ヘレンケラー第2章(1)

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第2章 夜明け (1)

 ヘレン・ケラーが学んだことがなかったのと同様に、アン・マンスフィールド・サリバンも教えた経験がありませんでした。しかし彼女は、この仕事に心をこめて献身しようと決めていました。サリバンのそれまでの人生はきびしく孤独なものでしたが、けっして自暴自棄になったりはしませんでした。
 サリバンの一番の問題は目でした。2歳の時にトラコーマ、すなわちまぶたの内側に堅い腫れ物ができるウイルス性の病気に感染したのです。この腫れ物が目玉を傷つけ、しばしば失明の原因になるのです。テュークスベリーの救貧院に入った時には、サリバンはもうほんの少ししか見えませんでした。そこで二回手術をしましたが、ぜんぜん効果はありませんでした。
 一つの夢を持ち続けることで、若いアニーは希望を失いませんでした。それは、いつか必ず学校に行くのだ、という強い信念でした。でもみんなはいつも、そんなことは不可能だと言いました。サリバンのような貧しい子どもを入れてくれる学校はないし、それに彼女の目ではどのみち読み書きを習い覚えるのは無理だ、と言うのです。にもかかわらず、サリバンは自分の夢をしっかりと持ち続けました。
 救貧院の状態を調査するためにマサチューセッツ州の慈善委員会の委員がテュークスベリーにやって来ました。その時アニーは他の収容者から独り離れて、委員たちの方へ走り寄り、「わたし、学校へ行きたい!」と叫びました。委員会の委員長は、 R. F. サンボーンという、ボストンの博愛家(お金や仕事がなくて困っている人たちを援助する人)でした。彼はこの大胆な少女にいくつか質問しましたが、一気に爆発した勇気がなえてしまい、それ以上彼女は話せませんでした。
 サンボーンはアニーの必死の訴えに心を動かされました。救貧院を去る時、彼はアニーのこれまでの記録を調べ、それから彼女がパーキンス学院に行けるように推薦してくれました。その知らせをきいて、アニーはこのすばらしい幸運が信じられないくらいでした。パーキンスはアメリカでもっともよく知られた盲学校であり、多額の費用も必要でした。そこの生徒は大部分、ニュー・イングランド [1] の教育程度の高い、富裕な家庭の子供たちでした。アニーの両親は貧しくて無学でしたし、アニーも自分の名前すら書くことができませんでした。

 [1] ニュー・イングランド (New England): 米国北東部の、メーン、ニュー・ハンプシャー、ロード・アイランド、バーモント、マサチューセッツ、コネチカットの6州の総称。ハーバード大学やエール大学など、教育・文化施設も多く、清教徒的な伝統が残っている。

 学校に行く機会を与えてほしいと懇願した際にみせた、あのアニーの勇気と決断力のおかげで、彼女はパーキンスでもなんとかやり抜くことができました。富裕な特権階層出身の生徒たちの中で、救貧院出のアニーは、いわば一匹狼的な存在になってしまい、たびたび仲間の生徒ばかりでなく先生をも平然と無視するのでした。校長のマイケル・アナグノスも、一度ならず、この「あつかましい」女を学校からさっさと追い出してしまおうとしたほどです。
 アニーの最初の友だちとなり、そのうち唯一の話し相手となったのは、その時すでに 50歳をすぎていた、耳も目も不自由なローラ・ブリッジマンでした。ブリッジマンは、指を使って単語を綴ったり読んだりすることで、意志を伝え合うことはできましたが、パーキンス学院を出て独立して生活できるほどにはなっていませんでした。彼女とアニーは幾晩も、お互いの手のひらに指文字を書いて対話しました。
 ブリッジマンは外部の世界についてはほとんど知りませんでした。でも彼女はアニーに、他のだれも知らない、彼女だけにしか分からないことを教えました。アニーはしだいに、ブリッジマンが長年住んできた、だれにも知られない沈黙の世界を理解するようになり、さらに、 40年前にその世界に光をもたらしたハウ先生の教育方法を学んだのです。
 16歳の時に受けた目の手術で、アニーの視力はだいぶ回復しました。そのため、アニーには実のところ盲学院はもはやふさわしい場所ではありませんでしたが、家族もお金も生計を立てる手段もなかったので、そこに残留することを許されていました。こうしてパーキンスで7年間過ごしましたが、その間に彼女は、不器用で無学な子供から、落ちついた、はっきりした考えをもった女性に変わっていました。 1886年に彼女は主席で卒業し、総代、すなわち卒業式でクラスを代表してお別れの辞を述べる学生に選ばれました。
 マイケル・アナグノスは、アラバマの盲聾の女性の教師兼付き添いとして、サリバンが理想的な人物だと確信していました。アナグノスがサリバンにこの仕事について話したとき、彼女は、一方では心躍らせながらも、他方では後込みしました。それはめったにない好機でありましたし、また彼女は、自分自身の盲目の経験、そしてローラ・ブリッジマンとの親密な関係が、このような仕事をするのにふさわしい準備となっていたことも知っていました。
 他方で彼女は、ボストンおよびそこで知り合った人たちと別れるのは不安でした。アラバマは遠く離れていますし、また、ケラー家の人たちがいったいどんな人たちなのか、まったく分りませんでした。さらには、南北戦争 [2] が終ったのはわずか 22年前で、破れた南部の人たちは今なお北部の人たちを疑惑の目でみていることも知っていました。

