TopNovelさかなシリーズ扉>さかなの予報・6



〜こうちゃんと花菜美・8〜
…6…

 

 

 瞼の向こう。白くて、まぶしい。立ち止まった空気が朝の匂い。東向きの私の部屋は、朝日が目覚まし時計になってくれる。

 軽く寝返りを打って。それから、おでこが弾力のある壁にぶつかって。ハッと目を開けた。

「おはよう、水橋」
 私がぶつかったのは、日に焼けた胸元で。そこからするすると視線を上げていくと、首筋、顎…伸びかけた無精ひげ。寝ぼけまなこじゃなくて、結構前から目覚めてました、と言う感じのふたつの小さな目がこちらを見ていた。

「あ、おはようっ…」
 身じろぎしたら、肩から毛布が落ちて。それを慌ててたくし上げる。一瞬、ぱちんと目があったけど、すぐにそらしてしまった。頬が熱くなる、やだ、すごい恥ずかしい。

 それなのに。こうちゃんはそんな私にお構いなく、そっと腕を回してくる。やわらかく抱き寄せられて、俯いたままの私の額に唇を落とす。生のままの私を抱きしめる生のままの腕。映画のワンシーンのような朝が繰り広げられてる。心まで裸になっちゃったみたいで、包まれているのに心許なくて不安定で。もうどういう風にしたらいいのか分からない。

「…嬉しいな」
 こうちゃんがぽつんと言う。大きな手のひらが、私の背中のくぼみを確認するみたいに動く。髪の毛に絡みつく指先。こんな風にされちゃうの、なんだか不思議。私、こうちゃんのものになっちゃたみたい。

 顎をそっと持ち上げられて、キスする。ついばむ仕草が小鳥の挨拶みたい。おはようって、唇と唇を触れ合ったあたたかさで繰り返す。

「…あ」
 力を入れたら、おなかの奥がずきっと痛んだ。思わず声が上がる。入り口も、中も、全部痛い。痛みを逃したくて抱きついたら、こうちゃんが優しく抱きとめてくれた。

「水橋…」
 こうちゃんの手のひらが背中に張り付いて、広い胸に押しつけた頬が熱い。感慨深そうに一度、息を吐く。

「驚いた、…初めてだったんだ」

 その言葉に、びくんと胸が跳ねる。ああん、恥ずかしいよう…そんなことまで分かっちゃうの? 呼吸を整えるために何度も深呼吸して、それで気付く。

 …ちょっと待ってよ、こうちゃん。そのいい方、もしかして、すごく失礼かもっ!?

「何? そうじゃないと思ってたの…?」

 もうやだ、悔しいっ! 思わず背中に爪を立てていた。私のささやかな逆襲は、でもこうちゃんにとっては大したことじゃないみたい。反応もない、つまんないわ。

「う〜ん」
 私の頭の上で首を回す。のほほんとした声。

「7:3位の割合で、無理かなと思ってた」

 …ひど。おでこで胸を叩く。ぼんと弾みを付けて跳ね返った。ほっぺ、ぷううっとふくれちゃう。こうちゃん、デリカシーなさ過ぎ、信じらんないっ!

 緩まったこうちゃんの腕の中でくるんと回れ右した。そのまま、布団に腕を付いて立ち上がろうとしたら、後ろからぎゅっと抱きすくめられる。

「…怒るなよ?」
 耳たぶが震えるくらいの距離でささやかれる。わあ、恋人の距離だ。もしかして、もしかして、こう言うのも単なる痴話げんか? 他の人が聞いたら馬鹿馬鹿しくて呆れちゃうの!?

「怒るわよっ」
 そう言いつつも、怒りのスイッチが入らない。身体のけだるさと同じくらい、心もけだるい。重くて沈んじゃいそうな朝。

 私の首筋に顔を埋めて、こうちゃんがくすっと笑う。どーでもいいけど、すごい不謹慎だと思う。それから、ひとつ息を呑んで、耳に吐息をかける。熱っぽい、風。こんなに近いから、ごくりという音もして、少しの身体の動きも伝わってくる。

「今日の水橋は、怒っていても可愛い」

 え〜、何よ、それっ!? やだもうっ!!

 抗議のまなざしを向けてやろうと首から上で振り返ると、そのまま口づけられる。甘くて、溶けちゃいそうなの。いつの間にか、布団に仰向けにされて、こうちゃんのペースになっていた。あん、…ちょっと、駄目だってばっ!

 せわしなく私の身体を探ってるこうちゃんの手のひらを軽くつねる。もう、いい加減にしてっ!

