すぐ隣。むっくりと盛り上がった小山…人間がカウンタに突っ伏して寝てる格好。赤いチェックのシャツ。 実はさっきから気になっていた。どうでもいいけど、この人すごくお酒臭い。確かこのお店、アルコールは置いていなかったはずよね? そりゃ、ひとつ奥に道を入れば居酒屋が並んでいる繁華街だ。酔っぱらいくらいいるだろう。 その向こうに4,5人の大学生っぽい男の人たちがたむろっていて、しきりに携帯でなにやら連絡を取り合ってる。どうも一次会を終えて、次のお店を探しているみたい。週末だしどこもいっぱいなんだろうな。辺りに話し声が丸聞こえなのも構わずに、ぎゃんぎゃんうるさい。やだなあ、公共の場なのに…とか思っていた。 ああ、こんなのに関わってられないわ。そう思って、高い椅子の上から、ぽんと飛び降りようとした。
――つんっ! 「…痛っ…!」 何かに髪が引っ張られたんだ。まあ、垂らしているのがいけないと言えばそこまでだけど…と振り返る。なんと言うことだろう、私の髪の一房が「小山」のシャツのボタンに引っかかっていた。袖口のところの奴。そっぽを向いてる時に何かの拍子で絡まったのだろうか? え〜、もうっ! 面倒だなあ…。 仕方なく髪がこれ以上引っ張られないように椅子に座り直す。そして髪をどうにかしようと…思ったんだけど。あろうことか、急に姿勢を変えたその人が、私の髪の先ごと、袖口を自分の身体の下に入れてしまった。 「あっ…あのっ!? すみませんっ…」 あああ、もうっ。情けないったらない。ただですら、ぺしゃんこな気分なのに、さらなるトラブル発生。やっぱりさっさと家に戻れば良かったんだ。こんなところでまどろんでいたのがいけないんだわ。 とりあえず、冷静に現状を把握しよう。ざっと見て、数十本の髪が巻き込まれている。これだけの量が抜けたら大変だし、絡まったからと言って、引きちぎるわけにもいかないし…そうなったら、どうにかして袖口をこっちに出して貰うしかないだろう。不本意ながら、私はおずおずと酒臭いその人に声をかけた。 「うっ…、う〜〜〜んっ…!?」 終点で揺り起こされたみたいに、ぼーっとした感じで顔を上げる。やだ〜、顔中無精ひげ、しかも髪もぼさぼさ。男だからって、身だしなみくらい整えなさいよっ! はっきり言ってヒゲ面もあまり好きじゃないわ。どうしよう…浮浪者、とかじゃないよなあ…? 「あっ、…あのですね。ちょっと――」 髪の毛が、と言いかけたその時。ぶおんと私の周りに突風が吹き抜けた(気がした)。
「うお〜〜〜〜んっ、いずみっ! ああっ、戻ってきてくれたんだなっ…!!」
その雄叫びが響き渡るのと、酒臭い身体が私に絡みつくのとどっちが早かっただろう。髪の毛を解きたいと言おうとしたのに、さらに密着してしまいどうしようかと思う。まあ、こんな時「きゃあ、殿方が…」とか思ったりもしないけど。男子たちと寝技なんて日常茶飯事だし、今更ときめきもないわ。正直「ぎゃあああっ!」と言う感じだった。 「ちょっ…! 何言ってるんですかっ!?」 一瞬の隙をついて、身を剥がす。一体何なのよ、この人っ! 全く不意打ちなんだからっ…、ああ、油断したわ。次はこうはいかないわよっ。ささっ、もう手には安全ピンを装着。いつでも反撃出来るわ。これって護身術の基本よね。 私がキッと睨み付けて身構えると、目の前の男はぼんやりとした視線で、ぬぼーっと私の顔を見た。ふたりの間にピンと張りつめた一房の髪の毛。ちなみにまだ、彼はこの現状に気付いていない。 「あ…あれー? …いずみじゃない」 当然ですっ、ようやく気付いたんですかっ! …というか、そんなことって瞬間的に気付いて欲しい。私は肩で息をしながら、どうやって話を持っていこうか頭の中で考えを巡らせた。手っ取り早く、一秒でも早くこの人から遠ざかりたい。 