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第二話


 フェンス越しに、校庭や街の風景を眺める。昼過ぎの屋上には、少し強めの風が吹いている。心臓がまだドキドキしていた。
 どうしよう、初めて授業をサボってしまった。もうどの教室でも5限が始まっている。校庭では二年男子が準備体操を終え、二人一組になってサッカーのパスの練習をしていた。
 白黒のボールとサッカーゴールを見て、貴彦の顔を思い出す。中学の頃、彼は味方の一番後ろでグローブをつけてゴールを守っていた。
 電話かメールかしたいけれど、相手ももちろん授業中。それにまたこの話をしたら、たぶん彼は携帯の向こうで顔をしかめるよね。そう思うと、下手に相談しない方がいいような気がした。
 コンクリートの上に座り込んで、地学の教科書とノートを隣に置く。昼寝でもしたくなるようないい天気。でもとてもそんな気分にはなれなくて、深いため息をついた。
 視線はどうしても例の「ツイン・ビル」に向いてしまう。まだまだ真新しくて、そこだけが都会の雰囲気を漂わせている。その周囲にあるのはせいぜい三、四階の建物や普通の民家など。双子のビルだけが遠くの街から移植されてきたみたいな、違和感があった。

「あのビルは、たくさんの人間の人柱で出来ているのです。僕も、その一人ですよ」

 人柱? 大きい工事の時に、生きた人間を埋めたっていうあれ? そういう習慣はたしかにあったらしいけど、それは相当に昔の話のはず。あの「ツイン・ビル」の建設が始まったのは、落書きの主の言葉が正しければ十年前。で、完成が数年前。二、三百年前ならともかく、このご時世にそんな時代錯誤なこと…。
 でも…何だろ。下らない冗談だって笑えないのは。ああ、私は誰かに面白がってからかわれてるんだ、って思えない。突拍子もないことなのに、嘘だと決めつけられなかった。
 だからすごく怖くなった。SF小説を読むような、普通ではちょっと味わえない体験を楽しんでいるだけのつもりだったのに。机の隅に書かれてあることが、作り事でなく事実なのかも、と思ってしまった。
 さっき見た文字の下に続きがあったのかどうか、よく覚えていない。あったとしても読めなかった気がする。これ以上踏み込んだらさすがにヤバい、って感じた。五十分そこに座っているのも怖くて、授業をサボってしまった。…やっぱり後で怒られるかな。でも絶対、落ち着いて先生の話を聞けるはずなかったんだもん。だからこうして逃げてきた。
 それなのに今、落書きが気になって仕方ない。見たくないって思ったからこうしてるのに、そのことを少し後悔している。「彼」が伝えようとしているのを、無視してしまったみたいで。
 あなたは一体誰? 私が落書きに返事をしたから話を続けたの? それは別に私でなくても、相手をしてくれる人なら誰でも良かったのかな? それとも貴彦が言ってたみたいに、初めから私を目的としていた? でもそれにしたら、内容があまりにも現実離れしている気がするんだけど。こんなふうに気味悪がられたら意味ないし。うーん、分からない。
「彼」の言っていることが全部本当なら、私、幽霊を相手に文字の会話をしていることになる? そう考えるとさすがにぞっとする。思わずきょろきょろと辺りを見回してみる。当たり前だけど誰もいない。でも見えていないだけで、そこにいるかもしれないわけで。えーん、幽霊屋敷は好きだけど、本物はちょっとごめんだわ。この場合、霊感がないことを喜ぶべき? うう、誰もいない屋上に来たのは失敗だったかも。
 お願いです、祟らないで下さい。落書きを見てちょっと面白がってしまったけど、それだけで何も悪いことなんてしてないはずです。昨日、数学の宿題を友達のノートから丸写ししたことは謝ります。あ、それと何日か前にお兄ちゃんのお菓子を勝手に食べて、そ知らぬふりをしてたのも。えーと、えーと、他にまだ何かあったっけ。
 …なんか言ってて自分で情けなくなってきたんだけど。それによく考えたら、「お前を恨んでやる」とかって書かれてたわけでもないし。うん、あくまで印象だけど、丁寧な感じの人だよね。人のいいお兄さんってイメージ。ちょっと話を聞いてほしいな、ってところ。うーん、これって良く受け取りすぎかな?
 自分の勘を信じるなら、余計に悪いことしちゃったのかも。せっかく話を聞いてくれる人が現れたと思ったら、いきなり逃げ出したりして。それって、きっと寂しいよね。ま、ああいうふうに書かれてびくともしないってのもヘンだけど。
 どうしよう。地学室に帰らなきゃいけない気がしてきた。でももうサボっちゃってるし、戻るに戻れない。放課後…だと、教室は閉まってるよね。他のクラスの授業がある時に行くっていうのも、難しいな。次の地学の授業は金曜日1限。間が空いてしまうなあ。
 ひとつため息。何してるんだろう、私。完全に振り回されちゃって。もしこのことを相談したら、貴彦も怒るより呆れるかも。
 落書きの主は、何を伝えたいのかな? 小説とかにありがちな展開だと、自分の骨(あ、人柱っていうのが本当だった場合)を掘り起こしてきちんと供養してくれ、ってなるのかな。うう、また背筋がぞわっときた。
 でも、その上には二十階建てのビルが建ってしまってる。しかも市役所だよ? 私が一人で騒いでみたところでどうにもならないのは目に見えてる。そんなことをしたら、秘密に関わった人に口封じされたりとか…うん、やっぱり小説の読みすぎだな、この発想は。
 それとも、ただ話を聞いてほしいだけなのかな。会話が終わったら、気が済んで満足してくれる? 誰か一人にでも事情を知っていてほしいってこと? まさか同情してくれた人をあっちの世界に引き込むとか…それもピンとこない。
 やっぱり、もう少し話をしてみないことには始まらないな。
 なんかいろいろ考えてたら、5限の終わりのチャイムが鳴った。教科書やノート類を持って、立ち上がる。地学の授業に出なかったことをクラスメイトに尋ねられたらどうごまかそう、などと考えながら、屋上から校舎内に入っていった。


