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……樹が仕事を辞めて腐っていた頃の話です

※他の姉弟の話をひととおり読んだ方が楽しめますが、雰囲気でさらりと流しても平気です
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 雨上がりの青空はどこまでも澄み渡ってる。
  朝の匂いが残る心地よい陽射しに照らされてようやく乾いたアスファルトの坂道を、ゆっくりゆっくり進んでいく。以前はどちらかというと「ちょこまかしている」が形容詞だったあたし、でも今は普通の人よりものんびりした速度をまったりと楽しんでる。そうすると、目に映る風景までがまったく別のものに見えてくるんだよね。
「すごいねー、はっぱに水滴がいっぱい付いて、キラキラだよ」
  生け垣の大きな葉っぱの縁がイルミネーションみたいに輝いている。ふと立ち止まったあたしは、そこを指さしてた。
「……きらきら?」
  繋いでいた手にちょっとだけ力がこもって、それから不思議そうな声がする。あたしの方を見上げて、よくわからないぞって顔をしているのは、こぼれそうな大きな目でくるくる巻き毛の女の子だ。
  手足は細くて、同じ頃生まれた子よりもかなりコンパクトサイズ。保育園でもいつも、集団のうしろを遅れがちについていってるみたい。
「うん、キラキラ。お日様に照らされて、みんなキラキラ」
  スカートが汚れないように気をつけながら、あたしはそっと身をかがめる。
「ほら、みんなキラキラしてる」
  よかった、子供の目線でも世界はちゃんと輝いていた。自然と頬が触れ合って、とてもくすぐったい。
「きらきら、きれい」
  やっとわかったよって言いたげな、ホッとした笑顔。つられてあたしまでにっこりしてしまう。
「もうすぐだからね、疲れたなら抱っこしようか?」
  今日は電車とバスを乗り継いでの移動で、たくさんたくさん歩いた。いつもは車か自転車が多いから、ずいぶん勝手が違ったと思う。
「ううん、あるく」
  そっかー、本人がそう言うんなら仕方ないな。
  そんなわけで、私たちはますますゆっくりになる。いつの間にか二匹のかたつむりになった気分で並んで歩いていった。

 坂道を登り切った場所にあるのは、知る人ぞ知る雑貨屋さん『Apricot Green』。
  OPENの札が掛かった店内では、パパがお客様の対応に追われている。取り込み中だから声を掛けるのはよそう、それに大勢の人にわっと囲まれたりすると、この子がびっくりしちゃうし。
  そんなわけでお店の前は素通りして、奥の家に到着。門のところにあるインターフォンを押すと、ほぼ同時に玄関のドアが開いた。
「いらっしゃい、菜花ちゃん、羽月ちゃん」
  相変わらず、ママは綺麗。肩よりも伸ばした髪は今もサラサラつやつやで、年齢をまったく感じさせない。あたしは密かにこの人のことを「世界一、お祖母ちゃんという呼び名が似合わない人物」だと思ってる。
  ちなみに梨花のところの双子ちゃんはパパとママを「透さん」「千夏さん」って呼ぶ。きっと羽月も上手におしゃべりが出来るようになったら、そう呼ぶようになるんだろうな。
「あら、今日はふたりだけ? 岩男くんはどうしたの?」
  いつもの白いファミリーワゴンがどこにも見当たらないことに気づいて、ママが不思議そうに辺りを見渡してる。
「うん、午前中は研究室に用事があるんだって。帰りにこっちまで回ってくれるって言ってた」
「まあ……日曜日までお仕事じゃ、大変ねえ」
  それからママは視線をささっと落とす。あたしもママと比べたらかなりチビなんだけど、もうひとりはそれよりもさらにちっちゃいから。
「はーちゃん、いらっしゃい」
  ふわふわの髪の毛を撫で撫でして、ママはすごく嬉しそう。羽月はあたしのちっちゃい頃にそっくりなんだって。生まれたばかりの赤ちゃんの頃からそうだったけど、今はもっともっと似てきたみたい。
「こ、……こんにちは。ちーちゃま」
  だけど、何故か性格は全然似てないのね。すっごく恥ずかしがり屋さんで、いつもあたしの影に隠れている。この槇原のお家だって、隔週ペースで訪れているというのに未だにこうだもの。でもこれでも、この子としては馴染んでいる方なんだよ。
「さあ、ふたりとも中へどうぞ。今日はね、パパが張り切って朝からケーキを焼いてたの。早速切り分けて食べましょう。お昼ご飯は、はーちゃんの大好きなハンバーグにするわね」
  すると。
  それまでママの姿をじーっと見つめていた羽月が、急に何かに気づいたみたいにあたしの手を引っ張った。
「……まま、いーくんは?」
  本当に、蚊の鳴くような小さな声。だから、いつも一生懸命耳を澄ませてる。
「いーくん、どこ?」
  きょろきょろと辺りを見渡して、それでも見つからなかったから、羽月はもう一度あたしの方を見上げてくる。すごく悲しそう、……というか不安そう。
「ママ、樹は? まだ部屋で寝てる?」
  たぶんそうだろうなとは思ったけど、一応確認。こういうことは一緒に暮らしている家族に聞くのが一番だものね。
  するとママの顔が、急に落ち着きのない表情に変わる。でもそれも一瞬、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「ええ、そうだと思うわ。今朝はまだ、降りてこないの」
  私は、その変化に気づいたことをあえて口にせず、羽月の方へと向き直った。
「いーくんはお部屋にいるって。わかるよね、階段を上って端っこのドア」
  そう言ってあげると、彼女はぱあっと明るい顔になって、次の瞬間には今朝家を出てから一度も離さなかったあたしの手を自分の方から振り解く。思いがけないその強い力にびっくり。
「はーちゃん、わかるよ!」
  そしてすぐさま、開いたままの玄関ドアから中へと飛び込んでいく。
  その人が変わったみたいに元気いっぱいの姿を目で追いかけてから、ママはあたしの方を振り向いて、ちょっと寂しそうに笑った。

