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それぞれのヴィーナス◇初代の未来(の、番外編)
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 じっとしているだけで、汗ばむほどの陽気。クール・ビズが叫ばれて久しいが、それでも都心のオフィス街では季節を問わずスーツに身を固めるのがお決まりだ。夏本番を迎え、これからが正念場というところ。ここを無事に乗り切ることが、今後を決めると言っても過言じゃない。

 ―― それにしても、見苦しいものだな。

 やたらと混み合う駅前通り。今、目の前を歩いている中年の男は、先程から手にしたタオルで休む間もなく吹き出す汗を拭っていた。まあ、メタボ200%の体型じゃ、無理もあるまい。時折、その白いものが伸びかけた襟足の辺りまでやって来ると、不快指数が一気に跳ね上がる。自分が周囲に与えているマイナスイメージに気づかないなんて、情けないにも程があるぞ。

 それに引き替え、僕の姿はどうだ。ガラス張りのビル壁に映る自分の姿を横目で見やり、思わずほくそ笑んでしまう。涼しげな色合いのスーツは一寸の乱れもなく、好感度はばっちり。もちろん、脇の下の汗染みなんてあり得ない。もちろん多少の暑苦しさは感じているが、そこはあの手この手の高等テクニックで乗り越えている。
  髪型だって、抜かりはない。行きつけのヘアサロンには月に二度は通っている。きっちりまとまって見えるが、適度に風を通すゆとりもあり、堅苦しくなりすぎない辺りが素晴らしい。
  足下も一見ごくごく普通の革靴だが、実は靴底と中敷きがメッシュ加工になっていて底から熱気と湿気を逃がすしてくれる優れものだ。こういう逸品をめざとく見つけることが出来るのも、出来る男の条件のひとつだろう。

 この上ない優越感に浸りながら、僕の耳は後方から近づいてくる足音に集中している。彼女と一緒に行動するときは、普段よりも少し早足になっていた。そうなるとただでさえコンパスの差があるふたりでは、あっという間に距離が開いてしまう。そうだな、そろそろ立ち止まって待ってやろうか。

「……す、すみません!」

 その声を聞いて、初めて後ろを振り返る。ほらほら、僕を申し訳なさそうに見上げるその眼差しの愛らしいこと。必死に追いかけて来たから、だいぶ息も上がって髪も乱れている。爽やかなアイスブルーのスーツは白い肌にこの上なく似合っているが、これだけきっちり着込んでいたら本人はかなり暑苦しいだろう。そうなれば、普段よりも早く疲労のピークがやって来るはずだ。

「いや、これだけ人が多かったら歩きにくいのも仕方ないよ。予定よりもかなり早く戻って来られたし、どこかで少し休もうか?」

 ふふふ、最初からこれを狙っていたんだ。こっちは念願叶って万々歳なのに、真面目な彼女は驚いて首を横に振る。

「えっ、えーっ、駄目ですよ! 勤務時間中なのに……」

 そんな堅いことは言いっこなしだよ、未来。思わず口をついて出てきそうになる本音を慌てて飲み込んで、僕はあくまでも先輩らしく答える。何ともまどろっこしいが、これも「良き上司」を演じるために必要なステップだ。

「大丈夫だよ、みんなこれくらいのことは当然なんだから」

 

 ステーションビルの入り口にあるコーヒーショップ。ガラス張りの店内は少し落ち着かない気もするが、これくらい開放的な方が後ろ暗くなくていいだろう。僕はホットコーヒー、彼女はアイスミルクティーを注文する。グラスとカップが運ばれてきてもなお、彼女はまだ周囲を気にして落ち着かない様子だ。

「ほら、早くしないと氷が全部溶けてしまうよ。いつも言っているでしょう? あまり気ぜわしくするのも良くないからね、少し落ち着きがなくなっているなと思ったときには気持ちの切り替えが大切なんだ。僕たちは常に生きた人間を相手に仕事をしていくんだから」

 いや、実のところ仕事のことなんてどうでもいい。彼女とふたりきりで過ごせる時間を少しでも多く作りたいと心掛けていた。

 何しろ取引先に行けば、向こうの担当者が未来に仕事を超えた興味を示しているような気がして落ち着かない。説明をしているのは僕なのに、わざわざ彼女に質問を向けたりする失礼な奴もいる。冗談じゃない、誰がお前なんかに僕の大切な天使を渡すものか。もうこんな取引は打ち切ってやるとヤケになりかけたことも一度や二度じゃない。
  それなら社内にいれば安全かと聞かれれば、そう言うわけにもいかないのだ。何しろ自分自身が望んだこととはいえ、今の部署は戦前の軍隊のような男社会。そこに突然やって来た未来は、たとえるなら荒れ野に咲く一輪のバラ。誰もがその姿と香りに誘われてしまうのも無理はない。彼女が少しでも困った素振りを見せれば、すぐにどこからか助け船が出る。
「どうしたの、大丈夫?」なんていきなり背後から声を掛けるな。一体誰に断って、そんなことをしているんだ。もちろん未来は責任感も強く奥ゆかしい子であるから、有り難い申し出にも首を縦に振ることはない。「大丈夫です、自分ひとりで出来ます」きっぱりそう言い切るのは偉いが、しかし背後の相手に向けるその笑顔は余計だ。そんな態度を取ると、馬鹿な男はすぐに誤解するぞ。

