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「…あのね、夕」 どこかで気が舞っている。ここに来て、籠の鳥になってからの日々。走馬燈のように頭の中を今までのことが回っている。それに想いを預けていると、髪を梳いてくれていた人がためらいがちに声を掛けてきた。 絞り出すような、辛い声。夕は何かを予感して、ぶるっと身震いした。頬をすり寄せていた胸がしっとりと汗ばんでいる。冷たい汗だった。 「…木根様?」 夕はしとねに腕を付いて、身を起こした。木根もつられるように身を起こすと、羽織っているだけだった肌着を前で合わせた。いつの間にか部屋が白々と明るくなりかけている。もう夜明けが近いらしい。昼なお暗いこの部屋でもそれははっきりと感じ取れた。 ひたひたと迫り来るものが、夕の心に冷たいものを運んでくる。夜明けが嫌いになったのも木根とこうして会うようになってからだった。夕にとって闇こそが全て。夜が更けて、彼が訪れてくれるその儚い時間だけが生きていると感じさせてくれる時だった。 夜が明けきらないうちに、泊まりの客は部屋を出る。それが当たり前だったから。 夕は身を起こした木根の側にそっと寄り添った。そして花のような香りのする身体を逞しい身体に押し当てる。そうしておいて、見上げる。大好きな人を…何時までも瞼の奥に焼き付けておきたい表情を。 「ああ…っ! 夕っ…!」 それからしばらく。また沈黙が流れる。鼻をすすり上げる音がして、木根が泣いていることに気付いた。
「…私は…」 やわらかく、やわらかく、銀の髪の間に指を通し、梳きながら。男は次の言葉のために呼吸を整えていた。 「夜が明けたら、とても遠いところへ行かなくてはならない」 「…え…?」 「もう…夕に会いに来られない。もう…会えないんだ」 「うそ…」
いつかはそんな日が来るのだと思っていた。
この月日の間に、男と店の一人娘の間には婚約が整い、年明けには祝言を挙げる運びになっていた。そのことを夕は木根の口からではなく、客として夕を買った他の岡様の口から聞いた。 伊坂屋と言えば、この界隈でも一、二を争う老舗の反物屋だ。そこにはあろうことか跡取りになる息子がいなかった。店の主である人は正妻はもちろん、側女を何人も囲い、手を付けた使用人も多くいたと聞いている。それでも正妻との間にただひとりの子がいるだけで、それは女子だった。 白羽の矢が立った木根が、夕の上客であることを知る者は籠の外にいない。店の主人もそう言うことには口が堅いし、他の遊女たちも良くしつけられていた。遊女たちの間では情報が飛び交うこともあるが、それを他の客に流すのは御法度だった。そんなことがまかり通るようであれば、このような店は繁盛しない。 その客も、夕の美しい身体に手を這わせながら、ほんの戯れのようにそれを口にした。身体を開かれ、潤った泉に息がかかるのを感じながら、そっと目を閉じる。口を半開きにして喘ぎながら、頭の底では全く違うことを考えていた。 …そうなの、とうとう…。 客たちの話にしばし登場する伊坂屋の若い番頭は、働きも良くほうぼうで評判が良かった。彼が店に来てから、売り上げも上がった。柔らかな物腰で売り歩く反物はひときわよく売れたのだ。商人としての天性の勘があったのかも知れない。店のお嬢様とも年回りが合う。 愛しい人の名を違うかたちで耳にしながら、夕は揺れる身体に想いを馳せた。濡れて男を受け入れるその場所は熱く疼き、ただひとりの人を求めている。いつもいつもそうだった。誰に抱かれても、夕は木根の夢を見た。
自分が泣けば、木根が辛くなる。夕を想って辛くなる。優しい人だ、夕のことをないがしろに出来ない位に。ほんの戯れに情けを掛けた遊女に、こんなに情を寄せてくれる。寂しげなやわらかい笑顔で夕を見つめる。その緑色の瞳が好きだった。 木根様は、ひなたで生きていくお人だから…。 いつかはお別れする日が来るのだ。木根は夕を忘れて、生きていく。通り過ぎた浮き世の記憶になど囚われないで。そうなって欲しい、そうでなくてはならない。 「…お幸せに…なられるのですね」
美しいのだろうか、日に焼けた健康そうな肌をしているのだろうか。年の頃は夕と変わらないと聞いた。老舗の反物屋の一人娘だ。いつもどんなにか美しい衣を纏っているだろう。 …そんな女子を、木根は愛していくのだ。 菫色の薄衣を握りしめる手が白んでいる。爪が手のひらに食い込むほど、強く強く握りしめた。そうしてないと自分の悲しみの中に落ちてしまいそうだった。 …それに。 大丈夫、あたしは生きていける。それを知っている。この人がいなくなっても、会いに来てくれなくなっても。あたしは生きていけるのだ。 夕はそれを知っている。だから、自分は大丈夫だと思った。
