TopNovel>薄ごろも・14


…14…

 

 翌朝。
  いつものように夜明け前に奥の対に戻ると、寝所はもぬけの殻であった。
  しとねのそばを確かめると、女が身につけていたと思われる寝着が綺麗にたたまれている。さらに、表の上がり口に履き物がなかった。
  ――まさか、ここでの暮らしに嫌気が差して早々に逃げ出したのか。
  安堵とも失望とも思える感情が一瞬湧いたが、その考えはあまりにも現実的ではない。
  仮にも大臣家より遣わされた女子だ、出戻るにしてもそれなりの手順を踏むべきである。だいたい、あの者が闇に紛れて逃げ出すような弱腰ではないはずだ。
  ならば、いったいどこに――
  そこで彼は、ふとひとつの考えにたどり着く。
  もしやとは思うが、確かめてみる価値はある。そこで彼は衣を手早く外歩き仕様に改めると、朝靄の立ちこめる中庭に出て行った。
  夜の明けきらない里の風景は墨色に流れ、どこかもの悲しさを覚える。朝露に濡れる草で袴の裾を濡らしながら先を急ぐ。街道に沿って植えられた木立も息を潜めるように立ちつくし、盛りを迎えた白花もまだ眠りの中にいるようであった。
  彼は見慣れた風景をぐるりと見渡す。
  やはり、ここか。
  耕されてすぐの土の色が黒々と見える畑の隅に、小さな背中を見つけた。髪は邪魔にならないように後ろでひとつにくくっている。供の者は連れておらず、ひとりでやってきた様子だ。
  よくよく見ると彼女は土の中に膝をつき、一心不乱に手を動かしている。いったい、なにをしているのだろうか。不思議に思って歩みを進めた彼は、ある地点まで来て足が止まってしまった。足の裏が地面にへばりつき、ぞっと血の気が引いていく。
  ――まさか、これは。
  昨日、村人たちの手も借りて植えられたばかりの苗が、見るも無惨に踏み荒らされている。きちんと立っているものはひとつとして見当たらず、とんでもない有様であった。作業に加わっていない彼が見てもこれだけの衝撃を覚えるのだ、当事者が目の当たりにしたら相当のものがあっただろう。
  すぐに男の胸内に、ひとつの疑念が浮かぶ。
  だが、すぐに自分の中に湧いたものを飲み込んでいた。まさか、あの者がここまでひどいことをするとは思えない。万に一つも疑っては駄目だ。
  春を迎えたとはいえ、夜明け前はだいぶ冷え込んでいる。その中にいて、女は驚くほど軽装であった。たぶん、人目に付かぬよう畑の様子を確認するつもりでやってきたのであろう。白い手が土に潜り、苗を一本ずつ丁寧に植え直している。
  すでに長い畝を二本ほど終えているが、まだまだ先は長そうだ。とてもひとりでやりきれる量ではない、植え付けの作業ですら大勢で手分けしても数刻掛かったのである。だがそんなことなど承知しているであろう彼女が、作業の手を止める様子はない。
  彼はその場に立ちつくしたまま、しばらく靄に隠れそうな背中を見守っていた。だが、自らの袖が次第に濡れて重くなっていくのに気づき、そこで思い切る。
「――おいっ!」
  大股でしばらく進んでいったが、草を踏みしめる音にも彼女は反応しない。とうとう思いあまって声を掛けていた。
「……あ……」
  女はこちらを振り向き、泥で汚れた手足のままで立ち上がる。その瞳には驚きの色が強く宿っていた。
「そんなところでなにをしている、供も連れずに不用心ではないか」
  きつい言葉で言い放つと、彼女は当惑したように下を向いてしまう。
「申し訳ございません。……その」
  それ以上の言葉がなかなか口に出来ない様子。
  湿り気を帯びて色を濃くした髪が、さらさらと気の流れに従った。
  しばらくは躊躇いの気持ちの方が勝っていたのだろう、だがそのうちに女はゆっくりと顔を上げた。そして心細そうな眼差しで荒れ果てた畑を見渡す。
「昨夜のうちに、獣でも入り込んでしまったらしく、このとおりの惨状となってしまいました。ほどなく村人も目覚める頃でしょう、皆が落胆する様子を見たくはないので……今の内に少しでも直しておきたいと思いまして」
  細い声であったが、その響きは凛として微塵の迷いもなかった。
「そうは言っても、ここまで荒れ果ててしまってはとてもお前ひとりの力ではやりきれないだろう。どうして、誰か助けを呼ばない」
  女はまた少し黙っていた。伏せ目がちになると、長いまつげが際だつ。
「いえ、……元はと言えば、わたくしが言い出したことですから。自分で始末をつけるのは当然です。それに他の者には皆それぞれ仕事があります、これ以上手を煩わせることはできません」
「しかし、そうしたところで、もう手遅れかも知れないぞ」
  彼の言葉に、意外にも女は淡く微笑んで答えた。
「いいえ、大丈夫です。とても強い草ですから、この程度のことで駄目になったりはしません。きちんと植え直してやれば、すぐにしっかりと根付くでしょう」
