ものすごいことが目の前で起こっている。それなのに俺はしばらくの間、ぼんやりとその一部始終を見守っていた。 まるで白い花びらが、軽やかに一枚一枚散っていくようだ。いいや、さなぎの脱皮だろうか? とにかくそんな風にして、最後は真っ白なきめ細かい肌が惜しげもなく現れた。
――えっ…? えええええっ…!?
そこまで来て、ようやく俺の脳のほんの隅っこが「ヤバイ」と思った。しかし、やはり声が出ない。 ほんの少しの布を残した状態で、梨花ちゃんは、すとんとベッドに腰を下ろした。膝小僧をくっつけた姿勢で、ちらっとこちらを見る。でも、すぐに顔を伏せてしまった。 「…どうぞ…」 動かないっ! 声が出ないっ! …誰か、助けてくれ〜〜〜〜っ!! 「あ…」 やっと出たのは、かすれる吐息。顔を上げた梨花ちゃんと、ぱちっと視線を合わせてしまった。ちょっと待てよ〜、やっぱり梨花ちゃんは何かまずい状況に陥っているのかっ? 何だよ〜、何が言いたいんだよっ! 俺を試してるのか? …どうしろと言うんだよ〜〜〜〜っ! 「あっ…あのっ…?」 いつまでもうんともすんとも言わない俺にしびれを切らしたのか。梨花ちゃんは白い頬をピンク色に染めながら、何かを訴えるように俺を焦点の合わない視線で見つめた。 「ごっ…ごめんなさいっ! こういうのって、どうしたいいのか分からなくって…。もしかして、こう言う時って、もっと脱がなくちゃ駄目なの…?」 そう言ったと思ったら、また腕を背中に回す。ふつっ、と胸の束縛が緩む。うわ、見えそうだぞ、と言うか半分浮き上がって、ふくらみの下半分がちらちらと見え隠れしてる。彼女が肩ひもを外そうとした時、マジでヤバイと思った。
「まーーーーっ!? 待ってよっ! 駄目だよっ、梨花ちゃんっ!!」 あああ、良かったっ! ようやく、はっきりと声が出た。俺は必死で叫ぶと、どどどどっと部屋に突っ込んでいた。 「ちょっと待てっ! 何考えてるんだよっ! 駄目だよっ、梨花ちゃんっ!!」
どうにかして、この「なんちゃって、野球拳」な状況を打破しなければならない。 おっ、俺だって男なんだからな。いつまでも紳士ではいられない。必要以上の行動に出られたら、いつか理性がぷっつんしてしまう。分かってくれ、辛いんだ。
「…聖矢くん…?」 「どうして? …喜んでくれるんじゃないの?」
だーーーーーっ! おいおいっ、どうにかしてくれよっ! そりゃ、嬉しいぞ。こんな風に梨花ちゃんが…、じゃないっ。喜んでいる場合ではないのだ。これはゆゆしき問題だ。
「駄目っ! 梨花ちゃんっ…! どうか正気に戻ってよっ…。考えてみてくれよ、いきなり男の前で服なんて脱いじゃ駄目なんだからっ…。梨花ちゃんは頭がいいんだから、ちょっと考えれば分かるだろっ? …こう言うのはね、大切な人のためにとっとくものなのっ。いくら減らないとか言ったって…やっぱ、良くないっ。梨花ちゃんには好きな人がちゃんといるだろっ? …そいつのために大切に取っておいてくれよ――」 もう、取るもとりあえずの必死の訴えだった。あまり一気にまくし立てたから、その後咳き込んでしまう。本当にイマイチ決まらない俺だ。 「…聖矢くんっ…」 うわ。梨花ちゃんの腕が首に絡みつく。見えるぞ、取れかけたブラジャーが…ああ、違うっ、そうじゃない。これはビキニだ、水着なんだと自分に言い聞かせる。少しは気が休まるか…そんなことないか。どっちにせよ半乳状態なんだし。 ああっ、深呼吸だ。耐えろ、俺。限界に行ってもまだ耐えろ。負けるんじゃないぞっ!! 「何故、そんな風に突き放すの? …私、色々考えたんだよ…でも、頑張った聖矢くんに何をプレゼントしたら喜んでくれるかって。気の利いたものを思いつかなくて…そうかって、やっと気がついたの。――やっぱり、駄目? …こんなの手軽すぎる?」 いい匂いがする。シャンプーなのかな? それともコロン? 