… 「片側の未来」☆樹編
・本編終了1ヶ月後のお話…
閉ざされた空間。ぴっちりと封印された窓を覆う暗幕が、かすかに揺れる。
生徒会室奥の小部屋。普段は物置兼仮眠室として使われていると聞いていた。とはいえ、その実はひとりの男が私物化していて、他の役員たちはここにもう一部屋あることすら気に掛けていないのではないだろうか。 このところの雨続きで不快指数はうなぎのぼり。ようやくの晴れ間も余りの蒸し暑さに授業にも集中出来ない有様だ。しっとりと汗がにじんでいく肌。 「はっ……、あはぁっ……!」 口元から漏れ出でる声が、自分のものじゃないみたい。ぎゅっと瞳を閉じたまま、出来るだけこの現状から意識を逃そうとしていた。
「音」の重要さをいつもは忘れてる気がする。 人間の感覚には「味覚、視覚、嗅覚、触覚、聴覚」の五感があると言われているけど、通常もっとも多く使われているのは視覚ではないかと思う。そこを封印すると初めて、他の感覚が呼び覚まされる気がするもの。校庭に面した校舎の壁に、響き渡る外の音。下校時のさざめきが、耳に流れ込んでくる。まるでひとりひとりの生徒の姿を頭に思い描けるほどに。 ――きっと。いつもなら、もっと色々な音が聞こえているんだろうな。 来週はもう学期末テスト。今日から、部活動のほとんどが休みに入っている。例外は夏の大会の予選を控えた硬式野球部のみだけど、それもいつもよりは控えた練習内容になっているみたい。野球の練習って、独特。海猫みたいな叫び声が響くからすぐに分かるのよね。 「直前だからって、ただがむしゃらに練習量を増やせばいいってもんじゃないだろ? 最初から本番の日時は決まってるんだから、それにあわせて綿密なスケジュールを組まなくちゃ。野球部の奴らだって、部活をテスト勉強が出来ない言い訳には出来ないからな。きちんと両立出来ない奴は、最初から入部する資格はないんだよ」 私の素朴な疑問は、いつものことながら冷たい言葉にぴしゃりと突き放される。 ……だからさ、そんな風に最初から見下したみたいに言うことないじゃない。そりゃ、分かってるわよ。この「西の杜学園」に在籍する生徒たちはそんなハードルは難なくクリアしてしまうメンツだけだってことくらい。でも、ちょっと気になったのよ。いいじゃない、そんな言い方しなくたって。
「……うきゃっ……!」 びくん、と身体が跳ね上がる。な、何っ!? ――ちょっと待ってよっ……! 慌てて目を開けたら、すぐ側に薄笑いする男がいる。 「何だよ、また余計なことを考えてただろ? 信じらんないなぁ、全く。人をコケにすると、あとがひどいぞ?」 言葉だけで表現すると、全くの変質者なんだけどね。目の前の奴は、全然そうは見えないのがしゃくだわ。柔らかいウェーヴを描いた前髪が額に落ちて、とろんと熱を帯びた瞳がじっとこちらを見据える。指先に付いたしずくを赤い舌が辿って、その仕草がこの上なく艶めかしい。 「そっ、そんなんじゃないわよ……! だいたいね、あんたが――……っ!」 こっちの言い分なんて全く聞く耳を持たないまま、我が物顔に人のことをいたぶる指先。本当に、もう信じられないっ。ここって、学校だよ? 放課後とは言っても、まだ先生方は就業時間内だしっ……! 仮にも生徒の代表者たちが集まる部屋の奥で、あんた一体なにやってんのよ……! 「あーあ、もう。素直じゃないんだからなぁ、薫子は。分かってるよ、欲しかったんだろ? ちょっとつついただけなのに、こんなに溢れて来ちゃって……」 ひっ、ひやぁっ……! 見えてるっ、見えてるんだけど! まくり上げたチェックのミニスカートの中、彼の指が見え隠れする。人差し指と中指が中をかき混ぜて、さらに親指が私の敏感な場所を探り当てた。裏側から丹念にさすられたら、もうたまらない。こっちは歯を食いしばって、こらえるのに必死だ。 「ねっ、やめようっ! もうふざけないでっ……!」 私は必死に身体をよじった。そうしたって、全然効果ないって分かってはいるんだけど。制服のブラウスの前もすっかりはだけちゃって、まくり上げられたブラの下に彼曰く「有能技師のマッサージ効果が全然現れてない状態」だと言う胸がしっかり見えてる。何やってるのよっ、信じらんない……! 「ほらほら、大声出すなよ。別に俺はいいけどさ、……知らないぞ、いつ誰が入ってくるのか分かんないんだからな?」
……意地悪っ! もうやだっ……!
