久しぶりの日差しが目に痛かった。 朝に夕に、気の遠くなるほどの時間をひとつの作品と向かい合って過ごす。それはまた自分の真の姿と対面することでもあった。そして、とうとう気づいてしまったのだ。心の一番奥深い場所に隠していた紛れもない真実を。 人にはそれぞれ、己の進むべき道がある。決まり切った進路を決して踏み外さぬように歩いていく、それこそが「生きる」ということだ。だからあとには何も残らなくていい。自分の中にあるものは、全てこのたびの作品に捧げよう。そして何もかもがなくなって空っぽな自分になれば、何の未練もなく里に戻れる。 ―― 人を、ひとつの命を、ただ一心に想い続ける力。 それが今、己の中にあるのは決して嘆かわしいことではなかった。この先、一生抱き続けることも可能だ。ありきたりの言葉では表すことの出来ない心が、胸の中で大きな渦になる。ただ一夜に感じたぬくもりが、絶えず季紗の胸を締め付けた。それはあたたかなやさしい言葉だけでは言い尽くせぬ、心の芯が感じる疼きである。 年の暮れも新年を迎える上での様々な行事も、今年は全く関係のない出来事だった。もちろん里からは帰郷を促す文が幾度も届いたが、詫びを告げる返信も味気ないものになってしまうほど心がそちらに向かない。余計な声を聞いて心を揺らしたくなかった。自分自身を上手く操作できるほど、人間が出来ていないのだ。 作品制作もいよいよ佳境に入り、この先大きな山を越えなくてはならないことは必須だ。そのような追い詰められた状況にあって、さらにこの想いは深く重くなっていく。作品を通して、自分自身を見つめ続け問いただし続ける過程で、どんどん逃げ場がなくなっていくのが分かる。 いつの頃からかかたちもなく色もなくもやもやと胸の奥に浮かんできた想いが、自分の作品と真正面から向き合うことで次第に明らかになっていく。それはぞくぞくするほど恐ろしく、しかし同時に底知れぬ甘美な時間だった。 「……あら」 ちらりと覗いた濃紺の衣。華やかなクチナシの色を差しの薄物に用いて、控えめながら優美な地模様を際だたせている。どうしてこの者にばかり、遭遇するのだろう。たまに野歩きを楽しもうと思ったら、とたんにこうだ。 「麻未様」 以前から、この女子のことは好かなかった。それは多分、相手もまさしく同じ気持ちだろう。しかし、別にこの者と競い合うこともないのだ。初めから勝敗は分かっている、彼の元で一生連れ添うことが出来るのは自分ではない。 「どうしましたの、珍しいお顔を見てしまいましたわ。もしや、どなたかと待ち合わせなのですか。……まさかね、あなた様には決まった御方がいらっしゃるのですから、そのような軽はずみな真似をするはずもございませんもの」 とても作業中とは思えぬ、美しい指先。紅を引いた口元も淡く染まった頬も、その全てが幸せの象徴のように見える。 「そうそう、季紗様にもお聞きするわ。半刻ほど前から私の凱の姿が見えないの、まさかと思うけれどご存じないかしら? 今日中に取り決めて里へ返事を出さなくてはならないことがあるのに。本当に、何もかもを私に任せて、困った人だわ」 その言葉にも、ただ首をかしげて見せただけだった。深く思うことはない、このようなこともただの挨拶のようなものだ。誰の言葉にも傷つかない、誰の言葉にも乱されない。今必要なのは、いかに自分自身と向かい合い、作品と向かい合うか、のみである。 「本当にあなたって分からない人ねっ。でも、まあいいわ。そんな風に落ち着いていられるのも今のうちでしょうから。私の凱の完成作品を目の当たりにすれば、あなたの形ばかり取り繕った張りぼてな心は跡形もなく崩れ去るはずよ」 ―― それよりも、あなたの作品を見せて欲しいわ。 つい口を突いて出てきそうになった言葉を、季紗はかろうじて飲み込んだ。何故、この女子は訓練校に入校したのだろう。最愛の人の側を片時も離れず過ごしたかったから? でも、始終一緒にいなくても心が通じ合って入れば心配になることもないはずなのに。せっかく恵まれた環境にありながら、それを生かし切れずに過ごすとは信じられない。入りたくても抽選に漏れてしまった者も少なくないと聞くのに。 「さあ……それはどうでしょうか」 きっと彼の作品は想像も出来ぬほど素晴らしい仕上がりになると思う。地染めがあれほどに上手くいったのだ、その喜びをもって臨めば彼自身の得意とする染め絵は今までに類を見ないほどの出来映えとなるだろう。 「……ま、まあいいわ。私はあちらを探すから! あなたもこんなところでゆっくりしている暇はないのでしょう。だいぶ作業が遅れているって聞いているわ、そんな風でいて期日通りにきちんと仕上がるのかしら? もっとも、私などが心配して差し上げる必要もないでしょうけど……!」 