ボンゴレ九代目のことを、獄寺隼人はそれほど権威に感じていなかった。
その心理には、ボンゴレとはやや疎遠なマフィア幹部の息子に生まれ、長い歴史と伝統を持つ『大手企業』に反感を持っていた過去も無関係ではない。ないが、もっと大きいのは、自身が次代の右腕であるという自負心。自分のボスは若い十代目。先代には礼儀を尽くしているが、愛情と尊敬は沢田綱吉に一途に注ぎ込んでいる。
だから。
「呼んで下されば、こちらから参上しましたのに」
と、微笑みながら、告げた相手も少し悲しい顔をした九代目にではない。その横でおろおろと狼狽している自分のボスに対して。
言葉遣いはいつもに増して丁重、九代目の存在を十分に意識していたけれど。
「九代目のお送りをさせて頂けるのですか?」
獄寺が九代目に目礼しつつも直接の口をきかないのは礼儀を遵守した結果。目上の者に対して自分から言葉をかけるのは無礼に当たるから。
喋りながら獄寺はすらりと立ち上がりそっと身体の向きを変えた。そうして年上の銀色を背中に庇うようにする。驚愕し、血の気の引いた顔で、凍りついたように身動き一つ、しないできない、様子が憐れだった。
「あ、ううん、そんなんじゃないんだ。ごめんね、お休みなのに部屋に来て」
そう、ここは私室。ただし中に居た二人のではなく、ボンゴレ十代目雨の守護者の部屋。
中に居た二人は夜勤明けの非番。朝食後の仮眠を取り、目覚めて起きだしたところだった。シャワーを浴びた銀色は髪をタオルで巻いたまま刀を磨いていて、獄寺は最近手に入れた匣の装飾をしていた。当番の山本は部屋に居ない。主人の居ない部屋になぜ、二人がそろって寛いでいるのかというと、それは。
「その、あのね、えっと……」
自分の部屋も同然だから。自室より色々と自分のためのものが揃えられているから。具体的には夕べのうちに山本が作っていた塩コショウ味の豚のスペアリブの煮物を二人で食べて、そのまま山本のベッドで寄り添って眠り、目覚めたのだ。
「ごめんなさい獄寺君、スクアーロさんと、ちょっとお話し、してもいいかな?」
狼狽から立ち上がれば沢田綱吉は度胸のないタイプではない。獄寺が庇った銀色の剣士のことを指名。否という立場でもなく獄寺は退いたが、その時には銀色は口の中のモノを、ちゃんと飲み込んだ後だった。
口移しを、していた訳ではない。もちろんキスもしていない。けれど状況はそんなのより、ある意味でもっと生々しかった。剣と磨き粉で両手の塞がった銀色に、ソファの隣に座った獄寺が、山本が作った葛饅頭の匙で掬って食べさせてやっていたところ。
愛情と信頼に満ちた仕草。
「……」
髪のタオルを取って、濡れた髪を肩に下ろしたまま銀色は椅子から立ち上がり深々と頭を下げる。
「久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
その銀色に九代目が口を開く。柔和だが芯は固く、ファミリーの構成員たちにも滅多に声を聞かせない大ボスが自分から。
昔むかし、この銀色が九代目の養子の一番そばに仕えていた時さえ、直接に口を利いたことはなかったのに。
「忙しいだろうが、たまにはうちにも遊びに来てくれないだろうか」
天下のボンゴレ九代目から、辞を低くしてそんな誘いを受けたことはお気に入りのドン・キャバッローネも跡取りである沢田綱吉にもない。
「ザンザスがひどく寂しそうにしている」
「……」
銀色は返事をしなかった。会釈を更に深くして、それだけ。直に返事をしないのは反抗ではなくて唯々諾々という意思表示。おぉいマジかぁ、と獄寺が驚愕とかすかな抗議の表情を浮かべたが、こちらも意思を言葉にすることはなかった。
「頼むよ。待っている」
九代目は念を押した。邪魔をしたねと温和に告げて部屋を出て行く。部屋の外には山本が待機していてそのドアを閉めた。たぶん開けたのも山本で、自室だったからわざとノックをしなかったのだろう。中の二人が、いっそイチャイチャしていればいいと思いながら。
「……」
その山本がドアを閉めるとき、中の二人を凄い目で見た。きりつけるような視線に銀色は目をそらしたが、獄寺は平気で笑い返して手を振る。ガキの頃からの付き合いだ。視線を交わせば意思は通じる。
ナンで反抗しないんだよと山本は抗議している。出来るわきゃねぇダロと獄寺はそれを受け流す。銀色の美形は合いコンタクトにも気づかず、ドアが閉まった後も緊張を解かない。
「おっどろいたなぁー」
青白く凍り付いているのが可哀想で、獄寺は意識して軽い口調で、そう声を掛ける。「ンだよ、景気わりぃツラすんなよォ。初めて見たぜあの九代目がアンタにお願いしてっとこ。されたの初めてだろ?」
