TopNovel>薄ごろも・28


…28…

 

 その晩、妻は文机に座っていた。
  別に珍しいことではない。大臣家から季節の便りが届けばその返信をするし、そのほか気づいたことを書き留めたり、染料の調合の割合を試みた結果をまとめたりと、しょっちゅう筆を執っている。
  その内容までを細かに覗いてみようとは思わないが、チラと目をやった限りではなかなかの達筆であった。割合の計算なども難なくこなしているから、もともとある程度の才は身につけているのだろう。
  彼女の手元では卓上の灯りが控えめに揺れている。
  落ち着いた薄藍の重ねの上を朱色の髪がさらさらと流れていた。姿勢はほとんど変わらない。ピンと背筋を伸ばし、さらさらと筆を進めている。背後から眺めていてもかなり集中しているのが感じられ、どこで声を掛けたらいいのか判断に迷った。
  正月を半月後に控え、山間部の夜半はかなり冷え込むようになっている。暇を持て余して手にした書物をめくる指先も、じんと冷たくなっていた。この時節には、真夜中に気が凍り付きさらさらと木戸を叩く音がする。
  しかし妻はそのようなことにはまったく頓着していない様子だ。平地で生まれ育ったならば、この土地の冬はずいぶんと身体に応えるはずなのに、そのことを一度も口にしたことがない。未だに天候の良い日は裏山で染め物をしているが、染め上げた布を冷水ですすぐときも表情ひとつ替えないという。
  そのことを最初に妹の美津から聞かされたときには、やはり強情な女子だと半ば呆れてしまったものだ。
  結局そんな風にして、どれくらいの時間を細い背中を眺めて過ごしたことだろう。傍らの燭台の上で蝋燭がほとんど燃え尽きそうになっているのを見て、甲斐はようやく口を開いた。
「先に休むぞ」
  その声を受けて、妻は筆を止める。部屋を満たしていた張り詰めた気が、ふっと緩んだ気がした。彼女は少し身体を傾け、こちらをチラリと見る。
「左様にございますか」
  戻ってきたのは、静かな声だった。普段どおりのやりとりに、何故かホッと胸を撫で下ろす。
  放っておけば、いつまでも人形のように押し黙っている。なにかを主張したり求めてたりすることもほとんどなく、だからうっかりするとなにも気づかぬうちに過ぎてしまいそうな気がした。
  そうかといって、こちらから働きかけたところで芳しい返答もない。
  もう手遅れなのかも知れない、とっくに道を違えているのだ。それならそれでいいと思い切りたくても、心のどこかでもうひとりの自分が待ったをかける。
  このまま投げ出してしまうのか、諦めるにはまだ早過ぎはしないか。時を元に戻すことはできない、すでに過ぎてしまったことは取り返しがつかない。そうだとしても、まだ引き返すきっかけはあるのではないか。
  幼き頃から年長者の言葉に素直に従ってきたことが原因なのか、なかなか自分ひとりで決断を下すことができない。そんな情けないことでは困るが、長い間の習慣はすぐには改まるものではなかった。
  甲斐はゆっくりと立ち上がる。そして、寝所に足を進めながら、ふたたび口を開いた。
「今夜はとくに冷え込みが強い。温かくしていないと、身体にさわるぞ」
  いくら新しく手を加えたばかりの建物であっても、それなりに隙間から冷気は入り込んでくる。それなのに、妻は自分の周りに火鉢などを置こうとはしない。身につける衣である程度の温度調節はしているようだが、それでも限界はあるだろう。
  この部屋の火鉢は甲斐の側に置かれていたが、それもすでに火が消えている。寝所は、美津が温めてくれているはずだ。
「はい」
  互いの息が白く煙る。板間を進む自分の足音が、やけに大きく響いているような気がした。

