どこからか秋を告げるような涼風が吹いてくる。カレンダーの上では8月でも立秋を過ぎれば確かに季節は巡っていくのだ。昔の人は上手いことを言ったなとしみじみ思う。 平日とは言え、何だか人がまばらだなと思ってはたと気付く。今はいわゆる旧暦のお盆だ。このところの不景気で企業も十分すぎるほどの休みをくれるところが多いと聞いている。ウチのオヤジの実家は鎌倉だからそう言うのもあまり関係ないが、戻る奴は九州や北海道まで行くんだもんな、大変だ。 予備校によって異なるんだろうけど、ウチの予備校はお盆なんて関係ない。通常の講義が行われている。いくらずるずると浪人生を続けているとは言え、模試の成績も奮わないとは言え、それでも出来る限り講義を欠席することだけは避けていた。一度そうしてしまえば、あとはずるずると楽な方へと流されそうな気がしたからだ。
「聖矢く〜んっ!」 公園の真ん中にある時計の前で待っていると、向こうから髪を揺らして梨花ちゃんがやってきた。地下鉄を降りてから走ってきたのだろう。白い頬が紅潮してすごく綺麗だ。 …うわ。 思わず目を見張る。…だって。私服なんだよ〜、私服っ!! そういや、今までは彼女の制服姿しか見たことがなかった。まあ、山ノ上高校の制服はとても可愛いし梨花ちゃんに似合っていたからそれでも十分だった。でもっ、でもっ…そんな思考は目の前の姿を見れば吹っ飛んでしまう。 彼女はやはりブルー系でまとめていた。やっぱ、この色が好きなんだろうな。小物とかも大抵はブルーだし。ボコボコと浮き模様があるタンクトップにスケスケの…なんて言うんだろう、七分袖シャツみたいなの? ただ、前ボタンは付いてなくて、ウエストの辺りで裾をしばるかたちになってる。ボトムは膝小僧が隠れるくらいのデニムのパンツ。裾のところがフリンジになっている。インディゴブルーで表面に白い小花が一面にプリントさせていた。素足にサンダル。 一方、俺の方は、いつもと変わり映えしない。…しいて言えば。 「お待たせっ! あれ? 床屋さんに行ったの? さっぱりしたのね」 梨花ちゃんは俺を見るとにっこりと微笑んでそう言った。それから、急に少ししゅんとして。 「ごめんね、お弁当作っていたら、遅くなっちゃった」 少し身をかがめて、胸の前で手を合わせる。そんなに身長差はないけど、微妙に上目遣い。ああ、可愛いぞ。 …それにしても、弁当!? もしかして、その手に持ってる「いかにも」手作りランチが入っています風の籐のランチボックスかっ! すげー、こんなに漫画の世界だけかと思っていた。本物がちゃんとあるんだ〜。えええ、梨花ちゃんの手作り? マジ? いいのっ!?
――いや。待て待て。 俺は現状を冷静に把握しようとしていた。つい浮かれてしまうけど、そんな状況じゃないのだ。だいたい、昨日俺は梨花ちゃんに人間として最低のことをしようとした。未遂で終わったからいいようなものの、下手したら警察沙汰の事件だ。もう合わせる顔なんてなかったのに。 こうして、のこのこ出てきたのには訳がある。ひとこときちんと謝りたかったのだ。昨日は彼女が言うだけ言って、さっさと帰ってしまったから、機を逃してしまった。 今までの俺だったら、こういう状況は裸足で逃げ出していた。嫌な状況になると、真っ先にさじを投げていたのだから。でも…今回はそうは行かないと思った。やはり、謝らなくては。誠心誠意を込めて、謝らなければ。そのためだけに、今日は来たんだ。何も本当に梨花ちゃんとデートしようとした訳じゃない。
「あっ、あの〜。梨花ちゃん…」 「ねえっ! 早く行こうよっ!! 私、ぎゅうぎゅうに過密スケジュール組んできたから。…ねっ!?」 俺が言いかけた言葉は、梨花ちゃんに強引に遮られた。そして…それだけでは済まなかったのだ。彼女は突然俺の右側に立つと、するっと腕を絡ませてきた。 …ぎゃああああああああああっっっ!!! 待てっ、待てっ!! これじゃあ、身体が密着してすごいぞ。髪の毛の感触が直に感じ取れる。それどころか、二の腕に…胸が、胸がぴたっとくっついてくるんだけど、分かっているんだろうか? やっ、やわらかいぞっ、気持ちいいぞっ…! 「あああ、あのですねっ…あのね、梨花ちゃんっ…!」 「ん〜?」 いつもよりももっとコドモっぽい眼差し。今日の彼女には綺麗よりもキュートという言葉が似合う。ピンで前髪を押さえているせいかいつもよりもおでこがよく見えて…そのつるつるとした滑らかさがまたまぶしい。 「どうしたの? …恋人って、こうするんでしょ? 私、色々勉強してきたからね、今日はバッチリだと思うわ」 輝く笑顔の下に、どんな思惑があるのか。もう、冷静に考えるゆとりなんて吹っ飛んでいた。
