…4…
つう、と頬を気の流れがかすめていく。そこで咲は、ハッと我に返った。
人ひとりがやっと通れるほどの山道を歩いている。単調な動きの中で、心だけが他の場所に飛んでいたようだ。ひとり歩きでぼんやりするなどあってはならないことだが、人通りのほとんどない道であったことが幸いであったか。
どこまでも途方もなく続いているように思われた上り坂も、気付けばそろそろ終わりが見えている。この坂を越えれば、目的地の村をそろそろ視界に捉えることが出来るはずだ。
高い場所に立ったことで、遠くの山並みまでゆったりと見渡せる。ずいぶんと奥深いところまで来たものだと思う、それなのにまだここは西南の大臣様の直轄地なのだ。やはりあの御方は、咲のような庶民には想像も出来ないほどの大きな権力を持っているということなのだろう。
――だから、決して逆らうことなど出来ないのだ……
額に、ちりと冷たいものが走る。咲はその場所に手を当てると、自分の気持ちを抑えるが如く静かに瞼を閉じた。
ほんの半年前のことが、とても遠い記憶のように思える。そう、なにもかもが夢のようだ。すべては自分のとなりを通り過ぎて行ってしまう。そして、あとにはなにも残らない。
それでも確かに残る胸の痛み、さまざまな罪の上に咲は今、立っているのだ。
山道は登りよりも下りの方が足腰に堪える。長い道中でそのことは肝に銘じていたつもりであったが、今回は終点がすぐそこに見えていたこともあり知らずに無理をしてしまったらしい。ようやく平地に降り立ったときには膝がガクガクして、上手く歩けなくなっていた。
「……確かこの先すぐに集落があるという話だったけれど」
とても人里近くまで来ているとは考えにくい状況である。どこまでも続く一本道には左右から枝が張りだし、それを避けながら進むだけでなかなか難儀であった。髪は後ろでひとくくりにしてあるため絡まることもなかったが、それでも一歩足を出すごとに衣の袖が裾がどこかに引っ掛かる。
――もしや途中で道を間違えたのだろうか、いや分かれ道はどこにもなかったはずだ。
幾度となく自問自答を繰り返し、さらに深くなる森の道を進んでいった。後戻りなど許されることではない、そのようなことができる立場ではないのだから。
最果てとはいえかなりの規模になる集落があると聞いていたが、それにしては荒れ放題の土地である。森の中もほとんど人の手が加えられた様子もなく、伸び放題の枝には蔓草が隙間なく絡みつき、雑草も所狭しと生い茂っていた。
昼間とは思えぬほどに暗い森は、恐ろしいほどに静まりかえっている。たまに遠くで鳥の声など聞こえた時には、あまりの驚きに心臓が飛び出てきそうになった。菅笠の下で、咲は唇を噛みしめる。自分の進むその方向に、僅かばかりでも希望があればと願いつつ。
そうして、さらに半刻ほども歩いただろうか。暗い森は突然途切れ、パッと目の前が拓けた。迷路のように入り組んでいた袋小路のような街道が嘘のように、そこは広々としている。
周囲を深い森ですっぽりと覆われた山深い土地、見れば向こうの山裾にはいくつかの家屋があり、そこから白い煙が上がっている。そろそろ昼餉の支度をしているのかも知れない。
人里に続く道の両端には作付けの途中の田畑が広がっていた。土の色は黒々として、なかなか豊潤な土壌であるらしい。しかしそれにしては、春野菜の生育が良くない気がした。先ほどの森も、そしてここも、なんとなく人手が足りずに持てあまされているようである。
「ええと、とにかくは誰かに道を聞かなくては」
道案内の男を帰してしまったのだから、なにもかもをひとりで行うしかない。でもいいのだ、いちいちあんな者の手を借りるよりは自分ですべてやってしまった方が清々する。
そう思っていると、あちらの方から小さな人影が駆け寄ってきた。こざっぱりとした衣を身につけた童女である、年の頃は七つ八つといったところか。切りっぱなしの髪のままであったが、頬はふっくらとしてなかなか愛らしい。小脇には大きな籠を抱えている。これから先ほどの森に山菜採りにでも行こうというのだろうか。
「……どちらさまでしょうか?」
彼女は咲の姿に気付くと、大きな目を丸く見開いた。予想していたよりもしっかりとした口調である。
「もしや、道に迷われましたか? この先は行き止まりになってしまいますよ」
こちらを一心に案じてくれるその姿に、咲は淡く微笑んだ。自分にもこの子と同じ年頃の妹がいた、今はどこで何をしているかもわからないが、不意に懐かしい横顔を思い出す。
「いいえ、わたくしはこちらに用事があって来たの」
咲はいつも妹弟たちと接するときにそうしていたように、腰を落として童女と視線の高さを同じくした。
「え、それでは物売りの方? でもこの村の人たちは余計な銭など持ってないから、期待しない方がいいですよ」
彼女はそう言いながら、咲の背をそっと覗く。
「でも、お荷物はあまり大きくないみたい。高価なものなら、なおさら無理だと思います」
今までにも勝手の分からぬ物売りが何度も渋い想いをしてきたのだろうか、そのときの様子を想像するとなんだか可笑しくなった。でもここは笑うところではないと思う。
「ふふ、残念。わたくしは物売りではないわ、こちらの地主様に用事があって来たの」
「……え?」