梨花ちゃんらしくて、綺麗な香りだ。すごく良く似合ってる。 「…だっ、駄目だろっ…! もっと、自分を大切にしないと、後悔するからっ…!」 ああ、苦しいよぉ…どうやって、どこまで堪えればいいんだろう。このまま、抱きしめたい。どんなにかやわらかいんだろう。生のままの肌。滑らかで、どこを触ってもしっとりしてるんだ。 「…しない、そんなわけない…」 「聖矢…くん?」 「んなっ…、何っ!?」 梨花ちゃんの唇が、軽く空を切る。そして、震えながら、熱い息を吐き、どうにか声を出そうと試みる。その健気な姿に胸が痛んだ。まだ、どこかで勘違いしてるんだろうか? あんなにきちんと教えたのに。気付いてくれないのか!? 「何で、そんな風に言うの? そりゃ、私は岩男くんに憧れていたわ。とても素敵な人だもの、彼以上の男の子なんていなかったから、ずっとそれでいいと思ってた。でも…今は違うの」
そこまで言うと、するっと腕を外した。その瞬間に、どどっと脱力。情けないくらいホッとする。元のようにベッドの上に座り直した彼女は、下を向いたまま言った。 「私の好きな人はね。彼女の前ではカッコつけて『いいよ別に』なんてあっさりと別れたのに、実は未練たらたらで。お酒に飲まれて、わんわんと泣いちゃう様な人なの。すごく情けないんだけど、でもいい人なのっ…」 「…へ?」
何じゃそれは。それって、すげー情けねえ男だよなあ。っていうか、男かよ? 女の子の前でおんおん泣いて馬鹿じゃねえのかっ? …でも…。
「ホントは、今日も泣いてるのかと思った」 梨花ちゃんは顔を上げた。そしたら、ぽろんと涙がこぼれる。頬を伝う雫が胸元に落ちて流れていく。綺麗だ、真珠が転がって行くみたいで。 「こんな風に…すっきりしてるなんて…っ、ショックかも知れない…」
ぽろぽろ、ぽろぽろ。流れていく雫。とうとう彼女は顔を覆って泣き崩れてしまった。
「え…? 梨花…ちゃん!?」 何言ってるんだよ、一体何をっ…! どういうことなんだよ、いきなり泣かないでくれよっ。俺がいじめてるみたいじゃないかっ! 「やっぱり、駄目なんだね。…私じゃ、聖矢くんの一番には無理だったんだねっ…すごくよく分かった」 なっ…なんだよ〜〜〜っ! 何言ってるんだよっ! 意味分かんないぞっ! 勝手にひとりで世界を作って入っていかないでくれってばっ…!!
「梨花ちゃんっ!! あのさっ…」 だ〜〜〜〜〜っ! もうっ!! どうにかしてくれよっ、と言う感じで。俺が叫んだ時。すっと、目の前に梨花ちゃんが小さな包みを差し出してきた。 「はい、これでいいでしょ?」
…え? えええええええっ!? 何だよ〜っ、これはっ!!
思わず、硬直する。いや、知ってるけどさ。知りすぎてるけど、使っていたけど…このごろご無沙汰だけど。…でも、どうして? 梨花ちゃんの手にどうしてこんなモンがっ!? そう。いわゆる、避妊具。もっとぶっちゃげて言えば、コンドームだ。個包装の…一回分。
「うっわっ! ちょっとっ…!」 自慢じゃないが、俺はゴキブリが苦手だったりする。だから、遭遇すると、情けないくらい逃げてしまう。それと同じくらいのリアクションで、ざざざっと後ずさりしていた。
「…パパがね」 「女の子はいつ何時、どういう状況に陥るか分からないもんだって言うの。それで、そんなときに自分の身を守るために持ってなさいって、渡された。これを見せて、ちゃんとつけてくれる男じゃなかったら、身体を許しては駄目だって。それを聞いた時は、馬鹿馬鹿しくてなんだろなと思っていたのよね…」
――え? なんだそれはっ!? ええと…梨花ちゃんの父親と言ったら、例のカリスマ夫婦の男の方だよな。あのパウチ写真の。あの顔で、そんなこと言うのかっ! 何なんだ、もしかして突き抜けてる人なのだろうか。どうして、娘にコンドームを手渡すか? その前に貞操を守れと諭さないのかっ!?
