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〜こうちゃんと花菜美・3〜

…4…


 

「…こうちゃん、まさか…昼間からずっと…ここにいたの?」

 そうとしか、思えないような感じだ。何しろ、立っているところが同じなんだもん。

「…まさか」
 こうちゃんはちょっと笑った。青山先輩のような自信たっぷりの笑顔ではない、控えめな静かな微笑み。

「水橋の…ご両親とお昼を食べて、東京駅まで送って。あ、おじいさんは今日はお見合いの仲介をしてくれた友達の所に泊まるんだって言ってたよ、明日は日曜だしね。…それから、暇だから…仕事場に行って原稿をまとめていた。そろそろ、戻ってくる頃かなあと思ったから…ここで待っていたんだ」

「…待ってた、って…ずっとそこに?」

「うん」

「って、いうことは…」

 …まさか。

「さっき、先輩と私が話しているのも…聞いてたとか?」

「うん」

 …うん、じゃ〜ないでしょうが!?

「…楽しそうで、良かったじゃない」

 …良くな〜〜〜〜〜いっ!!!

「…こ、こうちゃんっ!?」

 私たちの周りに白いそれぞれの息が立ち上る。ひとこと言うたびに、ふわっとわき上がる吐息。その向こう側に立つこうちゃんは昼間と何も変わってない。

 穏やかな。穏やかすぎるこうちゃん。
 悔しくて悔しくて…思わず叫んでいた。

「…私、青山先輩に、結婚を前提としたお付き合いをして下さいって、申し込まれちゃったんだよ!」

「…そう」

 こうちゃんの後ろは駅前の広場。冬の夜に人影はなくて、常夜灯がちらちらと見えるだけ。
 ぱあっと一瞬、光が差す。駅前ロータリーを回った車のものだ。家族を迎えに来た車かな? ガタンガタンと高架の上を電車が走り去っていった。

 映し出されたこうちゃんの表情には少しの動揺も見えなかった。

「そう、じゃないでしょ!? …こうちゃんは私の言った言葉の意味が分かっているの!?」

 …信じられない! 私がこうちゃんの立場だったら、発狂しちゃうよ! どうしてそんなに淡々としているのよ!

「うん、分かっているよ」

 あっさりとした返事。今、私とこうちゃんの間には3メートル位の距離がある。その距離が永遠に近づけない空間のように思えてきた。

「…こう…ちゃん?」
 喉の奥から、声を絞り出す。言っちゃいけない…絶対に言いたくない言葉。

「…何?」

「こうちゃんは…私が他の誰かと、結婚しちゃってもいいの…?」

 一瞬。すべての音が消えた。…そんな気がした。頭の中が真っ白になって、音を受け付けなくなったみたい。自分の手が足がガクガクと震えている。寒いのはもちろんだけど…それだけじゃない。

 目の前のこうちゃんが潤んで見えなくなる。きっと私の目にはいっぱいの涙が溢れんばかりになってまさに飽和状態になっているのだろう。

 霞んだ風景の中に立っているこうちゃんが白い息をフーッと吐いた。

「それは…」

 歩道に立つ私たちの脇をさっきの車が通っていく。

「それは、俺じゃなくて…水橋が決めることでしょう?」

 走り去る車のバックライトの赤とこうちゃんがだぶって見えた。
 私の中で何かが壊れる音がした。

 次の瞬間、自分でも信じられないほどの大声が出た。

「馬鹿!! …こうちゃんの馬鹿!!」
 両手をぐっと握りしめて。爪の先が手のひらに食い込んでいく。

「もういい!! こうちゃんなんて、知らないっ!!」

 驚くこうちゃんの顔がちらりと見えた。くるりと背中を向けると思い切り猛ダッシュした。

 

 どっと涙が頬を流れていく。それが夜風にさらされて凍り付きそうだ。

 …馬鹿馬鹿! こうちゃんの馬鹿! もう知らないっ! …こうちゃんがそう言うつもりならもう、いいもん。青山先輩とだって、他の人とだって…何回でも何十回でもギネスブックに載るくらい結婚しちゃうんだから!

