ママが赤ちゃんを産んだ。 正確にはあたしの弟なんだけど、なんだかそんな風に見えなくて。だってさ、保育器に入ってるのはふにゃふにゃで、しわしわで、赤い変な生き物。どうして、オトナはあんなのを「可愛い」って言うんだろう? パパなんか、もうめろめろだよ。すっごくかわいいって、ママにそっくりだって。…そんなこと言ったら、ママはすごく悲しいと思うんだけどな。でも、ママはパパがそう言うと、ベッドの上で横になったままで、にこにこ笑った。 ふわんふわんと午後のおひさまが、病室の中に注ぎ込む。暖かくて、春が来たんだなと思う。まあ、パパとママは年中「春」してるけどね。
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ママはいつもお産が重いんだって。あたしの時も、妹の梨花の時もそうだったみたい。 すごく苦しそうで、ふうふう言っていて。でも、パパはそんなママよりもずっと苦しそうな顔だった。ママの手をぎゅううっと握りしめて、「ごめん、ごめん」と言ってた。ママは青ざめた顔で、でもちょっとだけ笑う。あたしは途中で看護婦さんに連れられて病室から出されちゃったけど。 立ち会い分娩の出来ない病院だったので、産むときはパパも外に出された。先生にお願いしますって何度も言ってたけど、駄目ですって。規則なんだから仕方ありませんって、言われていた。 「大丈夫よ、透。待っていて…」
お口ではそんなことを言いながら、パパの方が心配していた。あたしは廊下の長いすに座っていたけど、パパは廊下を行ったり来たり。挙げ句に固く閉ざされたドアの向こうを伺ったり。防音がきいていて、全然聞こえないんだけど。 「ああ、赤ん坊なんて。こうのとりが運んできてくれればいいのに。千夏がこんなに苦しむことはないのに…代われるなら、俺が産みたいくらいだ…」 やがて。 赤ちゃんの泣き声がして。あれ? と思ったら、あたしは床に転がり落ちていた。抱っこしてくれていたパパが立ち上がったらしい。ころころと転がって壁にぶつかって止まる。寝ぼけ眼で見ると、パパは分娩室の中に走り込んでいった。 転がっているあたしに気付いた看護婦さんが抱き上げて、赤ちゃんを見せてくれた。洗面台みたいな白いかたちのお風呂に浸かっている。ひんひんと泣いていたのに、お湯に浸かったら、うっとりとした顔になる。面白かった。 「あれ〜、パパはママに夢中ね…普通は初めに赤ちゃんを見に来るのにねえ…」 看護婦さんの肩越しに見ると。パパはベッドのところで、ずっとママに何か話しかけていた。
あたしはちょっと冷めた感じで思っていた。 だって、パパは。妹の梨花が産まれたときには、あたしを幼稚園に忘れちゃったんだ。その日は体験入園でパパに連れられて行ったのに、病院からの電話ですっ飛んで行っちゃった。あたしのことなんて、お産が終わるまで忘れていたんだよ? ひどいでしょう。 今回もこの扱い。この先、あたしがぐれたら、絶対にパパのせいだと思う。
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あたしが朝ご飯のパンをかじっていると。二階からパパが降りてきた。きゅっとネクタイを締めて、キャラメル色のスーツを着てる。中のワイシャツはクリーム色。ネクタイはオレンジとベージュの中間みたいな色で、細かい水玉模様だ。娘のあたしが言うのも何だけど、パパはおしゃれだ。お友達のパパのどれよりも格好いい。 「田辺のおばさんの言うことをよく聞いて、いい子にしてるんだよ? 遅くならないように戻るからね。あ、でも…ママと樹(いつき)のところに寄ってくるから…どうかなあ」 樹、というのは弟の名前。あたしと妹の梨花の名前はパパが付けてくれたんだけど、樹はママが付けた。植物に関わりがあって、それで漢字で書くとひとつになるのが良かったんだって。パパが「透」って名前だから。 「大丈夫だよ、パパ」 ママは赤ちゃんを産んで。で、よく分からないんだけど「産後の肥立ち」と言うのが悪いんだって。お産の時、血がたくさん出たって。赤ちゃんも小さくて、保育器に入ってる。少し栄養を付けないと、普通の空気の中で生きられないんだって。身体の細いママは赤ちゃんをおなかに長く入れておけない。あたしも梨花も小さな赤ちゃんだったって。 お隣の田辺のおばちゃんはそんなあたしのお世話を引き受けてくれた。