「こうちゃん、取材でしょ? 時間…」

「…あ、うん…」
 こうちゃんは名残惜しそうに時計を見る。7時半、お休みにしてはちゃんと起きたな。取材は11時からだけど、その前に家に一度帰りたいと言ってた。私だって、実家からみんなが出てくるんだから出迎えなくちゃ。入れ替わりでシャワーを浴びるとなると、結構厳しい時間配分だ。

「今日はこのまま、水橋といたいなあ…」
 まだ未練がましく髪を梳いてる。こんなこうちゃん、信じられないくらい不思議。いつもと全然違う。手を繋ぐのもキスするのも未だに恥ずかしいのに。今のこうちゃんは、すごく親密。ドキドキしちゃうくらい。

 

 ――そして。どこかで携帯の音…。

「…あ、俺のだ」
 こうちゃんがぴくっと反応。脱ぎ捨てた綿シャツを探ってる。

「もしもし」って、出たのが分かったから、私は落ちていたブラウスを肩から掛けて、そっとベッドを降りた。先にシャワーを浴びちゃおう。それでこうちゃんが浴びてる間に、簡単でも朝ご飯を作ろう。ちょっと素敵、新婚さんみたい。

 

 …でも。

 ばたん、と洗面所のドアを閉めて、考える。

 今の電話、仕事のだな。声がそんな感じだった。ああ、つまんない、もう仕事モードなんだ。私だって、もうちょっとゆっくりしたかったな。そりゃ恥ずかしいけど、こうちゃんの腕の中、あったかくて気持ちよかったもん。

 そんな風に考えつつ、洗面所の鏡を見る。どこか変わったんだろうか? 私は。昨日までと全然変わらない気がする…でも、でもっ…。

 は〜、私。とうとう、なんだな。なんだか信じられない。そりゃ、こんな風になったらいいなって、思っていた。こうちゃんのこと大好きだから、全部あげちゃいたいって。とっといて良かったって思った。一番大好きな人のための初めて。

 もう一度まっすぐに見つめると、鏡の向こうの私がトマトみたいに真っ赤になっていた。

 

「あ――、水橋っ…!」

 がちゃ。いきなり、ドアが開く。きゃあ、と振り向いて、何にも着てないこうちゃんを視界に捉えてしまった。こここ、こうちゃんってばっ…、もうやだっ、下着ぐらいはいてきてよっ!! …見えちゃったじゃないの〜!!

「あ…、ごめんっ!」
 こうちゃんは慌てた様子で、ドアを少しの隙間を残して閉めた。声が聞こえるくらいの。

「で…、何?」
 脱いだブラウスをもう一度羽織る。もう、何度着たり脱いだりするのかしら。一応、これなら股の辺りまでの丈がある。隠すものは隠せる感じ。

「あ、あのさっ、…水橋…っ…」

 あら。ベッドを降りたら、もとのまんまのこうちゃんに戻ってる。いつもみたいに恥ずかしそう。そろっと隙間から覗いたら、こっちに背中を向けていた。

「実は…今日、急に取材が中止になって」

「…へ?」

「お店のご主人が、階段から落ちて入院したんだって。…だから、あの…」

 …え、ええっ!? 本当に、本当!? いいのっ、そんなんでっ…!

 耳を疑ってしまう。そんな、都合のいいこと、世の中にあっていいのだろうか。申し訳ないけど、滑りやすかった階段に感謝っ!

「とにかく早く、シャワー浴びて。そして…あの、夜には山に戻らなくちゃならないけど…」

 

 …ちゃ。

 後ろを向いてるこうちゃんの背後で、私はドアをすり抜けた。背中より下には視線をやらないように、斜め上を見る。ああ、裸で来ることないのにっ、こうちゃん、何考えてるのよ〜!?

「届け、一緒に出しに行こう。そして…式場で、色々決めて…」

 ぎゅ。後ろから抱きついた。

 天に向かって伸びた大木みたいに太い身体に腕を回す。でも回りきらない、それくらい、大きい。大きくて、あったかいこうちゃん。大好きなこうちゃん。そして、明るく叫んだ。

「嬉しい、こうちゃんっ!」

「みみみ…水橋っ!?」
 こうちゃん、動揺してる。ちょっと可愛い。

「本当に、一緒にいられるの…!? 今日、一日中…?」

 朝から、晩まで。ずううううっと、一緒。嬉しい…本当の本当に? 私、こうちゃんと一緒にいられるんだね。頑張ったから、神様がご褒美をくれるんだね…!?

 

 こうちゃんが、私の腕を外して向き直る。私の顔を両手で包み込んで。

「…今日、一日じゃないよ?」

「…え?」

 思わず、目をぱちくり。どういうこと? 何で…? そうなんでしょう…!?