 ああ、駄目だ。とにかく彼女には自覚が足りなさすぎる。もう少し用心させなくては大変なことになるが、どうやって忠告したらいいものやら。僕自身もかなり注意深くしているつもりだが、何しろこなさなくてはならない仕事が多くとてもやりきれない。それにあまり押しつけがましくなって、煙たがられても困る。僕はあくまでもスマートに、尊敬される「先輩」であり続けなければならない。

 小さなテーブルに向かい合って座れば、今にも互いの膝頭がくっついてしまいそうな距離。いいぞ、これも役得というもの。一緒に仕事をすることが多くても、こんな風に彼女をゆっくりと眺めることはなかなか出来ないのだから、このチャンスを満喫しなければ。

「それにしても、今日の未来は上出来だったね。先方が急に昨年度の市場動向の話を持ち出したときは僕も正直焦ったんだ。君があの資料を持参していてくれて、本当に助かったよ」

 今日の取引先は、こちらの話にいちいち難癖を付けることで業界でも有名なところだった。そんな意地の悪い場所に未来を同行させるのは可哀想な気もしたが、これにも僕なりのもくろみがあったのである。
  こちらが返答に困るようなことばかり言ってくる相手に果敢に立ち向かう姿は「出来る男」を印象づけるのにもってこいではないか。そのために事前の準備はぬかりなく、昨夜も遅くまで掛かって最終チェックをした。実際のところ、どこから切り込まれたところで対処法は万全にしてあったのだ。

「え……、そんなっ。あれはただ、私自身がうろ覚えだと困ると思って持ち合わせていただけで」

 部下を褒めるにもそれなりのコツがある。使えない上司は判で押したように同じことしか言わない。あれではせっかく伸びかけた芽が上手く育たなくなってしまうのだ。どんな些細なことでも良い、本人が一番心掛けている事柄をめざとく見つけ、それを分かりやすい物差しで評価する。そうすることによって「認められている」という確信が生まれるのだ。

「ふふ、じゃあ無意識のうちにそれをやってしまった未来には営業における天性の才能があるってことだね。困ったな、あまりに出来が良すぎる部下を持つと僕の威厳が保てなくなりそうだ」

 実際のところ、彼女は今まで僕が教育してきた新人の誰よりも優秀だった。何しろこちらが教えることを120%の割合でモノにしてしまうのだから、その上達ぶりには目を見張るばかり。だがそれは僕にとって喜ばしい反面、悩みの種でもあったのだ。
  あまりに早く全てを習得されては、こちらの教えることがなにもなくなってしまう。そうでなくてももうこのレベルになれば、とっくに独り立ちの時期に来ているのだ。いや、でもまだそれは早すぎる。彼女にはまだ世間の荒波にひとりで立ち向かせたくはない。

 それに―― 、他にも「何だか、おかしいな」と思うこともある。

「いいえっ、木暮先輩に限ってそんなことはありません。私の方こそ、いつもいつも先輩にはご迷惑ばかりおかけして、申し訳なく思っているんです。教育係って、本当に大変なんですね。だって、後輩相手にこんな風に気を遣わなくちゃならないなんて。……私も将来、先輩みたいに立派に後輩指導できるように頑張らなくちゃいけませんね」

 出先でこんな風に一緒にお茶したり、運良く昼時に掛かればランチを共にしたりすることもあった。実は最初からそういう時間帯になるようにと逆計算をして打ち合わせの日時を設定していたりするのだが、素直な彼女は僕のもくろみになど全く気づいていない様子。「部下に対する気遣い」だと信じ切っているみたいなのだ。
  冗談じゃない、誰が野郎相手に飯を奢ったりするものか。食事の場所だって、いいとこ時間勝負のラーメン屋かセルフの定食屋。コンビニ弁当で済ませてしまったことも少なくない。

「大丈夫、未来ならきっとなれるよ。僕が保障する」

 だが、まだ当分は手放すつもりはないからな。彼女が僕のものだということを周囲に、そして他でもない彼女自身にはっきりと知らしめることが出来るまでは。こんな中途半端な状態で独り立ちさせてみろ、どこの馬の骨に横取りされるか分かったもんじゃない。

「わー、嬉しいです! 先輩にそんな風に言っていただけるなんて、自信がついちゃいます」

 そうだ、その嬉しそうな笑顔。それを常に僕だけに向けていればいい。いくら他の奴がちょっかい出してきても、そんなのは軽くあしらっていればいいんだ。
  この子が最初の出逢いから、僕に好印象を持ってくれていることは分かっている。スタート地点からして、他の男どもよりもかなり有利な立場にあるのだ。だったら、そのあとは簡単。何かの「きっかけ」さえあれば、一気に次の段階へとステップを上ることが出来るはず。

