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Scene・1…はじまりの時
春太郎Side*『無意識の視線』

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『必ず彼女が「うん」と言う、イチオシ☆リゾート情報!!』

 

 地下鉄に乗り込んで、一番先に目に飛び込んできたのがその吊り広告の見出し。…なんだよ、このいかにも、と言う文句は。思わずドアのところで足を止めてしまい、後ろから来たサラリーマンにどんと背中を押された。

 ああ、いかんいかん、こんな事でどうするんだっ!

 俺はそのまま反対側のドアのところまで歩いていって、その場所をキープする。そして読みかけの単行本を開くと、それを読んでる振りをした。
 だけど正直言って、気になるのはあの吊り広告の内容の方だ。あの雑誌、今日発売なんだろうか? いつもこの場所に乗っているけど、昨日までは気がつかなかったし。だったら、今日は帰りにコンビニで探そう。今すぐにでも買って読みたいのは山々だけど…それはまずい。駅に着いて本屋に寄っていたりしたら、待ち合わせの時間に遅れてしまうじゃないか。

 でもっ! 知りたいぞっ…どんなことが書いてあるんだろう。もしもそれ通りに実行したら、彼女が「うん」と言ってくれるのだろうか。悶々とそんなことばかりを考えていると、活字がただの図形に見えてくる。でっぱったりへこんだりする不思議な羅列が、呪文のようだ。


 これが仕事だったら、どんなに見通しの悪そうな事柄でも「よし来たっ!」と身構えられる。困難が大きいほど、その先にある達成感は素晴らしいのだから。入社3年目、そんなこともだんだん分かってきた。


 ――なのに。今、俺は人には言えない難題を抱えている。どうやって打開策を見いだすか、それが最大の争点だ。でも、もう暗礁に乗り上げっぱなし。このまま座礁してしまったら、どうしようか。

 

…**…***…**…


『鴨が葱を背負ってくる』と言う言葉がある。

 はっきり言って、彼女が俺の目の前に現れた時、その言葉がばばんと脳裏に浮かんだ。それくらい衝撃的だったのだ。

 

 理想が実体化してぽんと目の前に置かれた感じ。思わず、我が目を疑った。実は少し前から、ちょっと気に入っている女性タレントがいた。顔は芸能人だから、少しケバイ。視聴者に媚びを売っている感じもある。でも…当たり前だが、彼女は素人だから、そう言うところが全くなかった。

「鴇田さんですよね? あの、私、広報課の西原と言います」
 俺を見つめるつぶらな瞳。キラキラしていて、ちょっと潤んでいて、背筋がもうぞぞぞっと来る。同期の小塚という男がいて、そいつから聞いていた。広報に可愛い子がいると。まあ、酒の席での話だし、右から左に流していたが。西原、真雪…そうだ、そんな名前だった。

「…もしかして、『まゆちゃん』?」

 はやる気持ちを抑えて、かろうじて低めのトーンでそう聞き返すことが出来た。小塚はそう呼んでいたから。彼女は、一瞬きょとんとしてから、嬉しそうににっこりした。ああ、何て可愛いんだ。耳元で踊る小さめのピアス。夕日に反射してキラキラして。

 うわ、もう、どうしよう。これは小塚に話をしてもらって、早速食事にでも…と思ったら、何と彼女の方から信じられないお誘い。一体どうしたことなんだ、もしかして担がれているんじゃないだろうか? 小塚たちだったら、俺の好みなんて分かっているだろう、だから…。
 そうは思ったが、こんな千載一遇のチャンスを逃す手はない。鉄は熱いうちに打て、ビジネスマンの基本だ。信じられない面持ちで、でも彼女のあとを犬のように付いていった。まあ、他人目にはチワワの後ろを歩くシベリアンハスキーと言うところか。くるんくるんと綺麗なカールが本当に綺麗で、後ろ姿だけでノックアウトされそうだ。だのに、彼女ときたら、時々くるんと振り返る。俺が付いてくるのを確認する為に。

 …うわ。

 さっきから、もうずっと、気が動転しているというか…普通の思考回路が働かなくなっていた。彼女は気付いているのだろうか。意図してないのだろう、でも俺の方を彼女が見るたびに、何だか期待してしまう自分がいる。

