なだらかな坂道を少し上ると、緑色の芝生が見えてくる。枯れにくい常緑の品種を苦労して求めて育てた、パパの努力のたまものだ。それが日差しに照らされて白っぽく見える。降り注ぐ蝉時雨。 「あっつ〜い…」 春菜ちゃんちは向こうの住宅地だから、坂の下で別れる。あたしはベージュとブラウンのまだら模様の煉瓦の道をぽんぽんと弾みながら駆け上がった。白いフェンスで囲われたその敷地内は夏色の鮮やかな花々で溢れていた。そして、入り口の小さな扉の脇にある立て看板。 『Apricot Green』…あれ、Closedの札が掛かってるわ、どうしたんだろう。パパのボルボ、ちゃんとガレージに入ってるのに。腕時計は午後3時を回ったところ、お日様もまだまだ高くて…とても店じまいをするような時間じゃない。あたしは首を傾げながら、木戸を押して敷地の中に入っていった。
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「ここを管理することは出来ないのだけど。お庭を壊してしまうのも…忍びなくて…」 そんなとき、助け船を出したのがパパだった。 「それなら、私がお借りしましょう…」 あたしたちはもちろん、ママも佐野のおじいちゃんたちももうびっくり。一体何が起こったのか分からなくてパニックしてしまった。そしたら、パパは涼しい顔でこう言ったのだ。 「自由が丘にあるみたいな、雑貨屋さんをやりたいんだ。喫茶室を傍らに作ってね、ハーブティーや果物のケーキなんかをお出しして。手作りジャムやポプリなんかも売って…」 そ、そんなの夢見る中学生だって言わないぞ。お店の経営なんて、素人が一から始めるのはすごく大変だと思う。やっぱり、安定したサラリーマンがいい。パパは職場でだって、有能な営業マンで通っているんだし…え、リストラ? まさかねえ…。 「あはは、そんなはずもないだろう…」 本社勤務を辞めて、横浜の営業所の所長になったパパ。それも全ては愛するママのため、一戸建てのお家をプレゼントしたためだった。さすがのパパも都内にお庭付きのお家を買うことは出来なくて、だいぶ南下した。本社まで遠くなったので、本社までは通えなくなっちゃったのだ。 パパは悩んだ。30も半ばになって、再就職も難しい。家のローンは前に住んでたマンションの売却金もあったので払い終えたところだったけど、これからあたしたち3人の子供の教育費がかかる。そんな悩みを打ち明けたところ、とある取引先の人が、お店のオーナーを探していると知ったのだ。 「それに、家にいれば…ずっと千夏の側にいられるだろう…?」
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「お帰りっ! 菜花(なか)っ…」 あら、素敵。こんな風に息せき切ってお出迎えなんて。どうしたんだろう、お誕生日でもないのに。あたしが靴も脱がずにきょとんとしてると、パパはすっと右手を出した。 「ほら、渡しなさい」 「へ…?」 あたしはパパが差し出した手を呆然と見つめていた。…いきなり何を言い出すんだ? 「カバン、こっちによこしなさい」 「えええっ!? やだあ〜、そんなの駄目に決まってるでしょうっ!」 娘の荷物を覗くなんて、そんなの父親失格じゃないのっ! 大好きなパパだけど、許せないわ。 「あ、お姉〜、お帰りィ〜」 「ああ、…ねえ、梨花っ! どうしちゃったのよっ…パパは」 あたしがカバンを必死でキープしながら叫ぶと、梨花は涼しそうな目元でこちらをちらっと見た。するりと髪の毛が流れる。あたしはぽよぽよの癖毛で色も茶色っぽい髪なのに、梨花はさらさらの黒髪だ。それを無造作に垂らしている。身長も同じくらいになってきて、どちらがお姉さんか分からないと言われる。 「あ、それ…」 「何かさ、知らないんだけど。素直に従った方がいいよ? 