TopNovelヴィーナス・扉>シンデレラの赤い靴・6

それぞれのヴィーナス◇初代の未来

  

  

   
 言い訳をしたかったのに、そのチャンスさえも与えてもらえなかった。

 先輩はサンプルの入った紙袋を私から受け取ると、何事もなかったかのように通り過ぎていく。必要以上のことを言われた訳じゃないし、そもそも傷つくようなひと言を浴びせかけられた訳でもない。なのに、その場に取り残された私は、今にもこみ上げそうになる涙を堪えるのに必死だった。

「……ふうん、結構話の分かる奴じゃん」

 一方、未だに目の前に居座っている松田さんの方と言えば。つい先程の動揺はどこへやら、台風一過の青空みたいな表情になっている。

「良かった、それじゃ早速手配しなくては。君のコワ〜イ先輩の気が変わらないうちにね」

 浮き浮きと遠ざかっていく足音。そして、私は今度こそひとりだけで取り残された。ビニールタイル張りの足下が今にも崩れ落ちそうで、それどころか地球までが逆回転を始めた気分。ぐるぐる、ぐるぐる。多分、これが悪い夢だったら、もうこのくらいで朝の目覚めが来るはずだ。

 

 グレイな霞の掛かったままの時間が、その後もずっと続いていた。

 夢遊病者みたいなふらふらした足取りで部署に戻れば、デスクの上の私の仕事の束は半分以下に減っている。本人のいないうちに勝手に何しているのよってすごく腹が立ったけど、一応段取りとかは木暮先輩にきちんと確認した上で例の男性社員たちが請け負ってくれてるみたい。みんな、すごく楽しそう。そりゃそうだよ、面倒な内容もあるけど、どれも興味深くてやり甲斐のある内容ばかりだもの。
  以前から、とても不思議だった。先輩の手に掛かるとごくごくありきたりの仕事が充実した素晴らしいものに変わってしまう。そこに携わる人たちの心まで浮き浮きさせて皆が楽しく進めるから、その結果として素晴らしい完成になるんだ。何気ない素材も特別なものに変化させていく。先輩だからこそ出来る離れ業だと思う。

 ……そりゃ、私じゃなくてもお手伝いは出来ると思うけど。

 と言うか、実力主義の業界では経験や実績が最大の武器になる。私にとっては迷惑な存在でしかない彼らも、仕事の腕前では絶対に敵わない。厳しい競争の現場で日々戦っているんだから、当然のことなんだよね。

 午後六時の終業時間になる頃には、私が「言い訳」として一週間分は使えると思っていたノルマが、跡形もなくきれいに片付いてしまっていた。

「さあ、これで心配はないよね? 出掛けるとしようか」

 リーダー格の松田さんは、とにかく嬉しそう。仲間たちからも大いに感謝されて、一歩リードって感じかな。だけど、こんなのって本当にアリ? 私は全然乗り気じゃないのに。

 総勢六名のうちで私が紅一点。連れて行かれたダイニングバーは手頃な値段で美味しいエスニック料理が楽しめる穴場スポットだった。日々営業で鍛え上げられている彼らの話はどれも面白かったし、和気藹々とした時間の中で、私は始終持ち上げられて大切に大切に扱われていた。

 


 そして、翌日。

 二日酔いとは違う重い気持ちを抱えて出社した私を待っていたのは、製作部に編集部、そして総務部の面々。みんな昨夜の話を聞きつけてやって来たという。

「同じ部署だからって、贔屓するのはナシだよ。こういうことは平等にしてもらわなくちゃ困るからね」

 そんな風に言われても、そもそも私の意志なんてどこにもなかったのだし。とはいえ、やはり身内ばかりを優遇しては変な風に誤解されても仕方ないんだろうな。仕方なく、順番に約束を取り付ける。そこまで律儀にやる必要もなかったのかも知れないけど、もうここまできちゃうと「どうにでもなれ」っていう気分だった。

 

「木暮先輩、見積もりの比較データが仕上がりました。今、そちらに送ります」

 出来るだけ平静を装っているつもりでも、自分の声がどこか震えている。机ふたつを間に挟んだだけだから、すぐに気づいてくれる距離。それなのに、今日の先輩はノートパソコンの画面を見つめたままだ。

「……あの……」

 集中しすぎていて聞こえないのかな? そう思ってもう一度声を掛けたら、ようやく顔を上げてくれる。でもその眼差しはすごく冷たくて、優しさのかけらもない感じだ。

「ちゃんと聞こえてるよ、あとでチェックするから」

 最初は気のせいかなと思っていた。もしかすると無理矢理そう信じ込もうとしていたのかも。とにかくあの日以来、私の大好きだった先輩がどこかに消えてしまったみたい。外回りにも同行させてもらえなくなったし、本当に簡単な片手間に出来るようなデータ処理以外はこちらに回してくれなくなった。それすら途中で取り上げられてしまうこともある。

