……その後の菜花と岩男くん
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やわらかい朝の日差しが注ぎ込むキッチンの出窓には、ハーブの鉢植え。背伸びしてお水をあげたら、コトコトと音を立てるお鍋を覗く。粗みじんにしたお野菜が踊っているのはコンソメの海。コーヒーメーカーからいい香りが立ち上ってくる頃には、ベーコンとポテトのソテーとスクランブルエッグが完成してた。 何だかなー、よく分からないんだけど。新妻には真っ白なフリルのエプロンなんだって。そんな風に言って、会社のみんながこれをプレゼントしてくれた。縁取りの綿レースがすごく可愛くて、普段使いするのがちょっともったいない。でもでも、いいんだよね。やっぱり、とびきりの姿を見せたいのはただひとりの人だもん。 ぱたぱたぱた。アイボリーのカーペットの上をスリッパで小走り。ダイニングキッチンの出口まで辿り着いたところで、目の前が灰色の壁に埋め尽くされた。 「おはよう、菜花ちゃん」 そんな声が、上の方から聞こえる。あ、この壁ってよく見たらボタンが付いてた。そうよねえ、壁がしゃべるわけ、ないもん。そろそろっと見上げて、そのまま「きゃあっ」とか小さい叫び声を上げてしまった。 「……え? どこかおかしいかな。ネクタイ曲がってる?」 相変わらずちっちゃい目。それをぱちぱちさせて、三歩後ずさりしたあたしを見つめる。うわあ、スーツ着てるの見たのは成人式の時以来! そりゃあ、そうだよね。お仕事なんだからスーツなのは当たり前。それどころか、昨日ブラシを掛けて手入れしたのもあたしだよ。でもでも、こうやって実際に見ると……格好いいっ!!! 「うっ、ううんっ! 大丈夫なんだけどっ……!」 ひゃあ、どうしよう。幼稚園の時に初めて出会ってからもう15年以上。なのになのに、いきなりスーツ姿にときめいてしまうなんて。もうっ、あたしってばどうなってるのかしら。こんなで、この先やっていけるのかとっても不安だ。 でも、よく考えたら当然かも。だって、あたしはスーツを着た男の人に滅茶苦茶弱い。その昔、パパが脱サラして雑貨屋さんを始めるって聞いたとき、あんまり悲しくて泣いちゃったもん。毎朝、パパのお出かけスタイルを見るのが楽しみだったのに、いきなりしましまエプロンになっちゃうんだよ。百年の恋も冷めるって、このことね。 うわぁ、ほっぺまで熱くなっちゃう。そんなあたしにつられたのか、岩男くんまでちょっぴり頬がピンク色。 「あのね、菜花ちゃん。……ちょっといい?」 喉の奥で、くすっと笑って。それから、目を細めて。岩男くんの指がすううっと伸びて、私の頬に触れる。うきゃ……! もしかして、これはもしかしてですかっ!? いやん、いきなりっ! こっ、心の準備が……!!! ぎゅううっと目を閉じて硬直したまま、心の中で絶叫してたら。そのまま、何にも起こらずに指が離れていった。どうしたんだろうと、瞼を開いたら、不思議そうな顔をした岩男くんが目の前に立っている。 「やっぱ、駄目だ。鏡で自分で見て……? ケチャップが、飛び跳ねて顔中がすごいことになってるよ」 そう言いながら、ティッシュを差し出してくれる。慌てて、キッチンの脇にある洗面台の鏡をのぞき込んだら。もう、飛び散るケチャップがどこにあるのかも分からないくらい、真っ赤っかのあたしの顔が映っていた。
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岩男くんは約束通りに東京に本社がある食品メーカーに就職が内定した。お弁当食品などを幅広く手がけている自然志向の会社で、そこの研究室で食品開発に携わるみたい。「やってることは、学生時代と変わらないかも」なんて、照れながら報告してくれた。年末に卒業論文の提出も終えて、後は卒業を待つばかり。あ、論文の発表会とか学会とかあるらしいけど。 あたしは相変わらず、OLで忙しく過ごしていた。そうよ、もう新人さんじゃないもん。この不況下で後輩は同じ部署に入ってこなかったけど、それでもばりばりの2年目。プロの厳しさを痛感しつつ、それでも頑張ってる。 妹の梨花も大学生になった。やっぱ、小さい頃からの夢だった獣医さんへの道が拓けたんだもん、そりゃ頑張ってるよ。彼氏くんとの仲もちゃんと続いているみたい。時々、お泊まりとかしてるようだし。パパは内心は気が気じゃないみたいなんだけど、梨花の前ではそんな素振りも見せないの。言いたいことも言えなくて背中を丸めて見送る姿が何となく可愛いなとか思う。 弟の樹の方は、この春から受験生。詳しくは聞いてないけど、それなりに将来へのビジョンはあるみたい。それにね、樹にも彼女さんが出来たんだよ。昔からモテモテで家に女の子が押しかけてくることなんて日常茶飯事だったけど(もちろん当の本人は、裏口から逃走)、きちんと自分から「彼女だよ」って明言することはなかったからちょっとびっくり。 そしてパパとママは……、まあ相変わらずってところかな。あの人たちって本当に年を取らなくて怖いよ。もしかして、怪しい輸入物の薬とか使ってるんじゃないかって思うくらい。娘のあたしがこんなことを言うのは失礼だと思うけど。
