転移は一瞬。
「……あ?」
ついさっきまで昔の男に抱きしめられていた。焔が切れて弱った体を撫でられながら、苦しいならもう帰っていいぞと言ってもらったけれど、自分の意思では、戻れない。
そんなに嘆くなよと、思いながら目を閉じていた。エネルギー切れで力が入らず、ろくに喋れなかったけれど、ぼんやりとした麻痺の中で混濁していくのは大した苦しみではなかった。なんか死んじまうみたいだなぁと思ったら笑えた。
本当にそうなった時は全く意識がなくて、自分の終焉も別離も自覚出来なかった。あれはあれで悪い死に方ではなかったと思う。自身と周囲の嘆きを知らないままで終われた。
今度は俺が会いに行く、と、男が耳元に囁くのを聞いた。来るなよ、と思いながら『眠った』。まだ愛おしい。でも、もう会いたくはない。何もかもいまさら。既に自分は男のものではない。もとには、戻れない。
二度と会えない、よりはずっとマシだ、と。
男に告げられる。二度と会わない方がいいのに、そっちがお前の為なのに、と思いながら、気が遠くなって、そして。
「わりぃ、起こした」
気がついたのは、別のベッドの中。見慣れた天井はボンゴレ十代目の本拠地。その、雨の守護者・山本武の私室。シーツに斜めに腰掛けて心配そうに自分を覗き込む若い美形の、さらさらの髪が逆光の中で光を弾いていた。
「寝てろよ。ナンにもしねぇから。ただナンか、腹に入れてからの方がいいと思ってよ」
言われて口の中の味に気づく。甘い桃の味。缶詰ではない、初夏のイタリアで熟れる木桃の実にワインを加えて甘く煮た後で、煮汁をゼラチンでゆるく固めたジュレ。一口大にカットされた果肉に酒の風味が染みた、好物のコンポート。
「食べれっか?」
唇の中の存在を理解した途端、強烈な空腹が襲ってきて、おもわずむくりと起き上がった銀色に獄寺隼人は皿とスプーンを差し出す。心配そうに指で支えて手渡す仕草には愛情が篭っていたけれど。
「もっと腹に溜まるモンねぇのかぁー」
ずるり、と、殆ど噛まずに深皿に盛り付けられた桃のコンポートとジュレを食べつくした銀色が吠える。大人しく口を閉じていれば北欧の貴族のように高雅で気品のある顔だちだが、喋ると全てが台無しになってしまう。
「あるぜ。冷蔵庫いっぱい、イロイロ作ってる」
その料理を作った部屋の主は今夜居ない。仕事ではないが敢えて不在。他の男の慰安に出されていた『恋人』が弱っているところに顔を合わせたくなかった。理性に自身がなかったから。
「けどあんま、いきなり食わねー方がよくねぇか?胃腸弱ってるだろ?」
「餓死よりハラ壊して死ぬ方が希望だぁ、食わせろぉ」
「んじゃあっためるけどよー、軽いモンにしとけよ」
獄寺隼人は基本的に料理をしない。けれどあの姉を持っているせいと山本武との付き合いの長さで、キッチンスペースでシチューの鍋を温めて皿に注ぐ手つきはけっこう様になっている。そうして運ばれてきた、皿のほかほかの中身が。
「……」
トマト風味のひき肉とベーコンのシチューなのは、一体なんの皮肉だろう。偶然ではない。それは銀色の鮫の好物。
「おい、どーしたぁ?顔色、真っ青だぜ?」
優しい昔の仲間がせっかく作ってくれたのに、食べられなかった黄色いポレンタを添えたシチューを思い出した、途端。
「ちょ、お……、えぇっ?」
ぽろ、っと。
自分が泣いてしまったことに、銀色自身、相当に驚いた。
「な、おい、え、ちょ、」
泣かれた獄寺の驚愕はそれどころではない。食べ物を扱っていた間は我慢していた、火をつけたばかりの煙草の煙を吸い込むのも忘れておろおろと、したのはでも、ごく短い時間。
「……」
家庭環境が複雑だったせいで多少、かなり、相当に歪んでいても、イタリア男の端くれである。泣いているオンナの扱いは分かっている。煙草を灰皿に棄ててもみ消し細い顎を掴み、上を向かせて形が良すぎて薄情に見える唇を塞いだ。
「……、」
人間は気管の構造上、口を塞がれると泣きにくくなる。舌を絡められてえずくことが出来なくなった銀色のオンナも、かなり強制的に『泣き止ま』されてしまう。
「……、しが……」
「んー?」
「離しやがれぇ。メシが食えねぇだろーがぁー」
絡まった舌と唾液の隙間からいつもの口調が復活して、獄寺隼人はくちづけを解いてやった。コンポートの後味だけでなく甘い唾液を、ちゅっと啜りこんで。
「……ゴチソーサン」
目尻を緩めて嘯く美貌はいかにも性悪で、そこが実に魅力的。濡れた艶やかな唇には悪童と呼ばれた子供時代の、ある意味で溌剌とした生気が漲っている。
「それで何もかも済むと思うなよテメェ。いくらとびきりのツラ下げてるからって」
「はは。アンタに顔、褒められるとすっげーナンか、くすぐってえっなー」
くくく、と喉の奥で笑いながら、獄寺はシチューを食べる銀色に温めたフォッカチオを出してやる。チーズ入りのイタリア式のパン、モチモチした食感が魅力の、小麦の味が美味いそれも、この部屋の主が生地から捏ねた手作り。
「ヤマモト、何処行ってんだぁ?」
美味い食事に空腹が和らぎ、栄養が血の中へ溶け出して血色がよくなってきた銀色は獄寺に尋ねる。
