』『それは初耳です。国王からの使者はやれ海峡を広げろ深めろと』
『俺は水門をつけたい。ただし工事には二年、もしかしたらもっとかかる。その間、ブラタルに落ちる金銭は激減する。でも他に手段がない。海峡の混雑は限界だ。いろんな国から不満があがってる。サラブがそれを煽ってる。これ以上焦らしたら、連合して攻め込まれないとも限らない』
老人はすぐには答えなかった。俺に茶をいれてくれる。それを唇に含んだ瞬間、驚いた。豊かな香りが口の中から鼻腔へ抜けていく。南国の甘い花の香り。
『最後の海峡主、あなたの曽祖父殿が送ってくださった茶です。知られている限りの世界にはこんな茶はない。ことづけられた商人も、幾人もの手を経ているのでどこからかは分からないと言っていました』
『連絡あるのか。まだ生きているのはブラタルの虎は』
『送ってくださったのは、もう三十年以上前です。しかも到着するまでに何年かかっているか分かりません。生きておられるにしろそうでないにしろ、いずれあの世でお目にかかれるでしょう。その時は冒険潭を聞かせていただけると愉しみにしています』
そこで一瞬、息を呑み、
『好きにされるがいい』
工事の許可をくれた。
『いいのか』
五十年間の念願を五分で解決できて、その時の俺は夢のようだった。工事が始まってからは難工事で、悪夢の日々が続いたが。
「……ウィル、どうしたの」
頬に触れられ、名前を呼ばれて目を醒ます。 ソファーの上で、毛布を被って、眠っていたらしい。毛布をきせてくれたのは恐れ多くも国王陛下。でもそれはいつもの事。国王がいる時は側近も侍女もウィルスには近づかなくなった。それは殆ど、国王の愛妾に対する扱いだ。
国王が成長し、実権を握るに従って自分が追いつめられていることを感じる。静かな目で約束の履行を迫るこの子が時々、本当に恐い。そんなつもりじゃなかったなんて、通じない言い訳だろうか?
「うなされてたよ。悲しい夢でも見た?」
「ちょっとな。海峡工事の夢」
「あの頃は大変だったよね。ずっとブラタルに行きっぱなしで、帰ってきたかと思えば魘されてた。寝言で事故死者の数数えていた時は僕までほろっときたよ」
「そんな事もあったか……」
ふと気がつけは外は暗い。
「何時だ」
「十二時過ぎ。よく寝てたよ」
「やべ、ザカートが」
「サラブの使者ならミツバが相手した。うまくいったみたいだよ」
「そうか」
ほっとして肩を落とす。そのままもう一度、ソファーに背中を埋めていると。
「ベットで寝なよ。ほら」
抱き起こすつもりなのか腕が伸びてくる。それを掴んで、逆に引っ張った。国王は倒れ込んでくる。
「ウィ……」
「するか?」
短く尋ねた。
国王は一瞬だけ怯み、驚き、そして。
「なんで?」
尋ねかえす。なんだか傷ついたような顔で。「お前がさっきから泣きそうだから」
「同情してるんなら止めてよ」
「後悔してるさ」
惜しんでいて、かえって悪い結果になった。「俺が男と寝たことなかったのは、別に男がどうしても嫌とかじゃなくて。抱きたいのが居なかったし、抱かれるのはヤバかった。……こういうツラだからな。誰かのオンナだなんて話になったら、ますます舐められる」
それが嫌だっただけ。
「悲しむな。好きにさせてやるから」
「あなたが言ってることは、おかしい」
動揺しながらも、国王はしっかりと反論。「身体がどうでもいいんなら、どうして今までさせてくれなかったの」
「恥ずかしかったから。だってお前って、弟か息子みたいなもんだったからさ」
「じゃあどうして、今ならいいのさ」
「お前が泣きそうだから」
「嘘つき」
国王の、語尾は鋭い。
「今なら身体だけですむと思ってるからだろ」「駄目か?」
柔らかく抱きしめられる誘惑に、国王は音がするほど奥歯を噛み締めて耐えた。
「お前は怖いよ。身体と一緒になんか、別のトコまで染み込みそうな気がする。俺女の子じゃないからさ、そういうのは怖い」
「我慢してよ、それくらい」
「今ならいいぜ。ほら。好きにしろって」
「僕が弱ってるからだろ。今なら心は守り通せるって、思ってるんだろ」
