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………10

 

 

 

 その音の方向を見て。自分の顔が青ざめていくのが分かった。すううっと音を立てて頭から血の気が引いていく。緒方先輩が凍り付いた表情で、私と長屋先生を見ていた。

 何にも言うことが出来ない。立ち尽くす私はただ、ドアの所にいる人間を見つめることしか出来なかった。

 …がたんっ!!

 ドアを揺らして。先輩が視界から消えた。大きな足音が、廊下に響き渡る。

「…先輩!!」
 ようやく、それだけ言葉を発することが出来た。その勢いで、私も足音を追う。

「あ…おい!? 待てっ…カナ!!」
 背中に降りかかる先生の声も振り払って。もう必死だった。

 

 いつから、聞いていたの? 先生の言葉は…きっと、たくさん先輩を傷つけてしまった。どうして、もっと強く反論できなかったんだろう? 先輩のために戦うことが出来なかったんだろう? たくさんの疑問符が私の心を締め付ける。

 口惜しかった、自分が許せなかった。

 

「先輩!!」

 行き着いた先は。いつか紙飛行機を飛ばした屋上だった。


 全速力で走った。肩で大きく息をして。ぐるりと見渡した視界の中央に先輩の姿を捉えた。

「…カナ」
 弱々しく微笑むその姿が、雨に煙る。手のひらに受け止めると冷たい秋の時雨。その中をゆっくりと歩いていく。

「先輩は、悪くない。どこも悪くない…私は、負けたくない…!!」

 ようやく、それだけ言う。何と言ったら、先輩を勇気づけられるか分からなかった。ただ、思いの丈をぶつけるしか。やり方も、分からなくても自分の気持ちを伝えたかった。

 そんな私を見つめて、先輩が口元で淡く微笑む。

「…カナは優しい子だね…」

 そして、するりと私の頬にその薄くて大きな手を近づけた。

 次の瞬間。

 咄嗟にその手を逃れていた。

「…え?」

 先輩と、私と。二つ分の疑問の響きが重なり合う。私は自分の行動が信じられなかった。

「カナ?」
 いつもと同じ動きで、先輩が私を呼ぶ。でも身体が知らず、後ずさる。二人の間に不思議な空間が生まれていた。

 

 その時。

 辺りに響き渡るチャイムの音がした。理数科用の7限の終了を告げる音だった。

「…あ、部活…行かなくちゃ…」
 そう言いながら、きびすを返す。雨に濡れる先輩をその場に残して。

 

 自分の身体の止まらない震えを悟られたくなくて、一気に階段を駆け下りる。4階に降り立つと、そのまま突き当たりの音楽室まで走った。

 信じられなかった、自分が。信じられなかった、自分の心が。

 そして、気付いてしまった。

 私は…先輩を、初めて「怖い」と、思っていた。


 雨の滴をしたたらせながら、音楽室のドアを開く。明るい蛍光灯の光が漏れていた部屋の中は、何故かひっそりと人影がなかった。見ると、突き当たりに横1列に5つ並んだ準備室の小部屋の…真ん中の3番の部屋に人影が動く。コーラス部の部室になっている部屋だ。音楽室を斜めに横切って、小窓から覗くと、中には何人かの人間がいた。

 …真ん中にうずくまる…葉月ちゃん?

 ドアを開くと同時に、傍らにいた美音子ちゃんが私に気付いてさっと近寄ってきた。そして、耳打ちする。

「…あのね、葉月…井ヶ田ちゃんとやり合ったらしくて…」

 そう言って、私を見つめる視線。それが全てを物語っていた。葉月ちゃんは…私のことで、井ヶ田ちゃんと…。井ヶ田ちゃんが私と緒方先輩のあれこれを色んな人におもしろおかしく吹き込んでいたことは昨日の瑞穂ちゃんとの一件で明らかになった。…だからって、葉月ちゃん…。

「カナぁ…私、口惜しい…っ!」
 うずくまったまんまの葉月ちゃんが、嗚咽を上げながら、私に向かって言葉を発する。

「カナは…全然、悪くないのに…それなのに。カナが緒方先輩と一緒にいるってだけで、3年生の先輩たちも、同級生の人までがカナを嫌な目で見る」

 それから、ゆっくりと顔を上げる。泣き濡れた顔がこちらを向いて、真っ赤に腫れ上がった目が私を捕らえる。そして、震えの止まらない唇が辛そうに動いた。

「このままじゃ、カナはどんどん悪い人にされちゃう…私はそんなの耐えられない!! カナは…カナは悪くないのに…カナは本当にいい子なのに…それなのに…私、口惜しいよぉ…」