俺が違う意味で愕然としているのを見て取って、梨花ちゃんもちょっと笑った。頼りなくて消えそうな感じだったけど、やっぱ可愛い。 「でも…これは自分の身を守るためだけのものなんじゃなかったんだね。…今日初めて分かったわ」 普通、女の子があまり手にしないそのブツを。梨花ちゃんはとても愛おしいもののように、ほとんど乳首を隠しているだけの状態の胸に抱きしめた。 「これは…大好きな人に抱きしめて貰うための、チケットなんだよ。これを渡すと、幸せになれるの。そのために持っていたんだって、気付いた」 「梨花…ちゃ…」 今度はそれを両手で捧げ持って、お願いしますのポーズで前に差し出してきた。小さなてのひらの上、ちょんと乗っかった、真四角の物体。 「…ね、お願い。私を聖矢くんの一番そばに行かせて。一度だけでいいの、私を幸せにして。これ、ひとつしか持ってないから、二度とお願いしたりしない。今日だけ、…今だけだから、いいでしょ?」
――どうして…? 何で、そんな風に言うんだ。せっかく、俺が勇気を上げたのに、どうしてそんな風に自分を安売りするような真似を。そんなつもりで、今まで頑張ったんじゃない。ご褒美が欲しいから頑張った訳じゃないんだ。ただ…俺は。
「…駄目、駄目だよ、梨花ちゃん…」 「俺じゃないよ、梨花ちゃんの相手は。分かっているんだろ? …いいんだよ、同情なんていらない。君は本当に好きな人の元に行けばいいんだよ? そうすれば、彼だってきっと…」 「駄目…なの? どうしても、駄目…?」 ああ、そんな目で俺を見るなよ。それより、その大幅にずれてるブラを元に戻して。おれも…服が着たいなあ、こんな格好じゃ説得力ないぞ。イメクラに来てるのかと、自分でも突っ込みたくなってくる(もちろん違うぞ)。
梨花ちゃんは、しばらく黙っていた。例のブツはしっかりと握りしめたまま、胸の前に置いて。何かを深く考えるように、俯いていた。物言わぬ唇が細かく震えている。 やがて、大きく息を吸い込んで吐いて。深呼吸した。そして、改めてこちらを見る。その間、俺は彼女の一挙一動を見守っていただけで…要するに未だに腰巻きバスタオルのままだ。 そして、顔を上げると、まっすぐに俺を見つめた。ああ、やっぱり綺麗で大きな瞳、飲み込まれそうだ。 「聖矢くんの、嘘つき」 「…は?」 「言ったじゃない、聖矢くんは。これを持って、一番好きな人のところに行けば、きっと上手くいくってっ! ちゃんとそう言ったのにっ、全然その通りにならないっ!」 ばばばっ! カバンから取り出す、あの用紙。ご丁寧に元の大きさに広げて俺に示してくる。 「え…、えっ?」 何を怒ってるんだよ〜、だって、そうじゃないか。勇気を持ってくれって言ったんだよ。梨花ちゃんみたいな女の子に大好きと言われて、困る男がいるはずもない。そうだよ…、って!? 「女の子が、こんなに勇気を出して頑張ってるのに、逃げ腰になってっ! それでも男なのっ!? …自分の言った言葉の責任くらい取りなさいよっ! そんな、私は、好みじゃないの? いいじゃない、一度くらい。今、聖矢くんはフリーでしょ? だったら…」
――ちょっと、待て。 さっきから、何か変だ。梨花ちゃんが好きなのはあの男だ。お姉さんの彼氏だというでかい好青年。男の俺から見ても惚れ惚れするような人だった。一度会っただけだけど、それだけでも十分すぎるくらい分かった。梨花ちゃんにぴったりの男だ。 …そうじゃないの? そうなんだろっ!?