*** *** ***
「うわ〜、さすがに平日はすいてるのね」 俺の腕を掴んだままの梨花ちゃんは本当に嬉しそうに言った。それから、こちらに目配せして、そっと腕を解く。軽くなったその部分が、急に心細くなる。すると彼女はぽんとランチボックスを手渡してきた。 入り口付近にはハトが大量に飛んでいて、さらにご丁寧に「ハトの餌」が自販機で売っている。何だろ〜、これたったひとつかみで300円もするんだけど。こう言うので儲けて、園内の維持運営に使っているんだろうな。入場料は大人500円だし。 ばたばたばた。 うなりを上げて、何十、何百のハトが彼女に群がってくる。正直言ってこう言うところのハトって怖い。小さなコドモなどは結構泣いちゃってるよな〜。腕とかに足がかすっただけでも結構痛いし。今も、梨花ちゃんの姿が一瞬ハトの中に消えて、ぎょっとした。 「…ふう、面白かった」 大丈夫、と言おうとして口をつぐむ。そうか、梨花ちゃんは獣医さんを目指していたんだ、だから、鳥とかそういうのも平気なのかも知れない。 にこにこと嬉しそうな笑顔を見ていると、自分の心の狭さを反省する。300円もする餌を買うなら、自分の為に金を使いたいといつも思っていた。ここでハトに餌をやったことなんてなかったのだから。梨花ちゃんは…そういうの、平気なんだな。
細かい泡が辺りに舞い散る。シャボンの玉はふわりふわりと海風に乗って舞い上がり、やがてぱちんと弾けて消えていく。一個だったら頼りないその成り行きも、あとからあとから繰り返されるとめまぐるしくて目を見張るほどだ。 「…綺麗ね」 そう言って目を輝かしている梨花ちゃんの方がよっぽど綺麗だと思った。でも、もう今更そんなことは言えない。梨花ちゃんだって、俺のことは十二分に失望したはずだ。もう二度と会って貰えなくても仕方ないのに、どうしてこんな風にふたりでいるんだろう? 何故、彼女はこんな1日を過ごしたいと言ったのだろう。俺にはさっぱり分からなかった。 …分からないままだったが。それでも、こうして嬉しそうな笑顔を近くで見られるのはちょっといいかなと思った。その資格もないと知りながら、それでも彼女の隣にいられる自分が嬉しい。今日一日くらいならいいかなと思ってしまう自分が情けない。 「俺たちも、やってみる?」 屋台を覗いて、うちわの真ん中がないみたいな丸い枠と平たい皿がセットになっている奴を求めた。それで500円。もちろん、子供たちが遊んでいるしゃぼん玉メーカーなんて1200円もするから、それに比べたら安いんだけど。やっぱ、ぼったくりだよな、とか思ってしまう。 皿にしゃぼん玉の液を流し込んで、枠に膜を張る。やってみる? と差し出すと、梨花ちゃんはおずおずと受け取った。 「…こういうのって、あんまりやったことがなくて…」 「ゆっくりと腕を水平に動かすだけだから、すぐに出来るよ?」 俺がジェスチャーでやってみせると、それをじーっと見つめていた彼女がそろそろっと腕を泳がせた。つーっと動きに合わせて吹き流しのような長いかたちが現れる。でも、振り切ったところでばちっと弾けた。 梨花ちゃんはその衝撃に最初驚いて、次に壊れてしまったショックで哀しそうな表情になる。俺は無言でそれを受け取ると、空に向かってふわっと腕を振った。 …ぶわん…。 子供の頃、妹や弟にせがまれて何度も何度も練習した。そんなことはとっくに忘れていたが、身体は覚えていたらしい。一発でとても綺麗に仕上がった。 人間の頭よりも大きなシャボンの玉がゆうらんゆうらんと揺れながら、だんだん降りてくる。大きな玉は高く飛ばない。風が吹けば少しは舞い上がるが、もともと抵抗のありすぎるかたちをしてるから、風圧に負けて壊れてしまったりするし。 「うわっ…すごいっ!」 「…消えちゃった…」 しゃぼん玉がすぐに壊れるのは当然なのに。梨花ちゃんの残念そうな顔を見ていると、もう一度、もう一度と頑張ってしまう。風の向きを計算して、腕の振りを工夫して、どうしたら高く長く飛ぶかを考えながら繰り返した。 いつの間にか周りに子供たちがたくさん集まってくる。みんな歓声を上げて、しゃぼん玉を追いかけたり、もっと作ってくれとせがんだりする。俺は液がなくなるまで、延々と繰り返す羽目になった。 子供たちに囲まれて「お姉ちゃん」と呼ばれている梨花ちゃんもすごく可愛かった。
