発掘から見えてきた疫病と平城京

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 6月12日午前1時台の関西発ラジオ深夜便の「人ありて、街は生き」のコーナーで、「発掘から見えてきた疫病と平城京」が放送されました。
 内容は、昨年夏に奈良文化財研究所 平城宮跡資料館で行われた 2020年度夏期企画展「古代のいのり −疫病退散!」を中心にしたものでした。この企画展については、YouTubeチャンネル研究員によるミニ解説 〜「古代のいのり −疫病退散!」展、および古代都市平城京の疫病対策配布資料でかなり詳しく知ることができます。
 放送では、聞き手 中村宏さん、解説 奈良文化財研究所 都城発掘調査部 考古第二研究室 室長 神野恵さんです。以下、放送内容を、上のページも参考にしながら書き起こします。なお、[ ]内は私の補足です。
 
中村: 710年、藤原京から遷都された都が平城京だ。奈良市には、広大な面積の都の中心部がタイムカプセルのように残され、発掘調査によって数々の木簡や食器などが出土している。そうした品々を調べると、都の人たちが疫病の大流行に見舞われ、疫病と戦っていた姿が浮かび上がってくると言うことだ。奈良文化財研究所(奈文研)で発掘調査に携わっている神野恵さんに、奈良時代の人々が疫病とどう向き合ったのか、感染対策をしたスタジオで話をうかがった。なお、「古代の祈り」「配布資料」で検索すると、平城宮跡資料館で去年開かれたミニ展示の際の配布資料が見つかり、ダウンロードできる。もちろん私が説明するので、資料がなくてもだいじょうぶ。
中村:神野さん、よろしくお願いします。奈良の都、平城京にはどれくらいの人たちが暮らしていたのでしょうか。
神野:一番多い推計では20万人と言われていた時期もあるが、最近の研究では5万人から10万人ではないかと言われている。
中村:当時としては大都市なのですね。
神野:大都市です。外国からの留学生も多くて、よくシルクロードの終着点などと言われたりするが、わりと全国から人が集まってくるような、今で言えば東京みたいなイメージだったと思う。
中村:海外から人が来て、人口が多い、国内との行き来も多いということは、疫病が流行しやすい、伝わりやすいということになりますね。
神野:はい、そのような条件を備えてしまったということです。
中村:出土品の話に入る前に、疫病の記録としてはどんなものが残っているのですか。
神野:疫病の記録はかなり頻繁にあるが、いちばん大きかったのは、天平7年(735年)と天平9年(737年)の2回にわたって、天然痘らしき(これもよくは分からないが)病気、わんずがさ[豌豆瘡。「えんどうそう」とも読む]という言葉で書かれたりしていて、瘡蓋ができてしまうような病気。一説には麻疹という説もあるが、そういった疫病が流行って多くの人が亡くなったという記述がある。
中村:天然痘はウイルスですね。
神野:ウイルスです。エジプトのミイラ[紀元前1100年代に亡したラムセス5世のミイラ]に天然痘の痕跡が残っているものがある。西アジアかインド辺りから移ってきたのではないかと考えられている。中国では、[5世紀ころ南北朝時代の]北魏との戦争でとらえられた捕虜が病気を持ってくるので、虜瘡という病名で呼ばれたりする。
中村:新型コロナウイルスは、主に飛沫と接触ですよね。天然痘はどうなんですか。
神野:天然痘は瘡蓋の膿とかでうつると言われているが、おそらく感染力が強いので飛沫とか接触とかでうつったのではないかと思う。
中村:ずいぶん亡くなったようですね。
神野:びっくりするような数字が出ていて、当時人口の3分の1というような数字を計算で出している研究者もいる。なぜ分かるのかと言うと、当時国=律令国家が稲を国民に無理やり貸し付け、それを利子を付けて国民は返さなくてはいけないというような制度があり、貸し付けられた人が亡くなってしまうと借金は棒引きになってしまう。そして、天平9年の時に返さなくてもいい家が多くなっている。それが文書に記載されていて、その記載から計算すると、和泉国[五畿内の1国で、現在の大阪府南部にあたる]が一番多くて、3分の1くらいの人が亡くなっているのではと言われている。ただ、平城京は大都市で、どれだけの人が集まっているのか調べるすべはないが、平城京は役人が多く、その役人の死亡率はたぶんもっとそれを上回っているのではないかとも言われている。「続日本紀」では、大宰府で流行が始まったと書かれている。最初の天平7年のころは大宰府がとくにひどかったようだ。それが、天平9年はもう一度大宰府から始まると、今度はずうっと東のほうまで広がったというような書かれかたをしている。
