…改訂前・10…

「玻璃の花籠・新章〜藤華」

 

 

 部屋に満ちた朝の光に気付くのが遅れたのは、戸口に背を向けていたからだろうか。ゆっくりと首を回しながら、瞼を開けたとき、藤華は思わず跳ね起きていた。

「……ん……」

 背後でごろんと寝返りを打つ音がする。慌ててそこら中に散らばった衣をたぐり寄せ振り向けば、未だに夢の中を漂い続けている貴人がいた。

 ――どうしよう、今は何時なのだろうか……?

 普段の藤華は夜明けと共に目覚めるほどの早起きである。まだ人影のない耕地に出て花を愛でたり、変わりゆく里の風景を眺めるのは彼女のひそかな楽しみであった。誰にも遠慮することなく過ごせるのは、我が家であってもなかなか叶うことではなかったから。
 だから、このように日が高くなるまで几帳奥にいたのは初めての経験だ。ああ、何たる失態。こんなに寝過ごすとはうかつであった。あまりに心が乱れて、焦るばかりの指先では腰ひもも上手く結べない。そのうちに、裏戸を叩く音がした。

「姫さま、姫さま……その、もう人の通りが多くなる時間です。あの、……庵の前に馬が。そのままでいて、宜しいのでしょうか」

 いつになく慌てた佳乃の声がする。藤華もはっと息を飲んだ。

 ……そうであった、昨夜嵐の中を鷲蘭が駆ってきた馬が、表に繋がれたままになっていたのか。おとなしく鳴き声も上げないので、すっかり忘れきっていた。確か、彼の愛馬は美しい毛並みの白馬。その辺にいるようなものとは比べものにならぬほど立派であったはず。それが忽然と現れたら……誰もが驚くであろう。何かを察したのであろう侍女は、戸の向こうで控えたままだ。

「あの、――そうね、誰かを呼んで……」

 そう言いかけた時に、ようやく前で合わせた小袖がずるっと後ろに引かれる。半分肌着の肩が見える姿で、藤華は後ろを振り向いた。未だに寝そべったままの鷲蘭はしどけない姿でこちらを見ている。その口元からくすくすと笑みがこぼれた。

「何をそんなに急いでいるの? ねえ、まだ起きるのはもったいないよ。もう少しこちらに一緒にいておくれ、そのようにあっさりとお支度をされるなんて……冷たすぎるじゃないか」

 今の侍女とのやりとりはお耳に入っているはず。なのにこの態度はどうしたことか。何も身につけていない胸元がちらりと覗けば、昨夜の出来事がありありと思い出されて頬が熱い。だが、今はそんなことに心を奪われているときではない。

「そ、そのように寝ぼけていらっしゃる場合ではございません。……ああ、末若さまも早くきちんとお支度なさって下さい。今、家の者に話して……こちらから誰にも悟られぬよう抜け出す手段を考えますから……」
 ようやく自分の支度を終えた藤華は、御自分からは動こうとしない御方の手を引いた。しかし、そうなればどちらの力が勝っているかは明らかである。自ら動こうという意志のない御方に業煮やして手を解く。とにかくは裏戸を開けようとした時に、後ろから抱きすくめられた。

「もう、……そんなに固いことを考えるのはよして。昨日のあなたはとても素直で可愛らしかったのに、あの声がもう一度聞きたいな」

 そして、首筋に落ちてくる熱。再び大きな波に呑まれていく心地がする。このまま身を任せて漂うことが出来たなら、どんなにか幸せだろう。だが、今の藤華が成すべきことは、このように浮ついたままの御方をどうにか無事に都にお返しすることだけだ。何も言わずに飛び出してきたのであれば、今頃はあちらでも大きな騒ぎになっているに違いない。ことの重大さにどうして気付いて下さらないのか。
 小袖の袷から入り込もうとしたお手を必死に振り払う。出来る限り気を確かに持って強い表情で振り返った。

「い……いい加減になさって下さい! そのように分からず屋でどうなさいますっ……、このままではあなた様もわたくしの家も大変なことになりますよ? このように末若さまが我が館に一晩留まったことが公になれば、謀反の疑いを掛けられても致し方ないでしょう。これ以上、わたくしを困らせないで下さい……!」

