〜こうちゃんと花菜美・9〜
しとしとしと。窓に付いた水滴が寒々しい。究極のお天気娘のはずの私。窓硝子をつんと指で弾いた。 ことん、と。 背後から物音がする。こちらを伺っている気配。でも振り向かない。だって、私はものすごく怒ってるんだから。もう、滅茶苦茶怒ってるんだからっ!! しとしとしと。 銀色の糸。灰色く曇った空、その下のどんよりとした鉛色の海。海を見下ろせる客室に展望浴場が売りの宿泊施設でも、お天気が悪かったらどうにもならない。 「おい…水橋」 障子の影から、力無く私を呼ぶ声。もちろんひとり分しかいれてない食後のコーヒーを一気にあおると、私は部屋に備え付けの浴衣姿のままで立ち上がった。 「お風呂、入ってくるっ!」 確か。大浴場は朝9時まで使える。実は朝っぱらに一度入ってるんだけど、いいの。だって私は怒ってるんだし。身体がふにゃふにゃになって溶けちゃったっていいの。
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このブラとショーツはセットで、みどりちゃんが愛用しているフランス製のものだ。こんなものを結婚のお祝いにくれるところがすごいと思う。普通は下着なんて恥ずかしくて贈れないと思うのに。その上、彼女は信じられないことをずけずけと言ってくれた。 「花菜美っ!! これは勝負下着だからねっ! これで大泉さんを悩殺してちょうだいよ。ああいうウブなタイプはね、露出度の高いものよりもチラリズムの方がそそられるのよ。ばんばん頑張って、張り切って子づくりしてちょうだいよっ!」 全然目立たないおなかだけど、来年の4月が予定日。子供を同じ学年にするにはすぐにでも頑張ってくれと言わんばかりだ。まあ、実際そうなんだけど。雑誌を見て計算して、7月の初めまでに仕込んでくれと言われたときにはどうしようかと思ったわよ。…生々しいわ、すごい。 「あ〜あ…」 …そう。私は怒っている。 だってね、私。勝負下着を3枚も無駄にしたんだからねっ!? と言うか、こうちゃん、みどりちゃんの心を込めたプレゼント、一度も見てないんだからっ!
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「どこか、旅行行くか?」 「…え? すごいっ! 本当にっ!?」 「で、どこどこっ!? 今からで、大丈夫なのっ?」 南の島もいいなあ、もうヨーロッパは寒いなあ。でも今からで荷造りが出来るのかしら? …まあ、今時、全世界的にコンビニがあったりするので(名称とか、ある程度は違うけど)どこに行ったってどうにかなる。今は不景気だから、旅行代理店もギリギリまでどうにかしてくれるとか、取引先のおじさんが言っていたわ。 うきうきと見上げると、こうちゃんは私の心内を察したのだろう。ちょっとすまなそうな顔になった。 「あのさ、水橋…」 「うん?」 「俺、パスポート、持ってないんだ…すまん」
国民休暇村。国営の宿泊施設。全国にいくつかある。それで、何がすごいって、お値段が滅茶苦茶安いのだ。今時、1泊2食で7500円(税抜き)。しかもこれは食べきれないほどの高級なディナーをリザーブしてのお値段だ。朝食のみだったら、2000円台でいいんだって。ひ〜〜〜。 「雅志に…太宰府天満宮のお守りを買ってやりたいんだ。最終日に行けば、梅が枝餅も買って帰れるし…」 そう言われたら、そうですかと言うしかないよね。やっぱ、亀戸天神よりも太宰府天満宮か。そうよね、学問の神様だもん。こうちゃんの末の弟さんである雅志くんは今年が高校3年生。5人兄弟の中でもこうちゃんに張るくらいの秀才で、こうちゃんの卒業した国立大学を目指している。10歳も年の離れた弟、こうちゃんは半分お父さんみたいに育てたから、その分可愛いみたい。 「いいよ、こうちゃんと一緒にいられるなら、どこだっていい。私、すごく嬉しいっ!」
…あああ、何て健気な私…だからって、こんなことになるなんてっ! 3日分、溜まった鬱憤。沈めるようにお風呂にざぶっと頭まで潜った(…こんなことをしてはいけません、マナー違反です)。