 [2] 南北戦争(Civil War(: 1861-1865年に戦われた内戦。南・北両軍合わせて 62万人近く(南軍26万、北軍36万)の戦死者をだすほどの悲惨な戦争であった。(この死者数は当時の南部・北部の総人口の約 2%に当たり、また第二時大戦のアメリカの戦死者数 31万人余をも大きく上回るものである。)南北戦争は世界初の大規模な近代戦争といえるもので、塹壕、鉄条網、地雷、機関銃といった、新しい戦闘方法や兵器が使用され、また、直接敵兵を倒すのではなく、国家そのものの戦闘能力を奪うべく、ミシシッピー川以東からジョージアの海岸に向って徹底した焦土策戦が行なわれた。疲弊しきった南部諸州は、奴隷制プランテーションに基づく経済的自立性を失い、結局は北部の産業資本に従属する形で、原材料や食料の供給地として長い再建の道を歩むことになる。

 問題の両面を熟考したうえで、サリバンはこの挑戦を受け入れることに決めました。6ヶ月間彼女は、視力の弱い目を駆使して、ハウがブリッジマンについて書いたファイルをなんども読み返しました。そしてついに、 1887年の春、サリバンは十分準備ができたと思いました。
 古くからのパーキンスの職員で、サリバンの親友になったソフィア・ホプキンズは、未来の先生のために質素な衣装をそろえました。アナグノスはサリバンに、ボストンからアラバマまでの長い汽車旅行に必要なお金を貸しました。パーキンスの盲児たちは、喜んで自分たちの小遣いを出し合い、ヘレンのために人形を買いました。そして、裁縫の名手であるローラ・ブリッジマンがその衣装を用意しました。この人形は、点字板や数冊の点字書とともに、サリバンのトランクに入れられました。
 パーキンスを離れる少し前に受けた目の手術の痕はまだ痛々しかったですが、アニー・サリバンは知合いの人すべてにお別れを言い、タスカンビア行きの汽車に乗込みました。
 三日後の出合いの場に居合わせた人たちはだれも、その日のことを忘れたりはしませんでした。その時から 70年近く後の、ケラーの 75歳の誕生日に、彼女は「1887年3月3日のアン・サリバンの到着は、私にとって、けっしてたんに私の誕生日を意味するだけではありません。それは私の魂の誕生日だったのです」と述べました。彼女はその日のことを次のように回想しています――「なにか特別なことが今にも起こりそー」な予感がして、午後ずうっと玄関先で「ただ黙然と待ち侘びる人」のように過ごしました。

【キャプション】
 ・指文字を使って、1890年、アニー・サリバンとヘレン・ケラーが会話している。2人はぴったりの組み合わせ、すなわちサリバンは才気あふれる先生、ヘレンは物覚えのとても早い生徒だった。
 ・マサチューセッツ州テュークスベリの州立救貧院のひどい外観からは、そこに収容されていた人たちが共有しただろう生活状態がどんなものだったかが暗示される。アニー・サリバンはここで5年間子供時代を過ごした。
 ・ 15歳のアニー・サリバンは、勝気で、強情で、反抗的だった。彼女がパーキンスに入って 1年間は、校長のマイケル・アナグノスは彼女を「気身近女(Miss Spitfire)」と呼んだ。
 ・ 7歳のヘレン・ケラーが、タスカンビアの彼女の家で飼い犬を抱いてあやしている。こんな穏やかな時間はこの少女には珍しいことで、彼女はよく、自分自身のどうしようもなさに、手のつけようがないほどの怒りを示した。
 ・ 3歳の時から見えなくなったフランス人ルイ・ブライユが、1826年、盲人のための浮出しのアルファベットを発明した。彼のシステム――ブライユとして知られるようになる――は、今なお使用されている。

 (以下、第2章(2)へ続く)

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