 ……とはいえ。

 具体的に、どうすればいいのだろうか。
  情けない話ではあるが、僕は今までの人生の中で自分から女を「落とした」ことが一度もない。ちょっとでも気になる女がいれば、軽く目配せをするだけで十分だ。その後は、こちらが何か働きかけをしなくてもすぐに向こうの方から行動してくる。平均点以上の女を手に入れるのは、僕にとって容易いことだった。
  今でも十分に「特別扱い」にしているつもりなのに、彼女にとってそれは「上司から部下へと向けられた気遣い」としか受け取ってもらえない。優しいねぎらいの言葉も洒落たカフェでのランチも、はにかむ笑顔と共にあっさりと通り過ぎてしまう。

 

 それならば、と多少のグレードアップを試みる。

 新規開拓で大口の取引を成立させた夜、ふたりきりで祝杯を挙げようと提案した。前々からチェックを入れていた、タワーホテルの最上階。ランチタイムはリーズナブルな値段で明るいイメージだが、ディナーは一転して大人なムードになる。正直、ここまでやるとあからさますぎるかなと不安にもなった。さりげなくしているつもりでも、無意識のうちに肩に力が入りすぎてしまうようだ。

「す、すすす、すごいです……ねえ」

 柔らかな音色の生演奏が続くフロアで、彼女は驚きのあまり声も満足に出せない状態だった。その初々しい姿がたまらない。ふふふ、ここは「ホテル」なんだよ。今夜は平日だし、予約なしだって簡単に部屋を取ることが可能だ。慣れない場所で強めのアルコールが回ってしまったら、僕が優しく介抱してあげよう。何そんな、それ以上のことなんて、期待してはいないから。

「そんなに緊張しなくていいよ。ここはカジュアルな店だしね、気楽にしていて大丈夫」

 慣れた手つきでメニューを広げ、流暢なフランス語で給仕に話しかける僕。彼女がうっとりと見つめてくれるのが、たまらなく誇らしかった。もちろん、飲み口が良くて実は強めのカクテルを注文することも忘れない。

「すごい、綺麗ですね。それにとても美味しいです」

 そして、その晩に僕は驚くべき新事実に気づくことになる。何と、彼女は僕と同じかそれ以上にアルコールが強かったのだ。

 酒の力を借りる作戦は、彼女には無効である。そうなれば、また別の道を探る他はなかった。いや、あまりにこちらが強引な手段に出れば、奥ゆかしい彼女のことだ「何事か」と引いてしまうかも知れない。やはりここは餌だけまいて、向こうからやって来るように仕掛けなければ。

 


  そうしているうちに、夏は終わり秋も去っていく。

 今や彼女の有能ぶりは部署内に留まらず、社内でも評判になっていた。そうなると、いつまでも新人教育をしている訳にもいかなくなる。実際、訝しげな目を向けられることも多くなっていた。

「一体、何をやっているんだ。そろそろ、鈴木くんに大きな仕事を任せてみたらどうなんだい?」

 お節介にも忠告してきたのは、あの社長だ。春の一件以来、彼とは冷戦状態が続いている。

「いえ、まだ彼女には教えなくてはならないことがたくさんあります。仕事の出来る子だからこそ、僕の知っている全てを叩き込みたいと思っているんです」

 もっともらしい理由を並べて応戦してみたが、敵も然る者。どこまでこちらの腹の内を分かっているのか、微笑みを浮かべたままの口元で言う。

「ほお、……それではそろそろ本腰を入れて昇進を考えてくれるのか。その前に、彼女のことはきっちり片を付けたいと言うことかな?」

 冗談じゃない、と思った。

 そりゃ、前々から別部署への異動を希望していた。販売部の仕事もやり甲斐があるが、やはり出版業界を広く知るには多方面から見極める必要がある。だが、まだその時期ではない。何しろ、彼女の心をしっかりと掴むまではあの場所を去ることなど出来ないのだ。

  気持ちばかりが焦るが、どうにも上手い対処法が浮かばない。何故、思った通りに進んでいかないのだ。彼女は僕に特別の感情を抱いているはず、それならば何を躊躇うことがある。しかし、僕は彼女にとって「尊敬できる先輩」というスタンスを確立してしまった。今更どうやって、それを崩せばいいのだ。

 そうこうしているうちに僕の誕生日が過ぎ、クリスマスも年末年始も、そしてバレンタインでさえ。事前に「僕は甘いものが大好きなんだ」と何度も何度も念を押したのに、他の奴らと同じ500円の義理チョコとは情けない。どうしたんだ、未来。何故、思い切って行動を起こしてくれないのか。

 何かイベントがあれば進展もあり得る―― との甘い憶測もすべて空振りに終わった。

 

「木暮先輩、こちらが前年度の資料です。配布用にまとめたものもありますので、一緒にチェックをお願いします」

 僕だけに与えられる愛らしい笑顔。こんなに側にいるのに、何故か手を出すことが出来ないままでいる。いつの間にか袋小路の行き止まりに入り込んでいる気分。ああ、本当にどうしたらいいんだ。


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2009年8月7日更新

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