触って楽しむ写真展

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 6月13日、愛知県高浜市にある高浜市やきものの里かわら美術館で開かれた「触って楽しむ写真展」に、アートな美の方々と一緒に行きました。これは、現在開催中の企画展「朱明徳 −帰れない故郷、扉の向こう側」の関連イベントです。高浜市はまったく聞いたことがなく初めてでしたし、瓦専門のミュージアムも初めて、また写真展も偶然立ち寄ったことは何度かありますが、自分からわざわざ出かけるのは初めてでした。
 9時前に名古屋駅で待ち合せ、名鉄に乗って知立へ、そこで乗り換えて高浜港駅に10時過ぎに到着、そこから歩いてかわら美術館に向かいます。美術館までの道は、高浜港駅から三川高浜駅まで続く約4.5kmの「鬼のみち」の一部になっています。道には小さな瓦が敷き詰められ、沿道には鬼瓦をはじめいろいろな瓦製品・作品が並んでいて、それらを届く範囲で触りながら進みます。鬼の顔もいろいろ、どちらかと言うとやさしい感じのものが多かったように思います。上面が平らで腰かけるのにちょうどよい高さの鬼瓦もあって、鬼の顔が触りやすかったです。中には、ふわふわっとした雲の上に乗った鬼もありました(口の中や目の奥まで空洞になっていて、なかなかよい作品に思えました)。十二支のレリーフがあって、表面がつるつるで触り心地がよかったです(波の上を渡っている兎、ネズミの親子、口を開いた虎など)。そんなわけで、美術館に着いたのは、予定の10時半をだいぶ過ぎていました。
 まず、美術館の学芸員の方から今回の企画展と触って楽しむ写真展について説明がありました。かわら美術館では、専門の瓦だけでなく、瓦が使われている建物や家並、風景の写真も所蔵し写真展も行っているとのこと。そして、写真展にも見えない人たちをはじめいろいろな人が来てほしいと、2年ほど前の企画展「奈良原一高 スペイン」で、立体コピー図を使って触って楽しむ写真展を行い、今回が2回目だそうです。
 朱明徳(Joo Myung-Duck、ジュ・ミョンドック)は、1940年に朝鮮の黄海道(現在は北朝鮮)に生まれ、間もなく現在の韓国のほうに移り朝鮮戦争を経験したそうです。1966年に、朝鮮戦争時に韓国にいた米兵との間に生まれたハーフの子供たちが集められて生活する孤児院を撮影した作品の展覧会「ホルト孤児院展」で、ドキュメンタリー写真家として注目されるようになったそうです。(ハーフの児たちは当時韓国では差別され蔑まれていて、成人してもふつうの仕事にはつけなかった。)当時は朴政権下(朴正煕: 1917〜1979年。1963年から79年まで大統領)で、漢江の奇跡と言われる高度経済成長に入りますが、1970年代になると独裁的になり、検閲も厳しく行われ、朱明徳のハーフなど人物の写真は禁止されて、被写体を人物から風景などに変えていったそうです。今回の企画展では、1980年代の、経済成長から取り残されてゆく地方の寺院や古民家などの風景や、意匠扉の写真作品が展示されていました(意匠扉は、韓国では人間界と仏の世界を隔てる門、この世とあちらの世界の境目と考えられているらしいです)。南北分断によって故郷に帰れなくなった人々、また韓国内でも急激な近代化によって地方からソウルに出て行った人たち、さらに近年はソウルからアメリカなど海外に出て行った人たち――彼らの心のうちにある故郷への想い・なつかしさといったものをこれらの写真はあらわしているのかもしれません。
 写真の立体コピー図版は、意匠扉が2点、風景が2点展示されていました。意匠扉の写真は、1981年ころの地方の仏教寺院の意匠扉だということです。1点は、A4版ほどの大きさで縦長。全体が両開きの扉で、中央が合せ目のようになっていて取っ手のようなのもあります。模様は左右対称で、上から下に4段になっていて、いちばん上が菱形、その下が8角形、その下が菱形、いちばん下が花の模様になっています。触ってとても分かりやすいです。色もきれいなようですが、一部剥げたりしていて古さは感じられるようです。もう1点は横長で、向って右の扉に6枚の花びらの大きな花が数個、左の扉に円ないしちょっと楕円のつぼみや開きかけの花が数個描かれています。右扉の6枚の花びらの花は、中心が黄色で、その外側は同心円上に2色(赤ともう1色は忘れてしまいました)になっており、各花はやや太い茎のような菱形の模様でつながっています。また左扉のつぼみや開きかけの花も、細い葉のような模様でつながっています。色鮮やかで美しいようですが、これも一部剥げたりしているそうです。
 風景の写真は、1988年ころの韓国南部・全羅南道の寺院あるいは古い建物のようです。1点は、道沿いに高い石壁と瓦屋根の建物があります。瓦屋根の瓦は規則的に置かれているのではなく、雑然とした感じです。また石壁も、いろいろの形の石を積み上げているようですし、画面左側のほうは石の数が少なくなっています(間は土壁のようになっているのでしょうか)。画面左のほうに道が曲がっていて、その先のほうに建物の門があります。建物の後ろには大きな木が2本あります。画面の下、道の反対側には草のようなのが生えています。もう1点は、大きな建物のようです。上に軒、中央にふすまと縦長に区切られた障子、その両側が広く空いていて庭になっているようです。画面下は床になっていて、板のつなぎ目が触ってよく分かります。庭には木が生え、画面左下には太陽の光が当たっています(立体コピー図ではその部分は密な点の集まりで示されていた)。
 鑑賞後に参加者が集まって、感想や意見交換したりしました。立体コピー図については触って分かりやすいものだったという感想が多かったです。写真から立体コピー図に起こすやり方がよかったのでしょうか?また展示の仕方については、意匠扉や寺院などの写真について、もっと歴史的・文化的な背景が分かるような説明があってほしいという意見もありました。私もそうだなあと思いましたが、はっきりしたことはまだ十分調査されていないようでした。
 
