…18…
静寂の戻った部屋に子供たちの歓声が響き渡った。皆、自らの衣が濡れるのも構わず、兄にまとわりついて離れない。普段どおりの和やかなやりとりを感じつつ、咲は衝立の奥に夫の着替えを準備した。
しばらく経つと、そこに水音を立てながら彼がやってくる。
「なにか変わったことはないか」
「いえ、別に……」
家人の手前、着替えの手伝いをすることになるのだが、そのときはいつも戸惑ってしまう。
夫婦として許された仲ならば当然のことなのだろうが、夫はなんの躊躇いもなく衣を次々に脱いでいくのだ。まさか悲鳴を上げて逃げるわけにもいかず、かといってじっと見つめるわけにもいかず、どうにも目のやり場に困る。
自分は使用人と同等だと思われているのか、さもなくば男慣れした女だと思われているのか、そのどちらだとしてもあまり気持ちの良いことではない。
「……この衣はどうしたのだ、見たことのない品だな」
身体を手ぬぐいで拭いたあと、甲斐は着替えとして出された重ねを持ち上げた。柔らかい上品な藍色で、白い鳥が小さく裾に描かれている。
咲は夫の反応に少し驚いていた。今まで身につけるものに頓着することなど一度もなかったと思う。ある一定の身分にある者が皆そうであるように、彼もまた誰かが揃えたものをなんの躊躇いもなく身につけていた。
「夏用の衣がどれも傷んでおりましたので、新しく準備させていただきました」
「なに?」
感情を込めないように口にした言葉に、男はすぐさま噛みつく。
「こちらに断りもなく、余計な真似などする必要はない。贅沢ができるような身の上でないことは、お前だってわかっているだろう」
衝立の向こうには弟妹がいる。だから、あまり大声で怒鳴りつけることができないらしい。抑え込んだ苛立ちが、眉間に深く皺を刻んでいた。
「こんなことをして私に取り入ろうとしたって、そうはいかないからな。こっちはお前の本性など、とっくにわかっているんだ」
乱暴な手つきで身支度を終えると、彼はさっさと出て行った。咲は脱ぎ散らかされた衣を片付けながら、小さく溜息をつく。濡れた衣からはかすかに男の香りがした。
馬を下りたあと、若干の迷いがあったことは事実である。
だが、ほとんどの気持ちは本来の住処である奥の対へ向いていた。残り一分ほどの躊躇いは、侍従頭に対する体裁だった気がする。彼の言葉に従っていればまず間違いない、それは両親の亡き後に地主となった兄の頃から変わらない見解だ。
亡き兄は誰に対しても従順なお人柄であった。人当たりは常に柔らかく、決して気を荒げたり他人を不快にさせる物言いなどは口にしない。どこまでも穏やかで人望も厚かった。こんな番狂わせが起こらなければ、今も平穏な毎日が続いていたはず。それを考えるたび、悔やんでも悔やみきれない。
半刻ほども庇から荒れる庭を眺めていただろうか。そのうちに身体は芯から凍え、どうにも我慢ならなくなった。
そこで甲斐は一度瞼を閉じて思案する。再び目を開けたとき、彼の意は決まった。
弟妹が戯れる板間は、いつにない賑やかさである。妻とふたりでいるときには、その場所は広く寒々しく感じられた。会話がほとんどなく、互いに沈黙したままなのだからそれも当然である。夫婦が揃っているときには、妹の美津も気を利かせて席を外してしまう。
自分たちが周囲の者たちからは当たり前の夫婦と思われていることは知っていた。そうするようにたしなめたのは、あの侍従頭である。内心はどうであれ、表面上は良好な関係であることを取り繕えば、余計な詮索も受けずに済む。
弟たちはいつもながらに棒を振り回して剣術の稽古を気取っていたが、その傍らで妹たちは手仕事に興じていた。見慣れない道具に、またあの女の差し金かと少し気分が悪くなる。だがその感情をあからさまに表情に出すほど、彼は愚かではなかった。
「兄上、見てください。とても綺麗に仕上がっているでしょう」
中の妹の麻津が無邪気な声で話しかけてくる。伸ばしかけの髪が肩先で揺れ、そこには花の形に結んだ紐が飾られていた。
「これ、あたしが初めて自分で作った紐なんです。まだ片方しかないけれど……こんなに素敵に出来て自分でもびっくりです」
最初のうちこそは、屋敷の使用人も十分用心して、この対に弟妹たちを寄越すようなことはしなかった。だが、一月二月と過ぎるうちに、次第に勝手が変わってくる。今では皆があの女を実の姉のように慕い、やたらと懐いてしまっているのだ。
ことの発端は、あの薬草畑であっただろう。もしも、あの仕事が残念な結果に終わっていれば、あの者に対する評価も芳しくないままでいたはすだ。
香辛草という名の薬草は、今では大人の腰丈ほどまで生長し、見事な葉を四方に広げている。その隣では、あとからまた違う種類の薬草を植え付けていた。そちらの生育もめざましいものがある。