素肌に絡みつく湿った空気が、だんだん意識を白濁させていく。 久しぶりの感覚に、すでに首の下まで溺れてしまっていた。彼の瞳に囚われて、言うことを聞かなくなっている自分の身体。するりと首筋から汗が流れ落ちて、みぞおちの辺りで止まった。
「お前が抜けてるんだよ」……とか、奴はいつも言うけど。それって、絶対に違うと確信してる。ひょんなところから「彼女」っていうポジションについて、早二月。まだ全然慣れてなくて、いちいち戸惑っている自分がいる。常に上から見下ろされているのも、身長差のせいだけじゃないわ。それを公の場ではおくびにも出さない周到さにも腹が立つ。 あの文化祭前夜の一幕の後、別にこれと言った変化のない当たり前の日常が戻ってきた。毎朝駅での待ち合わせ、教室までの道のり。学校の中庭で食べるランチと、放課後部活の後に時間を合わせて駅まで歩くこと……。
それにね。 入りました、バレー部。どうせ、放課後に暇をつぶさなくちゃならないのは一緒なんだし、それなら一汗流した方が気持ちがいいと思ったのよね。 でもさ。やっぱブランクはあるし、高校の練習ってハードだし。最初の一週間なんてへろへろで、どうしようかと思っちゃった。授業の予習復習や宿題も全然追いつかなくなっちゃって、「早くも脱落……!?」と悲しくなったりしたわよ。そしたら、あろうことかあの槇原樹がフォローしてくれたのよね。 「お前さ、馬鹿正直なんだよ。一から十まできっちりとこなそうとするから、上手くいかないの。参考書もそれは使えない、もう少し分かりやすいのに変えた方が絶対にいいから」 不思議なことに。読解不可能な象形文字が羅列しているように見える教科書が、奴と一緒に読んでいくときちんと理解出来てしまう。どうしてそんなことが起こるのか全然分からないんだけど、ちゃんと知識が整列して頭の中にきっちり並んでいくんだ。その上、授業が終わった後もきちんと頭に残ってるから、今回のテストは結構いいトコ行けそうな気がしちゃう。 どーしちゃったんだろうな。顔を見るだけでむかつくような存在だったはずなのに、今ではちょっとしたひとことにほろりと来たりする。これって、やっぱりいいように扱われてるんだよね。奴の学習能力は半端じゃないし、最初のうちこそ「難しい」とかのたまってた私の操作もいつの間にかクリアしてしまったんだろう。
「そんなに無理するな」 な〜んて耳元で囁かれたら、ドキドキでしょ? 何て言ってもあの声よ、乙女心のツボを心得てるんだから、たまったもんじゃないわ。ヤバイと思いつつもついついホワーンとしてたら、次の瞬間にはもう別人になってる。 「ボケ、天才は白鳥の泳ぎなんだよ。もっと人目に付かないように努力しろ、見苦しいぞ」 全く、腹立つったらないわ。それなのに、何にも知らない外野からは「愛されていていいわね〜!」なんて言われちゃったりするし。その上、こっちが爆発する寸前のところで奴はちゃんと手を回す。トゲトゲの心もあっという間にしぼんじゃうの。自分でも情けなくて仕方ない。
そんなこんなで。 ここんとこは、ずーっと忙しかった。土日だってもちろん部活だし、今の時期は週末ごとに練習試合が組んである。ほとんどの部活は夏のインターハイに向けて、まだ3年の先輩が残っている状態。中間学年である私たちは、微妙なポジションになる。後輩の指導もあるし、先輩は立てなくちゃいけないし。新参者の私には覚えなくちゃならないことが多すぎなの。
よーやっと、部活動の停止期間がやってきて。ホッと一息ってところかな? 今日は自習の繰り上げで5時限で終わったし、久々にのんびりと出掛けようかとか言う話になったの。気が付いてみたら、ふたりっきりでどこかに出掛けることなんて全然なかったし、まあたまにはいいかなって。 駅をふたつ行ったところに、DIYショップが入ったショッピング・プラザが出来たんだって。この前からそこに行きたくて行きたくてうずうずしていたらしんだけど、ああいうところって一度行くとどうしても長居になっちゃうでしょう? ずっと我慢していたんだって言うの。でもさ、そんなとこ興味ないし。ひとりで行って貰おうかと思ったら、奴はいつもの勝ち誇った笑顔になる。 「ふーん、いいのかな? そういや、ホビーコーナーもあったぞ。結構有名なチェーン店とかもテナントで入ってたけど……そう言うのも見たくないのか」 そして、ぴらぴらと目の前にかざすのは、泣く子も黙る「お一人様一回限り・全品30%オフ割引券」……! うわぁ、ちょっと待って! このショップって、浅草橋にある奴!? 