「私は、あなたが好き」

 ものすごい思い上がりだと思う、そんなはずはない、俺たちはほとんど初対面だ。情けない、何で幻聴が聞こえるんだ。

 それに、それに。俺だってこんな風に女の子から誘われたりすることがなかった訳じゃない。まあ、このごろでは面倒になって、適当にあしらっていたが。

 

 前の彼女とは仕事の休みが合わずに、徐々にすれ違うようになった。いくらバブルが弾けたまま氷結してしまった産業市場とは言っても、仕事はある。いや、仕事があるだけ有り難いのだ。週末に合わせて地方への出張が入ったりする。それなのに、文句を付けるとは何事か。

 女なんて面倒くさい。いちいち相手をしてやらないと、すぐに拗ねる。毎晩電話をしないと「私のこと、もう愛していないのねっ!」とかブチぎれたりして。髪型が変わった、口紅の色を変えてみた、新しい服を着ている…などなど、気が付かなかったりしたら、もう大変なことになる。
 そんなのに付き合っているんだったら、仕事をしていた方がマシだ。仕事は俺を裏切らないし、頑張れば正当に評価してくれる。時には給料が上がったりするのだ。

 

 …なのに、まゆちゃんは。そんな俺のささくれた心を優しく癒してくれる。常に笑顔を絶やさず、にこにこと俺の話に耳を傾ける。仕事の話をすると、面倒くさそうにそっぽを向く今までの女に教えてやりたい。世の中にはこんな子だってちゃんといるんだ。ああ、でも本当に、彼女は俺の描いた幻想ではないのだろうか。あまりに話が上手すぎる。

 丁寧な仕草で食事を終えた彼女は、こっそりとテーブルの下から手を回してきた。

 …え? と思った時に、俺の手のひらの上に数枚の千円札が置かれている。

「これで、足りると思うんですけど…」
 手を引っ込めて元通りの姿勢になって。あくまでも俺の顔を見つめながら、しっかりとした口調で彼女は言った。

「え…、いいよ、そんな…」
 女の子に食事の代金を払わせるなんて。そんなの格好悪いと思った。だいたい、女なんて支払いの時になるといきなりパウダールームに消えて、俺が外に出た頃に「ご馳走様〜」なんてしれっと現れるものじゃないのか!?

「いいえ、私がお誘いしたんですから。こう言うことはきっちりした方がいいです」
 あくまでもスマートに、周りの人にはこのやり取りが分からないように気遣ってくれる。なんときっちりした子なのかと、また感動した。

 

 春から夏へ。涼しさと暖かさが交じり合った風が流れていく。街灯に照らし出された夜の闇は群青色。その風景をバックに彼女が振り向いた。そして、色々な思考で頭の中がぐちゃぐちゃになっている俺をまっすぐに見つめる。唄うような声で言った。

「また、ご一緒させて頂けますか?」

 夢心地に彼女を見送ったあと、俺の携帯にはちゃんと彼女のナンバーが登録されていた。

 

…**…***…**…


 連絡をしようと思えばすぐなのに、どうしてもそれが出来なかった。もちろん、彼女にはもう一度会いたいと思った。出来ることなら少しでも早く。だけど、彼女は言ったのだ。

「今日はとてもステキなお話をありがとうございました。やっぱり、鴇田さんは思っていた通りの方ですね、嬉しいです」
 あの瞳で俺を見つめる。綺麗な色だった。また、幻聴が聞こえる。自分が自分で分からなくなっていくのだ。

 彼女…まゆちゃんは、俺をこの前の合同会議の会場で見たのだという。お茶出しの助っ人要員、そう言えば見慣れない顔がたくさんあった気がする。自分のプレゼンが上手く行くか、そればかりが気になって実はあまり周りに気を回せなかったが、どうして気付かなかったのだろう。一生の不覚だ。

 何故か知らないが、俺は感情があまり表に出ないタイプのせいか、とても落ち着いて堂々と見えるらしい。実は心臓はばくばくだったりしても、それを周囲が気付かない。彼女も例外でなく「企業マン」としての俺がとても印象的だったと言った。
 あのとき、俺の説明を一通り聞いて面白そうだと思った。でも分からない単語もたくさんあって、理解出来ない部分もあった。自分なりに調べてみたが、やはり詳細がよく分からないところがある。それで、俺を待っていたのだと言った。

