…12…
普通、退院と言ったら午前中だろう、でも医師も看護婦も夕方だと言った。千雪はすっかり外出用の服に着替えると、髪を整え、静かにソファーに座っていた。 時計が4時を回った頃、廊下の向こうの方からスリッパの音がしてきた。医師や看護婦のものではない、辺りに響き渡る音。タンタンタン、と規則正しく、少し早足で。今までこの部屋で一度も聞いたことのない音に覚えず胸が高鳴った。 がちゃり。 妙に大きくドアノブの回る音が響く。中開きのドアを押して入ってきたのは、やはり惣哉だった。 千雪はどんな顔をしたらいいのか分からなかった。惣哉に対して、どんな態度を取ったらいいのか…自分の頭の中で何もまとまってなかった。だから、心のどこかで惣哉ではない他の人間が迎えに来てくれないかと期待していた。 「すまない、会議が長引いて。荷物はこれだけ? …じゃあ、行くよ」 「とりあえず、送るから。その後、また、出掛けるところがあるんだ」 いつもだったら。こういうこの人の変化を見れば「どうしたのですか?」と心配して訊ねていた。でも、今の状況ではそんなことを言える感じではない。それに…惣哉は本当は自分のことなど迎えに来たくなかったのではないか、でも周囲の手前、仕方なく来たのではないかとすら思えた。そう思うのが妥当なくらい、惣哉の背中からは緊張した空気が漂っていたのだ。千雪は惣哉から見えないように真後ろに入って歩きながら、俯いて唇を噛んだ。 途中、ナースセンターに声を掛けて。先生が玄関先まで出てきて送ってくれて。惣哉は病院の前に駐車したままにしていた自分の車に千雪を乗せた。公共の場にこういう風に車を放置することなど、惣哉にしては珍しい。ちょっとした買い物の間でもきちんと遠くの駐車スペースに止めに行くような律儀な人なのに。この行為からも惣哉がいかに多忙であるか推察できた。秒読みのスケジュールの中に千雪を送り届ける時間を組み込んだのだ。 運転席に座るとエンジンを掛けてシートベルトを締めて。ハンドルを手にした惣哉はふっと小さく息を吐いた。でも、スーツの下の肩は固く張りつめている。それを隣りの助手席で千雪は不安げに見つめていた。やがて、緩やかに車が発車すると、その流れに乗って小さく遠慮がちに言葉をかけた。 「…あの。送るって…どこに?」 千雪の言葉に惣哉が一瞬だけこちらを見る。ひどく苛立った視線だった。すぐに進行方向に顔を戻してしまったが。 「…うちに送るに決まっているでしょう?」 短い言葉に込められた感情に、千雪は胸が押しつぶされそうになった。ずっと、寝顔しか見ていなかった。起きている、瞼を開けている姿にも会わなかったし、だからこうして言葉を発する現場にも居合わせていなかった。 押し殺した声はいつもよりもトーンが低くて。千雪の知っているこの人の声ではないみたいだった。 …もう、惣哉さんの心は自分にはないんだ。嫌々、迎えに来てくれたんだ。 泣いてはいけない、そう思うのに視界が滲む。こんなところで取り乱しても、惣哉が嫌な気分になるだけだろう。出来る限り、冷静に何ともない感じでいなければ。歯を食いしばっていても顎の辺りから、ガクガクと震えが生まれてしまう。千雪の小さな肩が小刻みに揺れた。 「でもっ…私は、もう、お屋敷には…」 「あのね、君はまだ自宅療養の身体なんだ。病院にだって定期的に診察に行かなくてはならない。君の体調が元に戻るまでは東城の家がお世話させて貰うって言っただろう? …それとも? 君は東城の家は身体をこわした部下をさっさと見捨てたとでも噂になって欲しいのかい?」 千雪はもう、惣哉の方を向くことが出来なかった。