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Scene・3…会えない時間 真雪Side*『月が見てる』
「え? 出張……?」 「ああ、そうなんだ。大阪の支社にね、突然行くことになっちゃって……」 春さんが提案した企画が思いがけないところで採用になって、商品化のために開発チームに加わらなくちゃならなくなったって。まあ、アドバイザーみたいなかたちだから、最初から最後までじゃないけど。そう言うことは過去にも何度かあったらしくて、春さんは特に緊張した感じもない。 「こっちの仕事との兼ね合いもあるし、1ヶ月は空けられないから……多分、半月くらい行ってることになると思うんだ」 ――そうかあ、長期の出張みたいになるんだ。当然のことなんだけど、そう気づいたら急に寂しくなる。今まで2泊3泊の週中の出張とかはあったけど、こんな風にまとめてって経験ないから。 「うん、分かった。身体に気を付けて頑張ってね」 時々は、連絡するからね。そう言ってくれた言葉が胸にしみる。今は携帯があるから、どこにいてもまるですぐ隣にいるみたいに会話できるんだよね。だから、離れていても全然そんな気がしない。今までだって週に一度くらいしかデートしてなかったし、何てことないはず。
…**…***…**…
……そ、そんな大袈裟に叫ばなくたって。私は居酒屋の一角、一番隅の席で、ちっちゃくなってしまった。春さんとは普通の食事をすることが多いから、こんな風にお酒とおつまみという組み合わせも久しぶり。ポテトピザだとか、カボチャのガーリックソテーとか、カラフルで女の子好みのプレートが並ぶ。 「そうか〜っ、鴇田さんは大阪に出張だもんね。真雪も暇なんだ〜。……で、どうなの? 上手くやってるんでしょ?」 隣に座っていたまどかちゃんがおしぼりをマイクみたいに突き出してくる。え〜、そんな、とか言いつつ、どうにか話が他に行かないかなと願う。久しぶりに同期の女の子たちの飲み会に出席したんだけど、何かみんなの視線がこっちにぴりぴりっと来てるんだもん。気のせいじゃないと思うよ、これは。 「鴇田さん、格好いいもんね。デートの時とかそこら中から見られてる気がするんじゃない? すごく気持ちいいだろうなあ〜やっぱ、あのくらいレベルの高い男はいいわよねっ!」 そんな風に真理ちゃんが言えば、その向こうの翔子ちゃんも口を出す。 「彼って、すっごいクールじゃない? いつも爽やかデオドラント〜って感じでさ。でも、どうなの? 実はベッドの上では情熱的だったり……?」 「そうよそうよ、ああいう人に限って激しいのよね。週末頑張りすぎると、腰が立たなくなったりしてね〜いい整体、紹介しようか?」 ――きゃあああっ! どうしてそんな風に……やめてよぉ〜、みんな飲み過ぎてないっ!? ライム・チューハイを半分しか空けてないのに、私の頬は真っ赤だ。それなのに、何照れてんのよ〜とか肘でつつかれたりして。何かもう嫌〜っ! ちょっと、トイレに行って来るっ! 「けどさ、浮かれてるのも今のウチじゃない?」 「鴇田さんって、月に一度は大阪支社に行ってるでしょう? そういう人ってさ、あっちに現地妻がちゃんといたりするんだよね。ほら人気力士とか、大阪とか名古屋とか博多とか……ちゃんと地方ごとに女がいるって言うじゃない。プロ野球でもそういうの、聞くわよ?」 「ちょっとぉ〜っ、何突っかかってるのよっ。もしかして、あんた鴇田さんに気があったんじゃないの?」 「いいじゃん、どうでもっ! でも、真雪みたいなぽにゃぽにゃした子が鴇田さんに似合うとは思えないのよね。知ってる? 元カノの勢多さん。すっごーい美人だし、総合職で仕事も出来るんだよ? なのにさ〜っ、きっと今頃は大阪の女に愚痴ってるわよ。赤ん坊のお守りは大変だってね!」 なんとなく険悪なムードになったテーブルから逃げ出すとき、ケンカを売ってきた人の顔を見た。ああ、春さんと同じ開発部の子だわ。確か、何度も言い寄ってきていたと聞いたことがある。春さんは好みのタイプじゃないから、と言っていたけど。私は知りたくなくても、人気者の春さんの話はそこら中から伝わってくる。いちいち気にしていても仕方ないんだけど、やっぱりいい気はしないわ。
「ねえ、あんまり気にしちゃ駄目だよ」 狭苦しい洗面台の前で溜息なんかついてたら、ドアが開いてまどかちゃんが入ってきた。しっかりした性格の子だから、さっきのやりとりでぷりぷりと本気で怒ってくれたのがよく分かる。彼女は私の方をちらっと見ると、大丈夫だよと微笑んだ。 「鴇田さんの彼女は真雪なんだから、外野の声なんて気にしちゃ駄目。だって、連絡は取り合ってるんでしょ? 離れて1週間なら、彼だって会いたがってるでしょうよ」 「うん――」 きっと励ましてくれているんだろうな、それは分かるんだけど。まどかちゃんの言葉は逆にずきんと引っかかった。だって……春さんとこの1週間、全然しゃべってないの。短いメールは何度もやりとりしたんだけど、直接の会話はなくて。だって、何だかタイミングがつかめなくて、お互いにすれ違ってばかりなんだもの。 「ここは地下だから通じないかも知れないけど……何だったらちょっと表に出て声を聞いてくれば? せっかくの楽しい飲み会、浮かない顔をしてるのも嫌でしょ?」 背中をぽんと叩いてくれる。まどかちゃんの笑顔に助けられて、私は少しだけ浮上した。