 樹が仕事を辞めた。
  ようやく夏の暑さが遠ざかった頃に、いきなり飛び込んできたニュース。もちろん、みんなすごく驚いた。驚いたけど……こればっかりは、どうすることも出来ないんだよね。
  就職してからは通勤に便利だからと、彼は都内の外れにあるマンションでひとり暮らしをしていた。だから仕事を辞めてもしばらくはそこに留まっていたみたい。あたしたちとしても、すぐに次の仕事を探すのかなとかそんな風に考えていて、うるさく口出しもしなかったんだよね。
  樹は小さな頃からとにかく世渡りの上手い子で、どんな状況に置かれても自分の立場をはっきりとわきまえて決して失敗することがなかった。いつも人気者で、敵なんて見当たらなくて、どうしてあんな風になれるのかと我が弟ながらとっても不思議に思ってた。
  さらに、大学進学時のギリギリ進路変更もそうだったけど、ある日突然に周囲の度肝を抜くような信じられない行動に出る。それでも最後にはきちんと帳尻を合わせて上手くいっちゃうんだからすごい。
  もちろん、就職だって同級生の誰よりも早くさっさと決めちゃって、世の中そんなに上手く渡っちゃっていいの? って感じだった。
  それが……一年半足らずで自主退職? 初めはたちの悪い冗談かと思ったくらい、信じられない出来事だったな。進学塾の仕事、すごく似合ってたし、本人もとても頑張ってた。楽しそうな樹を見てるだけで、こっちまで元気がもらえたのに。
「でも良かったよ、家に戻って来ることになって」
  ママのいれてくれたミルクティを一口すすって、あたしは溜息と共にそう言った。
「ええ、そうね。私もこうするのが一番良かったと思っているわ」
  ママ、少しやつれたかな。そりゃそうだよね、もともとが人一倍心配性なんだもの。悩まずにはいられない状況に置かれたら、寝ても起きてもそればっかになってしまうと思う。いくらパパがいつも側にいてくれるとはいっても、お店のこともあるし、結局はママが多くの部分を抱え込むことになってしまうんだろうね。
  今ではあたしも梨花も結婚して独立してしまってるし、そうなるとどうしても末っ子の樹のことばかりに注意が向きがちになってしまうしね。
「今回のことでは、薫子ちゃんにとても感謝しているの。彼女がいなかったら、今もまだ樹とは平行線のままだったと思うわ」
  樹の異変にいち早く気づいて対処してくれたのは、高校時代からの彼女である薫子ちゃんだった。私たち家族は「そのうち何とかなるだろう」って楽観していたから、こういうときに違う立場の人がいてくれるのってすごく心強い。
  彼女からの連絡で樹がかなりヤバイ状態であることを知って、でもそれでもあたしたちにはどうにも出来なかった。樹は家族にさえ弱みを見せない子だったし、自分が上手く行かなくなったからって泣き付いてくるなんて絶対に無理だったんだと思う。
「ずいぶんお酒も過ごしていたみたいだし……あのままじゃ身体を壊していたでしょうね。未だに仕事を辞めた理由も話してくれないの。でも、少しずつ良くなっているって信じたいわ。薫子ちゃんもちょくちょく顔を出してくれているのよ」
  ママはスプーンで紅茶をくるくるかき混ぜながら言う。
「きっと……何か深い理由があるんだと思うの」
  それは、あたしも同感。先日、梨花と長電話したときにもそんな話でまとまった。樹が自分から周囲に牙をむくことなんてあり得ない。それどころか、もしも向こうから牙を向けられたとしても、さらりとかわせるだけの処世術を身につけている。
  だけど、だからといっていつもどんなときも上手く行くとは限らない。世の中には理屈では説明できないような様々な感情が渦巻いていて、それがひとたび負の方向に回り始めてしまうと誰にも止められなくなったりする。
  樹のように、たいした努力もなしに何もかもが上手くいってしまうように見える人間は、その表面的な部分だけで誤解を受けてしまう危険性があるんだよね。これは推測でしかないけど、きっと原因はそんなあたりにあるんじゃないかなと考えてる。
「そうだね、あとは本人が気持ちを切り替えるしかないと思う」
  人の二倍も三倍も、時には十倍も努力をして勝ち取った成果だとしても、それを気に入らないと思う人間は必ず現れる。多くの中からひとつだけが選ばれるとか、順位が明確に付けられる場合は、それが特に顕著だ。
「時間がすべてを解決してくれると思う。結局は自分で動かなくちゃ、始まらないんだよね。世の中って、思い通り、理想通りに行かないことの方がずっとずっと多いもの」