 訳の分からない私に、こうちゃんはくすくすと笑って言う。細くなって、消えちゃいそうな目。大好きな優しい瞳。くるりと動く。

「これから、ずっと一緒だ。俺はいつでも、水橋と。…だから、幸せになろう…?」

「…こうちゃん」

 朝の台所で。こうちゃん裸で。でもそんなことは関係ないくらい、ときめいてしまう。

「きちんと言わなくちゃって、思ってた。成り行きみたいで、申し訳なかったけど…急いでも慌てても水橋と早く一緒になりたかった。本当だよ?」

 降り注いでくるこうちゃんの熱。ドキドキしながら受け止める。何度も何度も、気の遠くなるくらい、口づけあって。それでも飽きないのが素敵。

 

「…ああ」
 私をしっかりと抱きしめたこうちゃんが、熱い息を吐いた。

「もう一度、いいか? 昨日はもう、夢中だったから…」

 …え!? 待って、それって…どういう…!?

 答える暇もなく、ブラウスの裾から入り込むこうちゃんの手のひら。するするって、探りながら、上がってきて…。


 ピンポーン――!


 …え!?

 ぱっと、お互いの身体を剥がして。でもって顔を見合わせる。それから、玄関のドアの方を見た。

 宅急便が来ることはない。そんな予定はないもん。朝っぱらから…何!? 誰っ!?

「花菜美ちゃ〜ん、起きてる!?」

「マ、ママっ…!?」

 …どうしてっ!? 待ち合わせは県民会館に11時でしょう? 何で、朝の8時前にここにいるのよっ!

 こうちゃん、どたどたと奥の部屋に駆け込んでいく。慌てて服を着てるみたいだけど、みたいだけど…寝癖もついてるしなあ…ああん、隠しようもないじゃないのっ!!

「あのね〜、持ち帰るものとかあるっていってたでしょう? だから、今日は軽トラと乗用車と2台で来たのっ! 今日も朝の4時に起床、4時半出発よ? もう、パパもママも眠くって、大変。ねえ、濃いめのコーヒーでもご馳走してよっ!」

 …嘘。

 慌てふためいてる部屋の中のふたりなんて、全然想像もしてないんだろう。ママはがちゃがちゃって、ドアノブを回してる。きゃああ、どうしよう、どうしたらいいのっ!?

 こうちゃん、心配そうにふすまの影から覗いてる。ねえ、ボタンが、掛け違ってるよ? ああん、そんなレベルじゃないわ、早いとこ、ベッドの乱れを直して…っ!!

「あ、あのっ、ママ? 私、今、シャワー浴びてるの。ちょっと待ってよ…!」
 ブラウス1枚でドアの所まで行って、どうにか告げる。時間を稼がないと。ああん、どうしよう…!

「あら?」
 いまいち緊張感の足りないママは、こんな時にでものほほんとしてる。

「今更、何言ってるのよ? そんなこと、いいでしょう、鍵を開けてよ。花菜美ちゃんの支度が終わるまで、上がって待ってるから…」

 ひえええええっっ!! もう、どうしたらいいんだああっ!!

 回らない頭でパニクってると、どたどたとさらに階段を上がってくる複数の地響きが…っ!

「かっなみちゃ〜ん、ゴンちゃんが来たよ〜。今日は日がいいからな、大泉さんちにお届けしようとお祝いの品もた〜んと持ってきたんだぞ〜〜〜〜っ!!!!」

「花菜ちゃん、おばあちゃんのプレゼントの着物を見てちょうだい。素敵なのを選んであげたわ〜!」

 

 私と、こうちゃん。思わず、顔を見合わせて苦笑してしまった。とても笑える状況ではないんだけど、それでももう笑うしかない。あんまりにも情けなくて、涙が出ちゃう。

 やっぱさ、ロマンチックには行かないみたい。そんなものなのね、人生って。ま、いいか。幸せだから。こうちゃんがいて、みんながいて、私はとっても幸せだから。


 ほんのちょっとの嵐の予感を孕んで。それでもまぶしい日曜日が始まる。こうちゃんと私の道のりはやっぱり明るくて、素敵。そんな風に考えられる。


 もう一度、こうちゃんに目で合図して。それから、ごくっと唾を飲み込んで。私は静かに玄関ドアの鍵を解除した。

おしまい☆(20030211)


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◇あとがき◇
さてさて。こんな感じで、おあとも宜しいようで(ええ? 良くない!?)。

ようやっと、ここまで来ました。あと2話で「さかな」シリーズもおしまいです。今回も「こうちゃん、大好き」しか言ってない気がします。花菜美はこうちゃんが、とにかく好きで。だから頑張っちゃう。時々息切れしちゃうんですが、そうやって落ち込んでも、結局は「こうちゃん、大好き」…人を思う気持ちに天井も底もないみたいです。

では、次回。近いうちにお会いしましょう…v