「う…んっ…」 ごくごく薄い膜をひとつ隔てて、自分の中に受け入れていくもの。それが見たことも触れたこともない内壁をゆっくりと刺激していく。ひだを順番になでるように、息を潜めて行われる行為。足の付け根から腿の内側、そこからつま先まで伸びる神経が、全て支配されていく。程良く愛されて温まった身体が重なり合っていく。 「はあっ…!」 「千雪…」 「俺さ、こうして千雪が受け入れてくれるんだ、って思える瞬間が好きだな」 「…え?」 「千雪に包まれて心から受け入れられてるんだな、と思うとき…どんなに満足するか、分かるか?」 「千雪の笑顔に溶かされちまいそうだ…」 「…やだ」 「好きだよ…」 そう告げるとゆっくり動き出す。探るように。何かを見つけようとするように、その部分に神経を集中させる。何も考えられなくなる…だから好き。抱かれるのが好き。 昼下がりの彼のアパート。1DK、差し込む初冬の柔らかい日差し。二人の何もまとってない肌を照らし出す。2階だから誰も見てないと思いつつもいつもカーテンを一枚閉めてしまう。抱かれる、と思った瞬間に。 「あ、あんっ…! は…はあっ…あ…」 「馬鹿、こっちを向けよ」 「やあっ…あ…!! ねえっ、声が…あ…お隣りに聞こえちゃうでしょ…」 「…いいじゃないか、聞かせてやろうよ?」 「駄目だよ…そんな。悪趣味…!!」 「章人ぉ…やめて!! もう、駄目っ…」 「や…!! ああっ!!」 「…そうだ…っ!! もっと高く声を上げるんだ、聞かせてやれ、あいつに…!!」 「あ、章人…っ!!」 「…あいつ…俺を見て、睨んだんだ。きっと、千雪に気があるんだよぜ…許せない…!!」 「…え? …あ、やああっ!! …あ…ああっ…!!」 「千雪は俺の物だ、誰にも渡さないっ…他の奴になんて…指一本も触れさせるもんかっ…!!」 それでも、自分の中で彼がはじける瞬間は感じ取る。最後に残った感覚で。 「…千雪…!!」 ゆっくりと数回腰を前後した彼が、そのまま倒れ込む。これ以上、くっつけないほど身体を密着させたまま、息が戻るまで解放してくれなかった。
◇◇◇
「しんどい…? また、やっちまったな…」 「ううん…」 「俺さ、不安なんだ。千雪はモテるから、他の男のものになっちまったらどうしようって…千雪が微笑みかけてくれると、本当に嬉しくて独り占めしたくて…」 「…そんな。私だって章人だけだから…」 大学は共学だから、卒論の担当教授の所にも、同じ講義を受講する仲間も半分以上は男だ。友達として声を掛けられることもある。談笑することもある。それすら近頃の章人には面白くないらしい。 「どうしたの? 就職のことで、イライラしてた?」 二人は4年生だ。次の春には大学を出て、就職することになる。彼は他の仲間達のように教職者にならないと言う。教育学部に重きをおく自分たちの大学では珍しいことだ。 「…そうじゃないけど…」 ◇◇◇ 「なあ、千雪」 「え? …何?」 「千雪は本当にいずれ田舎に戻るのか?」 「…え、ええ。だって、父の看病があるから…」 「お父さん、まだ良くならないの? 長患いだなあ…そんなこと、他の人に任せておいて。俺と一緒に来ないか?」 「…え…?」 「両親が。千雪のことを話したら…そんなに気に入っている子がいるなら一度連れて来いって」 「……」 「千雪?」 「結婚しよう、千雪。俺は千雪以外の女はもう考えられない。ウチの両親だって絶対に千雪のことが気にいるから、安心して…何ならお父さんの具合が良くなるまで話を延ばしてもいいけど。とりあえず確かな約束が欲しいんだ、そうじゃないと千雪をここに残して戻れない…」 千雪は東京都の教員採用試験には受かっていた。でもこの就職難のご時世、どうなるか分からない。