  迷いのない、しっかりした言葉であった。何故そこまで断言することができるのか、不思議なほどに。
「では、わたくしは急ぎ続きをやってしまいます。……先にお戻りになっていてください」
  言葉と言葉の間に、不自然な沈黙があった。彼女は深々と頭を下げると、そのまま男に背を向けてしまった。
「おい、どうしても自分ひとりでやるというのか」
  頑なな態度を崩さない女に多少の苛立ちを覚えながらも、彼は畑の中にどんどん踏み入っていった。そして、衣が汚れるのも構わず、女と同じ畝の反対側の端を陣取って腰を落とす。その様子を、少し離れた場所から、彼女はとても驚いた様子で見つめていた。
「お前が戻らぬなら、私も戻らぬぞ。強情な女子はこれだから困る、このような気性も都で培ったものか」
  吐き捨てるようにそう言ったあと、彼は手慣れた様子で苗を植え直し始める。これくらいの仕事であれば、朝飯前だ。まだ身軽な立場にあった頃は村人に混じって田畑の仕事に励み、なかなか筋がいいと言われていた。そんな自分が都で贅沢三昧に過ごしていた女子などに負けてなるものか。
  それからしばらくは一心不乱に作業を続けていた。程なくして畝の中央付近でふたりが出会う。するとひとつ下がって、また離れていく。女の手元がはっきり確認できる距離までくれば、どうしてもそちらに目がいってしまう。その手さばきはなかなか慣れたもので、館暮らしの者とは思えぬほどだった。
  どんなにこちらが頑張っても、同じだけの速度で追いついてくる。そうなると、ますます負けられないという気分になる。
  ――どういうことなのか、田舎暮らしに馴染むようにと前もって習っていたのか。
  だが、このようなことは短い期間で身につくものではない。それくらいのことは彼も承知している。女の手つきは長い時間を掛けてしっかりと培ったものと思われた。
  これではうかうかしていられない。あんな者に引けを取るわけにはいかないだろう、自分はこの領地を受け継ぎ立派に治めていくべき存在なのだ。そう思うと、男はさらに自分の作業に集中していった。
  どれくらいの時間が経過しただろう、遠くから声が聞こえてくる。
「咲さま、……兄上も! こちらにお出ででしたか、探したのですよ……!」
  声の主は妹の美津であった。彼女は慌てた様子で畑に入ってくる。なにが起こったのかもわからぬ様子で、目をぱちくりさせていた。
「まあ、どうなさいました! これは、いったい――」
  その頃には、植え直しもあと一畝を残すのみとなっていた。いつの間にか夜は明けて、朱色の輝きが天を染め上げている。黒々とした畑にも蜜柑色の日溜まりができていた。
「別に騒ぎ立てるほどのことでもない、気にするな」
  男はそこで立ち上がる。目の前にはピンと背筋を伸ばしてしっかりと立つ苗たちが元気よく並んでいた。
「……そうだな。悪いが、これから村の力自慢たちを集めて、この畑の周りを柵で囲ってもらおう。その手はずを整えてくれるか?」
「はいっ、それでしたらすぐに行って参ります!」
  美津が行ってしまったあと、男は再び腰を下ろし残った作業を再開した。
  なるほど、女の言ったとおりに精の強い草である。あれだけ踏みつけられたら、ほとんど駄目になってしまいそうなものの、少しもへこたれる様子もない。さすが薬草と言いたいが、素直に認めるのも癪であった。
  そうしているうちに、畝の中程でふたりの肩が触れ合う。男は最後の一本を植えてしまうと、すっと立ち上がった。
「帰るぞ」
  そう言って自分の方に伸ばされた腕を、女は不思議そうに見つめている。
「いつまでもこのようなみっともない形をしていては、皆から笑いものになる。私に恥をかかせる気か、身の回りの支度くらい常にきちんとしろ」
  そこまで告げてもぼんやりするばかりの彼女の腕を、男は強引に掴んだ。細く白い手首にべったりと泥が付く。しかしそれにも構わず、そのまま力任せに立ち上がらせた。
「あ、その……すみません」
  女は恐縮した様子で、腕を振りほどこうとする。しかし、彼はそれに逆らい、さらに力を込めた。
  ――この者は、いったい何者なのか。
  朝日に照らされたふたりの影が長く伸びている。まるで寄り添うように仲むつまじく見えるのが、なんとも滑稽であった。女の方も勝手がわからぬらしく、心許ない足取りでついてくる。
「――そういえば、まだ名乗っていなかったな」
  館の表門までたどり着いたところで、女の腕を掴んでいた手を解いた。
「私は甲斐(カイ)という名だ。今後、必要なときにはそう呼ぶといい」
  振り向きもせずにそう言うと、彼はそのまま屋敷の奥へとどんどん進んでいった。

 

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