知らないわ、こんなところにお店を出したなんて……! いつも通ってる手芸店は、何もかもが割高で困っちゃう。仕方ないから、この頃ではネット通販とか使ってるんだけど、それだと手にとって選べないでしょう? スワロフスキーとかの定番はいいんだけど、一点ものの天然石とかはやっぱり手にとって吟味したいのよ。チェーンとかの副資材もイメージに合うものがいいし。……きゃあああ、どうしよう! すっかり舞い上がってしまった私。だから、いつもだったらもうちょっとはチェックするはずの奴の変化を見過ごしてしまったのよね。 「あー、そうだ。ちょっと忘れもの、生徒会室まで付き合って」 私の答えも待たずにすたすたと歩き出した背中。何の疑いもなくついて行った30分前の自分がいた。
もっと散らかってるのかと思ったら、結構片づいていて。「パソコン室のお下がりを貰ってきた」っていうデスクトップがぼんぼんと並んでるのが印象的だった。壁際に並んだガラス窓付きのスチール本棚には、びっしりとファイルが並んでいる。歴代の資料は何と昭和の年号から残っていて、すごく重々しい感じ。 「……と、奥だったかな? そこのドア、開けてみて」 引き出しを開けたり閉めたりしていた男が、何とない感じでそう告げる。だから、私も。目の前にあったドアノブを、気安く開けてしまった。 「……え?」 そこは何とも薄暗くて狭い部屋だった。 ……というか、ほとんど怪しげな感じ。たとえて言うなら、お化け屋敷か占い館のおどろおどろしさ。よく見れば二畳足らずに見えるその場所は、四つの壁全てに暗幕が張り巡らされている。もちろん中に入る気にはなれなくて、入り口に立ちつくしてた。そしたら、いつの間にか背後に来ていた奴が言うの。 「えーと、……この辺りに電気のスイッチが――」
次の瞬間、どんっ、って背中を押されて。私は柔らかい何かにぶつかっていた。 「なっ、なななななっ……何っ!?」 ばたん、とドアが閉まって。慌てて振り向いたら、そこには懐中電灯を手にした男が立っていた。とはいえ、それはさっきまでも一緒にいた、学園公認の私の「彼氏」だったりするんだけど。薄闇の中、ぼやける輪郭がぶわっと近づいてきて、ようやく自分がかなりヤバイ状況にあると気付いた。
高等部に進んで生徒会の仕事に加わったときに、物置状態で全く機能してなかったここに気付いたんだって。昔は写真の現像室とかに使われていたらしくて、暗幕もその時のまま。開ける気になれば校庭側の窓も開くし、時々家に帰るのが面倒になったときの宿泊スペースにしているという。 そう言われてみれば、背中に張り付いてるふかふかのソファーも何となく奴の匂いが染みついているような気が……でもでもっ! これって、マズいよっ! 分かってんのかな、コイツ……!
あっという間にあちこちはだけて、とんでもない格好になっちゃってる。別に縛られてるとかそう言うわけじゃないんだから、どうにか出来そうなもんなんだけど。それが、自分の身体まで全然言うことを聞かないの。 彼の熱を帯びた瞳に見つめられた途端に、あの雨の夜が脳裏に蘇る。遠く近く、全てのしがらみを洗い流すような水音。 「俺もさ、よく我慢してるって思うよ。お前、それだけ大切にされてるんだからな? 少しは分かって欲しいもんだよなあ……」 それ、違うっ! 絶対に、違うと思うっ……! もしも本当に「大切」だったら、相手の意志をもうちょっとは尊重するものだよっ!? だいたいさ、何であんたはいつもこう、いきなりなのよっ! 分かってれば、そのっ、……そのさ、下着とか。もうちょっと気にしてきたのに……! 「もっ、……駄目っ、駄目だってばぁっ……!」 すっごく、口惜しい。本当に信じられないっ……! だって、だって! 奴はシャツのボタンひとつ外してないよ? 自分は涼しい顔して、私ばっかりこんなにして! やだっ、……もう。 「……ふうん、どんな風なの? イキそう? ……なら、いいよ、我慢すんなよ」 背中に腕が回されて、胸の先吸い付く唇。私の中に入ったままの指が、全てを知っているように中を辿っていく。そんなんじゃ本当は物足りないはずなのに、それでもすごく気持ちよくなってしまってる。 何でだろ、どうみてもすごく馬鹿にされてる気がするんだけど。それなのに、すごく悦んでいる私。優しい言葉も、ちょっとの意地悪も、彼がくれるものなら何でも好きだなと思う。いつもはひねくれちゃうけど、その向こうにきちんと「心」が感じられるから安心出来るの。 けど、……もっともっと欲しかったのは、こういうのだったの……?
