柔らかな木の香りに包まれたその対は、柱や梁のひとつひとつから溢れんばかりに揃えられた調度までその全てが初々しく見える。ほんの二月ほどで急ぎ建て増しされたとは思えぬほど細部にまで職人の技が行き届き、その仕事ぶりが清々しい程だ。磨き上げられた縁から眺める中庭も新しい主を迎え入れるために美しく整えられ、今が盛りの夏の花から遣り水に至るまで家人の心づくしが温かく伝わってくる。 「遅いわ」 透き通る宵が次第に色を濃く変えた頃、渡りを過ぎて部屋の前までやって来た足音に最初に応えたのはつんとした声だった。 「ご到着の知らせを受けてから、どれくらい待たされたのやら。長い渡りで迷ってしまわれたのか、あるいは途中で魔物にでも襲われたのかと随分心配しましたのよ?」 その響きはどこまでも清らかで、花の頃を迎えた姫君にはこの上なく相応しいものであった。しかし、彼女は未だ表に対し背を向けたまま。白地に藍を落とした色目の夏装束を肩から掛け、その上に艶やかな銅色の髪を惜しげもなく流れ落としている。細い肩先はまるで生気を吸い取られたかのように、微動だにしなかった。 「―― 姫」 上流階級の者ならば、ここでさり気なく口元を扇で隠すのだろうか。そのような心得も今は無用と、彼は溢れる笑みを隠そうともせずに部屋へと足を踏み入れた。 「随分と丁重なお出迎えですね。さすが領地一の姫君は違います、三日ぶりにようやくお目に掛かるというのに……あなたにはいつも驚かされてばかりです」 あまりに自然に背後に寄られたので、ぴんと伸びた背筋に見えない緊張が走る。しかしそれも一瞬のこと、すぐに何事もなかったかのように元通りになった。 「まっ……、どこで習われたのやらお口ばかり達者になって。でもそのようなうわべばかりのお言葉、わたくしには無用です。それに、もうおしゃべりは存分に済ませていらしたでしょう。本当は今、口を開くのも億劫なのではなくて?」 淡々と言葉を紡ぎ出す当の本人は意識してないのだろう。しかし、ひとつ言葉を句切るたびに艶やかな流れが微かに揺れ、その心内の震えを手に取るように感じさせる。 「いやはや、そのようなお心遣いまで頂いて誠に恐縮です」 見た目は軽やかに見える侍従の装束も、実際に身につけてみると想像以上に重く動きにくくて仕方ない。年少の頃よりその姿に親しんでいるならともかく、彼のようににわか出世の身の上では煩わしいばかりだ。しかしこの苦労も進んで引き受けようと、あの日覚悟を決めたのだ、今更何を厭うこともない。 「しかし、そろそろ可愛らしいお顔をこちらに向けてはいただけませんか? あまりに長い間お会いしなかったので、待ち遠しくてなりません」 随分困った顔をなさっているのではないか、そう思うとなおも笑いがこみ上げてしまう。こんな風に分かりやすく拗ねられてしまうと、つい悪ふざけが過ぎてしまうではないか。 「な、何を言うの。こちらにあるのは鬼の顔よ、そのようなもの見たくもないでしょう。だからこうして隠しているのに、……意地の悪い方ね」 見れば肩先がまた小さく震えている。そろそろ限界だろうか、あまりに苛めると取り返しが付かなくなることは今までの経験上よく分かっていた。 「何を仰います、鬼などどこにもいませんよ。ほら、……このように」 夜の気に、動きに遅れて袂が舞い上がる。前触れもなく後ろから抱きすくめて細い顎に手を添え、そのお顔を覗き込んだ。そこにあるのは戸惑いと、それから幾らかの怒りを含んだ面差し。 「これはまた、なかなかお目にかかれないお美しさですね。それなのにお隠しになるなんて、もったいないことです。ほら、そろそろご機嫌を直して下さい」 夏の盛りだというのに、滑らかな手のひらは驚くほどにひんやりとしていた。女子の装束は男子のそれに比べてさらに枚数が多く一度腰を下ろすと再び立ち上がるのも容易ではないと聞く。