「そういや、あの机の落書き、その後どうなった?」
 貴彦の方からこの話題を出されて、私はびっくりした。
 木曜日の夜、ベッドに腰掛けて携帯で電話していた。私はその話には触れないつもりで、特に用もなく声が聞きたくてかけただけだった。一瞬迷いながらも、正直にあったことを言った。
「ふうん…」
 相変わらず、あまり興味なさそうな返事。
「明日地学室に行ってみて、続きがあるかどうか、だな」
「うん…」
 前に心配してくれてたのに、まだ私が足を突っ込んでること、怒らないのかな? 授業をサボっちゃうくらい気味悪がったくせして、やめようとしないこと、呆れてないのかな?
「どうした? 急に元気なくなって」
「えっと、貴彦の方から振ってくるなんて思わなかったから…。聞いてくれて嬉しいけど」
 すると携帯の向こうで、くすっと笑う気配がした。
「真帆のことだからさ、いったん気になったことを中途半端にしたままにはできないだろう、って思って。どうせそうなるんなら、内緒にされてるより知っておいた方がいいし」
「う…」
 見透かされてる…。でもやっぱり心配してくれてるんだよね。その気持ちはホントにありがたい。そんな貴彦のためにも、悪い意味での深入りはしないようにしなくちゃ。危なくなったら(なるかどうか疑問だけど)すぐ引き返そう。
「ありがとう、貴彦。絶対気をつけるから」
「関わらないことが一番ありがたいんだけど」
「うう…分かってるつもり」
 しょうがないな、って感じでまた彼が笑った。
「つまらないことでもいいから、何かあったらすぐ俺のとこにかけてくれよな。一人で無茶はしないこと」
「はーい。分かりました」
 ちょっとお父さんかお兄ちゃんに言い聞かされてる気分。でも嫌ではなかった。
「こっちの方も少し話を聞けるかもしれない」
 貴彦の思ってもいなかった言葉に、え?となる。
「話って?」
 携帯の向こうから、ひとつ息をつくのが聞こえた。
「だからツイン・ビルの」
 そう言われても、まだ話が見えない。
「この間からバイトしてるって言っただろ? 飲み屋で週四。そこの店長が、真帆の街の出身らしくて」
 これまた意外なところから意外なつながり。
「うん、それで?」
「『ああ、あのツイン・ビル…』って感じのこと言ってたから、何か知ってるかもしれない」
 やっぱり何かあの建物はいわく付きなのかな? それにしても…。
「貴彦、わざわざそんなこと聞いてくれたの?」
 すると彼はごまかすように、ひとつ咳払いをした。
「たまたまそっちの街のことが話に出たからな。落書きのことはひとつも喋ってないし。まあ、話してもヘンな目で見られるだけだろうけどさ」
 でもそれだけ気にしてくれてるってことだよね。ここで嬉しいなんて言ったら、貴彦、どんな反応するだろ? 想像して少し笑ってしまった。
「ありがと」
 ちょっとの間、沈黙が流れる。
「あー、でも、別に店長、深刻な顔とかしてたわけじゃないから、あんまり期待するなよ。よっぽど噂にでもならなきゃ、深い事情なんて部外者が知ってるわけないんだからさ」
「うん、分かった」
「ともかく、気をつけてくれよな。言いたいのはそれだけ」
 うう…顔がニヤけてしまうんですけど。
「うん。ごめんね、ヘンなことに巻き込んじゃって。心配させちゃってるよね」
 貴彦がふっと笑った。
「そう思うんなら、ほどほどにしといてくれよ?」
「そうだね。また電話する。あさって、そっちは大丈夫?」
「ああ。前と同じとこでいいんだよな?」
「うん。それじゃあ…」
「じゃな」
 電話は切れた。
 携帯の通話終了ボタンを押して、ベットに寝転がった。
 なんだか思ってもみなかった方向に進んでるなあ。最初は、文字同士のささやかなお喋りだったのに。これで本当は誰かイタズラ好きな人の仕業だったら…まんまと乗せられてるわけかあ。けど、もうそれでもいいや。信じたのは私だもん。
 急に眠気がくる。持ったままだった携帯を充電器の上に置いて、布団をかぶった。
 明日、朝のホームルームが終わったら、誰よりも早く地学室に行こう…。