――で。 もしかして「何でだろう?」とか思ってるかな。今のあたしの状況。丘の上のテラスハウスに、新年早々岩男くんとふたりきり。しかも、あたしはまだ「槇原菜花」のまんま。もちろん、岩男くんが婿養子になったわけもない。 じゃあ、どうしてって? パパが許すはずもないって……? ふふ、違うんだよ。この部屋を見つけてくれたのも、「借りちゃえば?」って提案したのもパパなんだから。 うん、まあ。いろんな状況が重なって、あたし自身もよく分からないうちにこんな風になってたの。
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岩男くんは元の通りにおばあちゃんと住んでいたお家に戻ってくるつもりだった。おばあちゃんは岩男くんの叔父さんでもある息子さん夫婦の元に身を寄せていたけど、もう岩男くんも立派な大人なんだしひとり暮らしも大丈夫だろうってことになったみたい。 岩男くんのお家は何棟かが軒を連ねる平屋一戸建ての賃貸だったわけだけど、昔からの建物で老朽化が進んだため、大家さんが取り壊しを決めた。そこに元の通りに貸家なりアパートなりを建ててくれれば問題はない。でも、採算の面とか将来性とか考えた結果、ショッピングモールとして姿を変えることになっちゃったのだ。 「……いいよ、オレは社宅にでも入るから」 岩男くんはあっさりした様子でそう言ったけど、私は大反対。だってだって、車でも30分以上かかるその場所は、電車の便がとにかく悪い。乗り換えを繰り返すと1時間半くらい掛かっちゃったりして。その上、岩男くんがお勤めする研究所とは目と鼻の先だって言うじゃない。結局、職場と家との往復でこっちにはなかなかやって来なくなっちゃうかも。
悩んでも悩んでも答えが見えなくて、八方ふさがりになりかけたとき……、突然パパが切り出したのよ。 隣の地区にとってもいい場所があるって。よくよく聞いてみたら、それは岩男くんや梨花が通っていた柔道場からちょっと奥に入ったところだった。 パパの学生時代のお友達には建築家になった方が何人かいらっしゃるんだけど、その人たちが作っているグループでは請負の仕事の他に様々なコンセプトで新しいタイプの建築を提案しているみたいなの。 それじゃあ、たいしたことない試作品みたいな建物なのかな? とか思ったら、大間違い。案内して貰ってびっくりしたわ。 こういう風に何もかもが揃っているのは、こだわり派の人には似合わないかな? でも、ちらちらと話は聞くの。恋人時代はとっても仲が良くてケンカなんてしたことのなかったカップルが、結婚までのあれこれで何度も何度も意見が対立するって。それもふたり暮らしを始める過程で必要なコトかも知れないけど、出来ることならお皿の柄くらいのことで仲違いしたくないわ。 白木やタイルをふんだんに使ったナチュラルな内装も素敵、水回りの蛇口までおしゃれなの。しかも寝室は間接照明。ムードもばっちり。でもって、隣との境の壁にはクローゼットが一面に取り付けられていて、パパ曰く「どんなに大声を出しても大丈夫」だそうだ。 「いやあ、思わず俺が千夏とふたりで住みたいと思ったほどだよ。モニター対象が新婚さん限定なのが、とても残念だ」 ……なんてパパのコメント付きで、あたしたちはこの部屋を借りることになった。
もちろん、岩男くんが無事に卒業するまでは、きっちりと生活することは出来ないんだけど。それでも、岩男くんが今回のように上京してくるときに気軽に泊まれるようにって、さっさと引っ越ししちゃった。私もひとりのときは家に戻ることになると思うけど。引っ越し……って言っても、当座の着替えと新品のパジャマと洗面用具くらいで終わっちゃったわ。あんまり簡単で、初日から夕ご飯を作っちゃったもん。 ふたりで迎えた、新居での初めての朝。どんな風にしようかなとか、いろいろ考えていたんだよ。いきなり、顔中のケチャップで幕開けじゃ、ちょっと情けない。だけど、岩男くんの方はそんなことはあまり気にも留めていないようす。ああん、寝ぼけまなこなところを起こしてあげたかったのになあ。いきなりおひげも剃り終わってスタンバイオッケーで出てこられちゃ、かしこまり過ぎてる気もするよ。