声を殺して、窓硝子に寄り添う。顔を背けて、口をぎゅっと閉じて。じっと身体を固くした。頬にシートベルトが当たるのが分かる。そこが段々湿ってくる。声を上げてはいけないと思ったから、流れるものをそのままに座っていた。わずか10分ちょっとのドライブがとてつもなく長いものに感じられた。 家の前に車を横付けにすると、惣哉はさっさと車を降りた。千雪も慌てて開けてくれたドアから降りて後に続いた。玄関のエントランスにお手伝いさんの幸が待ちかまえている。どこか不安な、でも安堵した表情で千雪を出迎えた。 「千雪様、お帰りなさいませ。…お元気になられて…」 「はい、これを頼みます。では、私は…出掛けてくるから」 「あの…惣哉様?」 「…何?」 「本日の御夕食はどうなさいますか? …お戻りになれますよね、今夜は千雪様の退院祝いです。皆様お揃いになりますので…」 幸の言葉に。惣哉の表情が一瞬止まった。でも次に瞬間、静かに後ろを向いてしまう。 「…分かった、努力はしてみる」 ふたりの会話で。いかに惣哉が屋敷に戻っていなかったのか、千雪には分かってしまった。 千雪が倒れる前に把握していたスケジュール以上に惣哉の毎日は忙しくなっていたようだ。そう言えば千雪が起きている時間に間に合って惣哉が病院まで来ることはなかった。宿直の看護婦さんにちらっと聞いてみたら、毎晩1時か1時半にならないと来られない感じだったらしい。それならば屋敷にも着替えに戻る位だったのだろう。 走り去る車を見つめながら、千雪は色々な想いがこみ上げてきてたまらなくなった。東城の大きな建物も、敷地を彩る樹木も花々も千雪の帰還を喜んでいた。幸と同じ感じで「お帰り」と両手を広げて出迎えてくれていた。懐かしいものたち、2ヶ月ちょっとしか暮らさないはずなのにここはもうすっかり千雪の家になっていた。 そして、何よりも。 千雪の存在を包み込むもうひとつの体温が、いつもいつも自分を温めてくれた。見上げればいつでも柔らかいまなざしがあり、そっと触れれば握りしめてくれる手のひらがあった。その腕の中で自分は本当に幸せだったのだ。 千雪はしばらくエントランスの真ん中で辺りの風景を眺めていた。幸が不安げに振り向きながらドアを開く。 「…千雪様?」 「…あ、はい。今、行きます」
◇◇◇
「ごめんね」 惣哉が避妊をしていないことは分かっていた。自分もそれなりに知識はある。章人は毎回きちんとしていてくれたから、意外だなと思った。それと同時に、それならそれでいいとも思った。もしも妊娠を望んでいないなら、女の側からだっていくつかの対策はある。でも、あえてそれをしようとは思わなかった。 …惣哉さんの赤ちゃんが欲しいな。 愛する人の子供が欲しいと思うのは女性にとって自然の摂理だろう。千雪もそうだった。惣哉は結婚しようと言ってくれた。でもそれがとても難しいことであることはよく分かっていた。初めから住む世界の違う人だった、そして、深く知れば知るほどにその溝が深まっていく。自分に対する限界を感じてしまったのも事実だ。それでも、章人との時のように悲しい結果になっても。千雪はもうひとりに戻るのは嫌だった。 「シングル・マザー」と言う言葉は、今日ではもうそれほど珍しくもない。藤野木の様な裕福な家庭の子女が通う学園ではまだまだ珍しいが、一般の学校などでは一クラスに数名は母子家庭、または父子家庭に暮らす子供がいる。離縁、死別…様々な理由があるだろう。でも、それは特別なことでないのだと思えるくらい彼らは明るい。 妊娠のことを惣哉に告げれば、どうなるかくらい容易に見当が付いた。彼のことだ、子供のことを思えばすぐに籍を入れようと言いだしただろう。でも、そんなのは嫌だった。子供を引き合いに出して、自分たちの関係をどうにかしようなんて…おなかの子に対して失礼だ。この子はきちんと人格をもったひとりの人間なのだから。自分が幸せを得るための道具にはしたくなかった。 …やはり。 ひとりで横になっていると、色々考えてしまって休めない。身体はだるいのだが、そのまま眠りに入れるほどは疲れていない。とろとろっとしたかと思うと、すぐに夕食に呼ばれた。