「未来は忙しいのだからね、無理にやってくれなくてもいいから」

 何でそんな言い方をするのって、もうちょっと私に勇気があれば叫んでいたと思う。そりゃ、私如きがのろのろ進めるよりも、先輩本人がやった方がずっと能率がいいし仕上がりも完璧になるだろう。でも、そしたら。私の存在はどうなるの? ようするに「お前なんて、もういらない」って言いたいのかな。

 それでも私、諦めきれなかった。先輩の進めている仕事の助けになるような資料を自分なりに集めたり分析したりしてファイリングしてみる。そう言うことは過去に何度もやって来たし、そのたびに先輩はとっても喜んでくれた。

「すごいぞ、未来。おかげでいいアイディアが浮かびそうだ」

 先輩に褒められるのが嬉しかった、頼りにされているって分かるとやる気が出た。だけど、今は駄目。何をやっても感謝されるどころか、かえって疎ましがられたりして。この頃では次の指示を訊ねるのにも気を遣ってしまう。

 そして今も、差し出したファイルを前に先輩はすごく分かりやすく渋い顔をしている。

「何? これをまとめるために昨日は遅くまで残っていたの? こんなこと、してくれなくて良かったのに」

 私には、もう何が何だか分からなかった。そもそも、どこから間違っていたのだろう。やっぱり松田さんとの会話を誤解されたとか? それとも、最初に状況をきちんと説明しなかったのがいけなかったの? そりゃ、何も落ち度もないのに悪者扱いされた先輩こそが今回の企画において一番の被害者だと思う。あんな風に決めつけられて、絶対に嫌な気分になったはず。

 だけど、だからといって。

 パッと見には何ひとつ変わらない日常。少しくたびれかけた内装がトレードマークの部署には、走り回る社員の足音と電話応対の声で溢れている。時折上がる喜びの声、そして慌てふためいた戸惑いの対応。決まり切ったマニュアルのない世界はいつも新鮮で、期待と不安で満ちている。
  訳も分からないままに飛び込んだ業界だったけど、私はこの場所での毎日がとても好きだった。緊張のし通しだったし時にはとんでもないミスをしてしまったりもしたけど、だからこそひとつの仕事をやり遂げたときの達成感はありきたりな言葉では言い表せないほどのものがある。そして、何よりも。常に尊敬できるあこがれの先輩のそばにいられることが幸せだったんだ。

 けど、もう……先輩にとって、私はいらない人間になってしまったんだな。

 ここまで現実を突きつけられれば、どう考えても認めざるを得ない事実。それなのに、まだ諦めきれない私がいる。だって駄目なんだよ、他の誰と比較しても先輩は全然別格なんだもの。今までにもそれを感じる瞬間は幾度もあった、そして今、日替わりで色んな人たちと食事に行ったりおしゃべりしたりしているとさらにその気持ちが強く確実なものになっていく。
  一緒にいることが当然だった頃には「どうせ私なんか」とか後ろ向きに考えてしまったりした。いくら頑張ったところで、先輩にはもっともっとお似合いの素敵な人がいて当然。その事実を目の当たりにしたら、きっと私は心から祝福することが出来るはずだって。

 何の取り柄もない、自分自身の力では確実にひとつの仕事をやり遂げることすら難しい存在。我が身の不甲斐なさに落ち込むばかりだった頃も先輩の優しい励ましや的確なアドバイスがあったからこそ挫折することなく頑張り続けることが出来た。
  いつの間にか、それが当たり前になっていたのかな。自分だけで全てやれているような錯覚をして、傲慢な気分になってはいなかっただろうか。だから、先輩にも疎ましがられるようになったんだ。

 


「どうしたの? 駅はそっちの方向じゃないでしょう」

 急に呼び止められて、ハッと我に返る。自分が今どこにいるか何をしているかがすぐには分からない。頭がくらくらして、足下がふらついて。別に限界まで呑んだわけでもないのに、すごい悪酔いな感じ。

「二次会、いくだろ。案内するよ」

 ああ、そうか。今夜はまた松田さんたちのグループと食事していたんだっけ。みんな盛り上がってすごく楽しそうだったけど、話の内容なんて少しも頭に入っていなかった。

「いいえ、これから用事があるのでお先に失礼します。今夜はありがとうございました」

 今日は何曜日? そして何日? あれから一体、どれくらいの時間が過ぎていったんだろう。ありきたりな繁華街の賑わい、みんなどうしてこんなに楽しそうなの? 私、全然浮き浮きしてないよ。それどころか、ずぶずぶとどこまでも沈んでしまいそうな気分でいる。

「えっ、それってどういうこと? だったら、送るよ。ちょっと待って―― 」

 目の前にあったのは、ぽっかりと口を開けた地下鉄の階段。追いかける声を振り切って、一気に駆け下りていた。

 

 人気の消えたオフィス街。闇に溶けそうな雑居ビルが目の前にある。

 ―― どうして、戻って来ちゃったんだろう?