 もう少し他に気の利いた言い方があったと思う。でも、せっぱ詰まった状況ではありのままにお話しするしかなかった。もともと、西南の集落は王家に対し出過ぎた真似をする民として、口さがない者たちの間ではとくに評判が悪い。それだけに何かひとつことを起こせば、たちどころに悪者に決めつけられてしまうのだ。
 こちらに一夜お引き留めしたのは、藤華も承知したことであった。あの場で他にどんな方法があったのだろう。だが、夜が明けた今……もう、末若さまといえどこれ以上のことは許されない。今ならまだ間に合う、佳乃には真実を打ち明けなくてはならないだろうが、彼女ならいつでも心強い味方だ。必ずや、藤華の意をくんでくれるに違いない。

「……分からず屋はどちらだろう。私にはあなたの方が、ずっと困った人だと思うよ?」

 それなのに。まだ、鷲蘭はそのように言って、微笑みのかたちは崩さずにこちらをのぞき込む。

「一夜囲うのが許されないのなら、夜が明けてからこちらに参ったことにすればいい。それでも少しのお咎めは受けるだろうが、あなたの父は話の分からぬ相手ではないでしょう? きっと分かってくれると思うんだけど」

「……な……!」

 一体どうしたことだろう、藤華は混乱を隠せずに視線をそらした。面と向かった状態では、どう考えてもこちらが不利だ。あの眼差しに魅入られて、心を乱すことがない者がいたら是非お目に掛かりたいものだ。

「は、はっきり申し上げたはずです。わたくしには、すでに心に決めた方がおります。……このご縁は誰もが待ち望んだことですから、今更覆すことなど到底出来ませんわ。これ以上、私に恥ずかしい想いをさせるおつもりですか、……お許し下さいませ」

 はっきりとした口調になれたのは、目の前の御方が丸腰だと承知したからであった。昨夜の懐刀は几帳の向こうに置いたまま。あのように取り乱されることがないとすれば、気を強く持つことが出来る。

「……まだ、そのようなことを。信じられないな、あなたのお心はすでに私に全て露わになっているのに。どうして私を捨てて他の男のものになれるの、あなたよりも他の女子を大切に思うような輩に――」

 藤華は思わず目をむいた。

 ……どういうこと? 何故、そんなことまでご存じなのか。わたくしはひとことも申し上げてはいない。こちらの身の上など、知る者は誰も……。

「私が……何も知らないとでも思っているの? あなたのことならば、知らぬことなどないはずだよ。こんなに長いこと焦がれていたんだ、元服の折には添臥(そいぶし)に立って頂こうとさえ考えたのだから。もっとも、きちんと手順を踏んで皆の承諾を得ないとって、母上に止められたけどね」

 血の気が引いていくというのは、このことであろうか。……それでは、正妃様までがご存じだったというのか。何と言うことだ、全ては筒抜けであった……? だが、続く話はさらなる驚きを彼女に与えてくれる。

「幼き日、あなたが都を去ったときから、私が願ったのはあなただけだ。再び都に上がってくれるようにと、何度もこちらに働きかけていたんだよ。けれど……どうしてもあなたのお心が動かないことには始まらないって。ひどいよね、皆で私をいじめるんだ。でも、負けなかったよ。誰もが認めるほど立派になれば、必ずやあなたも分かってくれると信じていたから。
 そうだよね、あなたにどうしても戻ってきて欲しくて駄々をこねたときに、母上が仰ったから。『そのようにしていては、あの子も呆れてしまうでしょう。しっかりと励んで、早く一人前になることです。あれこれと御託を並べる暇があるのなら、歯を食いしばって精進しなさい』……ってね。見かけによらずに厳しい方だよ、信じられないよね」

 ――軽い目眩を覚える。激しい波がいくつもいくつも押し寄せてくるようで、足下すらおぼつかなくなる。一体何を仰るのだ、どんなお話を聞かされたところで何が変わるというわけでもないのに。

「今回のことは、最後の賭だった。あなたがもしも母上のお話を受けてくれなかったら、私に勝算はなかったのだからね。……あとはあなたのお心次第だったのだよ」

 何故……このようなことを仰るのだろう。戸惑うばかりの心では、何も受け入れることなど出来ない。だが、ここは自分がしっかりしなくては。藤華はゆっくりと息を吐いて、静かに向き直った。