つんと肩をいからせながら学舎の方へと去っていく背中、自分とは全く違う心の持ち主を季紗は静かに見守った。ただ穏やかに過ごしたいと思う、怒りからは何も生み出せるものはない。静かに自分と向かい合い、作品を仕上げていこう。きっとその先に見えてくるものがある。 ……そう、思いつつも。 「―― やっと、退散したか」 沈んだ気持ちのままぼんやりと立ちつくしていて、すぐ傍らにある人の気配にも気づけずにいた。腰の高さほどある植え込みが、がさりと動く。そこから現れた人影に、季紗は目を見張った。 「……どうして……」 その声には、いくらかの非難の色が見えていたと思う。ずっとこの場所に潜んでいたなら、今のやりとりも皆聞こえていたであろう。それなのに、このように悪びれもせずいるとは、たいした神経の持ち主だと呆れてしまう。 「とにかくうるさいんだ、あいつ。何だかんだと追い回されるから、すっかり嫌気が差してしまってね。一体、どういうつもりなのか、訳が分からないよ」 もしも、今の自分たちの姿を少し離れた場所からのぞく第三者がいたとしたら、何とも滑稽に映るだろう。同じ集落出身である金の髪を持つ者が、それぞれの思惑で立ち動いている。同郷の者同士なら心も通い合うというのは幻想でしかない、かえって似たような姿であるからこそ余計ないがみ合いの種を見つけてしまうのだ。 「そのような……あの方に失礼ではありませんか。あんなにあなたのことを想ってくれているのに」 姉のように諭す自分が、とても愚かしいと思った。人に誇れるような何も持ち合わせていないのに、偉そうな物言いなど出来るはずもないのに。しかし、彼はその言葉を静かな笑みをもってやり過ごした。 「作業、進んでる? かなりの出来映えになりそうだって話を聞いたけど」 急に話題がすり替わり、ホッとしたような置いてけぼりをくらったような複雑な想いが季紗の胸に広がる。一体自分は、この人にどんな風に受け答えをして欲しかったのだろう。このように落胆しているのは、願望と異なる結果が出たからに相違ない。 「ご親切な方が力を貸してくださったから、どうにかやっているわ。でも、当のご本人は大丈夫なのかしらと心配になったりもするけれど」 わざと突き放したような言い方をしてしまう自分が悲しかった。素直に礼を言えばいいのに、そうすることが当然なのに、どうしても出来ない。 「それは君の杞憂だと思うよ? それより、最高の道具を使いこなすだけの技量が君にあることを今は祈りたいね」 思わず声の方向を振り向いてしまった季紗の見たものは、燃えるような挑戦する瞳。それが真に伝えようとする想いを、もう少しで受け取れそうな気がする。だが、伸ばしかけた見えない心は、すぐに力なくしぼんでしまった。 「そうね、……わたくしもそうであることを心から願っているわ」 彼の瞳は、まだ食い入るように自分を見つめている。その輝きが示す意味を、どうかすると自分に都合のいいようにすり替えてしまいそうな気がした。いくら目の前にもうひとりの人間がいるとしても、その者が自分と同じ想いでいる確証などどこにもないのに。 「このたびの作品には、自分の全てを託すつもりだから。それを、是非見てもらいたい人がいるからね」 ふたりの視線は、未だ絡み合ったままであった。気に揺れる金色が、互いの間で揺れている。腕を伸ばせば容易に届くその距離は、まるでそこに見えない河が流れているかのように縮まりそうにもない。 「もちろん、それはわたくしも全く同じ気持ちだわ。きっと、他の候補生の方も皆一様に思っていらっしゃることでしょう」 本当にそうであることを信じたかった。たとえそれが力の加減の分からない若輩者が夢見る幻想であったとしても、あらん限りの想いをひとつの作品に込めることが叶えば何かが変わる、確かに大きく変化していくはずだ。 「それを聞いて、作品展示会の当日がとても楽しみになったな。そこまで自信に満ちた言葉を聞かせてもらえるとは思わなかった。―― 本当に、嬉しいよ」 彼の口元は微笑んでいた、だから季紗も負けじと笑顔を返す。それ以上のこともそれ以下のこともなかった。 ただひたすらに自分の作品に情熱を注ぎ込み、限界を超えてもなお立ち上がり己の道を究めんとする。遥か先を行く名手たちが歩んだ道からは遠く及ばないかも知れないが、今の自分を残す手段を見つけたからにはどうにかしてやり遂げる他ない。 新しい年を迎えた今、花の季節はそう遠くない。だが、季紗はこの夢の時間が少しでも長く続くことを祈らずにはいられなかった。
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