私も樹もランドセル点検やられたよ? ついでにママはハンドバッグの中を見られてた」 あんまりにもあっけなくそう告げられて、驚く。なんなの? ランドセルの中を点検するの? 一体どうしたんだよ、パパ。 「ええ〜、そんなのずるいっ! 人の持ち物を点検するなら、自分も公表しなさいよ〜。本当に、パパって変よっ!」 「なっ…!?」 「お、親に反抗するなんてっ! 菜花、それは不良の始まりだぞ…! 許さないっ! パパはオープンな家庭が好きなんだ。隠し立てなんて、断固として許さないぞっ!!」 「ママ〜…」 「ごめんね〜、菜花ちゃん。どうもパパ、お昼ご飯の時に、みのもんたの電話人生相談を見ていたらしくて…突然、思いついたみたいなのっ…」 ――は、はあっ!? 何なんだ、このおじさん。もう、会社を辞めたら、エネルギーの弾ける場所がなくなって、有り余ってるんだから。PTAとか、自治会とか、そう言うのに積極的に出るようになったのはまだいい。パパはもともと器用だし、山岳部だったから、運動会やバザーのテント張りもお手のものだ。 でもそれでもまだ、余っているらしくて、みのもんたに夢中になってしまった。ブロッコリーや枝豆、トマト、鰯の丸干し…とにかくその日に話題になったものをごそっと買い込んでくる。酢大豆を一日10粒と言われた時は泣きたくなった。もちろん、カスピ海ヨーグルトも育てている。 パパはママの視線に気付いたらしく、ささっと姿勢を改める。だから〜、妻にかしこまってどうするのよ〜、本当に変なんだから。 「あのな、菜花…」 「人間が脱落していくその一歩は、まず日常の生活の乱れからだ。今日の電話の人の家では、高校生の娘のカバンから、コンドームと替えの下着が出てきたって言ってたぞっ!!」 「え…?」 あたしは、青ざめて弟の背中を見てしまった。まあ、4年生で性教育も受けたのだから、コンドームくらいで動じる彼ではない。でも、オープンな家庭とは言っても…ちょっとデリカシーがないんじゃないかしら? 多感な年頃の娘に避妊具の話なんてしないでよっ…! 「この前、遊びに来たお友達が言っていただろう? 菜花の靴箱を開けると、漫画みたいにざざざっとラブレターが落ちてくるって。同級生どころか先輩や後輩にも呼び出されては告白されてるって、聞いたぞっ!! …もっと、自分を大切にしなさいっ、何かあってからじゃ遅いんだからなっ…!」 「あの〜…」 「今日だって、午前中で授業が終わったというのにどこに行っていたんだっ! パパは心配していたんだからな…」 うっさいなあ、もう。それくらいが何だって言うのよっ! 春菜ちゃんと水着を見に行っていただけじゃないの。一応受験生だけどさ、きちんと成績を取っていれば高等部にはすんなり入れる。だから、その辺の受験生とは違うんだ。その分、小学校の時にいっぱい勉強したんだから。 あたしはぷうっと頬を膨らませると、カバンをパパに乱暴に投げつけた。 「ラブレターなら、全部学校のゴミ箱に捨てて来ちゃった。だから見せられないけど? 何なら、明日からは家に持ってくる? パパがそのあと処分してくれるなら、別にいいよ」 「菜花…」 ああん、そんなに悲しそうな顔をしないでよ。パパの方が悪いのに許してしまいそうになる。地域の役をたくさん引き受けたパパだから、あれやこれやと飲み会などのつき合いが多い。そう言うところで話題になるのはどうしても子育てのことがメインになる。共通の話題なんだから仕方ない。年頃の娘(あたしのことよ)を持つパパは、いろんな話を聞いていてだんだん不安になってきたみたい。 分かるんだけどさ、でもさ。ちょっと、放っておいて欲しいの。ぎゃんぎゃんいわれると、逆に非行に走りたくなるわ。微妙な乙女心なんだから、分かって欲しいわ。 「――あ、透? 時間でしょう、お迎えが来るわよ?」 ママが時計を見ながらそう言ったので、その場は一応お開きになった。