「なんか……、哲学的な話になってきたな」 くすくすウィルスは笑う。
「面倒くさい話は後にして、とりあえず電気消そうぜ。なぁ?」
力を振り絞るようにして、国王はウィルスから身体を離した。
「あなたを、もらうよ」
涙目のくせに眼光は鋭い。
「でも今じゃない。カタつけてからだ」
「なんのカタだよ。俺がせっかくその気になってんのに」
「自棄になってるだけだろ」
「理屈の多い男はもてないぜ。俺だって願い下……」
ぐいっと、襟首を掴まれる。間近で睨みながら。
「ウィル。僕は密通はしないんだ。国王だからね」
「据え膳食わない男なんざ……」
「僕の前で強がらなくていいよ。傷だらけのくせにどうして、自分で傷に塩を擦り込む真似をするの。悪い癖だよ」
唇で髪に触れる。子供の頃からそうするのが好きだった。手より肌より、唇と舌の感触の方がリアルで、本当に触ったという気持ちになる。
「昔っからそうだ。怪我するとわざと動き回る。弱みを知られるのが嫌で同情されるのが我慢できない強情者。でも僕の前では止めて。見てて辛くなるから」
「なに言ってんだお前は」
「今わかった。あなたは逃げていたんじゃない。僕のところに、帰ってきたかったんだ」 傷つくと逆のことをする癖のある人。
「僕の懐に戻れて安心して、くーくー眠っちゃうなんて可愛い人だ。そんな人に食いつく真似はしないよ」
「なに言ってんだ、お前」
「カタがつくまでは何もしない。あなたが雄を怖がってるうちは触らないよ。あなたの傷は、必ず消してあげる」
優しく言って国王は出ていく。
「ゆっくり眠るんだ。ちゃんとベットでね。何も心配しなくていいから」
過保護、ともいえる一言を残して。
「……馬鹿野郎」
ウィルスの悪態には、いまひとつ迫力がなかった。
翌朝、トゥーラ王国大使館に駐屯中の兵士は二手に分けられた。遠望すると港でもサラブの艦が停泊してるあたりがざわめいて見える。十二時になると同時に、宮殿へ奇襲をかけることが決まっている。
二つに分けた一隊はミツバが指揮して市街地を押さえる。一隊はウィルスが率いて皇居へ乗り込む。ミツバは皇居の構造を知らないのでそういう手配りになった。
舞台編成やルート確認はミツバがした。髪を短く切って戦闘服を着て、そうすると少年ながら武官らしい雰囲気。
その頃、ウィルスが何をしていたかというと。
「……、ぷは」
ひたすら泳いでいた。
「おーい、編成出来たぜ、見てくれ」
「おー」
大使館というより要塞としての設備が整ったここにはジムもプールもある。プールサイドに泳ぎ着いたウィルスの息が荒い。
「珍しいな。何キロ泳いだんだよ」
「5キロくらいかな」
「いいけどさ、肝心の時に疲れて置いていかれるなよ」
ウィルスが率いる突入部隊は精鋭中の精鋭。800メートル三分で走れることが条件。
「俺を誰だと思ってる。体がやっと締まってきたとこだ」
三日間の運動不足を取り戻してウィルスは陸にあがる。濡れた手のまま、
「よく似合うなぁ、お前」
短くなったミツバの髪に手を掛ける。濡れたがミツバは嫌がらない。だろ?という表情。「そうやってると兄貴にそっくりだ」
「昨日サラブの男にもそう言われた。お陰でやりやすい。誰にも馬鹿にされない」
希代の名将といわれたディクライ。現在その称号はザカートのものだが、彼は今のところディクライほどの評価は得ていない。
「ところでさ、あんたがスカウトしてきた傭兵、俺にくれよ」
アケトはそんな事を言い出す。言われてウィルスは、そんなものが居たことを思い出す。
「スカウトした訳じゃないんだが、お前が要るならオリブスに頼んでやる。父親の縁者だからか?」
「よせよ。俺そんな、感傷的じゃねぇよ。ただ役に立つだけ」
ミツバは地図をひらひらさせた。
「あいつ役に立つ。帝都の陣営の、各国がてんでに作ってるバリケードの中身まで調べ上げてる。このネタ持ってオリブスに飛び込まれたら、ヤバかったかもしれないぜ」
オリブスとサラブは友好国だ。要請すれば情報は漏らすだろう。ただし金を取られる。国家同士の友好とはそんなものだ。
「詰めは甘いけどさ。俺なら帝都を出る前に耳目を残しといた。あんたが俺を学園に置いておこうとしたみたいに」