 ここ数日の間に、すごく投げやりな気持ちになっていたのは知っている。自分の意志とは全く関係のない出来事に振り回されて、仕事も人間関係もごちゃごちゃになってしまって。一人暮らしの私は部屋に戻ってもストレスが解消できず、かといって職場で爆発するわけにもいかず八方ふさがりだった。
  どうもね、自分が考えていた以上に私は感情が表に出ないタイプだったみたい。だから、周囲のみんなは私のどこかが変わったことに全然気づいていない。ロッカールームですれ違いざまに顔だけ知っている女性社員の誰かからちくっと嫌みを言われることもあったけど、そう言うときにもショックを受けていることが分からないみたいだ。そもそも、そんなことされて落ち込まない人間なんていないのに。

 まあ、不条理なことがまかり通ってしまうのが「社会」なんだよね。自分は間違ってないって思っても、世間がそれを認めてくれなかったらおしまい。冤罪だろうが何だろうが、逃げるすべはないんだ。

「……ゆっくり構えていることなんて、私には無理だよ」

 今の状況を心から楽しめるような自分だったら良かったのに。全然そうじゃないから、こんなに苦しんでる。駄目、もう限界。言い寄ってくる人たちは下心が見え見えだし、遠巻きに面白がっている人たちの視線も痛いし。それにね、いくら「俺はすごいんだよ」って説明されても、心が動くことなんて一度もなかった。

 もっとすごい人、私知ってるから。

 窮地に陥ってしまった私を助けてくれるどころか、冷たく突き放して背中を向けた。それこそが「答え」なんだと思う。いつまでも勘違いな夢を見続けなくて良かった。今は絶対に無理だけど、いつか長い時間が経ったら「気づけて良かった」って振り返ることが出来るだろうか。

 足が勝手に前に出て、自動ドアをくぐりエレベータに飛び乗って。身体に染みついた習慣で、私はいつもの場所に向かっていた。

 

 出版業界は日夜関係のない不規則な仕事形態になることも少なくない。「今までにない新しい風を」をスローガンに参入してきた我が社も、多少の改革は行ったもののやはり古いしきたりを一掃するところまではいかなかったみたいだ。他のフロアは真っ暗なのに、三階と四階のいくつかの部屋からは今も灯りが漏れている。

 そして。

 目の前の半開きのドアの向こうも、部屋の半分が明るく照らされていた。カタカタとキーボードを叩く音もする。何の確信があるわけでもないのに、私はドアを動かすことなくするりと中に入っていった。

「……」

 こういうことって、本当にあるんだろうか。今、目の前で起こっていることが信じられない。

 部屋の中にいたのは、たったひとり。それも私が一番会いたくて、そして一番会いたくなかったその人だ。いくら物音をなるべく立てないように心掛けたとはいっても、人の気配くらいは感じているはず。それなのに、振り向いて確認することもない。

 カタカタカタ。私に背中を向けたまま、キーを叩き続ける背中。初めて出逢ったときも後ろ姿だったなって思い出す。本当に、夢中だった。なりふり構わずに追いかけ続けて、いつまでもそんな日々が続くことを祈っていた。けど、……もうそれも終わる。

「あの、先輩」

 黙っていたら、永遠にそのままで過ぎていくような気がした。だから、声を掛けてみる。でも背中はやはり動かない。

「何か忘れ物? まさか、仕事のために戻ってきたなんて馬鹿なことを言い出すんじゃないだろうね」

 振り向く代わりに、声が戻ってきた。その間もキーを叩く指先は休まずに動き続ける。

「今夜も皆で楽しんでいたのでしょう。主役の君が先に戻ってきてしまっては興ざめじゃないかな、もっと付き合っていれば良かったのに」

 ……どうして、そんな風に言うの。

 窮地に立たされた私を見たら、すぐに救いの手を差し伸べてくれるはずだって信じ切ってた。だからこそ、迷惑を掛けたくなくて、助けを借りずにひとりの力でどうにかしようって思ったんだな。けど、実際は違った。先輩にとって、私は騒がしいイベントの首謀者のひとり。ううん、憎むべき中心人物と言ってしまった方がいい。

「いいんです、もう」

 ここに来るまでに、私の気持ちは決まっていた。明日、朝一で辞表を出そう。これ以上、耐えられそうにないし、会社にも迷惑を掛けることは出来ない。だから、今夜のうちに自分の机をきれいにしておこうって。そうすれば、跡形もなくいなくなることが可能だ。誰にも迷惑を掛けないで。

「―― 先輩」

 きっともう二度と、大好きだった笑顔には出会えないのだろう。誤解されたままで立ち去るのはすごく辛い。だけど、これ以外にどんな方法がある? もうこれ以上、先輩に嫌われたくない。

「あの、……今回の企画、逆指名の権利ってないんですよね? だったら、私降ります。今の状態でただひとりの人を選ぶことなんて、永遠に無理ですから」

 

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2009年6月12日更新

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