◇◇◇
「退院、おめでとう」 「やだな、ちゆ先生。今更、惣哉に花を貰ったくらいでそんなに感激しちゃって。まったく当てられちゃうよな…」 「…こら、大人をからかうものじゃない」 千雪は夕方の彼の態度を思い出して、何が起こったのか全く分からないでいた。もしかしたら、今までの全てが夢だったのではないか、あの、倒れた日の…惣哉と言い争う前の時間まで全てが元に戻ったのではないかとすら思えてくる。 それからの食事の時間も、終始和やかな雰囲気で過ぎていった。あまり食欲のない千雪を気遣うように、隣りに座った惣哉があれこれと世話を焼いてくれる。遠くの皿から料理を取ってくれたり、飲み物の心配をしたり。千雪はもう胸がいっぱいになって、どうしていいのか分からなかった。言葉も少なく俯きがちだったが、病み上がりで疲れているのだろうと皆は思ってくれているようだった。
食後のお茶を頂くと、惣哉はちらっと時計を見て立ち上がった。驚いてそちらを見ると、自分も立つように目で促された。 「…千雪は病院から戻ったばかりで疲れでいますので。今日はもう、休ませます」 気を付けて歩かないと普段ですら足を踏み外しそうになる階段で、支えてくれる手のひらは千雪にとっての命綱みたいなものだった。知らず知らず、惣哉の方にそっと寄り添う姿勢になる。するとふんわりとコロンの香りが鼻を突く。涙が溢れ出そうになる瞬間だった。千雪はそれを堪えるのに必死になって、終始無言だった。惣哉も何も言わない。ただ、背中から伝わるてのひらの熱が、彼から感じ取れる体温の全てだった。 階段を上りきると左に折れる。左右に伸びた廊下を突き当たりまで行く。惣哉の部屋の前を素通りして、そのまま一番奥の千雪の部屋の前まで。惣哉の右手がドアのレバーを押して中へ入る。
部屋に入って数歩、歩いたところで、ふいに惣哉の手のひらが離れた。その一瞬に、千雪の背中が冷え切ってしまう。ハッとして顔を上げる。小柄な千雪は大きく見上げないと惣哉の顔を見ることが出来ない。今更ながらそのふたりの距離に驚く。視線の遠さがそのまま心の遠さのように思えて。 「…今日は…疲れただろうね、早く休みなさい。シャワーは病院で済ませてきたんだよね?」 「隣りにいるから。何かあったらすぐに言いなさい」
ぱたん、と閉まる柔らかい音で千雪は一気に現実に引き戻された。しばらくの間は何が起こったのか分からずに呆然とする。 …何が…どうなって、どうして? ふらふらっと、ベッドに座り込んで、ぐるぐると渦巻く思考をどうにか鎮める。頭が冷静に戻って行くに従って、ようやく事態の推移が飲み込めてきた。 ああ、そうか。惣哉さんは、みんなの前だから…以前と変わらないように自分に接していたんだ。みんなは自分たちのことなど知らない。仲の良い恋人同士のままだと信じている。だから、心配を掛けないように何ともなく振る舞ったのだ。 千雪にとって、当たり前のこの現実が大きな絶望に感じられた。ささやかな幸福の後にいきなり渓底に落とされた愕然とした気持ち。それも自分の言動が生んだ結果だった。そう、自分が自ら招いたことだったのだ。