「水橋!?」

 公園の入り口の車止めを入った辺りで…思い切り二の腕を掴まれた。私はもちろん思い切り走ったつもりだったけど…足の長さと体力の差は歴然としていたらしい。

「離してよっ!」

 大きく肩で息をしている私に対して、さすがに日頃少年野球コーチで鍛えているこうちゃんは普通と変わらない感じで…戸惑ったように言った。

「…水橋…、どうしてそんなに怒るんだ…? 何か…気に障った?」

 …こ、こうちゃん。分からないのか? あなたは…どうしてこんなに普通にしているのよ! もうちょっと取り乱しなさいよ!

 

 掴まれた左腕を強引に振りほどくと、そのまますたすたと数歩前に出て…こうちゃんの方を向いた。ごしごしとコートの袖口で涙を拭う。

 大きく、ひとつ、深呼吸する。

「…こうちゃんは…ひどいよ。こうちゃんは知らないの? …私がどんなにこうちゃんを好きか…こうちゃんだけを好きか、知らないの? …こうちゃんは…本当は、そんなに私のことなんて好きじゃないんでしょう? 私だけが…ひとりで…ひとりで、…どうしてこんなに好きでいなくちゃならないの? …ひどいよ…もう、最低…」

 

 背後にあるポプラの大木にどっと背中を預けるように寄りかかった。勢いよく走ったせいでまだ心臓がばくばく言っている。頬を涙が止めどなく流れ落ちる。悲しくて、悔しくて…やるせなくて。

「…もう、嫌だ…こんなの…」
 そのまま、両手で顔を覆って俯いた。指の先が思い切り冷たい。でも心はもっと冷たい…

 

「あの…水橋?」

 あれ? …いつの間に近づいたのだろう? こうちゃんの声が頭の上から降ってくる。
 戸惑ったような、心配そうなこうちゃんの控えめな声。

「ねえ、もう泣くの止めて…顔を上げてくれる?」

「…やだ…」

 どんな顔しろと言うのよ? …見ないでよ、こんなみっともない顔。

「水橋…」

 ふわり。私の両手が温かいもので覆われる…こうちゃんの…手のひら。片手ずつ…優しく包み込まれて、いつの間にか顔からはがされていた。

「こう…ちゃん?」

 ひゃあああ、こんなにしっかりと手を握ってくれたのは初めてじゃないだろうか? びっくりして思わず顔を見上げてしまった。

「…冷たいね」

 ぴたりと。

 こうちゃんと私の視線が合う。私の両手は胸の前の辺りで…こうちゃんの両手にしっかりと包まれている。

 視線の先にあるこうちゃんの瞳が…戸惑うようにゆるりと揺れて…それから、しっかりと私を見つめたまま、静かに言った。

「好き、なんだ…」

「…え?」

 こ、こうちゃん…主語がない。好きって…何を? 突っ込みたかったけど、緊張のあまり声にならない。

「…いつも笑っていて欲しいし、幸せでいて欲しい。…だから、悔しいけど…他の奴といた方が、水橋が幸せになれるんだったら…とか、思っちゃ駄目かな?」

 そう言いつつ、こうちゃんの顔はみるみる真っ赤になってしまった。私の両手を包む手も、心なしかふるふる震えている。

「…駄目だよ」

 また涙が溢れてくる。でも拭う手がない。私は鼻をすすりながら、小さな声で囁くように言った。

「私、こうちゃんと一緒じゃないと…駄目なの。何だか分からないけど…やっぱり、こうちゃんが一番なんだもん…。こうちゃん以外の人は私を幸せになんて、出来ない」

 こうちゃんは何も言わずに、私をじっと見つめた。ちょっと驚いたように、信じられないと言うように…瞳の奥が揺れてる。手は相変わらずふるふるとしたまま、私の手を包んでいる。