顔を近づけて鼻の頭にふざけたキスをしながら獄寺が言う。確かにその通り、初体験だった。あの九代目はいつもいつも、養子に長年尽くしてくれた側近に冷たかった。それが情婦を兼ねているという醜聞を嫌っていた。
「あんたの勝ちだぜ。喜べよォ」
銀色は衝撃を受けていた。色々な意味で。それでも強い気性のまま口を開く。
「……、ねぇ、よ……」
とてもそんな気分にはなれないと正直な気持ちを若い獄寺に告げた。
「アンタに遊びに来いって言ったってことはさぁ」
「ナンでだぁ、イマサラぁ」
「九代目はアイツの離婚、許すツモリなんだろーな」
「出来ねぇだろ」
そんなことはと、銀色は言った。マフィアの進行はカトリック。一度結婚してしまえば離婚も、当然、再婚も許されない。イタリアの法はあらゆる州で婚姻が神の前で誓われた神聖契約であることを謳い、信仰上だけでなく法律上も、離婚ということは容易ではない。
何十年も別居して、それでも裁判所に離婚を認めてもらえず、相手が死を迎えてようやく再婚できるという場合が少なくない。状況はイギリスの皇太子に似ている。イギリス王室は国教会の信徒だが、アレも婚姻に関してはカソリックとほぼ同じ教義を掲げ、立場をとっている。
「事実上、って意味でさ」
だからかえって事実婚は増えてる。社会的な連帯をある程度認められるパートナーシップ制度も約半数の州で定められ、同性異性を問わずそれを利用するカップルは多い。キャバッローネの若いドンも、申請を真剣に検討したことがあった。
「ンな暗いカオ、すんなよぉ、なぁ」
ちゅ、ちゅっと、銀色の鮫のまぶたに優しいフレンチキスを繰り返しながら獄寺自身はなんとなく笑ってしまう。
自分とこの銀色が『仲良く』しているのを見た九代目は悲しい顔をした。それが養子のことを思ってだとすると、あの老人はやっと事実を認識したのだ。
「アンタの勝ちだ。オメデトー」
いいながら立ち上がり、テーブルの上の煙草を手に取り、一本咥えて火を点ける。その仕草は洗練され粋に決まっていて、時代のボンゴレの中枢に相応しい格好の良さ。アッシュグレイの髪をした嵐の守護者は悪童の頃から目許涼しい美少年だったのが、二十歳を越えて素晴らしい上玉に育った。
「……ンなんじゃ、ねぇだろ」
はぁ、っと正直に憂鬱なため息をつく銀色を獄寺は微妙な目で眺める。思わぬ事態に落ち込んでる様子は可哀想だったが、何処まで本気だろうかと疑うような気持ちねないではない。本当に憂鬱に思っているのか、それとも演技で、本当は嬉しいのか。
「歓べよ。お祝いしようぜ」
言葉にたっぷり含みを持たせながら獄寺は煙草を灰皿でもみ消した。それはこの銀色を忌避し続けた九代目に『頼み』を言わせたことに加えて。
「久しぶりにアンタ、あいつに会えるじゃねーか」
昔の相手が恋しいだろう、本当は会えて嬉しいんだろう、と、そんな皮肉を言ってみる。
「ンなワケ、あっかぁ……」
はあ、っと苦しそうに息を吐く様子は演技とも思えなかったが。
「まだ許してやんねぇのかよ?」
「許す許さないじゃねぇだろ」
「許す許さないのはなしになっちまったんじゃねぇかぁ?」
もう既に、この状況は。
「アンタが許してさえやりゃ、アンタ、アイツんとこ戻れんじゃねぇか?」
顔に火傷の痕のあるボンゴレ御曹司に、銀色のこの美形は長く寵愛されていた。リング戦を経て、ボンゴレの十代目が沢田綱吉に代わって、御曹司には慰留のように美しい妻が与えられた。それを機に長い仲の情婦は身辺から遠ざけられて、馴染んだヴァリアーとも仲間とも引き離されて、そして。
可哀想なことになっている。
「いまさら、戻りたかねぇよ」
それだけははっきりとクチにする銀色に、獄寺が更に何かを言おうとした時、テーブルの上の内線が鳴って。
「おぅ、どーしたぁー」
獄寺が出る。ぞんざいなクチの利き方で銀色には回線の向こうが誰なのか分かった。山本武。この部屋の主人で、そして今の、自分の……、『持ち主』。
「んだぁ、仕事中だろーがてめぇ。十代目の許可もらった?お優しいからって甘えてんじゃねぇぞ」
悪態をつきつつ、獄寺隼人は受話器を本体に置く。
「今から来るってよ」
「……」
「久々、オレも混ぜてもらうかな。アンタと暫くお別れかもしんねーし」
「……」
見るからにそんな気分ではなさそうな銀色の頬に。
「早く帰ってきてって言いてぇけど、行きっぱなしになっちまっても、オレは祝福するぜ」
男らしい言葉とともに、獄寺は優しいキスを落とす。