 …なんて、研究熱心なんだろう。自分の仕事にも関係のない部署の話なのに。いくら広報と言っても難しい部分は専門の係の奴らがやる。彼女が直接携わることはないはずだ。

 ならば、学生時代の専門がそっちだったのかなとも思ったが、そうでもなかった。彼女は国文出身で、物理学とかにはとんと縁がない。それなのに俺の話をちょっと聞きかじっただけで興味を持ってくれたという。素人を感動させることが出来たなんて、感激してしまう。俺も捨てたもんじゃないかも知れない。

 彼女が俺に対して抱いていてくれるイメージを大切にしてあげたい。それに、俺がそうであるからこそ、彼女はあの瞳で見つめてくれるんだ。

 我慢出来るだけ、我慢した。でもとうとう堪えきれなくなり、1週間後、連絡を取った。彼女の声が弾んでいる、待っていてくれたのだと思うと嬉しかった。

 

…**…***…**…


 初めてふたりきりで遠出したのは、以前からどうしても行ってみたかったテーマパークだった。学生時代は抵抗なくこう言うところに行けたが、社会人ともなるとそうも行かない。同僚を誘うのも何だか恥ずかしかったし、当時の彼女なんてとんでもないと呆れ顔になった。
 まゆちゃんがにっこりと笑ってそこの名前を出した時、もう舞い上がっていた。こんな事があっていいのだろうか? 「怖くないの」と訊ねると「大丈夫ですよ」と言う。まさか、彼女も走りものが好きだったのか。ああ、いいな〜今度F1とかに誘っちゃおうか。あ、もちろん、観客としてだけど。

 その頃。俺はまゆちゃんとの関係をもう一歩進めたいと考えていた。いつも携帯で連絡を取り合い、退社後待ち合わせて夕食を共にする。ただそれだけのあまりにも清い仲。彼女の笑顔を見てるだけで、胸がいっぱいになるのは確かだが、俺だって健全な成人男性だ。いつまでもそれで済むわけはない。

 ふたりだけで出かけるのだ。これはもう、正真正銘のデートだろう。ああ、何を着ていこう。あっちは短大を出て2年目のピチピチギャル(死語)だ。いつも付き合っている男たちも俺よりは若いだろう。ああ、どんな格好をしていけばいいのか。テーマパークにスーツではまるで視察みたいだ。ここはTPOをわきまえなければ…。
 彼女と約束した帰り道、コンビニで若向けのファッション誌を手にした。こんなもの今まで買ったこともない、おしゃれになんて興味もなかった。でも、これからは違うぞ。まゆちゃんのために生まれ変わるんだ。

 早速雑誌に出ていたブランドショップに出かけた。無駄にジーンズに切れ目が入ったり、ずたぼろな服が多い中で、ここのはまあまあまともだったからだ。だが、広い店内でどうすりゃいいんだと思ってしまう。同じかたちのチェックのシャツが色違いで延々と並ぶ。一体何を選んだらいいのやら。
 最終的にはマネキンの前で立ち止まる。通りかかった店員に、マネキンが着ているのとぴったり同じコーディネートで揃えて貰った。ちゃんと、ショッキングカラーのスニーカーまで買った。床屋にも行く。彼女の好みはV6の三宅だという。だから、少しだけ彼に似せてみた。

 

 必死の努力で当日を迎えると、彼女は大きなランチボックスを手にやってきた。カーキ色のホットパンツに、蜜柑色のタンクトップ。ちらっと見えるモスグリーンとの2枚重ね。白い開襟のシャツを上からかけているが、そこから伸びた腕の白くて細いこと! すんなりと伸びた足にアヒルみたいなかたちのスニーカーが可愛い。
 待ち合わせは11時だったから、早めの昼飯にすることにした。色とりどりのおにぎりがずらっと並ぶ。どれもこれも欲しくなる。その上、俺の大好きなアスパラのベーコン巻きと、ゆで卵の周りに挽肉の付いたフライも入っている。しかも、美味っ! こんなおいしい食事は久しぶりだ、感動してしまう。保温容器に入れたみそ汁までもう至れり尽くせり。
 ぱくぱくとどんどん食べてしまうから、彼女の分が少なくなる。途中でハッと気付いたが、まゆちゃんはただにこにこ笑って、もっとどうぞと言ってくれた。「どれでもご自由に」と言われて「一番欲しいのは君だよ」とか言う言葉が喉から出かかる。ああ、馬鹿馬鹿、何を考えているのだ。