「もったいないばかりのお言葉ですが……、わたくしの心はすでに決まっております。すぐにお支度をして下さいませ、いたずらに時を過ごしては面倒なことになりますわ」

 これ以上、突き進んで来ないで欲しい。何を血迷っていらっしゃるのだ。もう、すでにお分かりのはず……今までもこれからも末若さまの周りにはあまたの素晴らしい女人が溢れている。そのような方々に較べ、田舎者の自分など足下にも及ばないだろう。誰もが承知しているはずのことを、ご立派な身の上の方が悟れなくてどうする。

「……藤華」

 きびすを返し、ゆっくりと歩み出る。その背に鋭い声が追いかけてきた。

「また、逃げるの? ……あなたは本当にそれでいいの、幸せになれるのかな……?」

 振り返らない、決して振り向くものかと自分に言い聞かせる。朝の軽やかな気が、しかしとてつもなく重く身体にまとわりつく気がした。

「ねえ、あなただけではないのだよ。皆が幸せになれる方法をきちんと考えて、……逃げるのはやめて」

 藤華は足を止めた。でも、振り返らない。――それだけは、守らなくては。

「いいえ、これから進む道こそが皆が幸せになる道です。あの方がせっかくわたくしをと望んで下さったのです、疑うことは何もございませんわ」

 ぴんと張りつめた気が、後ろから揺らいでくる。歩み寄る気配もないままに、目には見えない大きなものがどんどん押し寄せてくるようだ。

「――違う、あなたは間違っているよ」
 気を切り裂いて、追いかけるように必死にすがりつく声。耳に入れたくなくても、聞き惚れてしまう澄んだ響き。

「ねえ、……あなたは本当に望むのは何? あなたが幸せにならないと、駄目なんだよ。誰かのためにって言い訳して、これ以上逃げないで。あなたの勇気が皆を幸せにするんだから――ううん、あなたは私が、私が必ず幸せにするよ。あなたと共に生きたいんだ、……あなただけが欲しいのだから」

 恐ろしいばかりだと思う、まっすぐな想いが胸に突き刺さる。身体の震えが止まらない、自分の辿り着きたい場所はひとつ。でも……それは許されることのない遠い遠い存在。多くは望まない、この腕に包めるほどのささやかな安らぎだけで十分だと思う。

「……嫌です、そんな風に仰らないで。もうやめて下さい、何もご存じないからそのようにお考えになるのでしょう。何も……何もご存じないから……」

 

 都には魔物が棲んでいると思った、幼き日。本当は朝が来ても御館になど行きたくなかった。でも自分がひとり居室に残れば、母は出仕することが出来ない。他の兄姉たちは喜び勇んで出かけていくのだから、我が儘など許されることではなかった。

 御部屋の隅で、御庭の草陰で。ぽつんと時間が過ぎるのを待っていた。すると、不意に腕にぬくもりを感じる。

「――見つけた。ね、一緒に遊ぼう」

 まだまだお小さくて、髪もひとつに結えないほどの御方がそこにいた。この上なく嬉しそうに微笑まれて、藤華の手を取る。それだけで恥ずかしくていたたまれない気持ちになった。
 末若さまのお側にいれば、どうしても侍女たちの目を引く。「またあの、赤毛の子が……」ちらとこちらを見つめられるだけで、そんな言葉が聞こえてきそうだ。すぐにこの場から逃げ出したい、でもどうしても出来ない。あのときの気持ちはどう説明しよう。

 どのようなかたちであれ、必要とされれば嬉しかった。誰かの役に立てるなら、喜んで従うしかないだろう。今も昔もその想いに変わりはない。

 

「何も知らないのは、あなたの方でしょう。私がどんな気持ちで長い年月を過ごしてきたか、どうしてお分かりにならないのか。十年も、待っていたのだよ。だったらこの先も……十年でも二十年でも五十年でも待つことが出来る。嘘だと思うならそれでもいい、私を振り切って進まれるというならそれも仕方ないね。でも……この想いだけは、髪に霜の降るまで変わらない」