「アンタほんっとにイロシロイよなぁー」
改めて煙草に火を点け、温かみを帯びてきた頬を眺めながら獄寺隼人は、食後のカフェを煎れてやりながら。
「酔わせてみたいオトコの気持ちがよぉく、分かるぜ」
「寝言いってねーで答えろぉ」
「オレも知んねーよ。敷地内には居ると思うけど。まさか探して一緒に寝ようとか言い出さねーよなぁ?目一杯ミエ張ってやせ我慢してんだ、格好つけさせてやれよ」
「いまさらナンのミエだぁ。ちゃんとベッドで寝てんのかぁ?」
それが気になるらしい銀色はそわそわ落ち着かない。歯を磨いて顔を洗ってさっぱりして、獄寺が先に潜り込んだ毛布の中から隣をポンポと叩いたが、今にも山本武を探しに行きそうだった。
「他のオトコに優しくしてきたアンタをさ、いっそグチャグチャにしてやろうか、とか」
先に寝てろと言い捨てて部屋を、出て行きかけた銀色の背中が強張り、ぴたりと足を止める。
「キホンがメスのオレだって思わないワケじゃねーんだ。ばりんばりンにオスのアイツは、もっとだと思うぜ?」
「……」
「アンタがマゾで苛められたくて、ついでにサドで苛めちまって落ち込むバカモトんこと嗤いたいっなら止めねーけどよ。そーじゃねーならオレと大人しく、ネンネすんのがお互いのタメなんじゃねぇ?」
「……」
銀色は単純明快、サバサバしすぎの気性だが頭は悪くない。年若い獄寺の意見が正しいことを認めてベッドに戻って来る。毛布を捲くって隣に滑り込んでくるオンナにぎゅーっと、獄寺は懐いた。喉の下に顔を押し当てて。
「お帰り」
「……」
「ただいまって言えよ」
「……ナンか、なぁ」
「あんたもうココの住人だろ。ただいま、って、ホラ」
「てめぇみてぇな若い別嬪に」
「アンタに言われると笑っちまうなぁー」
「絡まれると落ち着かねぇなぁ。オレも年取ったぜ」
「なぁに寝言いってんだか」
くすくす、体温を感じて安らぎながら獄寺は目を閉じる。
「跳ね馬がアンタの留守に来た」
でもその唇は、はっきり動いて事実を告げる。
「……あ?」
「アンタがヴァリアーに行ったのを、どっからか嗅ぎつけたみたいだぜ。すげぇ剣幕だった。なんせアンタの葬式じゃ、立ってられずに、へたり込みやがったからなぁ」
参列はほんの数人、系列の病院から墓地へ移動する間の儀式としておざなりに行われた葬式。それまでの関わりの深さから黙ってもいられず、そっと知らせたドン・キャバッローネはニューヨークから葬儀に駆けつけたが、遺体を見るなり墓地に付属した教会の床に座り込んだ。
眼鏡の側近に介添えされて椅子に座り、出棺までは持ちこたえたけれどそのまま口もきけず、沢田綱吉にろくに挨拶も出来ずにぼろぼろ、泣いてばかりだった。
「イタリアン・マフィアきっての色男、あんだけ泣かせたオンナはあんただけじゃねぇの?」
「おぉい、それ、笑い事じゃねぇんじゃねぇかぁ?」
二代目剣帝と目されていたヴァリアーのスクアーロは『死んだ』。対外的にはそうなっているし、実際にそれは事実でも、ある。戦争になれば存在は知れるだろうがそれまでの隠し弾として、『存在』は一応、極秘扱い。
「まぁマジイけど、でもまぁ、いーんじゃねぇ?知らせないで泣かせ続けンのも、気の毒だったからなぁ」
新興経済マフィアのボス、ドン・キャバッローネの日常は忙しい。世界中を飛び回ることが多く、イタリアに居るのは年の半分ほど。それでも可能な限りはボンゴレの墓地にやってきて、十字架が埋まりそうな花束を供えて帰って行く。アレを何時までも続けさせるのは気の毒だと、獄寺隼人は心の中で思っていた。
「甘いこと言うんじゃねぇ。アイツぁヤワイのはツラだけだぞ。ナンでオレが生きてンのかって、探り出されたらコトだぜぇ」
「んー。まぁ、いつかばれるさ」
「あのなぁ、テメェらはリング戦で共闘して馴れ合ってやがるけどなぁ、基本的にありゃ同盟相手で、ボンゴレの身内とは違うんだぁ、甘いこと言ってんじゃねぇぞぉー!」
「でかい声ださねぇでくれよ。ねみぃ……」
「寝てる場合か、起きやがれ。詳しく話せぇ、跳ね馬のヤローはナンて言って行った?てめぇらアイツに何処まで話したんだ?」
「あんたって、時々すっげぇ、酷いよな。あんなにアンタのこと愛してる男に言うことはソレかよ。あーんなにアンタのこと熱愛してる男よりファミリーが大事なのか?」
「当たり前だろうが」
銀色のオンナは堂々と胸を張る。
「まぁ、マフィアとしては正しいことだけどよ。あー、アンタ時々正統派すぎてまぶしいぜ」
「イヤミを言うんじゃねぇ。あのバカは何をどこまで知りやがった?」
「とりあえずアンタは生きてるって。事情があって、ココで匿ってるんだ、って。そのうちまた、来やがるから、詳しくはそん時のことだ」
「チッ」
銀色が品悪く舌打ち。そんな仕草も妙に、サマになる。
「オヤスミ……」
甘える猫のような声で一鳴き、獄寺隼人は幸福に目を閉じた。
けれど。
「オイ」
ボンゴレ十代目の側近の、本質がネコの筈もなくて。
「触るな、って言ってんだ聞こえねぇのかよ」
金髪のドン・キャバッローネに堂々と、喧嘩を売る度胸は大したもの。