「国王は?」
「部屋から出て来ねぇよ。あんた昨日、なんか苛めたろ?」
秘書官がタオルと飲物を用意していて、ウィルスはローブを羽織る。髪を拭いながら、
「俺も髪切ろうかな」
そんなことを言い出す。秘書官が顔を上げて何か言い出す前に、
「えー、止めろよ」
ミツバからブーインク。
「やだよそんなのあんたらしくねぇよ。あんたは軟派な髪でヤワそうな面で、華奢そうに文官服の裾ずるずる引き摺って」
「おい」
「いざって時にゃ一番前を走る、落差が格好いいんじゃねぇか。前髪ひらひらさせて女ひっかけろよ。でもってあんたを嘗めてかかった奴の、ドタマにキメてぶっとばしてくれよ」「お前がそういうなら」
ウィルスは髪にタオルを巻く。本当は長さはどうでも良かった。少し羨ましかったのだミツバの黒髪が。トゥーラの黒の軍服によく映える色が。
黒髪じゃなかったから文官を選んだ、忘れかけてた昔の記憶が苦い。染めれば簡単に黒になるのだがそうしたくない。自分の劣等感を認めたことになりそうで。
「でさ、街道の、守りの固いところはなるべく避けて通るんだけど、どうしても廻り込めない場所がさ」
市街地の地図に朱線をいれながらミツバは熱心に相談してくる。これはサラブとの陣とり合戦。より多くのものを、場所を、押さえた方がその後の交渉でより優位に立つ。
「落ち着いてるなお前」
「そんな事ねぇよ。さっきから、武者震ってる」
「そうじゃなくて、アケトと俺のことだ」
「あぁ、それ」
「驚かなかったのか。俺は最初、心臓吐き出しそうになった」
「あんた鈍いんだよ」
身内らしく情け容赦なく、ミツバは事実を宣告した。
「アケトの周囲に居る連中のなかで、気づいてなかったのあんただけじゃない?あいつはあんたを昔っから好きだったよ。オリブス半島に嫁いだ姐御があんたを諦めたのも、アケトにはかなわないと思ったからだろうし」
「そういえばそんな事言ってたかな」
ふられた女のことなんか思い出したくもなかったから忘れていたけれど。
「アケトはけっこう我慢してたぜ。でもいつかしきれなくなるとは思ってた。そん時に大喧嘩しなきゃいいけどって心配してた」
「……」
本当はしていた。帝国皇帝の死去という政変がなかったら今でも喧嘩続行中だったかもしれない。
朱線の入った地図をミツバはウィルスに差し出した。ざっと見て、殆ど修正の必要はなかったけれど一カ所だけ。変電所に訂正を入れる。これは占拠ではない。戒厳令下に置くための実力行使。襲撃目標は慎重に選ばなければならない。
「あんたが年下のアケトを受け入れるとは思わなかったからさ。あんたって見栄っ張りの格好つけだから。それだけちょっと意外だったけど、そうならないより良かったんじゃねぇの?アケトは執念深いぜ。焦らすとヤバイ。早めに仲良くしてた方が得だ」
「……だな」
色恋沙汰は、
焦らせばいい、というものではない。
焦らせば募るのは真理だが、募らせるのがヤバい時もある。相手が十分真剣な時に焦らすのはヤバい。激情が思わぬ方向に転んでしまう。
アケトは恐い。真剣過ぎる。抱きたいだけならまだいいけれど、あいつは溶けるつもりだ。身体とか心とかの区別を超えて魂ごと混ざりあうつもりなのが分かる。
それがどうしても、恐い。
皇居に立てこもった廷臣たちは隔壁をおろし、内部に引火性ガスを充満させて籠城しようとした。火力においては絶対的に有利なサラブとトゥーラに攻撃を躊躇させ、時間を稼ぐつもりだったらしい。
しかしその目論見はあっけなく崩れる。銃火器が使えなくても両軍は強かった。競り合って到着した皇居の、門を突破したのはサラブが先だった。
「一番乗りだぞ、いけーッ」
勇躍する兵士たち。しかし彼らは強硬な抵抗にあってなかなか前に進めない。突破された門へ、諸方から応援が駆けつけてくる。守備力が結集されるタイミングを図っていたトゥーラ軍が、正反対の門を乗り越えたのはその時。
結局、管制室を占拠したのはトゥーラ。三分ほど遅れてザカートが駆けつけたとき、ウィルスは管制室に一人で居た。攻撃部隊を先行させ隔壁を順にひらいてゆく。最深部に到着するのはトゥーラ軍になるだろう。