 もちろん、乗り物も、パスポートをすり切れるくらい使いまくった。絶叫マシーンのたぐいにも何度も乗った。もう至福の時、最高だ。隣りに可愛い彼女がいると思えば、なお嬉しい。こんな幸運があっていいのか。

 

「ああ、面白かったね〜」
 安全レバーが上がったのでシートベルトを外す。ようやく隣りの彼女に話しかける冷静さを取り戻した。

「ええ、…そうね」
 まゆちゃんは、少し青ざめてるみたいだ。声も小さい。まあ、そうだろう。今回のは結構スピードは出るし、予期せぬ揺れは起こるし…俺でもヒヤッとした。

 先に降りたが、足場がかなり悪かった。まゆちゃんが降りてくる時にそっと手を貸す。一瞬、ふわっと手のひらが触れた。

 …わ。

 やわらかいぞ。初めて触っちゃったぞ。

 イマドキなんて遅れてるんだと思ったが、彼女には一切、手を出してなかった。正直、手順なら分かっている。だのに、まゆちゃんを目の前にすると勇気がなくなるのだ。俺のことを心から信頼して尊敬してくれている彼女。そのイメージを崩したくなかった。幻滅されて、この関係が終わるのはいやだったのだ。

 そして、俺は指先から別のものにも気付いた。

 …震えている。暗い照明の下ではよく分からないが、顔色も悪いみたいだ。歩き出しても、足がガクガクして。

 …まゆちゃん…? もしかして、無理していた?

 聞きたかったけど、聞けなかった。だって、彼女はそれでも健気に微笑むから。あの瞳に見つめられると、俺の頭の中で、勝手に言葉が浮かんでくる。「春さんが、喜んでくれるなら嬉しいよ」――まさか、彼女は俺に無理に合わせてくれたのではないだろうか? 本当は絶叫ものなんて嫌いだったりして。

 もしや…俺を喜ばせるために…? いや、そんな。あまりに虫のいいことを。俺は最低だ。

 

…**…***…**…


 気付いても気付かない振りをしていることがたくさんあった。どこまでが本当で、どこからが自分の願望なのか分からない。

 まゆちゃんは…分かってないのだろうか? まっすぐに見つめるそのつぶらな瞳が、俺を悩ましていることを。彼女は他意はないと思うのに、俺には愛の告白に思えてならない。冷静沈着な大人の男を演じるのも疲れてきた。でも…彼女の中のイメージとかけ離れたら、きっと嫌われてしまう。

 

「まゆちゃんの作った飯が食べたいな…」

 ある時。思い切って、そう言ってみた。彼女はきょとんとしてこちらを見て、それからにっこり笑う。

「じゃあ、今度のお休み、春さんのお家に行って作りましょうか?」

 あまりに爽やかに言われてしまって、返答が出来なかった。男の一人暮らしの部屋に招かれるという意味が分かっているのだろうか。いや、いないかも知れない。そう言う状況で、いきなり押し倒したりしたら…。

 ああ、駄目だ駄目っ! 一気に嫌われたら、どうするんだ。冷静になれ、冷静にっ!!


 こう言うのには何か段取りがあるはずだ、と思って雑誌を色々漁った。最初に買ったファッション誌にも「彼女を落とすあれこれ」が詳細に書かれていた。そういう本はあまりに多い。いいのか、マニュアルに頼って、自己主張がないぞっ! …と言いつつ、気がついたらどんどんその手の雑誌が増えていく。

「彼女の仕草で分かる、大切なサイン」なんて見出しを見ればもう、即買いだ。それを熟読した次のデートには彼女の一挙一動が気になって気もそぞろ。話をしていても上の空だった。そんなとき、彼女の爆弾発言が。

 

「…まだ、帰りたくないな…」
 足元がふらりとした彼女が、突然に俺にもたれ掛かってきた。甘える声でそう呟く。

 えっ…? ええええええっ!?