「何だぁ…いずみかと思ったのに…違ったのかぁ…」 そう言うと目の前の男は俯いて、ぼたぼたと顔から落ちてきた涙と鼻水を一緒に袖口で拭った。きゃあああっ! その袖っ! どうでもいいけど、私の髪の毛…っ! 「あ、あのですねっ! ちょっと――」 あああ、何回言い直してるんだろ。こっちが悪い訳じゃないのに。 「なああ、聞いてくれよっ! いずみはいい女だったんだよ〜、なのにっ…なのにっ…! どうしてなんだよぉっっっっっっ…!」 ざわついた店内。軽快に流れていく有線の音楽。そんな中で会話しようとしたらお互いの距離を詰めるしかない。仕方なく嫌々ながら、ぼろぼろの泥酔男に近づくと、がしっと腕を掴まれた。そして、ぶんぶんと振り回される。 「いずみはっ…いずみはっ…! 俺が今年も大学駄目だった時も、必死で慰めてくれたんだ。大丈夫、来年があるわって、優しく言ってくれて…なのにっ、どうしてなんだよっ…! 進学したらあっという間に新しい男を作りやがってっ…!!」 唖然としている私の前で、いきなりの大演説が始まった。この台詞をろれつの回らない、しかも大声でまくし立てられる。ばっかじゃないの〜と飛び退きたいところだけど、悲しいかな髪の毛が。 はっと気付くと。いつの間にか、私たちの周りには人垣が出来ていた。 ところでっ、仲間らしい大学生たちはどこに行ったのっ!? 慌てて探してみたけど、目障りなくらい目立っていた一団が忽然と消えている。いたいけな女子高生に泥酔した仲間を押しつけて、さっさと逃げたわねっ、仲間なら最後まで面倒見なさいよっ! 「…いずみぃっ…!」 大きく天井に向かって叫ぶと、またカウンターに顔を伏せて、おんおんと泣き崩れる。泣き上戸か、それにしても馬鹿馬鹿しい。何よ、女に振られたの? それでこうして、酒を浴びてくだまいてるの? …それでも男なのかしら、もっと冷静に出来ないのっ!? 「今年も」大学が駄目だった、と言うことは、二浪目っ? 二浪なの、この人? やだ〜、受験生にとって縁起の悪い人種だわ。こっちは現役目指しているんですからね、変な菌がくっついたら大変だわ。 で――…、彼女の方はめでたく「サクラサク」でキャンパスライフをエンジョイしてるのね? それで新しい男が出来たって、そんなの当たり前じゃないの。そう言う状況くらい、容易に想像出来るわ。 背中で人垣のうごめく気配がする。とんでもないわ、この状況をぱっと見たら痴話ゲンカじゃないの。天下の山ノ上高校の生徒会副会長が、浮浪者まがいの男とやり合ってるなんて、そんなの冗談でも許せないわ。そうよ、私のはそれなりのプライドってものがあるんだから。 「いずみぃ、いずみぃっ…! 捨てないでくれよ〜、戻ってきてくれよ〜っ! 『幸せになれよ』なんて下手な芝居、どうして見抜いてくれなかったんだよぉ〜〜〜〜〜〜〜っ!!!」
ざわざわざわ。 背後の人垣がだんだん分厚くなっていく。冗談じゃないわ、こんなのに付き合ってられますかっ! 引きちぎれるのを覚悟して髪をぐいぐいと引っ張ったら、ようやくぷちぷちと鈍い音を立てて私と泥酔男との繋がりが解けた。やっぱ、髪の先が少しは切れたな。明日は美容院に行かなくちゃ。面倒…。 まあ、いいや。これでトラブル回避ね。もう、帰ろうっと。
「あのー、スミマセン。お客様…」 予備校のテキストやら、ノートやらがそのまま入っているカバンを手にして、椅子から降りると。私の目の前には赤と白の縞々の制服を着たこの店の店員が引きつった笑顔で立っていた。 「他のお客様のご迷惑になりますので、続きは外でやって頂けますか…?」
*** *** ***
いくら訴えても、頭の悪そうな店員たちは店を出て行く私に泥酔男を押しつけてきた。あのねえ、分かってるんでしょうね? 私がどうしてこんなむさくて馬鹿みたいに泣きじゃくる男と知り合いなのよ。そんなわけないでしょ?