 気付いているのだろうか? こうちゃんの手にも私の左手にはめたままのリングの感触が伝わっていると思う。私が唯一、こうちゃんからもらった気持ちだから…これだけを頼りにしてきたんだから。

「…ね、こうちゃん」
 ようやく、少しだけ…微笑むことが出来た。

「…もうちょっと、かがんで…少しの間、目を閉じていてくれる?」

「え?」

 私の悪戯っぽい問いかけに、こうちゃんは不思議そうな顔で反応した。

「…ね、早く」

「…こ、こうか?」

 こうちゃんは背中を丸めて、自分の顔を私の鼻先まで突きだした。ぎゅっと目を閉じている。注射を怖がる子供みたいだ…ちょっと、笑えてしまう。

「…私のこと…今まで寒いのに…待っていてくれたんだよね…ありがとう。お礼だよ…」

「へ…?」

 

 こうちゃんの身体が一瞬、こわばる。私は、少し背伸びして、こうちゃんの右の頬にそっとキスした。
 唇にちくちくっと、伸びかけたお髭が触る。

「…み、水橋…あの…」

 こうちゃんは湯気が出るくらい真っ赤になって、俯いてしまった。…可愛い。
 くすくす笑いして、様子をうかがっていると、しばらくしてこうちゃんはこちらへ向き直った。するっと私の手を包んでいたこうちゃんの両手が外れる。

 その手がそのまま、冷え切った私の頬を包み込む。震えるこうちゃんの指の先から、何かが伝わってくる気がした。

 導かれるように少し顔を上げて、そっと目を閉じる。

 こうちゃんの吐息が私の唇をくすぐった次の瞬間、カチリと一瞬、前歯が当たった。慌てたようにちょっと角度が変わる。一度、離れかけたように思えたけど、また、こうちゃんの感触がやわらかく、温かく伝わってくる。

 

 初めてのキスは…こうちゃんが暇つぶしに噛んでいたんだろう、ミントガムの味がした。

 

 

「…おじいさんを、納得させなくちゃいけないだろうなあ…」

 人気のない裏駅商店街。シャッターを下ろして2階に灯りのついた店舗が並ぶ。
 私のアパートへ向かって、片道1車線の狭い道路のはじっこ。申し訳程度の歩道を2人で歩いていると、こうちゃんがぽつりと言った。

「…だから。『おじいさん』は、禁句だって」
 缶入りのミルクティーで手を温めながら、私は口を挟む。生ぬるい紅茶味の砂糖水を口に流し込むと、ふうとため息がこぼれる。

「ゴンちゃん、あれ、相当に怒っているよ。…普通はどかんと火山みたいに噴火して、ちょっとたつと怒ったことすら忘れるんだけどさ。…今日のは引きずりそうだな…」

「うーん…」

 何か考えてるんだか、何も考えてないんだか…こうちゃんは首を左右に振った。こうちゃんはブラックのホットコーヒー。ちっちゃい缶が片手にすっぽり埋まっている。

 街頭の灯りで空は霞んでいる。都心の灯りも届いてくるような街だから、星はほとんど見えない。曇っているのか、晴れているのかも分からない感じ。

 

 ここを渡れば、アパートは目の前。
 車の通りもまばらな交差点で、こうちゃんは律儀に足を止めた。赤信号が交差点を照らす。

 自然と会話が途切れる。ひたひたと辺りに立ちこめる夜の空気が、少し離れて立つ私とこうちゃんとの間に流れ込んでくる。

 信号が音もなく色を変える。

 冷たい透き通った緑色がスポットライトのようにこうちゃんを照らす。その背中が遠ざかっていく。

「…水橋、どうした?」
 私の足音が付いてこないことに気付いたらしく、横断歩道の真ん中でこうちゃんが振り返った。

「…あ、ごめん」
 そうか。私は、自分が歩くことを忘れていた。

 すっと足を踏み出した時、あちらから走ってきた車が左折して、私たちの間を凄いスピードで走り抜けた。

「……」
 風圧でへたり込む。呆然としてしまった。手から、ほとんど空の缶がこぼれて、カンカン…と甲高い音を立てて転がっていく。

「ほらほら…大丈夫?」
 こうちゃんは仕方なさそうに今歩いた道を戻って、私の所にやってきた。私の落とした缶を拾って、自分のと一緒に自販機の隣のゴミ箱に捨てる。ガシャン、とゴミ箱が音を立てた。