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そんな風に言いながら、岩男くんはダイニングの席を立つ。 「お見送りするね、……免許は持った?」 一応確認、だってマイカー通勤だもん。そのために中古車を購入したのだけど、慣れない運転は時間に余裕を持って安全にしなくちゃ。……まあ、岩男くんに限ってはそんな心配は必要ない気もするけど。とりあえず、初詣では交通安全のお守りとお札を買ってきたわ。 「ね……、岩男くん」 靴を履く背中を見つめながら、そっと呼んでみる。気付くかな、気付かないかな。どきどきしちゃうけど。「何?」って感じで振り向くから、あたしはちょっとだけむくれた。 「お出かけの、ご挨拶。……してくれないの?」 あたしたちの身長差は約30センチ。あたしがお玄関のマットの上に立っても、ちょっぴり岩男くんの方が大きい。じーっと見つめていたら、岩男くんがやっと気付いてくれたらしく、にこっとする。でも、それだけ。頭にぽんって手を置く、いつもの仕草。 「いや、オレは透さんのように我慢強くないから。それは『ただいま』の時まで待ってくれないかな? 仕事に行かないで、ずっと菜花ちゃんと一緒にいたくなっちゃうよ」 それから、耳元まで唇を寄せて「昨日はゴメンね」って言った。
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シンクの脇には最新式の食器洗い乾燥機もついてるんだけど、朝のふたり分のお皿なら手洗いの方が早そうだ。あわあわになった手も、何となく新妻っぽいかな? 明日からはあたしも出勤だから、こんなにのんびりはしていられないけどね。 ――うーん、昨日って……夜のことかなあ? あたしの方は全然気にしてなかったけど、岩男くんは引っかかってたのかな? だとしたら、ちょっと可愛いかも。ふふ、そんな風に言ったら怒られちゃうかなあ。
昨日の晩、新品のシーツに横たわった途端に、岩男くんは力尽きたみたいに寝ちゃったの。まあ、楽なお引っ越しだとは言っても、家具の移動とかもしたし、それなりに体力は消耗したんだと思う。パパも樹も手伝いに来てくれたけどね。 ……でも、気持ちよさそうに寝息を立ててる岩男くんを見ていたら、とっても嬉しくなったんだ。あたしたちはとうとうお互いを安らぎの場所に出来たのかも知れないって。
岩男くんにとっても、今回の展開はかなりびっくりだったと思う。もともと石橋を叩きすぎて壊しちゃうくらい慎重なタイプだもん、パパのように奇想天外な思考にはなれないよね。 だけど、岩男くんは12月の始めにここの見学に来た後、お見送りした東京駅の新幹線ホームで言ったんだ。 「……来週かその次か。週末にまとまった時間は取れる? おばあさんに会いに行きたいんだ」 新幹線と在来線を乗り継いで、ようやく辿り着いた山間の小さな街。そこで出迎えてくれたおばあちゃんは、目に一杯涙を溜めながら、あたしたちのことを本当に喜んでくれた。あたしにとっても、岩男くんのおばあちゃんは三人目のおばあちゃん。いろんなコト教えて貰ったし、とてもやさしくしてくれた。いつのまにか岩男くんが好きになったのは、おばあちゃんの存在も大きかったのかなと思う。 今年の6月。その街から目と鼻の先にある避暑地の教会で、あたしたちは結婚式を挙げることに決めた。おばあちゃんの嬉しそうな顔を見ていたら、そうするのがすごく当たり前のような気がしてきたの。大好きな人とずっとずっと一緒にいること、それを周りの人たちが祝福してくれるって素敵。もちろん、仕事は今のまま続けるけど、あたしたちはあたしたちなりに幸せになればいいと思う。
テラスハウスの名前は『Honey&Honey』。甘い香りに満たされた新生活に似合いすぎていてくすぐったい。 「地図にない旅をする勇気こそが、ふたりの門出には必要だと思う。だから、その前に面倒なことを山盛りにしたら、誰だって嫌になるよ。好きだから、一緒になる。失敗したっていいじゃないか、やり直しだってできるんだから。……まずは、始めてみることだよ」 捉えようによってはかなり意味深に聞こえるけど、これもパパからの挑戦状かなって思う。あたしと岩男くんははいつかパパとママみたいな……ううん、それよりももっともっと素敵なふたりになる。
洗濯機の洗い上がりのブザーの音。 ぱりぱりに糊のききすぎた新品シーツを洗ったから、今日は洗濯竿一杯に干すんだ。お正月明けの気持ちのいい日差しの中、きっと旅立ちの白い帆みたいに見えるね。 あたしたちの船は、今岸を離れたところ。
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