 短大を卒業して、就職をして、大好きな人と結婚して。
  あたしの人生は誰から見ても「上手くいっている」ものだったと思う。でも、誰にも言えない悩みもあったんだよ。
  一年くらいは夫婦ふたりでのんびりしようって、子供は作らずにいた。岩男くんも就職したばかりで大変だったし、年齢的にもまだまだ若いってことで。でも、そのあと「そろそろ、いいかな?」って感じになって……でも、なかなか妊娠できなかった。
  岩男くんもあたしも仕事が充実してたし、ふたりとも「こういうことは授かりものだから」なんてのんびり構えてた。でも、さすがに丸一年を過ぎるくらいから焦り始めて。そりゃ、仕事とかあるし四六時中考えているわけじゃないんだけど、ときどきふっと思い浮かんでね、そうするともうそのあとはどろどろだった。
  そんなこんなしているうちに、三歳年下の妹の梨花が「できちゃった結婚」。そうなってくると、否応でも親戚知人からのコメントが増えてくる。みんな、あたしたちが意識して子供を持たないようにしているって勘違いしてくれて、だからまったく見当違いのお言葉ばかりをいただく羽目になった。
  だけど、弱音を吐いたら負けだって思ってた。岩男くんの前でも普通に振る舞ってたつもり。彼の方からも子供を催促するような言葉はなかった。ふたりで一緒にいられるだけで幸せなんだもの、それ以上のことを望んだらばちが当たる。
  でも……やっぱり追い詰められていたんだろうな。ある日、岩男くんからの提案で、ふたりで検査をうけることにしたんだ。でも結果はどちらも「異常なし」。だったらなんなのって、もっと悲しくなった。
  人前では何でもない振りをしていても、ふと周りに誰もいなくなるとぽろぽろ涙が出てくる。誰にでも当たり前に訪れると思っていた幸せが、あたしには何故か遠い。そう思うとたまらなくなった。

 ―― 何も、悪いことなんてしてない。なのに、どうして。

 えっちなことをしているその最中にも泣いてしまったことがある。こんなことをして何になるんだろうとか、あの頃は本気で考えていた。岩男くんはいつもそばにいてくれるのに、それでも自分はひとりぼっちな気がして。
「……菜花ちゃん」
  しばらくの間は、裸のあたしを抱きしめてじっとしていた岩男くん。でもやがて、静かに、月の光がシーツに落ちるみたいな声で話しかけてきた。
「オレはこうしているだけで、十分に幸せだよ」
  そのとき、やっと気づいた。辛いのはあたしひとりじゃない、あたしが受け止めてるのと同じだけの痛みを岩男くんも知っている。あたしたちはとっくにひとつになってた。だから、嬉しいことも悲しいことも、全部一緒になってたんだ。
  だから思った、この先は無い物ねだりはやめようって。今、手のひらの中にあるささやかな幸せを守っていけばそれでいいじゃない。
  で、結局。そんな風に気持ちが楽になったら、そのあとすぐに羽月がおなかに来てくれたんだ。