しかしこの御方は違う、生まれも育ちもやんごとなき身の上で、世が世なら都の竜王家にも上がることが出来たであろうとかの女人様を嘆かせたほどの器量である。 「何を言うの、心にもないことを。いいのよ、無理などなさらなくて。長いお務めでたいそうお疲れでしょう、奥の支度も出来ていますから早くお休みになれば宜しいわ。着替えの手伝いが必要なら、誰か人を呼んで―― 」 言葉はそこで途切れる。彼女が自分の意志で口をつぐんだわけではない、それは不可抗力であった。 「そのような必要はないでしょう、せっかくふたりきりになれたというのに」 塞いでいた桜色の口元を解放すると、彼は静かにそう言った。何故この人はいつもこうなのだろう、第三者の目がある場所では何ひとつ不足のない完璧な振る舞いの姫君であられるのに、こうして自分の前でだけ見せる子供のような素直な一面がたまらない。 「……やっ……何をするの、いきなり」 慌ててあらがうその頬が、もう赤く染まっている。どこまでもしなやかに気丈で、そしてその一方で儚く頼りなげな人。掴みどころのないいくつものお顔のどこに真実があるのかに惑わされ途方に暮れた日もあった。しかしそれも過ぎてしまえば、甘く懐かしい思い出である。 「別にいきなりではありませんよ、これは帰館のご挨拶です。しかし、そんな風に誘われるとこのままおしまいには出来ませんね。困りました、このように明るい場所で」 言葉とは裏腹に強い力で抱き寄せ、再び唇を重ねた。そこから立ち上る花の香、何度繰り返しても慣れることはなくさらに深く酔わされる。そのうちに彼女の腕がこちらの首に回り、もっと深くお互いを重ね合わせるようになった。 「もう、……乱暴なんだから」 息が上がるまでお互いを求め合ったあと。再びそのお顔を覗き込むと、わざと素っ気なく視線をそらしてしまう。 「何を仰います、元は卑しい身分の俺を選んで下さったのは他の誰でもないあなた自身でしょう。下々の者のような振る舞いでは、お気に召しませんか?」 あらわになった白い首筋に唇を寄せると、たちどころに細い悲鳴が上がった。さらに耳の付け根までゆっくりと舌を這わせていく。幾度味わっても、極めることなど不可能な魅惑の香り。小さな震えが戸惑いを越え、さらなる熱さを求め始めている。 「やっ……あっ! そ……のようにして、わたくしを惑わそうとして。ひどい人、もう信じられない……」 一文字に結んだ口元、己の反応が口惜しくてたまらないように震えている。どこからか強い気流が流れ込み、ふたりのわずかばかりの隙間を一気に通り過ぎた。清らかな髪がもどかしそうに舞い上がり、幾重もの光の帯を散らしていく。 「……李津(リツ)はそんなに本館がお好きなの? 出仕のご報告をするだけだったら、もっと手短に済ませることが出来たでしょう」 どうやら最後の枷が外れたようだ。一番胸奥に隠していた苛立ちを吐き出した姫君は、そのまま恥ずかしそうにこちらの胸に顔を埋めてしまう。 「何故、最初にこちらに顔を出して下さらないの? 幾日も会えずにいて、とても寂しかったんだから」 小さな子供のように駄々をこねられる、その細い肩を強く抱きすくめる。このようなお言葉をいただけるなんて、自分は何と果報者だろう。 「……そうは仰いましても。義母上が丁重におもてなし下さるのを、どうしてお断り出来ましょう。少しの我慢はしていただかなくては困ります、こちらに移ることを望まれたのはあなたご自身なのですからね。俺は別に、御領主様の元に留まっても宜しかったのですよ」 何とも複雑な身の上である。まずは自分が跡目である男子に恵まれなかったこの家に養子として入り、その上で身分違いの姫君を特別なはからいでいただくことが出来た。思いがけず待望の息子が出来た夫人はそれはそれは喜んで、あれこれと世話を焼いてくれる。早くに実の母親を亡くした身の上でもあり、なかなかにして短く切り上げることが出来ないのだ。 