第一章・3/14

 

 

 男はアメリカが嫌いだった。来たことはなかったが来る前から嫌いだった。ギリシャ・ローマ時代からの重厚な伝統の重みを偏愛する男は。建国二百年で大騒ぎする植民地気質を軽蔑していた。

 イージーアメリカンな文化もヤンキーの生態も嫌いだった。頭が悪いくせに国力だけが旺盛で国連を牛耳っているところが嫌いだった。野菜嫌いの偏食家が多く子供味覚なフライドチキンやハンバーがー、けばけばしい色合いのアイスクリームといった食文化も、大嫌いだった。

戦争までやらかして独立してみせたくせに国際問題ではイングランド連合と奇妙な連携を見せるところが一番嫌いだった。養父に反逆しつつボンゴレから離れられない自分を見るようで本当に嫌だった。

なのにその大嫌いなアメリカの、中でも最もアメリカらしいとされる都市、ニューヨークはマンハッタン島の中央部に男は立っていた。ハドソン川河口に浮かぶ岩盤の島にはアメリカのそうそうたる企業の本社が並んでいる。JPモルガン、アメリカンエクスプレス、ゴールドマンサックスその他が競い合うような高層ビルを建て、ここが世界の富を奪いつくす根拠地であることを誇示しようとしている。

その夕暮れの街角に男は立っている。信号が変わるのを一人で待っている。二ブロックほど背後のビルからふらりと出てきた男は、迎えの車に乗ってやって来た道のりを徒歩で戻るつもり。だいたいの方角は分かっているし、もしもの時は携帯で部下を呼び出せばいい。距離は徒歩三十分そこらというところ。酒びたりで出不精だが強壮かつ健康な男にとってはなんということのない距離だ。

たまには一人で異国を歩くのも悪くはない。マンハッタンの夕暮れの魔力はこんな男をさえそんな気分にさせた。世界が黄昏に沈んでいく時刻。やがてネオンが輝きだす不夜城が現れるけれど、それまでのほんのひと時、この劇的な街はほんの短い休息の時を迎える。帰宅途中の会社重役たちの高級車で道路は混雑し、流行りメニューを追いかけるビジネスランチに毎日五十ドルを払って平然としている勤め人たちが溢れる街角は三番街、五十五丁目のあたり。

人生の華やかな時を過ごす男女を黄昏の夕日が照らし出す。どれだけの金銭を稼ごうとも与えられた生命と時間は平等なのだと悟らせるような夕日が。

Memento mori、死を想え、という陳腐で使い古された警句を連想させる、騒がしいのにどこかが空虚で静寂に感じられる時刻が男には奇妙に心地よかった。内省とは縁のない暮らしをしているが本質はウエットで叙情的。詩のような時間を嫌いではなかった。

その、心地よさの中には、交差点の混雑の中で向けられる視線が背中や頬の上でパチパチ爆ぜる快感も混じっている。懐の豊かになったアメリカ人は次は文化に憧れる。切り落としたはずのヨーロッパという古い尾を懐かしがる。

金融街の交差点に立つ群集の中に男の素性を知る者は居ないが、男が『古き良き』欧州からやって来たことは全員が感じていた。

身に着けているコートといいその下に見える手袋といい、ブランドの分からない上等な手作りの品というのはアメリカにはない。ヨーロッパにも限られた国にしかない。そうしてアタッシュケースを持っていないところが『自分たち』とは決定的に違う。

信号が変わる。群集が歩き出す。その流れのまま男も長い足を踏み出す。滞在中のホテルまで歩いて帰るつもりだった。けれども、そんな男を、見逃さなかったプロフェッショナルがマンハッタンにも居て。

「……」

 すー、っと、自分の横で速度を緩めたリムジンに男が気づく。視線を流すと運転手が軽く会釈をした。見たことのない顔だ。この街に知人は居ない筈。けれど男が確認の為に足を止めるとリムジンも止まった。そうして運転手が降りてくる。社用車やタクシーがクラクションを鳴らす帰宅ラッシュの中だったが、さすがに黒のリムジンは特別扱い、路肩への停車を後続車にも許容されクラクションの洗礼を浴びることはなかった。大統領やスーパースターが乗っているかもしれない車にそんな無礼は仕掛けられないから。

「御用を承ります、ミスター」

 モーニングを着込んで白手袋を嵌めた運転手が小腰を屈めて男に挨拶する。その口の聞き方で、男は相手が『業界人』でないことを悟る。マフィアの息のかかった組織の人間ならこの男のことをミスターではなくシニュールと呼ぶ筈。

「……ウォルドフ。本館に」

 男はそう答えた。運転手は深く頷き、やはりわたしの目に狂いはなかったという自己満足の物腰で後部座席のドアを開ける。

ウォルドフ・アストリアはただでさえマンハッタン最高級のホテルだが、中でも四十七階建ての本館には限られた『階級』しか宿泊を許されない。どんなに金を持っていても紹介者のない一見客には門戸を開かないのだ。

四十二階のスイートルームをアメリカ政府が国連全権大使の為に借り上げているという事情を考慮すれば、客の身元を詮索するというホテル側の態度もある程度、仕方のないことかもしれない。も

「お飲み物はいかがいたしましょう?」

「……マッカラン」

「畏まりました」

 広いリムジンの座席につくりつけられたバーから男のリクエストのウィスキーを取り出してグラスに注ぎ、横にはチェイサーの為のブルー・レイク・アラスカがペットボトルのままだったが置かれる。

「……」

 会釈をして運転手は運転席に戻る。母国で同じくリムジンに乗っている男は手元のパネルを押して運転席との間の仕切りを操作する。慣れた様子に運転手はますます尊敬の態度を深くして、たいへん注意深くアクセルが踏み込まれ、黒塗りの巨体はそっと、路肩から離れる。

 信号は青から赤に変わり、もう一度、青に変わっていた。交差点には人が溢れていた。強面のハンサムからこの上なく優雅な挙措でリムジンに乗り込む一部始終を群集は見ていた。見られることに慣れている若い男は視線を無視してグラスに口をつける。無視していたけれど、やはり気分はいい。

 たそがれの街で道路は混雑している。車の流れも悪く、徒歩三十分の道のりが車でもその半分ほどかかった。けれども好きな酒を飲みながら行き交う群集を眺めながらの時間は快適で、少しも苦にならなかった。

 目的地に到着する。正面玄関に横付けされたリムジンにホテルのドアボーイの会釈も深い。そうしてその横には、ホテルのフロントから飛び出して来た長い銀髪の部下が。

「……ザンザス……」

 呆れて驚いて声も出ない。そんな様子で口をあけていて、ますます愉快になる。

 ボーイにドアを支えられてロビーに踏み込み、イタリア製の革靴でふかふかの絨毯を踏みしめる。ベルデスクからさっと出てきたマネージャーが男からコートを受け取ろうと腕を伸ばすが、派手な髪型のお供がそれをさえぎり、背の高い男がコートを脱ぐのを手伝う。そのスマートな仕草はなかなか、親切だが洗練とは遠いアメリカ人の敵うところではない。

 イタリアからの移民だったギャングの親分、ラッキー・ルチアーノも踏んだ大理石のエレベーターホールに立ち、マネージャーがボタンを押して呼んだエレベーターに乗り込む頃、男はアメリカという国を、ニューヨークのマンハッタンという街のことを、そう嫌いではなくなっていた。