その日から見た目には和やかな、だけどその内容はどこまでも過酷な二重生活が始まった。 若様に事実をお伝えすることがどうしても出来ない、そうかといっていつまでも家人に対して仮病を使い続けることも難しい。兄嫁からわざとらしく届けられるお見舞いのお品に辟易して、二三日後には「もうすっかり回復いたしました」とやって来た使いの者に口を滑らせてしまった。辛抱が足りないとはまさにこのようなことを言うのだろう。 正直なところ身体はかなりしんどい、だけど何も出来ないまま悶々と無駄な時間を過ごすよりはずっとましだと思う。それに、この現状を作ってしまったのは他でもない自分なのだから。 そうしているうちにも、日に日に縁談の話が現実のものとしてかたち造られていく。最初に話が出てから十日も経っていないというのに、すでに嫁入りに必要な衣装もお道具も全て揃い、兄嫁の口から「あとは先方とご相談して良き日を選ぶだけ」などという言葉が出るようになっていた。 何故、ここまで急ぐ必要があるのだろうか。その疑問も未だにぬぐえないままだ。表向きは私の強い希望を汲み取って兄嫁が骨を折ってくれているようなかたちに見えるが、それにしても慌ただしい。昨年裳着を迎えた際にもいくつか縁談話があったのに、そのときには我関せずって感じだったじゃない。 ああ、せめて父上か長兄と膝をつき合わせてじっくり話がしたいな。そうしたら、私の本当に気持ちを分かってもらえるのに。 あちらこちらに、小さなほころびはあるような気がする。だけど突き詰めていくその方法が分からない。無駄な時間ばかりが流れ、泣きたくなった。
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考えることが多すぎて、どうしても稽古だけに集中することが出来ない。そんな心の乱れを若様は確実に見抜き容赦ない言葉で責め立ててくる。身を切るほどに凍えた寒空の元、ひとつまたひとつと芳しく花開く様を繊細に表現した「梅香の舞」。柔らかな動きの中にもぴんと張り詰めた緊張感を忘れないようにしなくてはならないのだ。 「また姿勢が崩れているじゃないか、肩の位置を常に一定に保て。今のお前は一本の樹になっているのだからな、無駄な動きは視点がぶれて目障りだ」 一通りの踊りは間違えなく覚えても、それだけでは完全なものにならない。正しく舞うのは当たり前、そんなことは年端のいかぬ幼子でも容易に習得できる技。しかし由緒ある御館にお仕えする侍女ともなれば、その上に幾重もの彩りを添えなければ見る者の心を魅了することは出来ないのだ。 「……あの」 最後にもう一度と言われた部分にどうにか合格をもらい、ホッと胸をなで下ろす。一通り受けている手習いの中でも舞はとくに難しい。鏡に映してみても小絹に見てもらっても、いまいち全容を確かめることが出来ないからだ。 「中ほどの、左に三歩行ってから前に出る箇所なのですが……どんなに気をつけていても足がもつれてしまうのです。どうしたら上手くいくのでしょうか?」 何とも初歩的な問いかけだと呆れたのだろうか。こちらに向き直った彼は、微かに眉をひそめる。しかし言葉にしてその心中を示すことはせず、凛と姿勢を正した。 「一度しかやらないぞ、しっかり見ていろ」 次の瞬間には、その表情が変わる。扇を手にした指先は軽やかに宙を舞い、今まさに先ほころんだばかりの花を指し示す。続いて二歩三歩と音もなく動く足裁きはその技の確かさを認めるまでもなく、見る者を完璧に魅了するものであった。 「おい」 ぼーっと幸せに酔いしれていたら、いきなり現実に引き戻された。華美な雰囲気は一瞬のうちに消え去り、元通りの不機嫌な顔がそこにある。 「いつまでやらせるつもりだ、もう戻る時間じゃないのか?」 ふたつ、みっつと瞬きをして、ようやく我に返る。本当にそのときまで、意識がどこかに吹っ飛んでしまっているみたいだった。 「はっ、はいっ! ありがとうございました」 あたふたとお暇を告げてから縁に出て、身支度を整える。それでもなかなか動悸が収まらない。いつものことだけど、人間業じゃないよなあと思う。あの御方は何をさせても一級品の仕上がりなのだ。お手本にしようと姿勢を正していても、あっという間に別世界に引き込まれてしまう。 ……結局は住む世界が違うってことなのだろうな。 夢のひとときを味わった後で、真冬の滝に打たれるが如く揺るぎない現実を突きつけられる。心の抑揚が激しくて、とても稽古をつけてもらっている気分にはなれないのだ。それでも少しは見られるものになっているらしく、時折思いがけないお褒めの言葉を頂くこともある。けど、それ以上に完璧にこなせる人から言われても何だかなあと思うのね。 その日が来たら、私はどうなっているのだろう。
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それがとても浅ましい行為で、高貴な身の上にある女人だけでなく一般庶民であったとしてもとても誉められたことではないことはとうに知っている。遊女まがいのことをしていると言い切ってしまっていい。もちろん誰かに後ろ指を指されるようなことはしていないが、それをはっきり証明できる術もないのだ。 今も庵へと足を進めながら、自分の中にいくつもの理由を並べ立てている。これは決して私自身が望んだことではないのだ。そう己の心に言い聞かせなければならない身の上が悲しくなる。 ―― 何故、暁高兄上は私にこのような役を与えたのかしら? 程なくやってくると思っていたお供の方もいつになっても現れない。部屋に置かれた荷物がその時々で移動したり増えたり減ったりしているのは分かってるから、どこかに使いを頼む者はいるのだろう。だが、三度三度の食事の膳をご用意するのは未だに私の役目だ。 ……それに。このように長い間留守にしていたら、お通いがないと悲しまれる女子様もいらっしゃるんじゃないかしら? だって、あれだけのご身分の方なのよ。しかも見目形まで整っているんだから。正妻の座はまだ空席であったとしても、適当にお楽しみになっていて当然だわ。初めてお目に掛かった折にも、あのように悪ふざけをなさった。普段から女子のあしらいには慣れていて、ひとりと言わずあちこちに懇ろになっているお相手がいそうな感じね。