一応連絡待ちと言うかたちになっていた。もしもそれが上手くいかなければ自分も田舎に戻ろうと決めていたのだ。 「どうしたの…? 嫌なの、まさか…」 「…ううん、そんなことない。びっくりしただけ…」 「どうして今更。俺が最初から千雪にぞっこんで、どんなことをしても手に入れようと躍起になっていたのを知っているだろう? 他の男なんて蹴散らして、ようやくゲットしたときの嬉しさと言ったら。それは今でも全然薄れることはない、…3年も付き合って良く飽きないなと言われるけど…千雪に飽きる奴なんているわけないだろ? たとえ、この先一生、何があってもこの気持ちは変わらないから…」 女として、これ以上の言葉があるだろうか? 黙って聞いているだけで涙腺が緩んでしまいそうだ。だめ、堪えなくちゃ…必死で自分の心と葛藤する。そんな自分が悲しかった。
◇◇◇ 高校までの章人は、この長身に加えてルックスの良さと頭のキレで結構モテたらしい。言葉は悪いが使い捨てにした女の子も多いようで、千雪と付き合いだしてからも諦めきれない子がアパートに乗り込んできて、修羅場を演じたことも数回ある。きちんと彼女として付き合った人だけでも両手両足使って数えると言うからびっくりだ。 2泊3日が終了して、それきりになるはずだった。キャンパス内で見かけても一瞬だったし、いつでも女の子の取り巻きがたくさんいて。アイドルみたいにモテる人だと思った。
「…佐倉さん」 「え?」 「…あら」 でも、次の台詞にはもっと驚かされていた。 「今度、教授が後ろを向いたらずるけようよ。もう出席は採ったんだし、助手の先生も戻っちゃったし。2人ぐらい抜けても分からないだろ?」 「…え? でも…」 「…渡したいものがあるんだ。ね、頼むよ」 「ほら、今だ。…立って!」
「何って。匂いで分かるでしょ? 俺の田舎、岡山だから…送ってきたの。君、好きだって言ってただろ? 桃…」 「…そりゃ、そうだけど…あの…」 「味だって、絶対に保証済みだよ? 受け取ってくれるでしょう?」 「あのっ…でも、こんな高価なもの。頂いてもお返しが出来ないわ…」 「そう?」 「…俺、佐倉さんの気持ちが欲しいんだけど」
桃の御礼にお茶に誘って。その御礼に食事に誘われて。そのお返しに、彼のアパートまで食事を作りに行って…そんな風にして少しずつ、近くなっていった。するりと気付かないウチに彼は千雪の心に入り込んできた。 ◇◇◇ 「ああっ!!…長かった…っ!」 「…え?」 「千雪のこと、こうやって襲う機会をいつもうかがっていたんだから。知らないだろ? お前、無防備でさ…心の中ではのたうち回っていたんだからな」 「…そうなの?」 「あんまり乱暴なコトして、嫌われたら大変だし。どうしよう、どうしようって…今時の中学生だってここまで純じゃないぜ。発狂するかと思った、自分でも信じられないほど忍耐強かった」 そう言いながら、またも手のひらをするすると千雪の身体に伸ばしてくる。はだけた毛布の下に愛された痕跡の生々しい胸元。赤い印の上に嬉しそうに唇を寄せる。その息づかいが荒くなって、驚く暇もなく、また彼に身を委ねていた。 「好きだ…好きだよ。本当に、こんなに夢中になれる女がいるとは思わなかった。…信じられないよ…」 体中が先ほどまでの激しさで重く沈んでいる。こう言うことをしてしまう自分が信じられなかったけど、嫌ではなかった。むしろこうなりたかったのかも知れない。毎日のように通っているバイトがお店の臨時休業で休みで。家庭教師の仕事もなかった。「今日は、ゆっくり出来るの」そう言いながら、いつもより手の込んだ食卓を整えて。自分の指先を章人の視線が熱っぽく辿っていることに気付いていた。