 腕時計を見ると、午後四時半。授業が終わって掃除当番をこなしてからだと、少し遅くなってしまった。
 目の前の高い建物を見上げる。それは市役所、例の『ツイン・ビル』だった。空に向かって、まったく同じ造りのビルがふたつ、寄り添いあうように建っている。その間には、互いを行き来するための通路が複数渡っていた。
 当たり前だけれど、いくら眺めてもおかしな点はない。きれいな壁、磨き抜かれた無数の窓ガラス。昔の古びた市役所の姿と比べると、変貌と言ってもいいくらい、立派なビルだ。『人柱』の『ひ』の文字も窺えない。
 せっかく来たんだし、展望室に行ってみようか。案内板を見て、私は右のビルの中に入っていった。
 一階は玄関口といった感じで、だだっ広いスペースに各階への案内と、催し物などのチラシが置かれてあった。右の方へ行けば、戸籍や住民票関係の受付カウンターがあるようだ。けっこう人がいるのを横目に見ながら、エレベーターへと歩いていく。すぐに一階へと下りてきたエレベーターに、何人かの人と一緒に乗り込んだ。

 机の端には、何も書かれていなかった。地学の授業を受ける生徒が集まってくる中、文字が浮かび上がってこないかと見つめていたのだけれど、変化は訪れずじまいだった。
 つながりは切れてしまったんだろうか。逃げたのは自分なのに、向こうから切り捨てられたような寂しさを感じた。それともこんな臆病な子じゃだめだ、と思ったのかな。もっときちんと話を聞いてくれる人の方がいいって。
 この『彼』は今どこにいるんだろう。この教室内? それとも学校内? それとも…もうどこかへ行ってしまった? 新しく誰かを探しているの?
 もしもまだ間に合うのなら、私は『彼』に何と言えばいいだろう。逃げちゃってごめんなさい? 今度は心を入れ替えたから…とでも言う? 
 このまま何もしなかったら、終わる気がする。中途半端なまま。興味心がないと言ったら嘘になる。でも根拠はないけど、そうやってなかったことにしてしまったらダメだ、って思った。
 いつの間にか授業は終わりに近付いている。筆入れに手を伸ばして、シャーペンを取り出した。カチカチと芯を出しながら、考える。もう一度、どんなふうに話しかければいいのかを。
 窓から見るツイン・ビルが、どこか少し遠く思えた。あの建物と『彼』の間に何があったのか。私は机に目を落とすと、ゆっくり文字を記していった。
「良かったら、お話の続き、聞かせて下さい」

 展望スペースに出ると、西の方角から夕日が差し込んできて、室内の壁を赤く染めていた。街並みも海も、同じ色に塗り替えられている。それは温かく優しげな赤だったけれど、今日ばかりは悲しい色にも見えた。
 このビルを巡っての、いろんなこと。良いこともあれば、悪いこともあったのかもしれない。喜ぶ人もいれば、辛い目に遭った人もいたのかも…。それでもツイン・ビルは同じ顔をして、日々わずかずつ変わりゆく街並みの真ん中にそびえている。
 少し離れた高校に通う自分もまた、この街を作るたくさんのピースのうちのひとつ。そんなことを客観的に見つめている気がした。
 しばらく展望スペースからの眺めを目に焼きつけてから、私は再びエレベーターに乗り込んでビルを下りていった。

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