ぼんやりと考え事などしていたからだろうか。気付いたときにはもう庵のすぐ表まで辿り着いていた。 ……? 何だか、変だなと思った。ふわりと気が流れて、いつになく甘やかな雰囲気が漂ってくる。開け放たれた障子戸、その向こうを背伸びしてうかがったときに思わず叫びそうになった。 「……まあ、そのように。相変わらずお口の達者なことで……」 薄暗い中の様子ははっきりとは確認できない。でも、戸の影に隠れた後ろ向きの人影は確かに女人のものだった。キラキラと木漏れ日が落ちたような美しい色目の重ねが人目を憚ることもなく縁の方までこぼれ落ちてる。しかも、それだけにはとどまらない。彼女よりも下座にもう幾人かの女子と見られる姿があった。 これって、……一体どういうこと? 和やかな語らいが続いているらしく、時折笹の葉が触れ合うよりもこそばゆい笑い声が聞こえてくる。そしてそこに重なるように私が良く知る人の声が。彼らは以前からの顔見知りなのだろう、話が盛り上がり収まるところを知らない。 ―― とうとう馴染みの御方がお出でになったのかしら。これだけお供を連れているのならば、もう私の出る幕なんてないわ。 縁の先に綺麗に並んだ草履はどれも美しい鼻緒で飾られていて、訪れた人の身分の高さを見せつけている。一方私の方と言えば、そのまんま野歩きの下女の装いではないか。こんな姿を見られたら、と思うと恥ずかしくて仕方ない。 ……なんかもう、どうでもいいのかな。 必要以上に落胆している自分に驚いてしまう。 午後にお客があるなんて、そんな話は先ほど昼の膳を届けたときにも聞かされていない。知っていたら、わざわざ来なかったわよ。今手にしている文が急ぎのものかどうかなんて分からないんだから。夕餉の膳と一緒に届けたって構わなかった内容なののかも知れないでしょう。そうよ、こんなことならわざわざ引き返してくるんじゃなかった。 「じゃあ、そろそろ失礼ことにしましょう。あなたもたまにはこちらにお出でなさい。本当にこのような場所に籠もっていたなんて、文を貰ったときはたいそう驚いたわ」 ちらちらと積もる落ち葉にそろそろ身が埋まるかなと思っていた頃に、縁の方が賑やかになる。先導の者が下に降りて草履を揃え、その後に扇で顔を隠した女人が後ろに幾人もの侍女を従えて現れた。 「見送りはいらないわ、わたくしたちは出先から戻る途中に空いた庵で一休みしただけなのだから」 一度後ろを振り向き、柔らかい声でそう告げる。身丈に余るほど豊かな髪がふわりと舞い上がり、その流れの見事なこと。まとった衣の美しさは言うまでもなく、明るい場所に出てさらにその素晴らしさが際だっている。正式な場に出るわけでもないのにあれだけの品を身につけているなんて、一体どういうご身分の方なのだろう。 「牛車をここまで呼んでいらっしゃい。出来るだけ目立たぬよう、手早くね」 声を掛けられたのは傍らにいた女の童だろうか、彼女は弾かれるようにその場を離れ細道の方へ出て行く。程なくして下男に先導されてそう大きくはない車が現れ、女人とその他にふたりほどが中に乗り込み残った者たちは徒歩(かち)であとに続いた。一行が辻を曲がり視界から消えていくまでの間、私はぼんやりと立ちつくしたままただただ見送るばかり。 ……すごい、お姫様の行列みたいだ。 もちろん、私自身はそのようなものと実際には出会ったことがない。だが、絵巻物の中には殿上人たちが様々な場所に美しく飾った牛車で出掛けていく様が細やかな筆遣いで描かれていた。
頭上高く竹の葉たちが囁き合っている。お前なんかここにいるべきじゃないんだって、みんなで笑ってるみたいだ。 分かってるわよ、そんなこと。私なんて、今更必死になって稽古したところでとても他人様の前で披露できるようにはならないってことでしょ。これ以上努力したって無駄なだけ。今までの自堕落な生活が招いた当然の結果として、兄嫁が進めるお話を有り難く承諾するべきなのだろう。……ううん、それこそが私に残された唯一の道なのではないかしら? ただ口惜しかっただけ。自分の一生を他の人に決められて腹を立てていただけなんだ。もう意地を張るのはやめた方がいいのかも。どうあがいたところで、結果が変わることはない。 「……」 わずかばかりの日差しではぬくもりを覚えることも出来ない気が、ひんやりと頬をくすぐっていく。もう戻ろう、そう思って今一度後ろを振り向くと、障子戸に映った影がゆうらりと動いた。 「どうした、そこで何をしている」 いつからお気づきになっていたのだろう。それは凛として、逃れきれない声だった。 「丁度いい、上がって部屋を片付けて貰おう。かしましい客人たちが取り散らかしたままで戻ってしまったからな」 ぼんやりと見上げた横顔に、気付かれぬよう眼差しを向ける。 あと幾度、私はこのお姿を拝見することが出来るのだろうか。そんな想いが胸を過ぎる刹那、そのときまであった怒りも口惜しさも全ての感情が消え失せている。
ものの数にも入らぬことくらい分かっているのに―― ちりちりと痛む胸の理由を、おそらくそのとき初めて悟った。
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