 昼食の後、3階の常設の展示も、館長さんの案内で少し見学しました。歴史的な資料が多いということもあって触れられる資料は少なかったですが、瓦についての歴史は少し知ることができました。
 瓦は中国ではすでに3000年近く前から用いられていて、実物資料もあるようです。日本には、6世紀の末に百済から寺院建築をするための職人集団がやって来て、その中に瓦の職人もいて、飛鳥奈良時代に建てられた国分寺を中心に瓦屋根の寺が建てられるようになりました。当時は、平瓦の間に丸瓦を入れて組み上げる本瓦葺きが基本でした。瓦屋根の先端部の軒丸瓦や軒平瓦には、蓮華文をはじめいろいろな文様が用いられ、また屋根の一番上の両端には鬼瓦が用いられました(鬼瓦としては鬼面だけでなく、いろいろな形のものがある)。戦国時代以降城にも瓦が用いられるようになり、織田信長や豊臣秀吉は鯱瓦や鬼瓦・軒瓦に金箔を施した金箔瓦も使いました。江戸時代になると、桟瓦1種だけを使う瓦屋根が普及するようになります(桟瓦は、だいたいは平たいですが両端が波状に湾曲していて、互いに組み合せられるようになっている。これによって、より大量生産ができ、また瓦屋根が軽量になった)。さらに明治時代になると、一般の家でも瓦屋根が広がり、瓦の生産量が急激に増えたそうです。
 瓦の生産では、三州瓦、石州瓦(島根県石見地方)、淡路瓦が日本の3大産地と言われますが、この高浜地方が三州瓦の中心で、しかも三州瓦は全国の瓦の6割以上を占めているそうです。また、鬼瓦を作る職人は鬼師と呼ばれます(それぞれ型紙を作り、それに合せてへらで粘土を成形しているそうです)が、現在鬼師は全国で50人余いて、そのうち30人ほどが高浜地域だそうです。
 高浜市など西三河地方は、矢作川の河口近くの三角州地帯に位置し、良質の粘土が豊富で、それを瓦の原料とすることできめの細かい肌のきれいな三州瓦が生産できているようです。(矢作川の源流は長野・岐阜県境付近の2000m近くある花崗岩質の産地で、上流部の花崗岩が変成しながら豊田市以南の下流の平野にたまって、5万年から10万年ほどかけて両質の粘土になり、それを使っているそうです。また瀬戸地方では、さらに25万年から50万年くらい堆積していたより良質の粘土を使っているそうです。)三州瓦の原料は主に三河土という良質の粘土ですが、原料不足を補うため、水簸粘土(原土を水で洗って砂利や木の葉など不純物を取り除いたもの)や、リサイクルした瓦を細かく砕いたシャモットも混ぜているそうです。
 三州瓦の種類としては、素焼きしただけの瓦のほかに、いぶし瓦(焼成の最終工程で還元状態で松などをいぶして表面に炭素分を固着させたもので、黒瓦とか銀色瓦とも言われる)、塩焼瓦(焼成末期に食塩を入れると珪酸分と反応して表面に赤褐色のガラス質の被膜ができる。赤瓦とも呼ばれる)、釉薬瓦(後で釉薬をかけて焼いて表面をガラス質にしたもの。釉薬の種類によりいろいろな色がある)があります。私はここで瓦と陶器など粘土作品とはどのように違うのか疑問になり、尋ねてみました。瓦は焼く温度が900℃以下で低い、また原料の粘土の質が陶器などよりは悪いということでした。とは言っても、縄文や弥生土器の焼成温度は900℃以下ですし、また、粘土の質も実際には様々であまり区別の基準にはならないように思います。結局、何に使われているのか(瓦は建築の屋根など、陶器類などは器類)で区別されるのかなあと思いました。
 
 今回は、初めての写真展を楽しむことができましたし、また瓦の歴史などについても知ることができました。
 
(6月18日)