「夕だけが、いれば良かったんだ」 「…木根様?」 本当に、本当に…どこかへ行くのかも知れない。そんな想いが心をよぎる。そのようなはずはない、これから老舗の若旦那になる人が。…でも、どうして? 夕は喉の奥に引っかかったままの言葉をどうしても口にすることが出来なかった。それを告げてしまうのが恐ろしかった。この1年、木根に訊ねたくて、でもどうしても出来ないままのことがたくさんあった。夕は木根に対して、知らないことが多すぎたのだ。 「…夕。腕を出してごらん?」 言われるがままに細い片腕を伸ばす。白さを通り越して、透けてしまいそうな肌。強く握れば折れてしまいそうな手首。そんな頼りないものしか、夕は持っていなかった。 燭台の炎はとっくの昔に消えていて。今ふたりの周りにあるのは、開かずの障子越しにほんのりと感じ取れるささやかな白さだけだ。ぼんやりとした空間に差し出させたものに、木根が何かを巻く。何だろうと、顔を寄せた。息がかかるくらい近寄らないと、視界に捉えることが出来ないのだ。 「あ…」 腕に巻く飾り珠だった。透明な玻璃のごくごく小さな珠がたくさん色糸で繋がれている。ところどころに色玉が混ざっており、それが緑と碧で…。 「…綺麗…」 「私は…今まで、夕に何もあげられなかった。最後にどうしても何か贈りたかったんだ…こんな小さなもので申し訳ないけど…」 「そんな…そんなこと。あたしは、いいのに…」 「玻璃は…丈夫だからね。お湯を使うときも、休むときも、どんなときも巻いていて大丈夫だよ? もしも、店主に何か言われたら、母上から貰ったとでも言いなさい。親から貰ったものを後生大事に持っていても、何も言われないだろうから…」 長い指が、静かに夕の腕を包み込んだ。 「これを…私だと想って欲しい。私は…ずっと、夕と一緒にいるから…」 「木根様っ…!」 軽く腕を引かれて、再び腕の中に抱き取られた。優しい抱擁が、しかし夕の心に、ひたひたとたとえようのない悲しみを運んでくる。とくとくと規則正しい心音、甘くて優しい匂い。そして、ほんの少しの男の香り…。 「あたし、大切にするわ。絶対に、外さない…これで、あたしはこれからずっと、木根様のお側にいられるのね…」 「夕…好きだよ、夕…」 安らかな子守歌のような声だった。この世のものとは思えない、暖かい春の霞のような…。 「私は…お前のことが、一番好きだ。大好きだよ…お前だけを…愛してる…」 「…あたしも…木根様が、一番好き…」 …どうして、あたしの背中には羽が生えないのだろう。鳥になってしまえばいいのに。あの丸窓の格子から飛び出て、高い空を行く。そして、ずっとずっと…そう、いつまでも木根様のお側にいたい。 離れたく、ない。
………
いつものように、柱の影から見送る。木根は名残惜しそうに、何度も何度も振り返った。夕はそんな愛おしい人の姿を、必死の笑顔で見送った。そっとかざした腕に、木根の心が輝いていた。
………
夕は振り返る。そして、静かな笑顔で答えた。 「左様で…ございますね」 木根が来なくなって、二月が過ぎた。夕はこのしばらく、気分が悪く伏せっていたが、今日はことのほか調子が良い。客は取っていなかったが、久々に湯を使ってさっぱりした。 「――おい」 「おめぇ、終わったんだろ、月のもの。湯屋の婆ぁに聞いたんだから間違いねえ。…今日は楽しませてくれるんだろうな?」 「…あっ…」 「やっ…、親父様っ…!」 「まあな。あの若旦那もしみったれた奴だよ。今頃は奥方に頭も上がらずにいるんだろうな。…年貢の納め時と言うやつかい? …哀れなもんよな…」 久々の快感が店主を燃え上がらせている。一段と激しいせめに、夕の身体が大きく反応する。 このごろではこの男は新しく囲った新入りの娘に熱を入れていると聞いた。夕に奉仕させる回数も減っている。それでもまだまだ夕はこの店一番の客取りであったし、その美しさは一段と際だっていた。身体の不調を訴えても、少し回復すれば客を取らされる。 「あっ…、あんっ…、親父様っ…、ああっ…!」 弓なりになった細い身体に店主は夢中で抱きつき、胸の頂にしゃぶり付く。鼻を鳴らす呻きが粘着質に夕の柔肌を撫で回る。想像もしたくない姿で組み敷かれ、たかみに押し上げられながら、夕は一瞬羽ばたく。その時、背中に光が宿り、身が軽くなった気がした。
夕は心の中で反芻する。もう少し、もう少し、頑張ろう。
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