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「奈緒、そろそろ支度しなさい。遅れますよ」
  懐かしい声に導かれるようにまぶたを開けていた。目の前にはいつも通りの朝が訪れている。
「あ……、やっぱり夢だったんだ」
  そんなこと、当然のことなのに。それでも奈緒は自分の心がひどく落胆しているのを感じていた。
「奈緒ーっ、急いで! お母さん、仕事に遅れちゃうでしょう」
  ヒステリックな声に無言で従ったのは、目覚めから余計なトラブルを起こしたくなかったからだ。そうでなくても、ここしばらくは両親との諍いが絶えない。諍い、というよりは一方的に攻撃を受けている、と言った方が正しいかも知れないが。
  壁に掛けてあるのは、夢の中でも身につけていた制服。全体が紺色の冬服、白を基調とした夏仕様のものに変わるまでにはまだ半月ほどの間があった。
  かなり古くさいデザインではあるが、それでも見ようによっては可愛らしい。でも近頃では袖を通すことすら息苦しくてならない。これを着れば、高校に行かなくてはならない。ああ、急に頭が割れるように痛くなればいいのに。
「……んなわけ、ないしね」
  ありもしない期待を胸に抱いた自分に自嘲気味な笑いを漏らしながら、奈緒はのろのろと着替えた。支度が終われば、母親の運転する車で高校まで送ってもらうことになる。そんな手間を掛けてもらう必要などないと思うのに、両親は「それも親の義務だから」と言い張るのだ。
「私のことなんて、放っておいてくれればいいのにな」
  胸のスカーフが上手く結べない。わざわざ支度して出掛けたところで、楽しいことなんてひとつもないのに。それでも「高卒」という確かな結果を得るために足を引きずってでも通い続けなければならないと両親は言う。まあ、……そこまで言われるのには訳がある。言うなれば、その原因はすべて奈緒にあった。
  二年生に進級してまもなく、学校に行けなくなった。最初は本当に具合が悪くなったのだと思っていたのだが、朝は確かにあった微熱が昼過ぎには決まって平熱に戻っている。しかも学校が休みの日には目覚めもすっきりで一日を快適に過ごせるのだ。
  そんな日々が半月ほど続いたあと、早くも両親が担任に呼び出された。熱心すぎるその教師の言葉により、半ば強制的に母親の車による高校への送迎が始まったのである。
  確かに電車通学であれば、途中までは行きかけたのについつい引き返してしまうこともある。あれこれと自分に理由をつけ、学校に「体調が悪いので欠席します」と連絡を入れれば、そのまま家に帰れた。しかし、校門の前まで送ってもらえばそうも行かない。仕方なく息を殺しながら死人のように一日を過ごす羽目になる。
  高校では部活に入っていなかった。さらに二年生になって替わった新しいクラスにも馴染めない。新学期早々の文化祭の話し合いで、クラスのリーダー格とも言える男子と意見が合わず、思い切りやり合ってしまったのだ。もともと知り合いの少ない高校だったから、些細なことからほころびが生まれてしまう。
  皆が自分のことを疎ましく思っているような気がする。もともと、いてもいなくても関係ないような人間なんだ。いや、むしろ場の空気が悪くなるからいない方がマシと思われているかも知れない。ああ行きたくない、あんな場所にいたら自分が自分じゃなくなってしまう。
  奈緒自身、どうしてここまで追い詰められてしまったのかわからなくなっていた。一年生の時はそれなりにクラスにも溶け込んで楽しくやっていたのに、ちょっと環境が変わっただけでどうしてこんな風になるのだろう。
「ほら、行ってらっしゃい。帰りは四時過ぎでいいわよね?」
  気がついたら、車は校門の前に止まっていた。スライドドアも開いている。