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お紅茶と一緒に差し出されたのは、紅茶のケーキみたいな不思議な色のパウンドだった。お店にくっついているティールームではアフタヌーンティーと簡単な軽食が楽しめるようになっている。フレッシュハーブを使ったサンドイッチや手作りジャムのトーストは人気の品だ。 「今日はパパ、お店を閉めてどこに行ったの?」 「ええと、会社のお仕事よ。外回りの新人さんの付き添い指導ですって…」 「ああ…」 パパは商社を辞める時、顧問として残って欲しいと頼まれたそうだ。普通はあまり仕事がないのだけど、たまに新人営業マンの指導に当たっている。若い頃、パパはやり手の社員で、たくさんの契約を取ってくるので有名だったんだって。あたしはよく知らないけど、時々、バーベキューとかをする時に前の会社の人たちが来て、そう言う話になる。 そして、あたしの記憶が正しければ。ママは全然年を取っていない気がする。いつまでもふんわりとして可愛い感じで、本当に3人の子供を産んだのかなあと悩んでしまう。娘のあたしが悩むのだから、すごいことだ。 「樹くんも…ゲームをやめて、頂きましょう?」 「ん〜、もうちょっと…」 「あれ? 結構強くなったんじゃない? …どうしたの」 「あ、これ? …ほらほら〜、今日ね、岩男兄ちゃんが来て、秘密のアイテムを探してくれたんだ。装備させたら一気に強くなったよっ!!」 ――…へ? 無邪気な発言に、あたしは固まってしまった。何? …どういうこと? 「岩男くんが、来たの?」 「うん、学校の帰りに会ってね、教えてくれるって。でもその前に宿題もちゃんとやらなくちゃって、それまで教えて貰っちゃった〜へへんっ!」 そう叫んだ瞬間に、ごごごっと音がして、グロテスクな中ボスが崩れ落ちた。 「やった〜〜〜〜っ!! ひょー、ラッキ〜…!」 「ちょっとっ! 樹っ、岩男くんはいつまでいたの? あたし、駅から電話したじゃない、その時はまだいたの? どうして帰しちゃったのよ〜!!」 「え〜?」 「だってさ、岩男兄ちゃんはオレに会いに来たんだよ? 姉ちゃんなんか関係ないじゃないか。だいたい、話したいことがあるなら学校が一緒なんだから、そこで言えばいいじゃん? 今年はクラスも一緒だって、言ってたじゃん」 「ママ〜!?」 ママはあたしの言いたいことが分かったのだろう。困ったように微笑んだ。 「あのね、ママも…岩男くんにね、菜花が帰ってくるから待っていてくださいって言ったの。でも…明日から期末テストですからって、帰っちゃったのよ…」 「そ、そんなあ…」 ひどい、あたしがそろそろ戻ってくるって知っていて、それで帰ったんだ。いつもそうじゃないの、あたしがいない時にしか、家に来ない。 それどころか。 この前はまた、パパと樹と3人で釣りに出かけたって言うじゃないの。教えてくれれば絶対に付いていったのに、誰も情報を流してくれなかった。男には男の世界があるってパパは言うけど、何だか仲間はずれにされているみたいで、腹が立つ。 「あはは、姉ちゃん、嫌われてやがんの…」 あたしが、きっと睨んで見せたので、樹は「こえーっ」と首をすくめた。そして、がががっと残りのおやつをかき込むと、さっと立ち上がって逃げに入る。 「繁くんの家にいってきま〜すっ…」 手のひらサイズのゲーム機をリュックに突っ込んで、飛ぶように出て行った。さっき、梨花が出かけて、パパが出かけて。そして樹もいなくなって…だから、リビングに残ったのはママとあたしだ。あたしは、すごく悲しくなって、俯いたままお紅茶をすすった。 ママは何かを考えてるみたいな顔をして、心配そうにこちらを見ていた。
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