なつかしのサッカー――視覚障害者サッカー体験会に参加して

上に戻る


なつかしのサッカー――視覚障害者サッカー体験会に参加して

 11月11日、「視覚障害者文化を育てる会」の第1回文化学習会として開催された「新しい時代へ Kick Off − 視覚障害者サッカーを楽しもう!」という企画に参加しました。
 JR阪和線の我孫子町駅から徒歩10分くらいの所にある大阪府立盲学校で行われ、ほんとうに様々な人たちが集まり、総勢80人くらいになったようです。
 このたび新しく結成された「視覚障害者文化を育てる会」についてはまた別の機会に紹介することとして、まずはサッカーの話をしましょう。

 「視覚障害者がサッカーを……」と言えば、「目の見えない人がどうやってサッカーをするの?それどころか、あの激しい動きのサッカーを理解し観戦して楽しむことも難しいのでは」と思われる方が多いのではないでしょうか。確かに、見えない人にとって球技種目は、陸上や水泳競技などと比べても、そのままの形で行うのは極めて難しいです。これまで野球やバレーボールや卓球については、大幅にやり方を変え(たとえば球を転がすようにしたりする)、一般のルールとはかなり異なった特別のルールの下に行われています。しかし、サッカーについては少くとも日本ではこれまでそういった試みはありませんでした。
 ただ私は、もう30年以上前、高校の終りころ、ほんの少しサッカーとたわむれたことがあります。私は高校の初めころまで、少し運動すると、たぶん緑内障のためだと思いますが、すぐ眼圧が上がって目や頭が痛くなり、よく体育の時間は休んでいました。まったく見えないのにほんとうに邪魔な目だなあと思っていました。高校2年の初めに目を剔出し、ようやく自由に運動できるようになりました。それから1年余り、運動の能力や感覚にはあまり恵まれていませんでしたが、とにかく猛烈に運動しました。当時すでに青森の盲学校でも生徒の大多数が弱視で、その人たちの足音をたよりに一緒に走ったりしていました。そんな中、彼らがサッカーをし始めると、ルールもほとんど分からないまま、私もなんとかむりやりに入れてもらいました。主にゴールキーパーの役があてがわれましたが、ただ守っているだけでは満足せず、私は手を使ってもどんなことをしてもいいというルールで、ボールの音と足音を聞いて体当たりしながらボールを奪い、どうでも蹴りました。当然私がボールをつかもうとする時には時々顔を足で蹴られたりして、それはそれはなんともめちゃくちゃな危険なものでした。
 高校卒業後数年して私は一般の大学に入り、幸いなことに体育の時間も一般の学生と一緒のクラスに入ることができました。もちろんその大学でも、病気や障害のある学生のために特別のクラスはありましたが、主にビデオなどを見ているようで、私はできれば運動したいと思い、体育の教官と相談して、一般のクラスに入れてもらいました。陸上やマット運動、トランポリン、アイススケートなどは少し援助してもらいながらみんなと一緒にしました。トランポリンは、初めは安全のためベルトを付け、なんとかバック宙返りまでできるようになりました。アイススケートは、上手な人と手をつないで滑るとかなりスピードを出すことができ、風を感じながら、カーブの時は思い切り右足に体重をかけ、あのちょっとどきどきするようなスピード感を楽しむことができました。一番困ったのは球技です。卓球は、とても上手な人ならば、私の振るラケットにちょうど当たるような所に球が来るようにコントロールしてもらって、少しはできました(もちろん試合にはなりません)。でも野球は、体育の先生が私の振るバットに当たるように球を何度も投げてくれるのですが、実際に当たるのは奇跡のようなもので、これはあきらめました。それで野球の時は、みんなとは別に1人でネットに向ってボールを蹴り跳ね返って来るボールを追いかけていました。こんな事ができたのは、体育の先生がとても熱心で、また学生もそれなりに協力的だったからだと思います。先生は1人で40人くらいの学生と私を見、さらに時間がある時は私のために運動生理学的な話をしてくれたりしました(私には難し過ぎてあまり理解できませんでしたが)。また、野球などの時私がボールを蹴るのにも厭きてもの足りないようにしていると、授業が終った後先生の指示で2、3人の学生と一緒に思い切り走ったりしました。2年間だけでしたが、とても懐しく思い出されます。
 その後はほとんど運動する機会はありませんでした。子供が小さい時は川原や公園で遊び回ったり、少し大きくなってからはかなり長い距離を歩いてあちこち出かけたりした程度です。