  母親が送り届けてくれるのは、決まって始業ギリギリの時間。登校する生徒も多く、昇降口の下駄箱でクラスメイトと鉢合わせすることも少なくない。
  どうしてこんなに辛いことを我が子にさせようとするのか、自分の価値観を押しつけようとする親の気持ちがわからない。高校なんて出てなくたって、立派に社会人をしている人はたくさんいるはず。自分たちの子供だからって、決まり切ったものさしをあてるのはやめて欲しい。
「……行ってきます」
  校門をくぐって見上げた空は、今にも泣き出しそうな灰色だった。夢と現実が区別付かなくなるような曇天。生ぬるい空気の中をぼんやりと泳ぐように歩いていくうちに、奈緒の心の中に忘れかけていたフレーズがふっと蘇ってきた。
  ―― ガラスの王様、王様の椅子。
  ハッとして、辺りを見渡す。でもそこには真っ直ぐ前を見て昇降口を目指している制服姿の生徒たちがぞろぞろ続くばかりだった。
「……そうだ、光の珠」
  口の中でもごもごと呟いてみたものの、それで何かが変化することはなかった。重い足を引きずりながら、校舎の方へと進む。こんな日々が続けば、いつかきっと自分は壊れてしまう。奈緒にはそれがわかっていた。

 また、あの空間に戻っていた。
  そんなはずはない、「夢」ならばそれはいつも一話完結、再び同じシーンに訪れることなんて本当に稀なのに。そう思いつつも透明な道をひたすら進んでいくと、昨夜と同じようにガラスのドアが現れる。そしてその前では尚矢が待っていた。
「やあ、また会ったね」
  この再会は、自分でも不思議なくらい当然のことのように思えた。昨日と少しも変わらない彼が、泣きたいくらい懐かしくかけがえのないものに思えてくる。昨日はそれほどとも思わなかったが、よくよく見れば結構好みの顔をしているじゃないか。程よく筋肉質なのもポイントが高い。さすが「夢の住人」、ちゃんとこっちの趣味に見合っている。
「どうして、中に入らないんですか?」
  でもこみ上げてくるそんな気持ちも、奈緒は無言で飲み込んでいた。駄目だ、弱みなんて見せたら。この人は自分のライバル、ひとつしかない王様の椅子を奪い合う相手なんだから。
  そう自分に言い聞かせていると、尚矢はわかりやすく首をすくめて見せた。
「開かないんだ、鍵が掛かっているのかも知れない」
  ほら、と身体をずらしてくれたから、奈緒もドアノブを回してみた。本当だ、尚矢の言うとおり。昨日は軽い力で動いたはずのそこが、まるで内側から強い力で固められている気がする。
「もしかすると、今の俺たちには部屋の中に入る資格がないってことなのかもな」
  尚矢は自嘲気味に笑うと、背広のポケットから昨日「王様」から手渡された珠を取り出した。
「一日くらいじゃ、何も変わるはずないし」
  奈緒も負けてなるかと自分の珠を取り出してみた。やっぱりそれも似たり寄ったり。手に置くと肌色が透けて見えてしまうくらい無色透明、昨日とどこも変わった様子はない。
「……そうだよ、勇気なんて、そう簡単に出せるものじゃない」
  気がついたら、そんな風に呟いていた。茶色がかった髪が、頬の周りで悲しげに揺れる。何も言わない光の珠を見つめているうちに、奈緒はまるで自分が誰かに強く責められているような気分になっていたのだ。
  今日も変わりばえのない一日だった。
  授業中も、休み時間も、ずっとひとりぼっち。お弁当の時は皆の視線から逃れるように誰もいない中庭に隠れた。古典の時間には教科書を忘れてしまったのに、隣の席の子に「一緒に見せて」と声を掛けることもできなかった。
「だからって……、ううん、だからこそ、私はあの椅子に座りたいのに……!」
  ああしよう、こうしたらいいだろう、頭の中ではいろいろに考えることができる。でもそれを実行に移すとなると別問題。とたんに気が重くなってくる。こういうこともスポーツと同じで、綿密な下準備が必要なのだろうか。