 そう言いながらも、新しい涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。まっすぐの肩までの髪がふるふると悲しく揺れる。

 しっかり者で気丈な葉月ちゃんが…まさか、泣くなんて。私の中に衝撃が走った。だって…今、葉月ちゃんを泣かせているのは私なのだ。私の行動によって生じた結果が、他ならぬ大好きな葉月ちゃんを悲しませてる。

 昨日…あんなにひどいことを私は言ったのに。それでも葉月ちゃんは、私のために…。

 

 私の中で。

 何かが音を立てて、割れた。

 それが、粉々に砕け散る、砕け散って、私の心に突き刺さる…。

 ごくり、と唾を飲んだ。そして、私は自分の進むべき道を自分で選択した。

 

………

 


 長い渡り廊下。その隅っこ。人気の消えた放課後。

 夕日にのびた二つの影。

 

「…どうして? カナ…」
 押し殺した声が私に向かう。でも大きく首を横に振った私は、静かに言った。

「もう、いいです。先輩に教えて頂かなくても、私は自分で勉強します。だからもう部室には行きません」
 それは用意していた言葉だった。一気に吐き出す。

 目の前の先輩が、私の言葉を信じられない、と言うように小さくかぶりを振る。

「だって…カナが、僕を信じてくれるから、ちゃんと受け入れてくれるから…だから人を信じようと思えるようになったんだ。カナが、いないと…」

「もう部室には、行きません…!!」
 ぎゅっと、目を閉じる。身体が大きく震える。ガクガクと膝の音がしても私は自分の決意を変えるつもりはなかった。

「カナ…」

 次の言葉はもう聞きたくなかった。そのまま、くるりときびすを返す。そしてそのまま駆けだした。

 

 …どうして? カナ…

 

 先輩の視線が脳裏に焼き付いた。自分のしたことは一生、許せないだろう。せっかく、心を開きかけた先輩を私はひどい形で裏切った。私が悪い、でも…もう、これ以上は怖くて、嫌だった。

 明るい所を歩きたい、そう思った。だから、切り捨てた。

 私は、自分の中の弱さに負けたんだと思う。すがった瞳を振り切った身体が、ちぎれるほどに痛かった。

 

………

 


 そのまま。私は文芸部を辞めた。そのことについては誰も異議を唱えなかった。退部届けを受け取った加賀見先輩はホッとした顔をしたぐらいだ。

 元の通り、音楽室と教室を往復する日々。緒方先輩とは顔を合わせることもなかった。

 そのまま、3月が来て。先輩方は卒業していった。私は当日、受付の仕事をしていて、式には出られなかった。コーラス部の先輩にはささやかながらお別れ会を催したが…文芸部の方は知らない振りをした。葉月ちゃんも意識して私には何も言って来ない。私に張り付いていた妙な視線も噂もいつの間にか消えていた。


 時々。考えることがある。

 不思議だった。加賀見先輩は緒方先輩と一緒にいても変な噂を立てられたりしなかった。それが私が相手だとあんな風になる。やはり、私がそれだけ心許なかったんだなあと思う。
 先輩のこと。何の先入観も持たずに接していた。先輩の影の部分は知らなかった。先輩に向けた心は本物だったはず、でもそれは子供じみたものだった。

 先輩のことを知ってしまって、普通に出来なくなった。怖いと思ってしまった。それが私の弱さだったのだと思う。

 

 お前は…それだけの器じゃない。いつかはなれるかもしれないが、今はそうじゃない。

 

 長屋先生の言葉が何度も反芻される。私がしたことは先輩を余計に傷つけただけだった。後悔ばかりが心を責める。


 季節は巡り、いつの間にか3年生の年の瀬を迎えていた。

 

………

 


 予備校の冬期講習。午後の講義を終えて、電車に乗る。快速を使っても50分かかる。駅に降り立った頃は夕暮れを過ぎていた。辺りにうっすらともやがおりてくる。

 冷たい、帯になった気が頬をくすぐる。私はコートの襟を立てて、足早に帰路についた。

 