 どういうことか? もしかして、これって誘っているとか? もっと一緒にいて、親密になりたいと言ってくれてるのか? ならいいぞ、受けて立つぞっ…とか思ったが。

 …いや、違う。まゆちゃんに限って、そんなことはないと思い直す。駄目だよ、期待させないでよ、まゆちゃん。寄り添っている柔らかい身体を剥がすのは本当に辛かった。何度も何度も思う。

 明日は休みだ、このままアパートに連れ込んで…いや、そんなこと駄目だ。彼女は自宅通勤じゃないか、もしも帰りが遅くなったり、戻らなかったら、どんなに親御さんが心配するだろう。俺はこのまま突っ走ったら、きっと彼女を今夜は帰せなくなると思った。

 …そして、何より。嫌われたくないから。


「春さん…どうして駄目なの?」
 彼女の濡れる瞳がそう語っている。ああ、これも俺の願望なのか? どうしたらいいんだ、もう。

 

…**…***…**…


 ――まゆちゃんの、明確な答えが欲しい。


 雑誌をひっくり返して、色々読み漁った結果、やはり古典的ではあるが非日常的な舞台に連れ出すしかないと気付いた。回りくどいことを言わずに言えば、簡単。旅行に誘うのだ。もちろん、週末で一泊で戻れるスケジュール、近場にしか行けない。だけど、これには重要な意味がある。

 俺が「旅行に行かない?」と言って、彼女がそれに承諾すれば…それは、とどのつまり「最後までオッケーよv」と言うことになる。まゆちゃんだって、成人した大人だ。男と女がふたりきりで泊まりがけの旅行に出かければ、どういうことか分かっているだろう。それが嫌なら断ればいい。直接的に言われるよりも、俺としてもショックが少なくて済む。


 ということで。俺の目下の悩みは、いつそれを彼女に切り出すかだった。

 面の皮の一枚下で悶々と悩んでいる俺など知るわけもなく、まゆちゃんはいつも無邪気に微笑む。あの「あなたが大好き」と言っているとしか思えない視線で見つめてくれるのに。それがただの幻想であったらどうしたらいいんだ。


 がくん。

 何があったんだろう? 突然、電車がストップする。ざわめく車内に、線路の点検のアナウンスが流れた。

 

…**…***…**…


 ああっ! もう、完全に遅刻だっ!

 俺は必死で走った。直接的な原因はあの電車の停止だ。でも、もっと余裕で出るつもりだったのに、丁度来た旅行会社の人にあれこれ話を聞いていたら遅くなってしまった。まゆちゃんをまた待たせてしまうことになるのかのか、申し訳ない。

 いつもいつも彼女の方が先に来てる。酷い時は20分、30分遅れることもあるのに、まゆちゃんはいつもにっこりと迎えてくれる。その笑顔にどんなに救われただろうか。急いでいても、彼女の前に立つ時には、呼吸を整えてさっぱりとしていた。息せき切って駆けつけたら、情けない男になりそうで。彼女の中の俺のイメージは壊したくない。


 …さあ、行くぞ。

 銀行のウインドで身繕いをして歩き出す。だけど、次の瞬間、我が目を疑った。…まゆちゃんが、いなかった。

 


 人を待つと言うことが、こんなに辛かったなんて。

 何度も何度も携帯の着信履歴を調べる。今まで遅れる時の言い訳なんてしたことなかった。携帯で話す暇があたら、一分でも一秒でも早く着きたくて。ああ、連絡のないまま、待ち人が来ないことが、こんなに心細いなんてっ…!!

 …もしかして、もしかして、まゆちゃん。気付いたのか? さかりのついたオオカミになりかけている俺を。頭の中は旅行のことで一杯だったから、嫌気が差したのか? ああ、どうしよう…。

 ヨコシマなことを考えて、いつも悶々としていたから。とうとう嫌われてしまったのかっ!?

 

 このまま、もしも彼女が来なかったらどうしよう。

 ああ、神様っ! 今日こそはきちんと彼女に言います、自分がどんなに彼女が好きで大切に思っているか。出来れば、一生でも一緒にいたいとか思っていることも。もしも、びっくりして引かれるかも知れないけど、こうしてこのまま自然消滅するよりもいい。

 できれば…まゆちゃんにはずっと隣で笑っていて欲しい…。

 握りしめた携帯のボディーに雨粒が落ちる。涙みたいにこぼれていく雫を呆然と見ていた。

 


「…春さん?」

 突然、頭の上に白い傘が咲く。俺は、声のした方向に顔をのろのろと上げた。

 いつもと変わらずに。綺麗な瞳が、まっすぐに俺を見ていた。



…おわり…(030725)

 

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