  少しの時間でいい、立ち止まって心を落ち着けたい。そう思うのに、まるで急かすように次々と新しい朝がやって来る。せめて、二日三日、ううんもう少し、一週間か半月。誰にも邪魔されずにゆっくりと気持ちを休めたい。そうしたらきっと、もう一度歩き出せると思う。
「もう嫌だ、限界なんだよ」
  誰にも聞こえないように小さな声で呟いたつもりだった。でも、すぐそばにいた尚矢にはどうしても聞こえてしまったと思う。でも彼はすぐには何かを口にすることもなく、ただ黙って奈緒を見守っていた。
「何か、あったの?」
  どれくらい時間が経ったのだろう、あまりの悔しさに震えの止まらないままでいた奈緒に尚矢が静かに声を掛けた。何も返事がもらえないこともわかっていたのだろうか、ふたりの間の空気がかすかに震えるのを静かに感じ取っている。
「俺で良かったら、話を聞くよ。もしかしたら、それだけでも少しは楽になれるかも知れない」
  その意外すぎる申し出に、奈緒はしばらく唇を噛みしめたまま固まっていた。 まさか、ライバルである彼がそんなことを言い出すとは夢にも思っていなかったから。
  でも……だからといって、何もできずに立ち止まったままでいてどうなるのだろう。このままどんどん尚矢との差が開いていけば、自分があの椅子に座れるチャンスは限りなくゼロに近くなる。
「別に……たいしたことじゃないよ」
  自分の方が有利だってわかっているなら、さっさと先を急げばいいのに。それなのにわざわざ立ち止まって待っているなんて、理解できない。
「いいよ、このままじゃあまりにも手応えのない相手で面白くないからね。もう少し奈緒にもやる気を出してもらわないと、こっちも気抜けしてしまうよ」
  ずいぶんと言ってくれるじゃない、とさすがにちょっと腹が立った。四つも年下のいたいけな女子高生と互角に張り合おうとするなんて、大人げないにもほどがある。
「馬鹿馬鹿しすぎて、笑っちゃったって知らないからね」
  一体、どこから何を話したらいいのかすら、奈緒には見当が付かなかった。ひとことで済ませられるような、それなのに、一晩掛けても話しきれないような、つかみどころのない話。そのどこに自分の一番の辛さが隠れているのかもわからなくなっている。
「まずは……これ以上、親に心配掛けたくないと思う」
  高校生にもなって、学校まで送り迎えさせて、それで平気な顔をしているなんてどうかしている。もっとまともになって、安心させたい。だけどそれができない。親が理想とする娘の姿とはほど遠い今の自分が情けなくて仕方ない。
「小さい頃から、すごく可愛がられて育ったと思う。たくさん期待されて、それに応えようって努力して。ずっとそれで上手くいってたのに……何か、この頃は全部空回りしちゃって」
  こちらのことなんて、なにひとつ知らないままの相手にわかってもらえるように説明するのは難しい。一体どこまで引き返せばいいのかもわからないままにぽつりぽつりと話し出すと、自分でもびっくりするくらい長くて入り込んだ内容になってしまった。
  ひとりっ子だった奈緒は、両親の愛情を一心に受けて育ち、さらに双方の祖父母からも猫かわいがりされていた。欲しいものは何でも買ってもらえたし、行きたいところにはどこにでも連れて行ってもらえた。とにかく何もかもが思い通りになるお姫様みたいな子供時代を送っていたと思う。
  でもある時期からそれが、とても煩わしいものだと思えてならなくなった。少しは放っておいて欲しいのに、周囲の大人たちが手を出し口を出し身動きが取れなくなる。それに加えてお節介な教師までがそのメンバーに参入して、もう手がつけられない。
  年少の頃からありとあらゆるお稽古ごとや塾へと忙しく飛び回っていた代償は、気の置けない友達がひとりもいないという悲しい人間関係となって現れた。浅く広い付き合いならどうにかできても、打ち解けて悩みを相談できるような相手は存在しない。強く自分を出すことで嫌われるのも怖くて、自然と遠慮がちな性格になっていった。