小学生のお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるんだけど、その人たちもあたしのことをすごく可愛がってくれる。お兄ちゃんやお姉ちゃんは欲しかったから、嬉しいの。朝、園バスに乗っけて貰って。夕方、パパが戻ってくるまでそこにいる。 「あたし、おばちゃんと待ってるから。心配しないで、いってらっしゃい」 パパが玄関に向かうから、朝ご飯を中断して椅子から降りる。あたしの足音に気付いたパパが、靴の紐を結び終わるとくるりとこちらを向いて立ち上がる。脇の下に、カバンを挟んで。 「じゃあ、いい子でね。もしも、本当に困ったことがあったら、いつでも携帯に電話してきていいからね」 そう言いながら、ふわっと抱き上げてくれる。これがママだと、ちゅーなのに、あたしと梨花は抱っこしてほっぺすりすり。ちょっと差別よね。ちゅーはほっぺにしかしてくれない。 いつだったか、あたしがお口にしようとしたら、パパはとっても慌てて言うの。 「駄目、菜花は。ここはママだけのものだから」 そのあと、なんだかとっても悲しくなって、わんわん泣いちゃったら、ママが慌てて台所から出てきた。泣いているあたしを抱きしめて、パパに怒った声で色々言ってくれる。でも、パパは「うん」と言ってくれなかった。 「は〜い、気を付けてね、パパ」 ぱたんと閉まるドア。その後、車のエンジンの音。 真っ黒なパパの愛車、すごく格好いいよ。あたしと梨花のお椅子はちゃんと後ろに付いてる。あの車から降りるとき、いつも周りの人の視線を感じる。きっとどんな人が乗っているんだろうって、みんなが気にしてるのね。あたしも見られてると思うとドキドキする。「わ〜、素敵!」とか言う声が聞こえることもあって、こそばゆい。どこに行っても、パパはみんなの注目を浴びる。 すっごく、すっごく格好いいパパ。あたしはパパが大好き、世界で一番好き、誰より好き。申し訳ないけど、ママよりも好き。駅前の洋菓子屋さんのチョコレートケーキより、パパの作ってくれるオムライスよりも好き。 …でも。パパは言うの。 「菜花と梨花のことは、世界で二番目に好き」 報われない恋、っていうんだって。この前、田辺のおばちゃんが見ていたお昼のドラマでやってた。
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「菜花ちゃんの、弟、戻ってきた?」 「ううん、まだ〜」 「あのね、ウチのママが…」 「うん?」 「菜花ちゃんのパパがいいって言ったら、土曜日にお泊まりしにおいでって。菜花ちゃんのパパも慣れない子育てで大変でしょうからお休みして下さい、って」 「え〜、素敵っ!」 春菜ちゃんちのママはアレンジフラワーの先生だ。いつもお家はお花屋さんみたいにたくさんのお花が飾ってある。それに大きくて真っ白な犬がいる。黄色い小鳥もいる。素敵なお家だからたくさん遊びに行きたいんだけど、春菜ちゃんはお稽古ごとが多くて。なかなかお家にいる日がないのよね。 お泊まりなんて、夢みたい。あたしは嬉しくて、身体が踊り出しそうだった。 「パパに聞いてみるっ! 待っててねっ!」 「うん、で、良かったら、菜花ちゃんのパパもお夕食を一緒にどうぞって。ママ、腕によりをかけちゃうって喜んでたよ?」 …あ、そうか。 頭の中で考える。春菜ちゃんのママもウチのパパのファンなのだ。よく分からないけど、お友達のママはパパのことをすごく格好いいって、うっとりしてる。ちゃんとご主人のいる人ばかりなのに。幼稚園の先生もあたしにパパのことを色々聞いてくる。うざったいくらいに。 「分かった〜」
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「主婦のよろめき」とか「昼下がりの情事」とか…おせんべをかじりながら、田辺のおばちゃんと見てるワイドショーは、ドキドキすることを教えてくれる。あたしには初めて聞く言葉ばかりで、いろいろ質問したら、おばちゃんは「あら、菜花ちゃんには早いわね」とか言って、TVを消しちゃった。いいところだったのにな。『同窓会で再開した昔の彼との秘められた一夜』って…なんだろう。知りたいなあ。 結婚しても、他の人を好きになったりすることがあるんだって。知らなかった。だって、パパはママのことをすごく愛してるもん。子供を産むと女性は「母親」になってしまって、もう「女」として見て貰えないって言ってたけど、それも間違っていると思うわ。 パパの心に隙間があったら、絶対にあたしが割り込むわ。パパの大好きなママの子供だもん、一番似合うと思うんだけどな…。もしも、ママがおばあちゃんになって綺麗じゃなくなったら、パパはあたしの方が好きって言ってくれるのかな…。