中村:大宰府と言うと、大陸との往来の玄関口ですね。ということは、大陸から疫病が来たということに……
神野:もちろんそういう意識はかなり強かったと思う。「続日本紀」という国の正史にははっきりとは書かれていないが、新羅に行っていた大使の一行が平城京に帰ってくる時に、大使自身は津島で亡くなってしまい、副使は病気のために京に入れないという記述がある。そういった記述をわざわざ天然痘の記述がある中に書いてあるということは、おそらく天然痘で亡くなったことを示すのだろうと思われるので、たぶん新羅あたりからうつったと当時の人たちも思っていたのだろう。[「続日本紀」中の天然痘関連の記述については、天平時代のパンデミック―『万葉集』の遣新羅歌群―を参照。]
中村:朝鮮半島で大流行していたわけですね。
神野:それが、そういうわけでもなさそうだ。中国でも朝鮮でも疫病に関する記録がわりと残っているが、同時期に流行していたという記録はない。これより少し前に流行っていたことは書かれている。おそらく、これは当時たまたま日本列島の人たちが免疫を持っていなかったので、大きく広がってしまった。パンデミックではなく、エピデミック、部分的な大流行ではないかと言われている。朝鮮半島や中国ではおそらくもう風土病になっていたと思われる。
中村:役人が亡くなったということだが、おそらく行政にも影響しますよね。
神野:そうですね。名前が分かっている役人は、平城京の中でも限られた有力な貴族だが、例えば「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり」という有名な歌を詠んだ小野老(おののおゆ)という歌人・官人がいるが、皮肉にも、平城京の栄華をうたった彼は京に戻って来たら[天平9年6月]天然痘で亡くなってしまう。中枢部分にいて天皇にも非常に近かった在存である藤原不比等の4人の息子たち[武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)]がばたばたと疫病で亡くなってしまって、「続日本紀」には「廃朝」、すなわち政治が回っていかない、政治ができないというショッキングなことまで書かれている。
 
中村:これまでの奈良文化財研究所の発掘による出土品から、天平人が疫病とどのように戦ったかが見えてくるということだが、以下配布資料の写真を見ながら話を進める。まず「感染予防」というタイトルの写真を見ると、平たい皿が6枚、蓋のついたものもある。1つだけだが、長い脚のついた高坏もある。修復してあるものもあるが、全体としてはきれいな状態のもの。
神野:発掘で出てくる土器類は、壊れたから捨てられているものが多いが、この出土品では、土器片をくっつけてみるとまるまる全体の形に戻るものがたくさんあって、かなりまだ使えるような状態で捨てられている、ということがはっきり分かる資料だ。
中村:なぜそんな使えるものが捨てられたんですか。
神野:この土器が出土した場所のすぐ北側が、天然痘で亡くなった藤原四兄弟の1人藤原麻呂の邸宅。麻呂は当時兵部卿という役職に就いていて、「兵部卿宅」と墨で書かれた土器も含まれている。また、木簡がたくさん出ていて、この木簡は藤原麻呂の家政にかかわるような内容なので、このゴミ捨て穴自体が藤原麻呂の家の食器などを片付けたゴミ捨て穴だということが分かってきた。
中村:まだ使える皿、食器をなぜ捨てたかという謎は……
神野:発掘調査自体は1980年代に大きなデパートを建てるためのもので、その時に見つかっている。ゴミ捨て穴が掘られているのは、二条大路という平城京の中でも朱雀大路に次ぐ格の高い道路で、きちんと管理されていなければならない場所なのだが、この路肩部分にとても細長く、長い距離にわたってゴミ捨て穴として掘られている。ここから出た土器がたいへん良い状態であることは認識されていたが、それをなぜ捨てたのか私たちはこれまで深く考えなかった。まだ使えそうなのになぜ捨てるのかということにたいする答えが、私たちもコロナを経験したことで、感染予防のためにここにまとめて捨てたのではないかという思いを強くしている。というのは、時期がちょうど麻呂が亡くなったすぐ後に捨てられているということ。また、古代の食器は素焼きなのできれいに洗えず、どうすれば一番清潔かと言うと、感染して亡くなった人が使っていた物はすべて捨てて土の中に埋めてしまうことが一番きれいな処理の仕方だろうということ。なおかつ、ここは二条大路なので本当だったらきれいに保たなければならない場所なので、特例措置で官主導でゴミ捨て穴にして、まとめて捨てなさいという指導があったのではないか。
中村:つまり、感染した人が使った食器を使うと、うつる、という概念があった?
