「かわいい」と言う言葉にはいろんな響きがあると、私はずっと小さい頃から知っていた。
家族で街を歩く。パパとママと…それからお姉ちゃんと。そして、ベビーカーの中に弟がいる。ぽかぽかの昼下がり、何だか道行く人がみんな私たちを振り返っているんだ。他の家族はそんなこと気にも留めない感じで、お互いに笑い合ったりおしゃべりしたりしてる。でも、私はとても落ち着かない気分だった。 パパがベビーカーを押して、ママがお姉ちゃんの手を引いて。だから私はいつもみんなから少し遅れて歩いていた。別に仲間はずれにされている訳じゃないけど、ママとパパがぴったりくっついてるから、ママの片っぽの手には届かない。そして、パパは両手でベビーカーを押してる。無理を言えば、すぐに私ひとり分の隙間は空いたはず。なのにそうしようとはしなかった。 「あらあら、槇原さんっ!」 「っんまあ…、こちらが奥様ねっ! 初めてお目に掛かります〜っ、噂通りに可愛らしい方っ! お子さん方も、…んまあ、んまあ…お姉ちゃん、本当にかわいいわね、お人形さんみたい。素敵なワンピースね…」 パパとママのバリケードで私には直接見えなかったけど、どうも前の方でお姉ちゃんがおばちゃんにあれこれ話しかけられているらしい。「こんにちは」とかご挨拶してる声がする。そして「お利口さんね〜」って誉められてるわ。 パパは「いやぁ、わっはっは…」とか笑いつつも、まんざらでもない様子。ママもちょっと困ったように笑っている。続いておばちゃんはベビーカーの中の弟を誉めた。まだおしゃべりしない弟はいつもにこにこしてるから、大人受けがすごくいい。誰に抱っこされても泣かないんだって。
…ああ、面倒くさい。早く終わらないかな…。 私は動物園のくまさんのようにパパママ・バリケードの後ろをうろうろと歩きながら、おばちゃんの話が終わるのを待っていた。 おなか空いたよ〜ソフトクリームを食べに行くんでしょ? 早く行こうよ〜。 今日着せて貰ったマーガレット柄のワンピースはお姉ちゃんとお揃い。なのに、何故かお姉ちゃんはピンクで私は水色だった。いつもそう。女の子みたいな可愛い色がお姉ちゃん、私はちょっときりっとした色ばっかり。そのふわふわと揺れる裾のレェスを見つめていた。
「あら、…まぁま、もうひとりお姉ちゃんがいるのね。あらあ…」 春植えの庭木の話を一頻りし終わったおばちゃんは、ようやく後ろに隠れていた私のことに気付いたらしい。その頃にはもうどうでも良くなっていてふてくされていた。でも、おしゃべりの大好きな人なんだろう、そのおばちゃんはまた、お姉ちゃんにしたのと同じように私に声をかけてくる。 「こんにちは、…へえ、梨花ちゃんっていうのねえ…かわいいわ。お姉ちゃんとタイプがまた違って…もう、よりどりみどりで槇原さんもお幸せですことっ! 両手に花どころじゃないわねぇ…」 そう言いながらおばちゃんは私たちをぐるんと見渡した。その時にはもう気付いていた。おばちゃんがお姉ちゃんと私に違う「かわいい」を言っていることを。 お姉ちゃんには近づいて、のぞき込んで頭をなでなでするみたいな「かわいい」…でも私にはちょっと遠くから見てる取って付けたみたいな「かわいい」だった。 無理矢理おまけのように付け足すなら、言わなくてもいい。ずっとそう思ってた。
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うす茶色の髪の毛はくるんくるんとカールしてる。ママが毎朝いろんな髪型に結ってくれてるけど、どうしても素敵になる。おリボンもヘアゴムもすごくよく似合っていた。肌の色はミルクの白。あったかそうな感じ。ハーフっぽいってよく言われてた。パパと似てるんだけど、パパをずっと可愛くした感じで。隣にいるとくるんくるん・ほわんほわんとして何だか落ち着かなかった。 お家にも入れ替わり立ち替わり、いろんな男の子たちがやってくる。みんなお姉ちゃんに夢中だ。どうにかしてお姉ちゃんと仲良しになりたいと、目の色が変わっているのがよく分かった。 幼稚園に行くか行かないかの頃に、もう男の人の浅ましい姿を見せつけられてしまった私は不幸だと思う。その時は「色眼鏡」なんて言葉は知らなかったけど、それでも嫌な空気を感じた。ほわんほわんのお姉ちゃんなのに、その周りはいつもばちばちと電波が飛び交っていたのだ。