男なんて、一部を抜かしてスカばっかり。本当に馬鹿っぽくて見てられないくらいだ。ウチの高校ですら、頭の出来だけは一人前で性格は最悪の馬鹿がたくさんいた。
「…いずみぃっ…!」 しくしくしく、ずるずるずる。 男は情けなくも呻きながら泣き続けてる。そして、目の前にも泣き続ける風景がある。 しとしとしと、べちゃべちゃべちゃ。 店から強引に追い出されて、しかも有り難くないおまけまで押しつけられて。そしたら、いきなりの大雨。こんなの予報でも聞いてないわよ。確か、夕方は夕陽まで出ていたじゃないの。道路のあちこちに出来ている水たまり。多分、もう長いこと降っているんだろうな。いつもはきらびやかに見える夜の繁華街も、こうして雨に打たれるとあっという間に安っぽく惨めになる。 ざーっとライトが流れて、目の前をタクシーが通り過ぎていく。ええと、駅はあっちの方向ね。少し濡れても仕方ないわ。もう帰ろう…。
立ち上がろうとしたら、また、後ろから腕を掴まれた。 「待ってくれよ…っ! 君まで俺を置いていくのかよ〜…、ひとりにするのかよ〜…!」
もうっ! 何、馬鹿なこと言っているのよっ! いい加減にしなさいよっ!! 私はおなかの奥から、怒りの爆弾が弾けていくのを感じていた。そのマグマが湧きあがって、怒りが全身にみなぎってくる。 「何言ってるのよっ! いい加減にしなさいよっ…! 世界中で自分が一番不幸みたいにべそべそするんじゃないのっ! あんたよりも惨めで情けない人間なんていっぱいいるんだからっ!!」
薄暗い路地。人通りのまばらな中途半端な時間。だからなのかも知れない。自分でもびっくりするくらいの声が出ていた。 「泣きたいんなら、そうやってずっと泣いてなさいよっ! 泣けば彼女さんが戻ってきてくれるなら、そのまんま一生泣いてなさいよっ!!」 目の前の男が、びくっとして顔を上げた。でも、そんなことも気に留められないくらい、私は最後までまくし立てていた。
――すごく、腹が立った。 悲しくて、惨めで。それで誰彼構わず、つっかかっていられればどんなに楽か知れない。悲しい時に悲しいと言って泣けない人間だって、世の中にたくさんいるじゃないの。
「そうやって、ずーっと嘆いていればいいんだわっ! 気の済むまでやってて結構よっ、…付き合いきれないわっ!」 馬鹿も休み休み言って欲しい。何が「置いていく」よ、最初から拾ってなんかないんだから。あんたと私、なんの関わりもないでしょ? 関係ないのよっ! 私にとって、あんたなんて、どうでもいいのっ!!!