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ちょっと塩が足りないなとか思ったけど、口にしなかった。どうも梨花ちゃんはそれほど料理が得意じゃないらしい。お父さんがキッチンを仕切ってしまうほどの凝り性で、お母さんもお姉さんもそれなりにこなす。だから、彼女の出番はなかったんだと言った。 「朝の、5時に起きたんだけど…もう失敗ばっかりして…」 卵とツナとハムとキュウリとスライスチーズ、レタスにトマト。彩りを考えて必死に作った姿が想像出来る。パンがすごくおいしいと思ったら、お父さんの手作りなんだそうだ。雑貨屋さんをやっていると聞いていたが、パンまで売っているのかな? 小杉の持っていたあのレアカードを思い浮かべる。あの俳優のようなナイスガイが小麦粉と戯れるのは…想像付かないが。 ここにあるのの、5倍くらいの失敗作を家に置いてきたと言う。朝も昼もそれを家族は食べる羽目になるのだ。誰とどこに行くのってしつこく聞かれた、と首をすくめて笑った。 一生懸命作ってくれたんだ…そう思ったら、胸がいっぱいになって味なんて分からなくなる。梨花ちゃんの笑顔が胸にじんと来た。
コインが全部なくなって、さて出ようかと思った時、梨花ちゃんがまた足を止めた。 入り口のところにあるガチャポン。あのカプセルの中に細かいおもちゃが入っている奴だ。細い通路の両脇にずらっと並んでいるそれをのぞき込みながら呟く。 「…こういうのって…、なかなかいいものは出てこないんでしょ?」 小さな女の子用の、子供だましのジュエリーが透明なボディーから見え隠れしている。プラスチック製で、本当にちゃちなモノだろう。値段だって一回200円だし。 多分、ファンシーショップにでも行けば、500円でもっとまともなアクセサリーがあると思う。元彼女のつき合いでそう言う店に付き合わされたが、500円の指輪だって、5万円の本物とどこが違うか俺には分からなかった。 「分からないよ? …やってみる?」 財布から、100円玉を2枚取り出すと、機械の中に落とす。彼女にダイヤルを回すように勧めた。 がちゃがちゃ、がちゃん…! ガチャガチャ、と言うのはこの音のせいなんだろうな? 本当の名前は何て言うんだろ。まあ、白い指がカラフルなダイヤルを回すと、取り出し口に楕円のカプセルが転がり出てきた。ぽん、と開けると、中から出てきたのは透明なガラス玉の付いたリングだった。少し青が入っていて、…まあ、アクアマリンと言えなくもない。 「…可愛いっ…!」 「これ、貰っていい? 私のものにしていいよね?」 そんなに、はしゃがなくてもいいのに。こちらが恥ずかしくなるほど、彼女はうきうきとした声でそう言った。まあ、俺がこんなモノを持っていてどうなることでもない。がらくたには違いないが、彼女が欲しいというなら構わないだろう。それにしても、機械の表に張ってある写真と比較しても本物はちゃちだなあ…。 俺がそう思っているうちに、梨花ちゃんはさっさとそのガラス玉のリングを指にはめた。…そう、惜しげもなく一番大事な指に。子供用ではあるが、フリーサイズで切れ目の入っているリングだから大丈夫。さすがにぎょっとして見ると、不思議なことに200円のガラス玉が彼女の指にはまると何万円もする高級品に見えてきた。
「ふふっ…」
*** *** ***
ゲーセンを出ると目の前にはここの目玉「大観覧車」があった。家族や友達としかここに来たことがないと言った梨花ちゃんはもしかしたら知らないかも知れない。でもあの乗り物には「伝説」があるのだ。
今までの彼女たちとも何度か試みたけど、成功したことはなかった。何でもない時にてっぺんでキスしても「永遠」は約束されないことはもう実証済みだ。あんなに入れ込んでいたのに、彼女たちはさっさと俺を見限っていった。もっといい男に乗り換えていったのだ。 ああ、それを思い出すから、この場所も好きではなかった。梨花ちゃんに誘われなかったら、二度と来なかったかも知れない。あんな思いはもうたくさんだ。
「聖矢くん…」 「あのね、付き合って欲しいところがあるんだ。…これから、いいかな?」
…何だ? 何なんだっ!? あのっ…梨花ちゃんっ! どこに行きたいんだ、待てよ、いくら恋人みたいにしたいって…そんな。もういいんだよ、あんなの嘘だから…っ!! ぜーはー…、ああ、深呼吸してるのに心臓が高鳴る。この密着した状態では相手に心音が丸聞こえだ。
「えっとね…」 梨花ちゃんはくすぐったそうに首をすくめると言った。 「ウチの近くにある、柔道場なんだけど。…いい?」 ちらりと時計を確認して、ひとつ頷く。
…何? どういうことだ!? やはりどこまでもミステリアスな梨花ちゃん。にっこり微笑んでこちらを見つめる瞳に、ただ呆然と従うしかなかった。
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