「どちらが地主様のお屋敷か、教えてもらえる? 左手奥の屋根か、右手手前の屋根がそうではないかと思ったのだけど」
この土地を治める者の家屋ならば、ひときわ立派なものであると予想した。それで歩きながらだいたいの目星をつけていたのである。もしもそこに辿り着くまでに誰にも巡り会わなかったら、直接戸口で声を掛けてみようと考えていた。
「地主の館になんのご用? 良かったら、案内しましょうか」
「え、でも仕事の手を止めてしまったら悪いわ。一本道だし、ひとりで大丈夫よ」
「ううん、いいのいいの! こんなの、あとでちょちょいと済ませちゃうから!」
童女は先に立って歩きながら、ウキウキした様子で咲を振り返った。
「物売りじゃないお客様がいらっしゃるなんて、本当に久し振り! それにこんなにお綺麗な女人様なんて。きっと、村の皆もとても驚くと思います」
「そ、そう……」
そこで咲は、少し不思議に思った。まさか、大臣家からの話が先方にきちんと伝わってないのではないか。そうだとしたら、かなりややこしいことになる。自分でいちから説明しなければならないが、すぐに納得してもらえるだろうか。
「あたしは美津(みつ)、あなたのお名前は?」
「わたくしは咲という名よ」
火が消えたように静寂に包まれていると思えた集落も、そこに近づくにつれ次第に人の活気が感じられるようになった。
美津の話ではこの土地は山深く標高が高いために他の土地よりも苗付けの時期が少し遅れるらしい。そろそろ忙しく活気に溢れる季節になると言う。それを聞いて、にわかに晴れやかな心地になった。
――あれこれと忙しいのはとても良いことだわ、だってそのことにかかり切りになっていれば気が紛れるもの。
「咲さまは都の方?」
「いいえ、そうではないわ」
「でも、とても綺麗なお召し物だもの。あたし、こんな美しい織りは生まれて初めて見ました」
その言葉に、咲はひっそりと唇を噛んだ。
自分が今、身に付けているものはすべて、あの女人様が揃えて下さったものだ。もちろん、咲のために仕立てられたわけではなく、あの御館で不要になったものを与えられたまで。でも、自分にとって分不相応に立派なものであることに違いはない。
やがて集落までたどり着くと、美津は入り組んだ路地をすいすいと器用にすり抜けていった。後を追う咲の方を一応は気遣ってくれるが、あまりの身軽さにうっかりするとその姿を見失いそうになる。
「……ただいま!」
彼女はがっしりした作りの木製の門をくぐり抜けると、庭先で作業をしていた初老の男に声を掛けた。
「おや、これはお嬢様。お早いお帰りで」
男は顔を上げると、驚いた様子でこちらを見た。
「お嬢様、そちらの女人様はどなたです?」
「あたしがお連れしたお客様よ。兄上様にご用があるのですって、今はどちらにいらっしゃる?」
男の不躾な視線に戸惑いながらも、咲はふたりのやりとりを黙って見守っていた。
そうだったのか、美津は地主の家の娘だったのだ。自分の家に客人が来たのだと、わざわざ案内を買って出てくれたのに違いない。
「……確か、裏の畑に出ていらっしゃると思いますが」
「そう、相変わらずご熱心なことね」
そんなやりとりが続くうちに、庭先で遊んでいたと思われる子供たちがどんどん集まってきた。
「美津、この女人様は誰?」
「とてもお綺麗な方だね、いったいこの館になんのご用?」
瞬く間に大変な騒ぎになってしまう、その目はどれも親愛に満ちたものではあったが、咲はこの反応にもひどく驚かされていた。
――本当に、まったく話が伝わってないらしい。いったい、これはどうしたことなのだろうか。
後戻りなど出来ない立場にあることは知りながら、咲はこの先のことを考えてひどく気が重くなった。
すると、そこに今ひとりの人影が不意に現れる。
「どうした、ひどく騒々しいな」
「あ、兄上様!」
美津のはしゃいだ声に、咲もその声のした方向を振り向いていた。
すらりと上背のある若者が間近に立っていた。年の頃は、咲よりもいくつか上に見えるが、目鼻立ちはすっきりと整っており、立ち姿も堂々としている。髪は館仕えの男たちのように後ろできりりと一括りにしてあった。田舎暮らしにはおよそ似つかわしくなく、それどころか思わず見惚れてしまうほどの凛々しさである。
刹那、咲の胸に淡い期待が躍った。
「お客様をお連れしました、兄上様にご用があるのですって!」
「……客人?」
しかし、自分に向けられたその眼差しはひどく冷たく感じられる。だが、臆しているわけにはいかない。咲はその場にさっと跪くと、あらかじめ用意していた言葉を口にした。
「咲と申します。西南の大臣様の命により、こちらに参りました」
返事はない。まさか聞こえていないわけではあるまいと恐る恐る顔を上げると、先ほどよりさらに冷ややかな視線とぶつかった。
「その……、先立って大臣家よりの文が届けられたと聞いておりますが」
自分を取り巻くすべてが、急に余所余所しいものに変わっていることはすでに感じ取っていた。しかし、その中でもこの男の醸し出すものはひときわである。彼は視線を咲からふっと逸らすと、吐き捨てるように言った。
「大臣家の犬になど用はない、即刻お引き取りいただこうか」
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