「いっ、……いやぁっ! あっ、駄目っ、やめてっ……はうっ……!」 大きな波が私をすっぽりと覆い尽くして、次の瞬間に彼の胸の中に崩れ落ちていた。ぽろぽろと悲しくもないのに涙がいっぱい溢れてきて、嬉しいのに切ない。どうしようもない気持ち。
「ほらほら。感激しすぎたのは分かるけど、そんなに泣くな。……そろそろ、時間だぞ?」 しばらく経ってから。彼はゆっくりと私を抱き起こした。満足げな微笑み、軽いキス。 「……え?」 先に立ち上がって、乱れた服を直してる背中を呆然と見守る。な、何? ……いいの? だって、……その、入れてない、でしょ? あんまりにもびっくりして、涙も止まっちゃったよ。そしたら、ドアに手を掛けた彼が、少し拗ねた横顔で言うの。 「続きは、シャワーのあるとこで。さすがに今の時期、汗だくはヤバイだろ? ……部活も休みなのにさ」 早く支度してこい、って。冷たいおしぼりをこっちに投げてくれた。
いつもの並木道、手を繋いで歩きながらそんなことを言う。 夏至を過ぎたばかりの夕暮れは遅くて、まだ4時過ぎだと昼間のままの明るさだ。不思議そうに振り向いた私に、彼は小さなチラシを差し出す。 「……これ。週に一度だけ、夕方6時からのコースの講師をしてるんだって。この日はご主人が定時で戻ってくるから、子供を預かってもらえるらしいよ。準備もあるから5時過ぎには来てるそうだから、ちょっとは話も出来るだろ?」 「……?」
ぱらり、と。 二つ折りのそれを開いて、私は思わず立ち止まっていた。それはさっき話題に出たホビーショップで開催される講習会の案内。「講師」という肩書きのあとに続く名前がぼやけて見えなくなっていく。 「何でも最近、こっちに戻ってきたばかりらしいよ。父親の店に卸してる人の話を聞いて、もしやと思ったんだよな。……で、直接連絡してみたら、ビンゴって奴」 ――なんか、もう。こんなことって、あっていいのだろうか……? やっぱ、コイツってよく分からない。ものすごい意地悪な悪魔かと思ったら、次の瞬間に全てを救う天使になっちゃって。でも、でも……本当? 本当に、会えるの……? ど、どうしよう。嬉しすぎて、何を話したらいいのかも全然分からない……!
「ほら、遅れたって知らないぞ?」 彼はわざとぶっきらぼうにそう言うと、振り向きもせずにずんずんと歩き出す。ほんの一瞬だけかいま見られた不器用な男の子の横顔が嬉しくて。駆け寄って、思わず腕にしがみついてた。 「……ありがとうっ!」 一瞬、驚いた表情になって。それから、ふっと顔を崩す。うわぁ、出た。この死人が出そうな極上の微笑みっ! 少し前屈みになって、耳元にそっと囁かれる甘い声。 「実はな、……もうひとつ。こ〜んなクーポン券もくすねて来たんだけど――」 シックなアイボリーのチケットだったから、何気なく見ちゃったわよ。……な、何っ!? 3時間無料券ってっ! 待ってよ、これって今から行くショップのすぐ近くじゃないのっ!!! 「いやあ、参ったよ。まさか父親に『使っちゃったから次のブツをくれ』とも言えないしさ。別にその辺でこっそり買っても構わないんだけど、どーせなら豪勢に行こうかなって。ほらほら、スイートルーム仕様だってあるぞ。いくら何でも制服はまずいから、ちゃんと着替えも持ってきたからな?」 うっ、うわっ! 何だとは思ってたのよ、その紙袋っ……! 「ふふふ、楽しみだなー。再会に感極まった薫子が、どんなに乱れるか。やっぱ、メイン・ディッシュは後に残すに限るな」 ――やっぱり遊ばれてるかも知れないな、私。すごく、口惜しい。……でも、どんなに頑張ったところで、コイツには一生敵わないんだろうなぁ。
ユカリさん。 私、無事に志望校に合格して、でもって彼氏も出来たんだよ? いっぺんに色々教えたら、びっくりするかな。でも、すごく喜んでくれるよね?
湿り気を含んだ空、飛行機雲が白く霞む。もうすぐ、もうすぐ会えるね。きっと私、その瞬間にとびきりの笑顔になれそうな気がする。
おしまい♪(050602) |
|||
|