何時だったか、本当にそうやって聞いたことがある。そしたら、あたしをお膝に抱き上げたパパ、ものすごく真面目な顔で言ったの。 「あのね、菜花」 まるで。コップを落として割っちゃったときのように、ちょっと眉間に皺を寄せた怖いお顔だった。 「パパはいつまでもママのことが一番好きなんだよ? 神様の前できちんと約束したんだから、ママを幸せにしますって、ずっと愛しますって。それはママがおばあちゃんになっても、歯が全部抜けてふにゃふにゃになったって、それは変わらないよ?」 「パパ…」 いつかみたいに、また、じわじわっと悲しくなった。いつでもあたしは「二番目」、パパの「一番」はいつでもママ。それは変わらない。パパのやわらかい笑顔も、タバコの匂いのするお膝も、一番に使うのはママなんだ。あたしや梨花じゃない。 「ごめんね、菜花」 「菜花も、素敵な人を見つければいいよ。菜花が一番好きで、ずっとずっと一緒にいたいと思える人を。菜花みたいに可愛い子なら、よりどりみどりじゃないの? ママが言ってたよ…菜花、幼稚園でモテるんだろ?」 「う〜ん…」 あたしは「可愛い」って、よく言われる。パパから貰ったくるくるのくせっ毛は茶色っぽくて、やわらかくて。触らせて、って言われるの。先生はきちんとしばってあるゴムをわざわざ解いてしばり直してくれたりもする。ママが選んでくれる、お洋服もセンスがいいんだって。色が白いから、どんな服でもよく似合うって。 …でもなあ。 クラスの男の子たち、みんなパパよりも格好良くないんだもん。ぬりえははみ出すし、上着のファスナーが上手く上げられない。お箸が上手に持てなくて、ぽろぽろこぼしたりして。そのくせ、お洋服が汚れるとママに叱られちゃうとか、マザコンなの。ああ、マザコン男って駄目なんだって、ワイドショーで言ってたよ。最低だって。 パパはすごいんだ。お花を咲かせるのがとても上手だし、お掃除だってもうどこもぴかぴか。「菜花ちゃんのお家はハウスクリーニングを頼んでるの?」と聞かれることもあるわ。それに、たまにしか作ってくれないけど、お料理も上手。あんまり作るとママがいじけちゃうから作らないんだって。つまんないの。パパが作るとレストランよりもおいしいんだよ? それにそれに。 やっぱり、格好良さが違うわよね。 ママはお友達には絶対にしゃべっちゃ駄目って言うから黙っているけど。実はパパ、お仕事の取引先の人に頼まれて、モデルの仕事をしてるんだよ? お写真とかじゃないんだけど…スーツの新作発表会で。年に二回あるんだけど、あたしと梨花もママに連れられていつも会場まで見に行く。ママは乗り気じゃないんだけど、パパがどうしても見せたいんだって。 背の高いお兄さんたちに混じって、パパも何回かお着替えしながら出てくる。でもね、他のどんなお兄さんよりもおじさんよりも、パパが一番格好いいの。その取引先のクライアントの人もいつも言ってるよ、「槇原さんに着て貰うと、スーツが特別によく見えますから、」って。売り上げにも貢献してるんだって。 ついでにそこに出ると、スーツやワイシャツ、ネクタイをたくさんくれる。パパはお店でお買い物しなくても大丈夫なくらいお洋服をたくさん持ってる。偉いおじさんは時々、あたしたちの服もくれたりする。 本当はチラシや雑誌にも出てくれって言われてるようだけど、それは断ってる。もったいないよね…一度はママも一緒に出たことがあるよ。ママも確かにとっても綺麗だから、素敵だけど。どうもペアルックの服があって、パパがママとじゃなくちゃ駄目って言ったんだって、本当に我が儘だよね。…その服、ママの持っていたファッション誌でそのあと見たわ。らぶらぶの芸能人夫婦が着てた。 その時、思ったわ。パパとママの方が、もっともっと似合ってるし、らぶらぶだって。
もっと早く産まれてくれば良かった。そして、ママより先にパパと出会いたかった。 どうしてパパの娘になっちゃったんだろうなあ。すごく口惜しい。お友達はみんな言うけど。 「菜花ちゃんは、いいね。素敵なパパで。ウチのパパと交換して欲しいなあ」
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