神野:私はあったと思っている。ところが、文字などで古代史を研究されている方は、そういう知識はなくて、ケガレというものだろうと言われている。ケガレだとしても、うつる場合とやることは一緒。ただ、私は最近酒とか塩づくりのことも少し研究していて、経験的にウイルス的な知識があったのではないかと思っている。お清めと言えば、塩とか酒で、それは日本文化の中にしみこんでいる。発酵食品は古くからつくられていて、塩の殺菌効果を知っていたのだろう。また、お清めと言えば酒なので、アルコールの殺菌効果も知っていたのではないか。
中村:次に配布資料の絵馬。写真には複製と書かれている。神社でよく見る絵馬の形。茶色の馬で、頭を右向きにして描かれていて、鞍もついている。左の前脚と後脚が上に上がり、動きがあって、かわいい馬の絵だ。この絵馬は、木製ですか。
神野:木製品です。木の板に描かれていて、複製で色を復元している。出土した状態では顔料が落ちているが、分析するとどういう色が塗られていたかが分かるので、その色を復元してつくった複製品だ。この絵馬は、出土した時は最古のもので、本当に奈良時代のものか議論になった。年輪の幅で年代が分かる方法(年輪年代法)があって、それで奈良時代のものであることが確かめられた。
中村:何のための馬の絵なのだろうか。
神野:これが出た所は、食器の場合とほぼ同じで、藤原麻呂の邸宅の門が推定されている近くの、食器が捨てられていた同じゴミ捨て穴になる。門の近くが一つのポイントだと考えている研究者がいて、この絵馬はちょっと風化したように見えるので、おそらく門に続いて設けられている築地塀に掛けられていたのではと考えている。なぜかと言うと、「一遍上人絵図」という中世の絵図に、築地塀に絵馬を掲げている絵がある。馬は疫病神の乗り物と言われていて、疫病神が門から入って来ないように、馬を用意するから疫病神にはここから立ち去ってほしいというような意味合いで絵馬を吊るしたのではないかと言われている。現代の神社の前にある絵馬とは使い方がちょっと違うかもしれないが…。
 
中村:次に、「再発防止」というタイトルの所の写真を見ると、大小の皿で、縁の部分が高く、これもほとんど割れていない……
神野:割れていないものもわりと多い。縁の内側に煤が付いているのが写真で見て取れる。これは灯明皿。油に浸した灯心に火をつけて光りを得る灯明皿として使われた土器が1000近くも出ていて、しかも時期が天平10年くらい、少し天然痘が収束しかけと思われる時期のもの。これは、燃灯供養と言って、仏教行事の一つ。たくさんの灯明皿で火を灯して、片や、僧侶たちが読経をあげるというもの。これは、奈良時代後半には各遺跡でとてもたくさん(燃灯供養に使われたと思われる灯明皿が)見つかっていて、燃灯供養は盛んに行われていた。天平10年になぜこの場所で燃灯供養が行われたのかが、重要なポイントになる。
中村:それは、なぜだろう。
神野:燃灯供養の痕跡が見つかったすぐ南側は、長屋王という奈良時代前半の最有力者[不比等亡きあと、724年聖武天皇即位とともに左大臣になる]で、藤原4兄弟の策略にはまって[729年]家族とともに自刃してしまう。兵隊が取り囲んで、長屋王はまさにこの場所で亡くなっている。長屋王が亡くなった後に、光明皇后がこの場所を相続する。光明皇后は、藤原4兄弟の妹で、聖武天皇の妃。この長屋王邸は究極の事故物件。究極の事故物件を相続した光明皇后は、天平10年に燃灯供養をしていると思われる。なぜ光明皇后かと言うと、これだけの1000にも近い灯明を灯そうとすると、当時とても貴重だった油をかなり要するので、このような供養はしっかりしたパトロンがいないとできない。そういうことを考え合わせると、おそらく聖武天皇か光明皇后がパトロンになって行った燃灯供養だと思う。