余所者は余所者らしく、控えめにしていればいいのだ。それなのに、自慢げに知識をひけらかし、村人の懐に忍び込もうとする。それが大臣家の策略なのだろう、忌々しいにもほどがある。
畑の方が一段落したと思っていたら、今度は妹たちを手仕事にかり出しているのに腹が立つ。幼子は幼子らしく、野山を駆け回ったりひいな遊びをしていれば良いではないか。どうして、自分の手下のようにこき使おうとするのだろう。
素朴な者たちの良心を利用し、内側から食い尽くすつもりなのか。細く弱々しい外見からは想像も付かないが、彼女はただ者ではない。次第に自分の周りから危機感を覚える者が少なくなっているのも、彼が焦りを募らせる原因であった。
――取り込まれてはならない、なにがあっても取り込まれることなどあってはならない。
せめて己の気持ちだけは強く奮い立たせなくてはと、彼は日に何度も自分自身に言い聞かせていた。
「まあ、兄上」
ふと顔を上げた上の妹の美津が、ぱっと表情を輝かせる。
「その衣、仕立て上がったのですね。見せていただけますか? ……とても見事ですね」
美津は興味深そうに、衣を手で撫でたり、袖をひっくり返して裏を確かめたりしている。
「うわあ……こうなると、元の姿が思いつきませんね」
「……元の姿?」
いったいなんのことだと思い聞き返すと、美津は意外そうな顔になる。
「あら、咲さまからなにも聞いてないのですか?」
とうに承知しているものだとばかり思っていたように言われると、なんとなくばつが悪い。しかし、知らないものは仕方ない。甲斐は首を軽く横に振った。
「こちらは、兄上がお召しになった寝着ですよ。一度きりしか使わないものだからこのままではもったいないと、一度解いて染め直したのです。そのときに使った染料も、咲さまがご自分で調合なされたのですよ」
嬉々として説明する妹の声が、とても遠いものに感じられた。
家人の身につけるものを仕立てるのは、家の奥を預かる者としては至極当然のことである。なにも特別なことと捉える必要もない。実際、自分の母親も地主の妻という立場にあっても、せっせと家族の衣を仕立ててくれていた。
だが、あの女に限ってはそのような心映えなど持ち合わせていないと心のどこかで侮っていた気がする。こちらとしては初めから妻らしい働きなど期待はしていない。追い返すことが叶わないのなら、せめて大人しく目立たないようにしていてくれればいいと考えていた。
彼は改めて自分の身につけている衣を見る。もちろん、そのことを他の弟妹たちに悟られぬよう、ごくさりげなくではあるが。
確かに美津の言うとおり、とても素人仕事には思えないできばえである。布染めは専門の職人に頼むものだとばかり思っていた。いったい、あの女は何者なのか。どうして常人を越える知識を持ち合わせているのか。しかもそれをひけらかすこともなく、目立たぬように小出しにするとは。
――否、駄目だ。このようなことを考えては相手の思うつぼではないか。
妻を迎えるために急ぎ改装させたこの対は、最初のうちはよそよそしく寒々しい場所であった。しかし今では、包み込むような温かさを感じる。だからこそ、弟妹たちも足繁く訪れるのであろう。甲斐自身もここに戻り衣の紐を解くと、ホッとくつろいだ心地になる。
しかし、そのすべては妻の作り出した幻想に過ぎないのだ。それに惑わされては、大切ななにもかもを失うことになる。
忘れてはならない、兄の死の真相を。大臣家が病がちの兄に重責を強いたのだ、その心労がたたり死期を早めたのではないか。両親であっても、今少し大臣家に慈悲の心があれば追い詰められることはなかった。すべての不幸は大臣家の横暴さによるもの、それをいつでも肝に銘じていなければならない。
痩せた土地からかろうじて収穫された作物をほとんど根こそぎ持って行かれてしまう、あとに残るのは汁の方が多い粥か野草くらいだ。
自分は村人たちを守らなければならない、そのためにはこれ以上あの女に大きな顔をされては駄目だ。あの者はいつか村人の良心までも食い尽くす、大臣家の息の掛かった者を信用などしてはならない。
「……兄上、どうなさいましたか? お顔の色がすぐれませんよ?」
ひどく思い詰めてしまったからであろうか、美津の心配そうな問いかけに彼はまた首を横に振る。
「いや、……嵐の中を駆って疲れただけであろう。一晩休めば、すぐに良くなる」
衝立の向こうでは、衣の手入れをしている妻に末の妹があれこれと話しかけているようだ。幼子が妻を実の母のように慕う姿があまりに哀れである。
嵐はありとあらゆる恵みを根こそぎ持ち去ってしまう。それならば、この村にはびこる不幸の根源も連れ去ってはくれまいか。
季節はそろそろ、夏を迎えようとしていた。
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