「…あ、菜花ちゃんの妹だ」 賑やかな人垣がそれでも気になって、ちょこちょことそこに寄ってくと、必ずそう言われた。そして、男の子たちがお姉ちゃんを見る時の「うっとり」の目と、私を見る時の目は違うなと思った。 お姉ちゃんにはべたべたと近寄りたいっ! …って感じなのに、私のことはするんとすり抜ける。そりゃそうだ、お姉ちゃん目当てで来てるんだから、妹のこと何て構ったこっちゃない。コレが、もうちょっと大きくなると「ご両親や兄弟に気に入られることも重要…」という高等技術を駆使するようになるんだけど、まだ小学校の低学年だったから、それをやったら変。 ただ、中には例外もいて。やたらと格好付けていて、いつも白いワイシャツに七五三みたいな蝶ネクタイを付けている男の子がいたんだけど、そいつはへらへらと私にも愛嬌を振りまいた。でもはっきり言って気色悪かった。そのあとどこかでその人のお祖父さんというなにやらすごく偉い政治家の人に会ったけど…怖かったよ、笑顔が同じで。
私は、「菜花ちゃんの妹」――きちんと「まきはら・りか」と言う名前もあるのに、ほとんどの男の子はそれを無視する。「菜花」と「梨花」はひと文字しか違わないのに、わざわざ「…ちゃんの妹」と呼ぶ必要がどこにあるんだろう。 名前だって気に入らない。全然良くない。お姉ちゃんの名前と似た名前を付けたくて、適当にと言った感じだもん。きっとお姉ちゃんの時は一生懸命考えたんだよ。 私も自分が赤ちゃんの頃は覚えてないけど、弟が産まれた時の名付けのことは知っている。「男の子だから」とママが一生懸命考えてた。漢字を紙にたくさんたくさん書いて、夜中までうんうんと言っていたんだ。 …それなのに。私はいつもおまけみたいに。気に入らない。
どうして、私にはお姉ちゃんみたいなくるんくるんの髪の毛がないんだろう。私のは真っ黒でまっすぐ。せっかくママがおリボンで結んでくれても、するすると全部滑って落っこちてしまう。自分でも何度も何度も直さなくちゃならないのが面倒で、いつか垂らすままにしていた。
「菜花も梨花も本当に可愛い」 「菜花のことも梨花のことも大好きだよ」 …でも、知ってた。 パパが世界で一番好きなのはママ。それは当然のことなんだって。夫婦が愛し合って、だからあたたかい家庭が生まれる。一番大切なことなんだって。 パパの「大好き」はママに向けられている。たくさんの人の「かわいい」はお姉ちゃんに向けられている。 だったら、私はどうしたらいいのだろう…?
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そんな気持ちを心の中に浮かべてしまう自分がすごく悪い子のように思えた。お家に帰っても、あの男の子たちがごちゃごちゃといてつまらない。幼稚園から戻ると「行ってきます」と言って公園に出かけることが多くなった。 ママは私がお友達とお約束をしていると思っていたみたい。…そうだよね、女の子だもん。お姉ちゃんだって、いつもたくさんのお友達とお約束をしている。でも…私は何となくそれが面倒くさかった。 「今日は遊べる?」…そんな風に聞いて「あ、駄目〜ピアノのレッスンがあるの」なんて言われるとすごく悲しくなる。幼稚園の頃でもみんな塾通いがすごくて、空いてる日なんて、週に1日か2日。私立の小学校を受ける「お受験組」の子なんて、1日にふたつみっつと掛け持ちするほど。 面倒なことをして、嫌な気分になるんなら。最初から、ひとりの方がいい。私はいつも近所の公園でひとりでブランコをこいでいた。お友達が偶然来たりすると、一緒に遊んだりする。でも誰も来ない時の方が多かった。
その日もひとりでブランコをこいでいた。 見上げると洗い上げたみたいな水色の空が揺れている。多分、幼稚園の年少さんか年中さんの4月だったと思う。 「あれ…梨花ちゃん…?」 ふいに声をかけられて、振り向いていた。そこには私の目から見るとかなり大きな男の子が立っている。 「岩男くん」 ええと…お姉ちゃんのお友達、と言ったらいいんだろうか? ウチに遊びに来る男の子たちのひとりだった。でも他の子とは違って、自分から積極的に来てるわけではないみたい。お姉ちゃんの方が岩男くんを気に入ってるみたいで、無理に呼んでしまうみたい。ひとりの時はそれでもいいんだけど、他の男の子と一緒になった時は身の置き場がないみたいで可哀想だった。 