  長屋王の変が冤罪かどうかということが言われているが、ちょうど天平10年ころの「続日本紀」に、長屋王に仕えていた人と長屋王を策略にはめた人がいて、その2人が碁かなにかをしていて、その時にぽろっと長屋王が冤罪であるというようなことを言ってしまって、長屋王に仕えていた人が怒って相手を斬り捨ててしまうというような記事がある。ということは、長屋王が冤罪だったということは当時みんな分かっていたのだと思う。そして、長屋王をはめた藤原4兄弟が半年の間に次々と亡くなっていく、これはたぶん長屋王のタタリだとみんなが思ってもおかしくはない。なおかつ、光明皇后は自分の兄たちが次々と亡くなるのだから、次は自分かもとかかなり恐れおののいたのではないかと思う。その長屋王の霊をしずめるためなのか、あるいは天然痘がちょっと収束した時期だから、第2波が終わってもう第3波は来ないでほしいとか、いろんな思いをこめて、この場所で燃灯供養を行った。
 
中村:次は「呪符木簡」。配布資料の表側に、2枚の木簡の写真が載っている。1枚は、裏と表の写真。呪符木簡、何ですか。
神野:まじないですね。お守りというか、魔除けというか。天然痘にかからないように、こういう呪、まじないを書いて、持っていたのか、ぶら下げていたのか、書くことに意味があったのか、そのあたりはよく分からないが、たまたまこれは木に書いてくれたので、ゴミ捨て穴の中で腐らずに残った。非常に小さい木簡なのだが。
中村:文字が書いてあるが、なんと書いていますか。
神野:書いてある内容は非常に面白くて、「南山のふもとに、流れざる川あり。その中に一匹の大蛇あり。九つの頭を持ち、尾は一つ。唐鬼以外は食べない。朝に三千、暮れに八百。急急如律令。」と書いてある。最後の「急急如律令」は、中国で流行るまじないの文句の結びの決め台詞みたいなもの(律令を速やかに正格にやりなさいというような意味)。この内容は、中国の医学書で、こういう病気に罹ったらこういうことを言いなさい・唱えなさいということが書かれている本にある文言とよく似ている。だから、中国で流行っていたまじないをここで写していたと思われるが、面白いのは、ここでは「唐鬼」と書かれている。これが病気の原因になるものだと当時の人たちは思っていたが、本当は(中国の医学書では)「瘧鬼(ぎゃくき)」が病気の原因になるもの。それがここでは「唐鬼」となっていて、間違って「唐鬼」になっているのか、あるいは、唐は外国だから、外国から来たということを意識してわざと「唐鬼」と書いたと考える研究者もいる。
中村:要するに、これは、蛇に病気の原因である鬼を食べてもらう、食べてほしいというような文言なんですね。
神野:たくさん食べてくださいということです。
中村:もう1枚はなんと書いてあるんですか。
神野:「此物能量者患道者吾成明公莫憑必退山陽道」と書かれていて、意味ははっきりとはよく分からないが、「患」の字とか、山陽道を速やかに去って(退って)ほしいとか、そういうことが書かれていて、木簡を研究されている方に尋くと、自分の上司にとりつくことなく山陽道を速やかに去ってほしいということが書かれているそうだ。
中村:西から来たので、西に早く帰ってくれということですね。
 
中村:次に、また配布資料の裏側に戻って、「水際対策」という所に、食事をする時に使うようなお椀や皿、壺や大き目のかめが並んでいる。これがなぜ水際対策なのですか。