「あの〜、梨花ちゃん。ひとつ、聞いてもいい…?」 腰巻きタオルのままではいつぺらりとめくれて大変なことにならないとも限らない。その最悪の状況を避けるために、俺はベッドの彼女から少し離れた場所に腰掛けた。 「…何?」 視線がほとんど一緒になっている。だから、さっきまでよりも梨花ちゃんの表情がよく分かる。すごく怒っているのに、頬の辺りが震えている。すごく強がっているのが分かった。 手を繋いで、腕を組んで。いつもこの感じで梨花ちゃんと接していた。小杉情報の梨花ちゃんじゃない、俺だけが知ってる等身大の梨花ちゃんだ。いつも恥ずかしそうに微笑んでいた可愛い女の子。 「梨花ちゃんが、今、ホントのホントに好きな男って…誰?」 俺の言葉に、彼女は困ったように微笑んだ。そして、すっと視線を逸らせると、額に掛かった髪をかき上げる。ふうっと、ひとつため息。 「…何度も言ったでしょ? 目の前にいるわ、今、私の」
ごくり。 思わず唾を飲み込んでいた。成り行きで俺の彼女になってくれた梨花ちゃん。でも…俺たちは好きとか嫌いとかあまりそう言う感じではなかった。恋人ごっこを楽しんでいる梨花ちゃんと、それに振り回される俺。そんな図式のふたりだった。梨花ちゃんが、本当に俺のことを好きだなんて信じられるかよ。…それは無理。 「でもさ、それは…梨花ちゃんの思いこみだよね? 無理にそう思おうとしてるだけで。だいたい、俺にそれだけのものはないよ。そうだろ? 本当なら言ってみてよ、どこが好きなの? …何で好きなの?」 梨花ちゃんはすっとこちらを向いた。そして、何の躊躇もなく、口を開く。 「だって、同志だから。そう言ってくれたじゃないの、聖矢くんが。…やっぱ、覚えてないんだ」 ――同志? 何じゃそれは。 「滝みたいな大雨の中で抱きしめてくれたんだよ? 『俺たちは同志だ、辛いけど頑張ろうなっ』って…そんなこと言われたの、生まれて初めてだったから驚いちゃって。何だろ、この人、って思ってたんだけど…ね、気がついたら、なの」 とぎれとぎれでも記憶があればいいのに。どうしてそんなことを言ったんだろ。ぐてんぐてんに酔っていたあの夜のことなのか。 「あの瞬間に…岩男くんのことが、ふっと遠ざかった。それまでの辛かったこととか、全部。すごく楽になって…この人とだったら楽しいかも知れないなとか思ったの。…それじゃ駄目?」
「はあ…」 でも、まだ良く分からない。何がなんなのか。でも…それを振り払うように梨花ちゃんが、あの格好のまま、こちらに寄り添ってきた。半乳を通り越して…というか、ブラはもうほとんどめくれ上がってる。全部見えてますけど、お嬢さん。これは俺に理性の糸をぶっちんしろと言うことですか…? 「あっ…あのさっ、梨花ちゃんっ…」 むき出しの肩は信じられないくらい細くて。これで本当に黒帯有段者なのか、疑わしいほどだ。それをどうにか支えるように掴んで、ついでに俺の最後の気力で自分と戦っていた。もはや敵は自分の中にしかいないのだから。 「あの日、道場に岩男くんを見に行って、はっきり分かった。お姉ちゃんと一緒の岩男くんを見ても、大丈夫になったもん。すごく嬉しかった。それに…聖矢くんが、私のこと『一番』って言ってくれた。あのとき…本当に救われたの。私はこの人に付いていけばいいって。…錯覚だったのかな? 私は聖矢くんの彼女には無理なの? …そう、なのかな…」
あああっ! 今すぐっ、仙人になりたいっ! 悟りを開いて、何事にも惑わされない理性を持ちたいっ! 助けてくれ〜っ!!!
――ぷち。 やっぱ、そこが限界だった。気がつくと俺は、香しい果実を思いきり抱きしめていた。
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