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まあ、あまり特別なこともなかったなあ…ただ、お色直しをひとつ増やして、ドレスをふたつ着たのだ。1枚はもちろん、ミニの。そしてもう一枚はこうちゃんのご所望である長い奴。ちなみにこうちゃんの方は洋装は1着。まあ、男性なんて演歌歌手のリサイタルみたいなタキシードしかないんだもん、悲しいよねえ。胸に付けるお花だけ、私のブーケと合わせて替えた。 そのあと。2次会をやって。みんなに見送られながら、東京駅のステーションホテルに向かう。駅の上にある奴だ。どうして、東京駅? それはこうちゃんのせいだ。 「俺、実は…飛行機が苦手なんだ。出来れば避けたい」 どうもそのせいで、北海道とか沖縄は候補地から外れたらしいのね。でもさ〜博多まで新幹線で、のぞみがあるからと言っても、丸々5時間かかる。私たちの場合は9時52分発に乗って、博多着が14時45分。新幹線の中で朝も昼も駅弁を食べたわよっ! まあ、帰りは飛行機にしてもらったけど。 …で。ステーションホテルの話に戻って。一応ツインだけど、ちょっとお高めのお部屋を取った。だって、新婚初夜だもん…そりゃあねえ。初めてじゃないけど、やっぱりドキドキする。で、ルームサービスで頼んだワインとおつまみで乾杯して、それからこうちゃんに先にシャワーを使ってもらった。 そして。 バスルームを出た私が目にしたのは、ツインのベッドの片方に大の字になって寝ているこうちゃんの姿だったのだ。
船着き場まで迎えに来てもらって、宿へ到着。お風呂はいって、ご飯食べて…で、まあ。二日目は私が寝ちゃったんだけど。ま、だってさ、花嫁は大変なのよ。その疲れがどっと来たのよね。こうちゃんが起こしてくれたのかどうかは疑問だけど、とにかく寝ちゃったのだ。 翌日は「海の中道」の施設で遊んだ。何とも健全な1日。水族館に行って、サイクリングして、バーベキューに遊園地。お天気も良くて、すごく楽しかった。それにこうちゃんがいつでも隣にいて、笑ってくれる。ずっとずっと一緒にいられる。新婚旅行ってどうしてこんなに楽しいんだろう。大好きな人とずっと一緒。ついでにおいしいものをたくさん食べて…。 お互いに言葉にはしないわよ。でも、絶対に夜は期待していた。まあ、中には朝から晩までやりまくるカップルもいるらしいじゃない? 旅行に来たって何してるんだか分からないって。そこまでは期待してなかったけど、もう3度目の正直よ? 実を言うと。 結婚が決まって、すぐに産婦人科に行ったのだ。私は生理が不順で緊張したりすると間が空いたり、または急に始まったりする。そんな感じじゃ、せっかくの夜に出来なくなることもあり得るのだ。だからピルを処方してもらい、生理を遅らせることにした。それくらい準備していたのだ。 …なのに、なのにさ。 緊張したのか、お夕ご飯にビールを飲み過ぎたこうちゃん、また寝ちゃったの。ちょっと、それはないでしょうっ!? と、今度は揺り起こしたわよ、ゆさゆさと。でも、こうちゃんはうんともすんとも言わない。寝付きのいい人だとは聞いていたけど…。 …で、夜が明けて。朝イチでお風呂に行って。 目覚めたこうちゃんを慌てさせてやったわ。それくらいのことはしてもいいと思う。お湯から戻ったら、こうちゃんは廊下でうろうろとしていて、私を見つけて泣き出しそうだったもん。 でもその後も、無視よ、無視っ!! こうちゃんの身支度を整えるのを待って、朝ご飯を食べに行ったけど、始終無言。結婚早々、ヤバイ夫婦げんかの私たち。しかも理由が…ああ、悲しいっ。 なんかさ。 だんだん空しくなってきて。だって、自分が怒っている理由が…こんななんだもんね。 別にそんなに好きモノじゃないと思う。こうちゃんが初めてだったんだし。はっきり言って、まだ気持ちいいと言うより、ただこすれてる感じだし。でも、やっぱり期待しちゃったんだよ。新婚旅行ってすごく特別な気がして。いつもは言葉が少なくて、素っ気ないくらいのこうちゃんも特別の魔法にかかるのかと思っていた。 でも、こうちゃんと私はいつもと変わらないまんま。いつも通りにしてる。私が怒っている理由だってきちんと分かっているのか不安だ。ああん、こんなんでいいのかなあ。ずっとやっていけるのかなあ。 今日は。柳川まで足を伸ばして、ウナギを食べて川下りをして。ついでに博多に戻って屋台のラーメンを食べようって言ってた。こうちゃんは博多にはお友達がいるとかで何度か来ているそうだ、学生時代。だからおいしい屋台も知っているんだって。で、もう明日は帰るのだ。太宰府まで行って、それから空港に。 …雨だしなあ…、憂鬱だなあ…。
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仕方なく持っていったカードキーで鍵を開ける。あれ、スリッパもない。どこか行ったんだろうか? 一応、きょろきょろとそこら中を見た。トイレとか、ユニットバスのカーテンの向こうとか、縁の椅子とか。でもいないから寝室を覗く。そこはお布団が敷きっぱなしで人気がなかった。 「…こうちゃん?」 え? ハッと気付く。こうちゃんのバッグがないっ!! 旅行用のでっかいのも、セカンドのちっちゃいのも。ふたつともないっ!! 「…こうちゃん!?」