 11月初めに視覚障害者サッカー(日本語での正式な呼び名はまだ決まっていないようです)の体験会があるという話を聞きましたが、その時はもうこんな歳になってあんな激しい運動はできないなあと思っていました。私は最近自分の感覚の全体的な衰えをよく感じるようになり、それを「老眼」になぞらえて〈老感覚〉と呼んでいるほどなのです。しかし、当日の2日前に正式な案内のメールをいただいてその内容を読んでみると、どういうわけか身体のほうがうずうずしてきて、つい申し込んでしまいました。
 当日はまず「視覚障害者文化を育てる会」の発足ということで挨拶や説明があり、引き続いて釜本邦茂・美佐子ご姉弟のお話がありました。釜本邦茂さんはご存知のように東京オリンピック、そして銅メダルを獲得したメキシコオリンピックでの日本チームの名ストライカーとして活躍された方です。またお姉さんの美佐子さんは、長らく旅行業界で仕事をしてこられましたが、網膜色素変性症のため現在は2級の視覚障害で、JBOS(全国視覚障害者外出支援連絡会)およびJRPS(日本網膜色素変性症協会)の会長としてご活躍中の方です。
 その後、ようやく待ちかねていた視覚障害者サッカーの体験会となりました。ただ人数も多く、時間も説明や準備体操などもふくめて1時間余りと短かく、また天気がとても良かったにもかかわらず(たぶん準備がたいへんだったからでしょうが)体育館の中ということで、ちょっと残念な面もありました。

 視覚障害者サッカーは1981年にスペインで始められたとのことです。初めは、サッカー経験のある人が失明した時、なにか直ぐできるスポーツはないかということで考えられたようです。これまでにヨーロッパや中南米など34カ国にひろがり、国際大会も開かれているそうです。アジアでは一昨年から初めて韓国が競技として導入し、現在15チームが作られて全国大会もあり、また専用の競技場まであるそうです。
 日本では、視覚障害者サッカーについて情報としてはごく一部の人たちに知られていただけで、実際の取り組みは今回が初めてと言っていいほどです。関係者の間では、来年の日韓共催のワールドカップに合せて視覚障害者サッカーの日韓戦を実現しようと、この日実行委員会も作られました。きっと若い人たちの励みになることでしょう。また、シニア・チームも作って楽しもうではという話しも出ました。

 視覚障害者サッカーのルールは、11人で行なう普通のサッカーのミニ競技〈フットサル〉とほぼ同じだとのことです(と言っても、私はフットサルについてはなにも知りません)。選手は1チーム5人(フィールドプレイヤー4人、ゴールキーパー1人)。ゴールキーパーは弱視者か晴眼者。フィールドプレイヤーは視覚障害者で、条件をまったく同じにするため厳重にアイマスクをし、また衝突のさいの危険をなくすためスポンジ製の分厚いプロテクターを額に付けます。ボールには鉛製の鈴が入っていて、カラカラと音がします。相手のゴールの後ろには自分のチームの「コーラー」と呼ばれるコーチがいて、声で指示を出します。コートはサイドが約40m、エンドが約20mです(その時は体育館だったのでかなり小さかったです)。
 実際の練習試合らしきものに私はわずか2、3分間だけ参加しました。たしかに視覚障害者が完全に中心になっていて、危険もほとんど感じませんでした。ただ、ボールを争う時など、周りのプレイヤーが相手チームなのか自チームなのか、また自チームのプレイヤーの配置が分からずどうしていいのか困ってしまいました。コーラーがうまく指示を出し、プレイヤーも互いに声を掛け合わないとうまく試合がはこばないと思いました。また、私の場合、ボールに足を当てることはできても、ボールを止めてうまくコントロールして行くのが難しかったです。でも、見えている時サッカーの経験のある人は、私とはまったく違って、とてもうまくボール・コントロールをし、みごとに蹴っていました。細かい技術的な面もふくめかなり練習は必要でしょうが、体力があれば試合に熱中でき、また大いにチャレンジ精神をかき立ててくれるスポーツです。

 視覚障害者の場合、まず〈安全〉が強調され、自由に動き回ることのできる機会はほとんどありませんし、またしばしば周りから必要以上に行動を制限されたりします。実際の生活ではやむを得ない面もあるのは確かです。しかし、ある程度の危険を感じながらも身体を思い切って動かすことは、障害者に自信やチャレンジ精神を育てることになるのはもちろん、さらに感覚全体を鋭くし、集中力や瞬間的な判断力を高めます。これらの能力は、私の経験からして、実生活での衝突や転落などの際の危険回避にもつながるものです。(だからと言って、私は〈安全〉をけっして軽視しているのではありません。たとえば、本来道路は視覚障害者があまり注意力をはたらかせなくても自由に歩けるほど安全でなければなりません。)

(2001年11月18日)