戦乱があった。代理戦争だったが内戦だった。親や恋人、子や友人の、仇が隣で笑って生きている平和という世界の中、生身の感情を置き去りに時代は動いていく。ついていけない人間が逃げ込む寺、俗世の縁を断ち切る場所は必要とされていた。
あそこで、あの時に。
死んでおけば良かった、とは、さすがに一度も、思ったことはない。
生きていたかったのに死んだ、自分より若い奴らをたくさん知っているから、中には自分を庇って死んだ者も居た。けれど気持ちはとめられない。あそこで、あの戦場で、あの時に。
終わってしまっておけばよかった、と。
気持ちの緩む夢の中で時々は思う。
「黄色いのは引き抜け」
僻地の寺院には広大な敷地。殆どが農地で、それが寺院の収入を支えている。
「人が丹精した花にナンてこと言いやがる」
宗教団体と政治団体は人件費ゼロで人手を集められる。そうして人の集団が組織化していけば階級が必要に、どうしてもなってしまう。
「眺めの邪魔になるんだよ」
長い煙管を揺らしながらそう言う男は、口ほど不快そうではない。むしろビニールハウスの入り口横の支柱に背中で凭れてむせ返る聞くの花の匂いに浸っている。
隻眼を細めた安らかな表情。弔いの花、葬儀の菊をひどく好むこの男の性癖がなんだか胸に沁みて、ビニールハウスの管理責任者は潜りこんだ奴を追い出せない。
白と朱色の菊の花が好きで、目がその色ばかり追っている。白菊の、花弁の先端だけが薄い朱紫に染まった園芸種を眺める表情は優しいほど愛しそう。
「なら無事なもう一方の目も抉り出してやろうか。……高杉」
ツナギの作業着で汗だく、出荷準備に追われる目尻の艶な二枚目は、菊の汁で薄緑色に染まった軍手で額を拭いながら口先で毒づいた。
「てめぇこそ、片目瞑ってみりゃどぉだ。ラクになれるぜ?」
足音をたてず、女物の着流しの裾を揺らしもせず、静かに歩く隻眼の男。維新派閥の過激派の総帥、処刑された攘夷思想の魁であった恩師を気が狂うほど想い慕っていた、かつては歩くニトログリセリン、敵にも仲間にも畏れられた男が。
「お前は外に帰れ、土方」
まさかこの、浮世に居所のなくなったはぐれ者たちを庇う寺院の設立者だったなんて。
「坊やの片目が潰れちまう前に帰ってやれ」
表向きは一山あてた音楽レーベルの社長、名プロデューサーであるつんぽが社会貢献の為に出資・設立したことになっているが。
「そりゃ横暴だぜ、座主」
寺院の本質は墓陵。山一つ分の広大な敷地は丸々、時代の先駆者の墓。遺骨を抱いてそこで暮らす最高位の男は、墓の中に閉じ込められた獣。政治犯として辱められた遺体が掘り起こされ、名誉の挽回と調停からの贈位、遺族と弟子たちへの白々しいほどの追従。
掌を返した時代に絶望してもう一方の目を潰しかけた。彼自身を対象とする信者らが心配してこの墓を用意し、純粋すぎる復讐者を『保護』した。
「真面目にやっているだろうが、俺は」
「おンなじ臭いがするンだよ」
滑るように近づいてきたこの墓の、最も貴重な供物は新入り候補の胸元に、鼻先を埋めるようにした。否、格好は切れ長の目尻の二枚目が抱いた黄菊の束に顔を近づけているが、嗅いでいるのはその香りではなかった。
「お前とか?」
「……」
「俺がか?総悟の方か?」
「……」
「どうしてキサマがあいつをそう気にする」
「おンなじだからだろ」
「欲しいのか。要るならやる。部屋に飾れ」
「バカでガキだ。だから」
だから。
「愛情に殺される」
目を閉じたまま黄菊の束を受け取る、男の顔立ちは整って麗しくさえある。両目の揃った若い頃は世間に騒がれただろう。片目がダメになった今でさえ、ゆっくり開いた隻眼の流し目をくれられめると、背中にぞくっと、何かが走り抜ける。
「懐かせた飼い犬を棄てんのはこの世で一番罪作りな真似だぜ、土方」
渡されて素直に抱えた菊は花束という量ではない。花輪で使う出荷用の一箱、ひとかかえ、の本数。
「どうしてもってんなら首輪外してやって来い」
「なんでそう俺にだけ拘る。俺が貴様の敵対者だったからか?」
「自惚れるな。幕府の狗なんざ俺の眼中になかった」
「ご挨拶だな」
「ガキを絶望させんな。あっちゃいけねぇことだ」
黄色い菊の花とともに、座主は自分の棲家の塔へ戻るべく踵を返した。無断でそこを抜け出してきたのだろう。あちこち探し回って疲れ果てた風情の側近の姿が、遠くの畦に見えた。
「相手の殺し方を知らなくて自分に傷をつくる」
農業用のハウスを出た座主を見つけて側近が駆け寄る。手にした菊の束を受け取ろうと一人が手を出したが、渡さずに隻眼の男は自分で抱えて、静かに歩いていく。明るすぎる陽光に晒された派手な柄の着物は、鮮やか過ぎて幻のように見えた。
「……俺だってシラネェよ」
心の中の愛情を、愛した相手をどうやったら殺せるのか。