 そんなはずないじゃないか、あり得ないことだ。そう吐き捨ててしまいたいのに、それが出来ない。何故ならあの頃も今も、この御方の瞳は同じ色で藤華を見つめるから。

「あなたを妻にと望んだ男にも見せてやらなくては。まっすぐに思うべき方向に進むことがどんなにか清々しいか。それを……あなた自身がきちんと身をもって示すことが、彼を彼らを導くことになるとは思わない? 駄目だよ、逃げちゃ。何故、目を背けるの……?」

 すぐ後ろまで迫った声が、藤華を徐々に追いつめていく。このまま熱い波に飲み込まれてしまいたい、でも怖くて仕方ない。ああ、どうすればいいのだ。……どうするのが、一番いいのだ。

 

 胸が痛いほど震える、ふたつの想いがせめぎ合い藤華を責め立てる。

 ここで我が欲のために、何もかもをうち捨てることなど許されるのか。その先に続く想像に容易いたくさんの困難に、果たして耐えることが出来るのだろうか。しっかりと押さえつけていないと、自分の足が勝手に向きを変えそうだ。

 わずかに流れ込んできた気が、藤華の髪を後ろへと送る。

 何もかもが、引き留めようとするのはどうしてなのだろう……? 自分は決して間違った道に進もうとしている訳ではない。それは確信しているのに、何故こんなにも苦しいのか。我が身にまとわりつく重荷を全て捨てたら、心は果たしてどこへ辿り着くのだろう。

 

「――あの、姫さま。ただいま、お文が……」

 その時。

 かたんと音がして、少しだけ開いた戸口の隙間から白いものが差し込まれた。

 急ぎ手にして表書きを一目見れば、誰からのものかすぐに分かる。今したためられたばかりのような、新しい墨文字。藤華は長く息を吐き心を落ち着けてからそれを開いた。少し乱れた文字を急ぎ目で追っていく。そう長くはない内容を全て読み終えると、またひとつ深い吐息を付いた。

 ゆっくりと瞳を閉じて、額に手を当てる。震える指先を感じ取りながら、しばらくはその姿勢のまま動くことも出来なかった。流れ込んで行く、たくさんの感情が。長い時間閉ざしていたままだった心が開いていく。

 

 ――ああ、そうか。そうであったのだ。

 

 ようやく、藤華の中でひとつの想いが結ばれていく。鏡のあちら側にも確かに自分とよく似た人がいたのだ。互いに己の姿を見ながら、やり過ごしてきたのか。何と愚かなこと。

「文使いの方に少しお待ち頂いて、……すぐにお返事をしたいから」

 戸口の向こうにいる佳乃にそれだけ告げると、呆然とした御方の脇をすり抜け小机の前に改まる。そしてさらさらと書き付け文に仕立てたものを手にし、舞い戻った。

「――これをお渡しして。ああ、表の馬は、やはり誰かに頼んで厩に入れてお世話して貰ってちょうだい。それから、ふたり分のお膳を。あなたはすぐにこちらに来て、衣のお手入れを手伝ってくれる? そうね、少しお道具を揃えて貰わないと……」

 あれこれと指図を終えて、ゆっくりと振り返る。まだ、視線を合わせるのは恥ずかしくて、少し俯いたまま。

「……藤華?」

 明らかに何かが変わったことにいち早く気付いて、鷲蘭が躊躇いがちに名を呼ぶ。藤華は胸の前で組んだ手を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「あちらの方が急に産気づかれて……それでこちらにお出でになれなかったと。ひどく恐縮していらっしゃいました。お可哀想なほどに……」

 

 ようやく気付いた、あの男の中にあった影はそのまま藤華の心を映しだしたもの。これ以上、傷つけてはならないのだ、彼も自分自身も。

 生まれた子は男子であったと記されていた。多分、跡目に据えたいと考えているのだろう。名を一緒に考えて欲しいとあった。心の優しい人だ、そして弱い人。誰も傷つけたくないのに、それが出来ない。そんな自分が一番傷を負っていく。

 ――もう、そんな悲しいやりとりは終わりにしなければ。互いの幸せのために。まずは自分を、その次に周囲の者たちを。その順序を取り違えてはならない。

 