初めから願うことも許されぬ相手だと承知していた。まだあどけなさの残る面差し、初めてお会いした頃はそのつぼみがほころびかけたばかりだった。思いがけずお側に置いていただいて、夢心地に過ごした日々。だが、それもいつか終わると言うことを同時に心に深く刻んでいた。 「だって、……あちらにいると、父上が邪魔ばかりなさるのですもの。次から次へと李津に厄介な仕事を押しつけて、わたくしから取り上げようとするのが我慢できなかったわ。だけど、今度は……。みんなひどい、どうしてわたくしにばかり意地悪なさるのかしら」 思い描いた夢と現実が大きく食い違う。その事実に素直に憤りを感じることが出来るようになったことを誉めて差し上げなくてはならないと思う。何もかもを己の中に押し込めて周囲に合わせて生きていこうとしていた頃のこの人は、あまりにも痛々しくお側で拝見しているのが辛かった。 「意地悪などではありませんよ。皆、姫のことが可愛らしくて仕方ないのです」 こちらの義母上も、昼間は何かと理由を付けて姫君を呼び出して長い時間おしゃべりの相手をさせていると聞いている。決して意地の悪い方ではないのだ。ただ、姫君の方がいささか掴みどころのない御方でもあり、それだけにお互いの間で幾分の食い違いがあるのかも知れない。それを表沙汰にするような方ではないから、全てを胸の内に溜め込んで過ごしているのだろう。 「―― 姫、ひとつご提案があるのですが」 柔らかな髪に指を梳き入れることの出来る幸せを噛みしめながら、彼はその艶やかな流れに言葉を落とす。 「今日もあちらの舅殿に催促されました、ここは早く御孫様の顔を見せて差し上げることが一番ではないでしょうか? こちらの義母上もそれを望んでいらっしゃるご様子。可愛らしい標的が現れれば、俺たちのことなどすぐに忘れてしまわれますよ」 驚いて見上げる瞳に含みをもたせた眼差しで応えると、腕の中の人はまた恥ずかしそうに俯いてしまう。 「そ、そんな……ことって、あるのかしら」 重ねの中に手を忍ばせると、想像以上に熱くなった身体に辿り着く。薄い布でなおも幾重にも包まれたその場所は、今これから起こりうることへの期待に大きく震えていた。 「ええ、もちろんです。ただ、……そのためには姫にもご協力いただかなくてはなりませんね。こればかりは俺ひとりの力ではどうすることも出来ません」 きつく結ばれた袴帯に手を掛ける。するりと音を立て難なく解けてゆくのは、姫君のお心も同じだろうか。初めのうちはかなり苦労したが、慣れてしまえば片手だけでどうにかなる。きっと何事に対しても同様のことが言えるのだろう。 「……やっ、李津。お願い、奥に連れて行って。こんな場所じゃ、嫌。誰かに見られたら……恥ずかしいじゃないの」 桜色に染まった肌が、早くこちらへと誘う。すっかりと闇に包まれた中庭に、迷い込んだホタルがひとつふたつ。その儚い輝きも、今は眺める者もない。 「そうですか、ここでは存分に出来ぬと仰るのですね」 それ以上の言葉は不要と唇を塞ぐ。もう待ちきれない、ここに戻り着くまで気もそぞろに過ごしていたのだ。全ての気持ちを受け止めるために、そして伝えるために巡り会う。あまたの人々がその身分の上下に関わらずに続けてきた営みを、これからどれくらい繰り返すことになるのだろう。 「さあ、それでは教えていただきましょうか。本当に姫が俺を待っていて下さったのか、その答えは……こちらにあるのですね?」 永遠に続けばいいと思う、抱えきれない願いを全て今宵のとばりに隠して。 「……あっ、やあっ……!」 切ない吐息が、夜の闇に溶けていく。遠くで聞こえた水音が、今指先に辿り着いた。 了 (080606)
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こちらは記念打キリリク作品の第2弾になります |