まさか。 嘘でしょう? 怒って帰っちゃったの!? そんな…飛行機は明日なのに。
「嘘ぉ…待ってよお…」 最初の夜のステーションホテルはツインのベッドだったけど、こっちはお布団でいいなとか思っていた。ツインのベッドって、お互いのエリアが別々で。なんだか、ちょっと恥ずかしい。だって、エッチなことをしたくなったら、どちらかがきちんと意思表示をしなくちゃいけないじゃない? でもお布団なら。くっつけて敷いたら、すごく自然な感じだと思う。構えなくてもいいかなって。新居もお布団で良かったって考えたりして。 「…こうちゃんっ…てばぁ…」 そりゃ、眠りこけちゃったこうちゃんには腹が立った。でも、許してあげるつもりだったのに。ちょっと怒っても、ぐぐっと引っ込めようって。だって、私はこうちゃんの妻になったんだもん。ずっとずっといっしょにいますって、神様の前で約束したじゃない。ちょっとへそを曲げたからって、こんな、すぐに…。 「…何?」 突然。ふわ、と。背中があったかくなって。後ろから、きゅっと抱きつかれた。しばし、言葉が出てこない。胸の下で組まれた腕は浴衣のまんまだった。 「え…?」 「どこ…いたの?」 涙を浮かべた目で見つめると、こうちゃんはもっともっと笑う。目が極限まで細くなる。 「え…入り口の洋服掛けの中。荷物と一緒に。すぐに気付くと思ったのに、素通りするんだからなあ…」 ふふっと笑った口元。いたずらっ子みたいに。でもっ…普通はさ、思いつかないよ。大きなこうちゃんがあんな狭いところにどうやって入っていたの? 押入なら考えられると思って覗いたけど、まさかあそこは違うと思った。 「もうっ…馬鹿ぁ…っ!!」 ああ、でも良かった。こうちゃんがいて。どっかに行ってなくて。 「ちょっと…脅かしすぎたかな…」 そうだよ、ちょっとじゃないよ、すごくだよ。こうちゃんはいつも優しいから、急に突き放されるとすごく不安になる。どうしていいんだか分からなくなるの。私、こうちゃんに包まれてるのが好きだから。もうそれ以外の自分は想像付かない。 だから、私の涙は止まらない。 「…もう、泣くなよ? 水橋」 困り果てた声。それにも大きくかぶりを振った。顔は手でしっかり覆ったまんまで。 そのあとしばらくは、沈黙が流れて。外の雨音が耳に戻ってきた。そんなに強くないけど、今日は一日降りそうだ。こうちゃんがそのリズムに乗せて、ふうっとため息をついた。 「…水橋」 そして。こうちゃんの腕が、私を抱きしめる。ぎゅっと、すごく強くて折れそうなくらい。それから背中をさわさわっと手のひらが動いて、浴衣の帯の所まで来ると、するっと前に回ってみぞおちの上の結び目に手を掛けた。 「え…? ちょっとっ!? 待ってよっ…、こうちゃんっ!?」 びっくりして顔を上げたら、そのまま押さえつけられて、口づけられる。こうちゃんの重みで身体が倒れて、ひやあああっ、すごい、どうしようって言う体勢になっていた。こうちゃんのすっかりはだけた浴衣の襟元から、裸の胸がしっかり見える。ああん、薄暗いんだけど、障子を閉めてあるから、外の光もあまり入ってこないけど…でもっ、でも。 口をぱくぱくさせながら、見つめると、こうちゃんは嬉しそうに近づいて、首筋にキスした。 「別にさ、雨だし。急ぐこともないだろ? …いいじゃない」
窓を叩く雨音が遠ざかる。こうちゃんの熱い息が、私を別の世界に誘う。カードキーがなければ入れない、ふたりきりの空間。 たまには、雨でもいいかもね。そんなことをぼんやりと考えつつ、私はそっと目を閉じた。 おしまい☆(20030219)
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◇あとがき◇ ちなみに、管理人の新婚旅行は北海道。それも2泊3日だったので、登別と札幌に泊まって、小樽まで足を伸ばしました。何を食べてもおいしくて、広くて素敵でした。9月だったので何もかも中途半端だったけどね。寒くなくて良かったかな? 冷夏で野菜の収穫が少ない年だったので、ジンギスカンに出てきたキャベツがあまりにもちょっとでふたりで笑ったのが懐かしい…そうです、そんな馬鹿馬鹿しいことで楽しめるのが新婚旅行なのかも。 知識を収集するため、少しずつでも旅に出ようと決意しました。その成果が現れる日が来るといいですね。 では。「さかな」最終章を残すのみになりました。もうちょっとだけ、おつき合い下さいませ。 2003年2月19日 広瀬もりの |
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