「末若さま」

 ゆっくりと面を上げる。顔がこわばって、微笑みをかたち取ることが出来なかった。でも、……綺麗に言葉がまとまらなくてもいい、きちんと伝えなければ。

「わたくしを……導いて下さいますか? 明るい方へ、――皆がこれから幸せになるために」

 刹那。大きく見開かれた瞳がすっと細くなり、口元に笑みが浮かんだ。

 ようやく寝着を羽織っただけの御方が、静かに歩み出て片腕を差し出す。指が触れあった次の瞬間には、しっかりと抱きすくめられてしまった。ほうっと、深い吐息が落ちてくる。

「何を言ってるの、……あなたこそが導きの光なのだよ。私はあなたがいたからここまで来た、そしてこれからも、歩んでいける。どうか、ずっと側にいておくれ……これから新しい地に出向くには、しっかりした妻が必要なのだから」

 急にそんな風に言われて。驚いて顔を上げた藤華に、鷲蘭は少し恥ずかしそうに言う。

「黙っていたけどね、これから今回完成した南峰の分所を任されることになったんだ。田舎暮らしになってしまうけど、……いいかな?」

 何かを言いかけたところで、唇が重なり合う。そうしてしまうことがとても自然で、言葉よりも多くのことが伝わっていく気がした。

「衣が整ったら、早速雷史のところに行こう。きちんとご挨拶を申し上げなくてはね……。都に呼び寄せるのが筋だと言われそうだけど、とにかく時間がないんだ。例外と言うことで、見逃して貰えるよね。許されるなら、このまま都へお連れしたいけれど、それは無理かな?」

 ――あっさりと仰ったが、大変なことである。

 長年慣れ親しんだ都を後にされるなんて……まさか、自分のために決意されたことなのだろうか。いや、それではあまりにも思い上がった解釈になってしまうだろう。くすぐったい気分が湧いてきて、心まで支配され始めていく。

 だけど、やはりひとつ、どうしても分からないことがある。……何故、自分などを。今も昔も、そればかりは不思議でならない。どこかに秀でたところがあるわけでもないのに。他の方々よりも半歩遅れたような存在を、ここまで想い続けて下さる理由が分からない。

 未だお若い方だ、この先に何があるとも分からないのだ。生涯を添い遂げることが叶うとは到底思えない。それでも飛び込んでしまった、行方知れずの旅路に。己の意志がそうさせたのだから、後悔するはずもないが……でも。せめぎ合う胸が堪えきれぬほど痛い。

「……え? まだそんなことをいうの……?」

 鷲蘭は得意そうにもったいぶって、言葉を止める。こちらが不服そうに見上げると、おどけた笑みを見せた。

「もう少しお顔を上げて、周りを見てご覧? 縮こまってばかりいたら、何も分からないのは当然だよ。――でも、あまりお気づきにならない方が私としては嬉しいけど。そうすれば、こうやっていつまでも私だけのものとして閉じこめておけるからね」

 また、不思議な言葉ではぐらかそうとしていらっしゃるのか。お分かりになってないのは御自分の方なのでは……?

  何か言葉を返したいと思うのに、ゆっくりと髪を梳く指先に言いくるめられてしまう。こんな風に……本当にいいのだろうか。底知れぬ恐怖と隣り合わせになりながらも、逃れる術を知らない。

 ひとつ、額に唇が落ちて。

「あなたとの再会を夢見ていた日々は、多くを望んではいけない、お側にいてくれるだけでいいと思っていた。だけど、そのうちに兄上たちが次々にご結婚されてゆくのを目の当たりにしてね。それで気付いたんだ、妻になってくれれば、ずっと離れずに済むって。我ながら名案だなと嬉しかったよ。あなたは私のものだって、早く皆に知らしめたかったな。誰かに取られるのは、絶対に嫌だったから」

 

 ――何ということ、あまりにも幼いままのお考えではないか。まっすぐなままのお心は、あの頃から少しも変わられていない。しかしこのまま、全て受け止めてしまって良いのか……?

 

 そんな風に頭で考えられるのは束の間。また花の香に包まれてしまう。瞼の裏に焼き付いている白の風景がすぐそこにあるよう。花びらがいつまでもいつまでも、心に降りしきる。終わらない風景が胸にある限り、永遠という言葉を抱き続けることが出来るかも知れない。

 

 記憶の向こう。新しい羽を広げたつがいの鳥が、やがて天高く舞い上がっていった。

了(050210)



(2005年3月4日更新)

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