「…足でもくじいた?」

「…ううん…」

 正直、ちょっと力が抜けたと言う感じだ。こうちゃんが腕を引いてくれて、ゆるゆると立ち上がった。

「白い服は汚れるでしょう? 気を付けなくちゃ」
 意外ときれい好きのこうちゃんだ。そう言うところを気にしている。

「…こうちゃん?」
 私はおずおずと顔を上げた。

「何?」
 さっきの一瞬のラブラブモードはどこへやら、すっかり普通に戻ってしまったこうちゃん。憎らしいほど平然とした顔をしている。

 こつん、とこうちゃんの肩に頭を寄せる。

「…こうやって、こうちゃんと、一緒にいるのがいいな」

 ほんのりと鼻をくすぐるこうちゃんの匂い。青山先輩は柑橘系のコロンを付けていた。車の中にもその香りが強くしていて、むせかえるほど。

 でも、こうちゃんは、…おひさまみたいな匂い。

「こうちゃんて、あったかいね…」
 夏は正直、ちょっと暑苦しいけど。隣にいるとひなたぼっこしているような気分になれる。

 でも、離れると…とても不安になる。
 今日の私はいつもに増して、情緒不安定だ。

 私はこうちゃんの存在を確かめるようにコートに顔を埋めた。そして、思い切ったように言う。

「…明日、日曜日だよね」

「そうだけど?」

「…今日、泊まっていかない?」

 …い、言ってしまった。女の方から誘っちゃったぞ! ひゃあ、どうしよう…

 でもでも…今日はせっかくの日中デートがおじゃんになるし…こうちゃんとはちょっとしか、一緒にいられなかったし…まだ、離れたくないよお。

 こうちゃんが一瞬、息を飲んで呼吸を止める。ああ、このばくばく言っているのは私の心臓? …それともこうちゃんのなの?

 

「…残念だけど」
と、言いつつ…明らかにホッとしたような表情のこうちゃんが私の身体を自分のコートからはがす。

「これから家に戻って、探さなくちゃいけないものがあるんだ…そうそう…」
 がざがざ、コートのポケットを探る。

「これ、おじいさんの泊まっている連絡先。悪いけど、電話しておいて…明日の10時に伺いますって」

「え?」

 何それ? どういうこと?

 しゅーっとしぼんでしまったありったけの勇気の抜け殻。ぼーっとメモを受け取る。

「ついでだから、さっきの先輩も都合が付いたら来て下さいって」

「…こうちゃん?」

 話が読めないよ〜何考えてるの? こうちゃんてば…敵陣に突っ込むつもり!?

 口をぱくぱくして、酸素の足りないさかな状態の私。こうちゃんは信じられないほど、余裕たっぷりにニコニコしている。何だか、こうちゃんの中では私の想像付かない思考が膨らんでるみたい。楽しそうだ。

「あ、もちろん…水橋も来るんだよ」

 さっと手が伸びる。コートの襟を直されるのかと思った瞬間の、不意打ちのキス。

「…じゃ、明日。改札に9時で、いいね」

 照れ笑いのこうちゃんのどアップ…もう、嫌だ! 私の方が真っ赤になっちゃう…どうしちゃったの! こうちゃんてば!

 

 呆然とした私をアパートの前に残し、こうちゃんはすたすたと駅への道を戻っていった。

 

つづく(011115)

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