「それでも中学まではどうにか上手くやって来れたと思う。でも、高校に入ったら、ちょっとずつ歯車が狂ってきた感じかな」
  人目を気にしすぎる性格が裏目に出て、ひとつの動作を起こすにもやたらと気を遣うようになっていた。そうしたからと言って、結果が吉と出るとは限らない。時には考えて考えた末のことが、相手から疎ましがられる結果になったりもした。
「高校になんて行きたくない、あそこに私の居場所なんてないもの。でも家に籠もっていたって、いいことはひとつもない。親だって、そんな風にしている私を見ていると辛くなると思う。心配かけたくないのに……でもやっぱりこれ以上は頑張れない」
  だから、あの椅子に座りたい。人生の時計をほんのちょっとだけ止めて、傷ついた心をゆっくりと治してみたいと思う。そうすれば、……その先はもう少し上手に生きていけるようになるはずだから。
「だけど……このままじゃ無理。私の光の珠は全然輝いてはくれないもの」 
  先走ったり後戻りしたり、詳しすぎたり端折りすぎたり。そんな奈緒の話を、尚矢は途中で口を挟むこともなく静かに聞いていた。途中聞こえてくる静かな相づちが、立ち止まりそうになった話を再び動かすきっかけになる。
「―― そうか」
  ひととおりの話が終わってからも、しばらくは何かを考えている様子だった尚矢。彼が再び口を開いたのは、奈緒がもう返事を聞くことなど諦め切ったその頃だった。
「奈緒も今までずっと、必死に頑張ってきたんだな」
  その言葉に、ハッとして向き直っていた。そんなはずはない、努力が足りないからこんな風に中途半端にくすぶっているんだ、そうに決まってる。そうでしょう、と言わんばかりに見つめると、それでも尚矢は静かに微笑んでいた。
「多分……すべてに対して必死すぎるから、上手くいかなくなってるんじゃないかな」
  透明な道の隅に、ふたりで座っていた。「王様」の部屋に続くドアを開ける勇気がお互いに持てないまま、何となく作戦会議というつもりだったのだろうか。
  自分の夢の中で、こんなにも色々と考えたり悩んだりする、それが不思議でならなかった。
「俺は奈緒よりも少しだけ長く生きているから、これは経験談だと思って聞いて欲しい。……そうだな、今やっている仕事もかなりプレッシャーが多くて。初めての顧客に会いに行く時なんて、足がなかなか前に進まなくて大変なんだ。できることならこのまま逃げてしまいたいって、そう思うときだって少なくない」
  大人のくせに、どうしてそんな風に言うのだろう、と奈緒は不思議に思った。大人だったら、一人前に仕事をこなしているんだったら、もっと堂々とできるはず。それなのにどうして、尚矢は未だに弱い自分を捨て去っていないのだろう。
  年下である奈緒が、半泣き状態で苦しみを訴えたのだ。こういうときは尚矢の方から「椅子は君に譲るよ」と提案すべきだと思う。なのにそうしないとは、なんたる薄情者なのだろう。
「そういうときにさ、どうすればいいか。……実はすごく簡単なんだよ。最初の一歩を踏み出すために、すごく効果的な方法があるんだ」
  そのときの彼の微笑みの意味を、奈緒は深く考えることができなかった。それでも、次のひとことを聞くまでは決してこの夢を手放すものかと思う。だから、何かに強く引きずられる感覚を覚えながらも、必死にその場に留まり続けようとしていた。
「そんな都合のいい話、あるわけないじゃない」
  魔法の杖を一振りするだけで、世の中のすべてが好転するとでもいうのだろうか。やっぱりこの人は自分の夢が勝手に創り出した薄っぺらいキャラクターに違いない、そう奈緒は思った。


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