惣哉の差し伸べてくれる腕を振り払ってしまったら、こうなることくらい分かっていたのに。それなのに、自分は…。 寝なくちゃ、疲れているんだから。とにかく休まなくちゃ。 クローゼットに行って、パジャマ代わりの水色のスエットに着替える。顔を洗って、歯を磨くとそのまま自分用のベッドに潜り込んだ。 手元スイッチで照明を暗くする。でも、瞼を閉じても睡魔は訪れない。そう…あの病院で味わった恐怖の夜が千雪の前に再び現れたのだ。背筋に冷たいものが流れた。 泣きたい気分なのかとも考えたが、涙の一粒も出てこなかった。体の中に色々な思考が詰まって苦しい。…どうしよう…。 身体の震えの激しさにただならぬものを感じてしまう。自分はいい、このままどうなっても。でも医師は言った…「赤ちゃんを守れるのは、お母さんだけなんですよ」、と。この子を守らなくてはならない。でも、どうしたら眠ることが出来るのだろう…。 ふっと瞼を開けると、惣哉の部屋に続く扉が見えた。あの向こうに惣哉はいる。まだ、仕事をしているのだろうか、そうならば迷惑を掛けてはいけない。…でも。 千雪の心は固まった。ベッドから身を起こすと…掛けていた毛布と枕を抱える。毛布をずるずると引きながら、部屋を横切り、扉のレバーに手を掛けた。 鍵を掛けられていたらどうしよう、と一瞬躊躇したが、それは思いがけずに軽くかちっと下に動いた。ホッとしながら薄く開くと、惣哉の部屋ももう暗くなっていた。珍しいことだ、寝てしまったのだろうか。身体をドアの隙間に滑り込ませ、壁際のベッドを見ると、この部屋の主は壁の方を向いて横たわっていた。少し休むつもりだったのだろうか、部屋着のままベッドメイキングしたカバーの上に休んでいる。…疲れているのだ。 ベッドの傍まで歩み寄る。何度も声にならないまま、唇を動かしてから、…ようやく絞り出すように自分の声を発することに成功した。 「…惣哉、さん…」 でも、次の瞬間。惣哉の肩が向こうを向いたままぴくりと反応する。ハッとしてごろんと寝返りを打ってこちらを見る。千雪の姿を視界に入れると、びっくりしたように腕を付いて身体を起こした。 「…千雪?」 「どうしたの? …具合が悪いの?」 千雪はその声を聞いただけで、こみ上げてくるものを感じた。でも、それを必死で堪えながら、枕を抱く腕に力を込めて自分の中の勇気を奮い立たせる。 「…ごめんなさい、惣哉さん。眠れないんです…ベッドの隅を貸していただけませんか?」 千雪の声に、惣哉は信じられないような表情になった。眼鏡の奥で千雪の姿を見つめた瞳が何度も瞬きする。千雪は惣哉が何か言い出す前に次の言葉を言わなくては、と思った。 「あのっ…、病院ではお薬を頂いていたんです。でも、今日は頂いてくるのを忘れてしまって。明日になったら、どうにかします、だから…あの、…」 視線の先の惣哉が何と答えるのか、怖くて仕方なかった。でも、眠れないのは困る。体に毒なのだから。そして自分が薬なしでも眠れる唯一の場所を千雪は知っていた。だから、もしも否定する言葉が出たら、必死で食い下がろうと思っていた。 惣哉は初め、寝ぼけていたのかも知れない。やがて、表情がはっきりしてきて、千雪の顔を探るように見つめる。その後、身体を後ろにずらして、今自分が寝ていたベッドの真ん中を開放した。惣哉のベッドはキングサイズ、と言うのだろうか、両手を大きく横に伸ばしてもまだまだ余るほどの広さがある。 「…いいよ、おいで」 千雪は自分の待ち望んでいた言葉を聞きながら、にわかにはそれを信じることが出来ず、しばらく呆然と動けないでいた。 続く(020718) |