「ままーっ!」
  しばらくして、階段をおりてくる足音が聞こえてくる。小さくて、心許ないこれは羽月のもの。一段ずつ、両方の足で踏みしめながらやってくる。
「こーきー、いーくん、つくった。おにわ、いくのー!」
  羽月の腕には、寸分の狂いなくぴっちりと折られた紙飛行機が大切そうに抱えられていた。あれは絶対に樹の作品。ひと目見ただけで、すぐにわかる。
  今日一番の笑顔を、彼女はあたしとママに向けていた。
「あらあら、はーちゃん。ひとりでは危ないわよ」
  すぐに玄関に直行して自分で靴を履き始める羽月を、ママが慌てて追いかける。
「菜花ちゃん、テーブルはそのままでいいわ。私、先に行ってるわね」
  ママの姿が玄関ドアの向こうに消える頃、ようやくもうひとつの足音が階段を下りてきた。
「あ、樹。おはよー」
  うわっ、ぼさぼさでよれよれ。これじゃ、百年の恋も冷めるって奴だなあ。
  無理矢理起こされた風の不機嫌な顔。でも、思ったよりも顔色はいいみたい。なんかすごくホッとする。
  樹はしばらく歪んだ表情のままであたしを見つめていた。そして、ふっと溜息を落とす。
「何かあった? ……羽月、泣いてたけど」
  あたしが少し驚いた顔になると、彼はさらに続ける。
「部屋に入って俺を見つけた途端、わんわん泣き出すんだよ。いったい、何が起こったのかと思った」
  しばらくはなだめるのに夢中で、他のことは何も考えつかなかったという。そして、ようやく落ち着いたかと思ったら、今度は紙飛行機を折ってくれと言われたらしい。あとでいいだろうといくら言っても聞かず、とうとう完全にベッドから引きずり出されてしまった。
「そう……なんだ」
  すぐには考えがまとまらなくて、言葉に詰まってしまう。
  確かに羽月は、このところすごく樹に会いたがっていた。どうしてかはわからないけど、会話の端々に何度も樹の名前があがる。あたしも、樹のことがすごく気になってたし「いーくん、いーくん」と繰り返し言われているうちに、ちょっと顔を出しておこうかなって気持ちになってた。
「羽月は樹のことが大好きなんだよ。だから久しぶりに会えて、嬉しすぎたんじゃないかな」
  とりあえずそう説明すると、彼はわかったようなわからないような顔になった。
「今日はいっぱい遊んであげて、そしたら満足すると思う」
  そう言って、あたしは自分よりもずっと大きくなった弟の背中を元気よく叩く。
「じゃ、あとはよろしく頼んだよ!」
  たぶんそれだけじゃないよなって、自分の言葉に自分で突っ込んでいた。だけど、口にするのはここまででいい気がする。
  羽月は二歳の誕生日を迎えたばかり。まだまだおしゃべりも上手くできないけど、そのぶんもしかするとあのくらいの子供って、あたしたちが忘れてしまった不思議な感覚を持っているのかも知れない。
  悲しいことを悲しいって、辛いことを辛いって、年を重ねるごとにだんだん言えなくなってくる。何があっても「大丈夫だよ」って笑って、それがいつの間にか普通みたいになって。でも、本当は違うのに。心は小さい頃と同じに泣いてるのに。そのことを、いつか自分自身までが気づかなくなってしまう。
  羽月はきっと、樹の心の中に眠っていた本当の気持ちに気づいたんだと思う。
  善悪では割り切れない、人の心の裏側に潜む不条理。絶対的な権力に屈するほかなかった無念さ。自分の力ではどうすることも出来ない現実の中で、悲しみすらも上手く表現できなくなっていく。
  ―― でもきっと、それすらも、いつか時が解決してくれるんだよね。
  一度や二度転んだからって、それですべてが終わりになるわけじゃない。失敗は次に生かすことにして、懲りずにまた起き上がって歩き出せばいい。きっとそう、長い長いトンネルもいつかは出口が見えるはずだもの。
  今すぐには難しくても、樹ならきっと新しい夢を見つけることが出来るはず。

 視界のすべてが覆われてしまうほどの広い背中のあとに続いて庭に出る。羽月は、あたしたちを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。
「いーくん、いーくん! こーき、とぶのー!」
  そう言って腕を振り回すけど、大きなパフォーマンスの割には飛距離はほんのわずか。逆さまになって芝生の上に転がった紙飛行機を拾い上げた樹は、流れるような手つきでそれを再び空に戻した。
  白い輝きがみるみるうちに遠ざかる。その行方に遠い未来がちらりと覗いた気がした。


 

おしまい☆(101214)
ちょこっと、あとがき

 

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