私が岩男くんのことをよく知っていたのは、彼が私や弟の樹のことをきちんと名前で呼んでくれていたから。他の男の子たちみたいに「菜花ちゃんの妹」なんて失礼な言い方をしなかった。 「どうしたの? ひとり…? お友達は?」 黙って下を向いて首を横に振る。私の視界に、岩男くんの持っていた柔道着が見えた。上と下に別れているごわごわした素材の服を帯でひとまとめにする。畳むところを見せて貰ったこともある。岩男くんは柔道の道場に通っているんだ。 「お家、楽しくない。お姉ちゃんのお友達がいっぱいいて、うるさいの」 それは当時の私の知っている言葉を全て並べた、必死の訴えだった。何が気に入らないのかは分からない。でも妙な疎外感があって、自分の家なのに、入り浸っている男の子たちが戻る5時までは全然居所がなかった。 「…ふうん、困ったね」 私がちょっと驚いて顔を上げると、岩男くんが静かに笑っていた。てっきり「そんなこと言わないで、家にもどりなよ」とか言われると思っていたから、びっくりしたんだ。 「梨花ちゃんは…菜花ちゃんの友達が嫌いなの?」 ぎしっと音がして。岩男くんが誰も乗っていなかった隣りのブランコに腰掛けた。その言葉にもどっきりする。そこまでは考えていなかった。私の中にずっと巣くっていたもやもやした想いが、その時初めてかたちになる。 「お姉ちゃんの妹って言われるから、…それが嫌」
おまけみたいに、そんな扱いをされるから。弟の樹は初めての男の子だから、パパやママも田舎のお祖父ちゃんやお祖母ちゃんもみんなちやほやする。それは一人目のお姉ちゃんも一緒。何もかもが初めてだから、ドキドキした気持ちがみんなからも伝わってくる。でも、私の時は違う。 「ええと、…菜花ちゃんの時はどうだったっけ…?」 私にとっては初めてでも、みんなにとっては何でも二回目。だから、お姉ちゃんの時のことを思い出す。そうだよ、名前だってそうじゃない。パパはお姉ちゃんに似てる名前を考えただけ。私のことなんて何も思ってなかったんだ。
まだちっちゃかった私は自分の思っていることを上手に話すなんて無理だった。でも、岩男くんはずっと黙ったまんま、静かに私が話し終わるのを待っていてくれたんだ。そして、もうすっかりとしょぼんとして立ち直れないくらいずううんと暗い気分になった時、ようやく話しかけてきた。 「あのさ、梨花ちゃん。お散歩に行こうか?」 …いいの? 柔道は。そう聞いたら、今日は自主練習だから、別にいいんだ、とまた少しだけ笑った。
そろそろてっぺんかな…? って思ったら、ぱあっと目の前が拓けた。 「うわ…!」
小山の頂上に…首が痛くなるほど大きな樹が立っていた。そしてそれは今まさに鈴なりの白い花を満開に付けて、青い空を背にキラキラと輝いていたのだ。花の色は白…純白っていうのかな? 真っ白で、絵の具のチューブから出したみたい。それが小さな葉っぱの上にちょんちょんと乗っかっているのはすごく綺麗だった。濃い緑と白のコントラスト。 …自由の女神がお花になったみたい。そんな風に思った。
「綺麗でしょう…?」 「これね、ヤマナシの花なんだよ? 梨の花」 私がびっくりした顔で見たら、岩男くんは恥ずかしそうに俯いてしまった。 「梨って? …ええと、お店で売っている果物の?」 知らなかった。こんなに真っ白で可愛い花だったんだ。何だかもうドキドキして、立っているのもやっと。お花のあまりの見事さに腰が抜けそうだった。 「梨はね、実を食べるように栽培するのは結構難しいんだって。手入れも手間が掛かるし、なかなか実を付けないし。もともと山に生えていた野生のヤマナシやアオナシを改良して食用にしたんだって。でも花は万葉の時代から詩に詠まれているんだよ…?」 そのほかにもいろんな話をしてくれたけど、私には難しくて全然分からなかった。 そしてしばらくの時間、私たちはふたりで樹の下にいた。幹はごつごつして、腕を回しても抱えきれないほど太くて。でもそこから本当に可憐な花を咲かせるんだ。
岩男くんはそれ以上、何にも言わなかった。 でも…その日を境に、私は自分の名前が大好きになった。お姉ちゃんの名前の菜の花みたいに、みんなが知っていて親しみを持っている花じゃない。だけど、梨の花だってすごく綺麗、それに誰も見てくれなくても、こんな風に一生懸命咲くんだもん。すごいよ。
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