…そうか。 ぴきん、と心が割れた。 自分の中を吹き荒れた嵐のような感情。それに全てを洗い流された瞬間に、私は真実に気付いた。
――岩男くんにとって、私なんて、どうでも良かったんだ。
あんな、キスシーンを見せつけられるとは思っていなかった。 まあ、向こうはこっちに気付いてなかっただろう。多分、一日早くこっちに戻ってきた岩男くんと、仕事帰りのお姉ちゃんがバッタリと会って…という感じだったんだろうから。お互いにお互いのことだけしか、見えなくなっていたんだ。 そんなことって…やっぱ、当然だったんだろうな。 ちっちゃい頃から。パパとママのキスなんて、日常茶飯事に見ていた。遊びに来た他の友達にはびっくりされたけど、パパとママにとっては当たり前のことだったんだ。いつでもすっごく仲が良くて、パパはママにめろめろで。ママも恥ずかしそうにしていたけど、でも嬉しそうだった。 岩男くんとお姉ちゃんは中学の頃から付き合ってるんだから、キスくらいしていて当たり前だと思っていた。それ以上のことだって、きっと。いつだったかお姉ちゃんとママが避妊がどうのとか夜中にこっそり話しているの、聞いちゃったことだってあるもん。想像するのは嫌だったけど、それは当然なんだ。恋人同士なんだから。
でも、私はそれを認めていなかったんだ。頭では理解しているつもりでも、もっと深いところでは拒否していた。岩男くんが関西の大学に行ってしまった時点で、お姉ちゃんは私と同じところまで押し戻されたような気がしていたんだから。 お姉ちゃんのどこが、私よりも勝っているの? …どうして、岩男くんはお姉ちゃんを選ぶの? 私じゃ駄目なの…? 岩男くんは、いつでも私のことを分かってくれたじゃない。本当に辛くて、でもどうしていいのか分からない時にも、さりげなく支えてくれた。それも…私がお姉ちゃんの妹だから、なの? それだけで、優しくしてくれたの…? それ以上は、なかったの?
「あ…ごめん」 急に、私を現実に引き戻す声がした。気がついたら、さっきの泥酔男が、少しだけ正気に戻った顔で私を見ていた。 「何か…いろいろ、突っかかったんだよな、俺。ごめん、君、いずみじゃないのに。…いずみよりも、ずっと綺麗だし…ごめん、本当にごめん」 「え…?」 何か、急に普通になっちゃって。そうしたら、こっちも怒鳴ったことが恥ずかしくなってくる。 怒りにまかせて振り上げた拳の行き先を失った気分で、途方に暮れる。私はその時ようやく、自分の上に雨粒がぼとぼとと落ちている状態に気付いた。雨の路地の真ん中に、私は突っ立っていたのだ。カバンは男の脇に置きっぱなしで無事だったけど、制服の全身はずぶぬれだった。 「何か、ダチもみんなどっかいっちまったみたいだし、俺、帰るわ…ごめんなっ…!」 そう言うと、ふらら〜っと立ち上がる。いくら、少しは酔いが醒めたと言っても、まだまだ危ない足元だ。千鳥足ってこういうことを言うのかなと、その背中を呆然と見守る。ふらら、ふららと右に左によろけながら、大丈夫なのかなあ。 そう思っていたら、案の定。がこん、と道の脇のゴミ箱に躓いて転んでる。 「いててててっ…!」 ざんざんざん。ますます強くなる雨足。それが打ち付けるアスファルトの上、捨てられた子猫よりも頼りない背中。
こういう時って。 このまま立ち去るべきなんだろうな。私もこれだけ濡れてしまったら、もう電車には乗れない。でも駅前まで行けばタクシーがあるだろう。それに乗ればウチまで帰れる。運転手さんもちょっと困った顔をするだろうけど、お金を貰って人間を運ぶのが仕事なんだから大丈夫じゃないかな。タオルくらい、常備してるだろうし。 これ以上、関わっちゃいけない。こんなヤバそうな人。触らぬ神に祟りなし、っていうじゃない。 それなのに。
いくら説得しようとしても、私の身体が心と違う方向に動いていく。カバンを抱えたまま、ぬれねずみになっているその男のところまで駆け寄った。 「…大丈夫?」 私がしゃがんでのぞき込むと、彼も不思議そうな顔をしてる。 「…え…?」 まさか追いかけてくるとは思わなかったんだろう。イマイチ焦点の合わない瞳が私の輪郭を辿っていく。 「まっすぐ歩ける? ここから家まで歩いていけるの…?」 「…あ…」 彼はこちらの質問には答えず、ただただ、穴が空くほど私を見てた。興味本位にじろじろ見られるのはいつものことなので、とっくに慣れていた。だけど、彼の視線にはいつもなら感じるいやらしさがなくて不思議だなと思う。 「そっか〜、…そうか、分かった。そうだったんだっ…!」
路地裏、ゴミバケツのすぐ脇。頭のてっぺんから打ち付けてくる大きめの雨粒。濡れたアスファルトの上を流れていくネオンの明かり。 彼の腕が、両方から私をがしっと掴んだ。 「君もっ…、悲しかったんだよなっ! 変だなと思ったんだ、最初見た時に鏡を見てるのかと思ったんだよっ!」
――は…!?