 寝所はいつもどおり、すっきりと片付いている。衝立の向こうには、二組のしとねが並べて敷かれていた。
  初めてこの光景を目の当たりにしたときの、落ち着かない気持ちを今でもはっきり覚えている。
  大臣家が勝手に押しつけてきた女子。それを有り難がって受け入れたら、ただの間抜けじゃないか。しかも、元は竜王御殿で大臣の息子の側に上がっていたという身の上。戻り女(もどりめ)と大層な名を与えられてはいるが、その実ただの使い古しだ。
  両親を、そして長兄を苦しめ、死に追いやった。そのような奴らに屈することはどうしてもできない。正直、どんな女子が遣わされてきたとしても、同じように扱ったと思う。
  そう、相手が誰であっても……受け入れる気など始めからなかったのだ。
  しかし、それはこっちの勝手な言い分だ。妻にしてみれば、自分になんの落ち度もないまま散々な扱いを受けることになったのだから、災難以外の何者でもない。
  ――あとはお世継ぎの誕生を待つばかりですなあ……。
  今日出会った村長も、世間話のようにあっさりとそう言い切った。本人たちが思っているよりずっと、夫婦仲は良いように見えているらしい。もっとあからさまな者などは、したり顔でこう言ったりする。
  ――あまりにも仲が良すぎると、かえって子宝に恵まれないこともあるようですよ。
  まったく余計なお世話である。夫婦の閨のことに口を挟んでくるなど、失礼この上ない。
  だが、このような話は頻繁に取り上げられることらしく、周りで聞いている者たちも平気な顔をしている。ひとりで気分を害してみせるのも大人げないことと、甲斐はただ押し黙るしかなかった。
  地主の跡目に輿入れしたのなら、家を守り子を成すことがなによりのつとめとなる。その役割を果たせぬことを、当の本人はどう思っているのだろう。まさかこちらから訊ねるわけにもいかず、その心中は推測の域を出ることはない。
  ただ、近頃ひどく沈んで見える理由がそこにあるのだとしたら、こちらにも責任がある。だから……と考えるのは、やはりあまりに虫が良すぎるだろう。
  甲斐は知っている、もしも自分が望めば、妻は決して拒みはしないだろうということを。わかっているからこそ、口に出すことを躊躇ってしまう。彼女は今のままで良いと考えているのかも知れないのだ、こちらの勝手な想像で話を作り上げてはならない。
  考えもまとまらないままで、手前のしとねにどっかりと腰を下ろす。その瞬間に肩に掛けていた重ねが落ち、寝間着の上をひんやりと冷たいものが通り過ぎた。火鉢のささやかなぬくもりだけでは、真冬の夜は温めきれないのだろう。
  刹那、表の間でひとり文机の前に座っている妻のことを思い出す。本人は気にも留めていない様子だが、どんなにか身体が冷え切っているだろう。あれではしとねに入ってからも、なかなか寝付けないのではないだろうか。
  過ごしやすい季節には気づかなかったことが、あれこれと気になってしまう。無理をするなと言っても、無理をしてしまうような女子だ。なにがあっても、自分ひとりでどうにかしようと考えているに違いない。
「……え?」
  そのとき、確かに聞こえた。あまりにも間近で、もうひとりの物音が。
  予期せぬ出来事に、思わず衝立の方を振り向いていた。枕元の燭台が、ゆらりとたなびく。
  そこには妻が立っていた。
  驚くほどのことではない、ここは夫婦の寝所だ。妻はとなりのしとねで毎晩休む。それは決まり切っていることだ。普段なら、彼女は自分が寝付くまではここに戻ってこない。しかし、それは別にきちんと取り決めたことではなく、守らなくてはならない道理もなかった。
「……あ、もう休むのか。ならば、燭台を消した方がいいな」
  声がひどく震えているのがわかる。どうしてここまで慌てる必要があるのだ、あまりにみっともないではないか。
  妻の返事を待つこともなく、枕元がふっと暗くなった。いや、それだけではない。部屋全体が、一瞬のうちに闇に包まれる。
  明かり取りの窓が部屋の上の方にあるが、目が慣れないうちはそれに頼ることはできない。仕方なく手探りでしとねに入ろうとした。
「……」
  冷え切ったしとねに伸ばし掛けた腕が止まる。背中に、ふんわりとしたぬくもりを感じた。
  ――これはいったい、どうしたことか。
  しばらくはなにが起こったのかもわからず、呆然と過ごしていた。しかし、深夜にこの部屋に立ち入ることができるのはふたりだけ。他の者がやってくることはない。
  妻だ、妻が自分に寄り添っているのだ。でもどうして。
  まさか、このようなことが起こるとは、想像もしていなかった。自分からなにかを働きかけてくることなど、ほとんど皆無であったのに。
「どう……した?」
  問いかけに答えるかわりに、妻が背後からぎゅっと抱きついてくる。寝間着越しでもはっきりわかる柔らかな身体が、大きく震えていた。
  すぐには言葉が出ないらしい、彼女は大きく息を吐いた。
「わ……わたくしも、人肌が恋しくて仕方がなくなる夜があるのです。ですから、その……」
  その声はひどく怯えているようにも思えた。
「お情けを……いただけませんか?」
  そこまで言い切ると、急に緊張が解けたように腕の力が緩む。しかし、甲斐は未だに我が身に起こっていることを受け止め切れていない。しばらくは返事をすることもできず、背中のぬくもりだけを受け止めていた。
  どうして、今になって急に。
  こうなることを期待していなかったわけではない、もしも機会があれば始めからやり直したいと願っていた。自分たちが違えてしまった道を戻り、今度はきちんと手と手を取り合って。
「……いいのか?」
「どうか、お願いいたします」
  その声は大きく震えていたが、揺るぎない心を伝えていた。
  甲斐は、妻の身体が崩れ落ちないように注意しながら、ゆっくりと向きなおる。未だに闇に目が慣れないため、なにもかもが手探りだ。
  細い肩、折れそうな背中に腕を回す。柔らかい花のような香りが、背負って歩いたときよりももっと強く感じられた。妻も拒む様子はなく、そっと寄り添ってくる。
「……咲……」
  今までこの名で呼んだことがあっただろうか。あまりの甘美な響きに驚いてしまう。
  髪をかき上げ、額に口づける。
「……殿」
「え?」
「殿、と……お呼びしてもよろしいですか?」
  互いの表情が確認できないことがこんなにももどかしく思えたことはない。
  甲斐は小さな輪郭を包み、妻の唇に自分の唇を重ねた。

 

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