「性格悪ぃぜ、お前」
まんまと囮のようにされた怒りをぶつけるザカート。ウィルスは振り向きもしない。タッチパネルの画面に触れながら、
「強制換気のシステム立上げろ。引火性ガスの中じゃ身動きがとれない」
偉そうに指図。ザカートは従う。
ロックされていたシステムが次々に復旧する。暗かった部屋が、モニターのライトで明るくなってくる。ザカートはマスクを脱いだ。復旧したカメラの一つに映ったのは敵陣営。奥宮のホールに追いつめられつつある。
「お前、行かないのか」
その中に見覚えのある男がいた。直接会ったことはない写真で顔だけ知っている。例の、あの写真で。
「部下たちに任せる」
管制室の椅子にウィルスは深く座り直した。動くつもりはないらしい。
「へぇ、お前の性格ならいの一番に喉、掻き切りに行くかと思ったのに」
「馬鹿馬鹿しい」
「ふぅん。お前あんがい、洒落になんないくらい傷ついてんだな」
ぴくり、ウィルスの右眉があがった。
「あの男が怖いか?それともあいつと向き合って、強姦された生娘みたいに怯えてる自分を、自覚するのが嫌なのか」
「言ってろ」
「代わりに首、とってきてやろうか」
ウィルスの顔をのぞき込むザカートは冗談半分、本気が残り半分。
「後で俺の言うこと聞くなら今から首、とってきてやるぜ」
「連中は裁判にかけなきゃならないだろ。国政を漏断しようとした、とかいって」
「だからだよ。捕まっちまったら復讐できなくなるぜ。今なら乱戦中の事故で済む」
ウィルスは答えない。ザカートもそれ以上は言わず、椅子に脚を組んでモニターを眺める。
「昨夜会ったぜ、お前の養子に」
モニターを眺めるふりをしながら本当は、モニターの表面に薄く映ったウィルスの顔を眺める。
「跡取りにするつもりかよ。自分のガキでもないのに」
「牽制するなって、怖かったか?」
にやり、ウィルスがモニター越しザカートの方を向く。見られていることに気づいていたらしい。
「あれは極上だ。お前のニヤつきを止められるくらいに。それにあいつは俺が育てたんだ。俺の息子と同じさ」
「顔に似合わず強いのはお前んとこの血だな。小柄のくせに、すげぇ腕」
ザカートにそう言われ、ウィルスには意味が分からない。
「あれってお前の養子だろ?」
指さされ、ウィルスは画面を見直した。それまで目を向けていただけで見てはいなかったのだ。不快な顔がちらちらしていたから。 モニターの中で暴れる戦闘員たちの武器は刀、ナイフ、棒。中にはパチンコを使っている者もいる。サラブの連中にはもと海賊団らしい青龍刀をふりまわす奴も居る。そんななか、とびきり目立つのが一人。
両手で扱う刀を持って、時々ぴかりぴかりと光るそれは大した業物に見えるが、峰と刃をかえしてある。優勢とは言えこの乱戦の中で峰討ちとは、大した度胸。
「あの黒い戦闘服の。そんなマッチョじゃないけど、さっきからえらく強いぜ。鬼気迫ってる感じ。襟章ないみたいに見えるけどお前の養子じゃないのか?」
「襟章がない?まさか」
呟きながらウィルスはモニターを見直した。そして瞬間、顔色が変わる。
「……あいつ」
「なんだよ。何者?」
問いには答えず立ち上がり、そのまま駆け出す。
「おい待て。なんだどうした」
ザカートも、そしてその部下も、急いでウィルスを追いかけた。
敵の指揮官はホールに追いつめられていた。斜面に階段状に立てられた王宮の、ホールは一階にあって随分と広い。天井は吹き抜けで、壁面に螺旋状の階段というには広い、テラスじみた空間。管制室はホールより随分上階にあって、ウィルスはホールの最上部に出た。
ホールの下ではトゥーラの部隊が敵の首脳部を追いつめている。サラブの兵は見えない。隔壁にまだ手こずっているのだろう。
「……おいッ」
ウィルスが下に向かって叫ぶ。ホールの音響は最高で、彼の声は空間全体に響き渡った。兵士全員が彼を見上げる。その中の一人、襟証のない黒い戦闘服を着たのも彼をふりあおいだ。
そしてゆっくり、マスクを取る。
周囲に居た戦闘員たちが後ずさる。それも