そんな馬鹿な。そんなはず、ないでしょう…!? この無精ひげの男と、私のどこが似てるというのよっ! 馬鹿も休み休み言いなさいよねっ…!? 思わず、言い返そうとした。でも、彼の瞳のやわらかい色を見ていたら、何も言えなくなる。すううっと吸い込まれそうな、とても不思議な色彩。ちかちかと流れていくライトが、彼の前髪を揺らす。制服に吸い付いた雨粒が、いつか吸い込んでまだら模様に変わっていた。
「…悲しい恋をしてるんだ…?」
その声が。私の耳から入って、そのままつううんと脳に染みこんでいった。音で判別するよりも早く、何かもっと違う感覚が受け止めた。何と表現したらいいのか分からないけど、まさしくそんな感じだったのだ。
悲しい…恋? そうなの? 私、そうなの…? 悲しかったのかな、そうなのかな。
きっぱりと言い切られて、愕然とする。悲しかったんじゃない、ずっと口惜しいんだと思っていた。思い通りにならない人生が、自分で頑張っても「菜花ちゃんの妹」になってしまう現実が口惜しくて、口惜しくて仕方なかった。 ひとつぐらい、思い通りのものを手に入れたい。それがお姉ちゃんのものだと知っていたから、余計欲しくなった。お姉ちゃんが欲しくてたまらないものだから、欲しかったのだろうか…?
「えっらいなぁ〜、君、頭も良さそうだし、しっかりしてそうだもんなっ…! でもさ、分かるよっ、悲しいんだろ? 悲しかったら、泣けばいいじゃないか。もうこれだけ濡れていれば、泣いたって分からないだろっ…?」 背中をぽんぽんと叩かれて、それでも涙なんて出てこない。悔し涙は流せても、そんな悲しい感情を溢れ出させることなんて出来るわけないじゃない。 なんと言えばいいのか、思いつかない。呆然としたまま私が固まっていると、彼はふうっと悲しそうに目を細めた。 「そっか――泣けないんだ。…いいや、だったら、俺が泣いてあげるよ。君の心が軽くなるように、俺が君の分まで泣いてあげる。…って、どうしたんだろっ、俺、変だよな〜」 自分で自分に突っ込んで。そして、ちょっと照れ笑いして。その泣き笑いの表情が、少し歪んだ。 「俺たちは同志だ、辛いけど頑張ろうなっ…、きっと今に、いいことあるからさっ…!」
冷たくて固い舗装の感触が膝から伝わってくる。彼の腕が背中に回って、あのお店での時よりも、ずっときつく抱きしめられていた。 ――そっか…、私って悲しかったのか。
そう思った瞬間、雨の音も、表通りの車の音も人の声も遠ざかった。彼の背中の握りしめると水がじゅわっと絞れるくらいのシャツにすがりついてぬくもりを感じた時、私は生暖かいものが自分の頬を流れていくのに気付いた。 ただ、岩男くんが好きだった。…お姉ちゃんのものだからじゃない、岩男くんだから好きだった。手に届かないって分かっていても、諦めきれないと思っていたのに…。 大好き、という心が中途半端にぶら下がっている。心の奥の本当に気付いた瞬間に、私は自分の行き先を見失っていた。
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