◇◇◇
お風呂のない部屋ではシャワーを浴びることも出来ず。かろうじて付いているキッチンの湯沸かし器でお湯を貰い、身体を拭く。元のように服を着込んで髪を整えると、それを待っていたように章人が背後からすり寄ってきた。 「…あ、やんっ…、時間がないの…バイトに遅れちゃう…っ!!」 「…バイトなんて、さぼっちまえよ…」 「だめ!! …やあっ…ねえ、離して…!!」 「はいはい、千雪のそういう真面目なところが好きだから、今日の所は我慢する。…でも、明日も来いよ?」 「…うん」 午前中、研究室で卒論のコトを色々やって。そのあとここに来て章人に抱かれて。それから夕方のバイトに行く、当たり前のような日常が出来上がっていた。バイトのない日は泊まることもある。ちょっとのめりこみすぎかなと思う日もあるが、章人の方が会わない日は不機嫌になる。千雪を独占したい気持ちがさらに強くなるらしい。その想いに応えることは決して苦痛ではなかった。 「じゃあ、時間だから」 「好きだよ、離さないからな…」 「じゃあ、また明日ね」 ぱたんとドアを閉めて。そこでようやく大きなため息が出た。
「…結婚、かあ…」 もちろん、章人のことは好きだ。愛されて、大切にされて…こんなに嬉しいことはないと想う。一緒にいて楽しいし、出逢った頃と少しも変わらずに接してくれる。難点を言えば、ちょっと嫉妬深いコトぐらいだ。そのせいで、理系の千雪は割りのいい高校生の男の子の家庭教師をすることが出来ない。千雪の教え方が上手いからと、生徒の親から、兄の分もと頼まれることも多いのだか、そんなことをしたら章人が何というか怖い。別にやましいことなどないのに、同じ部屋に2人きりでいるだけで面白くないみたいだ。 でも。 千雪には3年以上も付き合って、彼に言えないままのことがたくさんあった。 両親が離婚していること、そしてただ1人の肉親である父親の病気は治ることがないこと。若くして痴呆の症状が出てしまった父は今、ショートステイのサービスを受けながらどうにか生活していた。田舎にいる父の妹に当たる叔母がその面倒を引き受けてくれている。せっかく入った大学を中退させてしまうのは忍びない、そんな叔母の愛情は心苦しかったが嬉しかった。 多分、親の離婚のことだけでも結婚にはマイナスになるだろう。章人の実家は結構プライドの高い有力者の家系らしい。実際に会ったことはなくても、恋人の言葉の端々に感じる物があった。 章人は自分の味方になってくれるだろう、それは信じている。3年間の愛情を疑いたくない…でも。 分かっていることがある。 章人のあの執着心の強さ。あれは多分、…両親の性格の遺伝ではないか? 彼らも息子に対する愛情がものすごい。東京の大学に行くなら学費以外の援助は一切しない、と言い放ったそうだが、定期的に送られてくる宅急便の内容がすごい。衣類から食材まで。1人では食べきれない量の物が頻繁に送られてくるのだ。病気の父と二人きりの千雪にしてみると別世界の出来事だった。 「…結婚、か…」 足元の石を蹴りながら。段々黒の割合の大きくなっていく細道を歩く。 カウントダウンが近づいてきた。千雪の心の中で。ずっと来ないで欲しかった、その瞬間への。 季節は秋から冬へ。静かに巡り行く。でも冬はやがて春になる…春は再び誰の元にもやってくる。そう知りながら。千雪は自分が決して明けることのない暗がりの中に吸い込まれていく気がしていた。 まとわりついて、まとわりついて…自分の全てを打ち壊すもの。それに向かって着実に歩み始めていた。 Fin (20020610)
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