私のあゆみ(1)はじめに

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はじめに
 自伝のようなものを書いたほうが良いと最初に言われたのは、もう今から20数年前に遡ります。
 大学院に入って間もなくのころでした。同学年の福祉専行の人と話していて、話が私の盲学校時代の、一見特殊と思われる体験に及びました。私にとっては、暗い、深刻な、わざわざ公にすることなどしたくない、ごく個人的と思われる体験なのですが、その方はおそらく、収容施設、閉鎖的な施設で見られる、特殊ではあるけれども、一種の典形的な例と受け止めたようです。彼女は、そのようなことを知ることは福祉を専門とする人にも役立つし、また、そのようなことを書くこと自体、あなた自身にとってもきっと得るところがあるはずだ、と言っていました。
 その後数人の人に同じような話をした時も、それは是非記録に残すべきだという人もいました。
 私は記録に残すことにはそれなりの意義があるだろうとは思いましたが、しかし実際に記録に残すとなると……、いろいろ問題がありすぎて……、現実にはとても難しいだろうと思い、ずっとそのままにしておきました。
 まず、作文力の問題があります。私は文法的にあまり間違いのない文章は書けますが、人を魅了するような文章、リズムとめりはりがあり、自然と読者がその世界に引き込まれるような文章はとても書けません。私の文章はどうしても淡々としたものになりがちです。ただ、そんな味気ない文章でも、テーマとそれにたいする読者の興味の高さ次第で、読んでいただけるかも知れません。
 次に、その文章をどのようにして多くの人たちにも読んでいただける状態にするかです。つい4、5年前まではこれは難題だった訳ですが、今はこうしてインターネットを利用することでほぼ解決できています。以前でしたら、まず私が点字で原稿を書き、それをだれかが普通の文字に書き写し、それをなんらかの形で公刊しなければなりませんでした。今では、私が直接エディタやワーブロソフトで文章を書き、それをホームページ上で公開できるようになりました(私の場合、ホームページへの文章のアップなどは、すべてある方に依頼しています)。ただ、私は普通の漢字仮名混じり文をいつも点字や音声で読んでおり、実際に目で読んでいる訳ではありません。それで、同じ言葉でも、漢字で書いたほうがいいのかそれとも平仮名(あるいは片仮名)で書いたほうがいいのか迷ったり、記号の使い方に迷ったりします。目で見て読む読者には、しばしば不自然に思えることもあろうかと思います。
 そして、最大の問題は〈記憶〉に関することです。
 私がこれから書こうとしているのは主に数十年前のことです。その頃についての私の記憶は当然不正確なものです。前後関係がはっきりしなかったり、脱落していたり、一部だけがとくに強調されたりしています。このような記憶を補うために、できることなら、資料に当たって調べたり、他の人の証言を得たり、また現場に足を運んで肌で当時を偲んでみたりするなどしたいところですが、今の私にはそれらはほとんどできそうにありません。ですから、これから書く「私のあゆみ」は、このような不確かな〈記憶〉に頼って書かざるをえません。
 そもそも〈記憶〉とは何でしょうか。とくに、何十年にもわたってその人の心に残っているような記憶とは、どんなものなのでしょうか。それは、もはやたんなる〈事実〉の寄せ集めでも、ましてや〈真実〉そのものでもありません。それは、その人にとって、私にとって、充分意味のある〈出来事〉であり、しかも、それら出来事は、その人の生活史の中で互いに関連付けられ、意味的にある程度一貫した、その人なりの〈枠組〉に従って再構成されてゆきます。
 このような記憶は、その人の生活史を織り成しているとともに、また、私の私たる所以、アイデンティティを明らかにするものでもあります。
 これから私は私の歩みを主に記憶によって辿ろうとするわけですが、たんに過去を再現するだけでなく、私は何であるのか、私の依って立つところを確認し、そして今後の私を見定めるのにすこしでも資するものになればと思っています。

(2001年7月26日)