 もうちょっとで、家に辿り着くと言うとき。公園のところで、カサカサと音がしてそれからぬっと人影が現れた。びくっと足を止める。

 視界を横切って現れたその人に私は言葉をなかなか発することが出来なかった。それくらい意外な人物だったのだ。

「…カナ」
 大きく瞳を見開いたまんまの私にうっすらと微笑みかける人。

「久しぶり、カナ。会いたかった…」

 涙で視界が歪む。髪を短く切って、生々しい傷の跡まではっきりと見えていた。長身なのは相変わらずなのに、何だか昔よりさらに細くなった感じ。…消えそうなぐらい。立ち尽くしたまま、私は静かに言った。

「先輩…痩せた? どうしたの…?」

 あの渡り廊下の別れから1年以上が立っていた。地方の大学に進んだ先輩と会うことはもうないと思っていた。先輩の家はずっと遠くて…どうしてこんな所まで来たんだろう。…まさか。

 

 恐る恐る近寄ると、先輩は今までの空白が嘘のように優しく微笑んで昔のように私の頭に大きな手を乗せた。その手も何だか冷たい。そっと見上げると…先輩は微笑みをたたえた目で、静かに言った。

「ねえ、カナ。お願いがあるんだけど…」

「…え?」

「一度だけでいいんだ、キスさせて」

 思わず、ぱっと飛び退いていた。

「せせせ…先輩、冗談でしょう? 辞めて!! そう言うのは普通するもんじゃないもの…」

 思い詰めているのかと思った瞳がふっと優しくなる。何だ、冗談だったんだ。ホッとした。

「…ごめん、やっぱり駄目か」

「駄目ですよ、何考えてるんですか!?」

「そうだね…」
 そう答えた先輩がふっと時計を見た。

「あ、バスの時間だ。帰らなくては…じゃあね、カナ。会えて良かった…受験、頑張るんだよ」
 するっと頬をなでる手のひら。どきっとして目を閉じる。でもそれは顎のところでふっと離れた。

 

 夕闇の中に…私が今来た方向に向かって去っていく背中。思い出を切り取ったようにいきなり現れた先輩に戸惑いながらも…心のどこかでホッとしていた。優しく笑う、全然変わらない先輩。良かった、きっと先輩は幸せなんだな…。

 良かった、本当に…良かった。

 ずっと、気になっていたから。先輩があのまま浮上できないでいたら私のせいになっちゃうから。

 心のおもりを解き放たれて…ホッとした。

 

………

 


 それから、また数ヶ月が過ぎて。受験も終わった後。

 家庭学習中の登校日に、私は久々に学校に登校した。ホームルームが終わって、掃除のために机をガタガタみんなで運んでいたとき…背中にこつんと何かが当たった気がして振り向いた。丁度、消しゴムの欠片がぶつかったくらいのささやかな衝撃。

 振り向いた先、教室の後ろ出口の所に懐かしい人を見た気がした。

 

 …緒方、先輩!?

 

 私服姿の先輩が黙ったままこちらを見ている。前のように長い髪、うっすらと口元に浮かんだ微笑み。私の視線に気付くと、さっと合図するように右手を挙げた。

 何か言おうと思った瞬間。

「おい? 何だよ、止まるなよ〜」
 後ろの席の人にどつかれる。

「あ、ごめ〜ん…」
 慌てて向き直って机を運ぶ。前の席とくっつけると、もう一度振り向いた。先輩の姿はもうなかった。

 

 どうしたんだろう…?

 

 私はちょっと考えて、合点がいった。きっと何かの書類が必要で学校に来たんだ。と言うことは3年の時の担任の長屋先生の所だろう。職員室に行けば会えるかも知れない。

 カバンを手に廊下に駆けだしたところで、廊下の向こうから走ってきた人と思い切りぶつかる。

「…葉月ちゃん…!!」
 わわ、久しぶりだ。葉月ちゃんも大学に合格したんだよね。

 ようやく会えたことが嬉しくてにっこり微笑む。

「あのね…今、せん…」
 私の言葉は、しかし、葉月ちゃんのせっぱ詰まった声にかき消されていた。

「カナ、カナ…!! 大変なのっ…今、長屋先生の所に連絡があったって―…」
 葉月ちゃんは泣き出しそうな目で私を見た。ぎゅっと制服の袖を掴まれる。その手が震えていた。

「あの…カナ!! 先輩が、緒方先輩が…亡くなったって――!!」

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