神野:これは、伝統的な祭祀で、仏教が入ってくる前からおそらくあった祭祀だと言われているもので、道饗祭(みちあえのまつり)というおまつり。むかしの人たちは良いものも悪いものも道から入ってきたと考えていて、これは道の上でする祭祀。疫病神が入ってこないように大路の上で疫病神をおもてなししたうえでお引き取り願おうとする、すごく日本人っぽい祭祀。大宰府で疫病が流行ったという時に聖武天皇が長門国(現在の山口県西部)より西側でこの祭をやらせる。水際対策としてこの祭を道の上でどんどんやらせるが、ついに平城京の近くまで来てしまって、この場所でなんとかとどめたいという思いでこの祭を行ったと思われる。この出土品は、平城京の九条大路(一番南側の大路)の上の井戸から見つかっている。必死さが伝わってくるような土器群だ。
 
中村:最後に、「新しい生活用式」という所を見ると、小皿が3枚、ご飯茶碗のようなのが1個。これがなぜ新しい生活用式なのだろうか。
神野:奈良時代の前半と後半で、土器の形や大きさが変わる。このことについても私たちこれまであまり注目していなかった。奈良時代前半の長屋王がいた時期は、大きな皿が多い。貴族の家ではこういった大きな皿に食事を盛り上げるというような食べ方、たぶん大陸風の食べ方をしていると思う。これはかなり家庭内感染を招く。おそらく食べ残したものを使用人が食べるとか、そういうことをしていたと思う。中国でも、唐の時代の貴族はそういう食べ方をしていて、それがたぶん天然痘が広がるきっかけになったということを当時の人たちは分かっていたのではないかと私は思う。この写真に載せている土器群は、平城宮の中から出てくる土器で、官人たちの給食に使っている土器。奈良時代の後半の土器群は、何回か使って捨ててしまうことができるような、素焼きの小型のものが中心になってくる。こういう土器の変化について、私たちはこれまでうまく説明できていなかったが、新型コロナの影響が歯止めがきかなくなってきた時に、当時の菅官房長官だったと思うが、大皿での食事をやめてくださいと言われた。政府がこういう指導までするのだということに衝撃を受けた。おそらく日本人はもともと小さい食器で食べていたものが、大陸風の文化を取り入れる時に大きな食器で食べるようになって、そういったことも疫病の感染につながったのではと私は思っている。それで、また奈良時代の後半になると、小さな食器でそれぞれみんな一つずつ食器をお膳に置くような食事の取方に変わってきたのではと考えている。
中村:今までは分かっていなかったのですか。
神野:今までは、なぜなのかは分かっていなかった。小さいものになるとは思っていたが、それがなぜ、何がきっかけでということが、なかなかたどりつけていなかった。それが、新型コロナで、私は腑に落ちた。
中村:つまり、疫病がずいぶん奈良時代の人たちに影響を与えたということですね。
神野:そうですね。衛生意識や食事や、いろんなことに影響を与えていた可能性が高いと考えている。今回の展示では、これまで歴史にあまり興味のなかった人たちも面白がって見に来てくれたり、メディアで取り上げられたりした。これはなぜなのかと、私なりに分析しているが、自分たちだけじゃない、この時代だけではない、むかしの人たちは医療もなかったのにすごかった、勇敢だったなあとか、そういう思いを共感できるということが、一つの動機になっているのではと思っている。医療従事者の方々も頑張っておられるが、私たちもそういうことを伝えて、精神的なよりどころみたいなものを皆さまにお伝えできればと思っている。
中村:神野さん20年以上発掘に携わってきて、いろいろ発掘して出てくるものなど、分からなかったことが、この新型コロナウイルスの感染拡大によって腑に落ちたことがいろいろあった。
神野:疫病に教えられるというか。本当に憎たらしいが、ただでは起きないというか、これを逆手にとった研究が少しはできているのではと思っている。人間、生きていくことはこういうことなんだと思う。
 
(2021年6月15日)