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就業時間内はまずいなと思うじゃない、普通。朝起きて、出勤前って言うのも慌ただしいし。そうするとどうしても退社後の時間に……ってなる。 盛り上がっている席で、いきなり携帯が鳴ったらびっくりするよね。しかもそれが彼女からだったりしたら、春さんはきっと迷惑だなって思うはず。そんな風に考えてると、あっという間に11時とか過ぎてるのよね。もう寝ちゃったかな、って思ったら「おやすみなさい」のメールしか打てないよ。 春さんのメールって言うのが……また何というか。いつもの彼からは想像できないくらいビジネスライクなの。たとえば「春さん、おはよう。今日はいい天気ですね。お仕事頑張ってね」と朝に送信するじゃない。そうすると返信はひとこと「こっちは曇ってますよ」。あんまり短いから、続きが来るのかなって思って待っていたこともある。でも、それきり私の携帯はうんともすんとも言わなかった。 ――う〜ん、9時半。微妙な時間だな。でも、思い切って掛けてみるか。 でこぼこの煉瓦の壁に寄りかかって、私はアドレス帳から春さんのナンバーを選択した。呼び出している間にふと路上に目がいく。週末だからだろうな、いつもよりもカップルの姿が多い。夏の盛りだというのに、みんなべったりくっついて。すごいよな〜ホント。 ようやく、キスまで進んだ私たち。でも大人なんだし、そこまで行けば先はずんずん進む気がする。さっきのみんなの話を聞いていても、まさか私たちがまだ清らかな関係だなんて、誰も思ってないよ。これだけ付き合っていれば、大人の関係なんて当たり前だって思ってる。……普通はそうなのかな? 私だけが変なのかな。 元の彼女さんとは……もっと早くに親密になったのかなあ……? 「――あ、もしもし? どうしたの?」 ぎゃっ。ぼーっとしていたら、急に携帯から春さんの声っ! そのバックにはガヤガヤと賑やかな音が重なる。うわ、やっぱり夕ご飯とかそう言うときだったかな!? 「はっ……春さん? ええと、真雪です」 何か久しぶりに生の声を聞いたから、どうしてもかしこまってしまう。携帯はちゃんと掛けてきた人の名前が出るんだから、いちいち名乗ることもないのに。 「ええとっ、ええとねっ……春さんっ……」 ――と、その時。 『ねえねえ、誰と話してるの? コソコソしていておかしいじゃない、春太郎くんっ!』 いきなり私の耳に、聞き慣れない声が飛び込んできた。春さんが「あ、ちょっと……」とか受話器を覆って返事しているのが聞こえる。 え……、待ってよっ……! お、女の人!? 今のは確かに女の人っ……、それも標準語。大阪にいるんでしょ、春さんっ! どうして? 『何よぉ〜、私たちの間で隠し事なんてっ! ねえ、相手は誰? 私に聞かれちゃまずいのっ……?』 「あっ、あのね。まゆちゃん、今――」 私の指先で、ピッと音が鳴った。知らないうちに電源を落としていたんだ。生ぬるい風がふわっと吹き込んできて、やがて雨が落ちて来る。 点々のシミがどんどん広がっていく路上。私はその場に立ちつくしたまま、濡れていく風景をぼんやりと眺めていた。
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ええと。一応、就業時間内だから「暇」って訳じゃないんだけど。丁度、上からの仕事待ちで、ふっと時間が空いたところだった。振り向くと、同じ部署の小塚くん。先輩だから、本当は「小塚さん」なんだけど、何となくウチの部署ってそんな風にフランクに呼び合っているのよね。 「あ、……ええと、お茶ですか?」 小塚くんは私よりも一年先輩だから、春さんと同期。そう、最初に春さんのリサーチをするときに色々聞いた人なんだ。そんなことも聞けちゃうくらい、とても気さくな人だし、それだけに知り合いも多いみたい。私が立ち上がり掛けると、まあまあ、ってもう一度座るように促された。小塚くんも隣の空いている席にでんと腰を下ろす。 「ねえ、まゆちゃん。鴇田があっちに行ってるから、週末暇でしょ? 土曜日の夜、空いてるかな。ちょっと付き合って欲しいんだけど……」 聞けば、小塚くんのお友達がセッティングした合コンで、なかなか女の子が集まらないんだって。色々聞いて回ってるんだけど、みんな都合が悪くて。それで私の所まで話が来たみたい。 「君と鴇田のことは、結構知れ渡ってるし。そんなやばいことにはならないと思うんだ。まゆちゃんもずーっと単身赴任の妻をしていてつまんないでしょ? たまには楽しくやるのもいいんじゃないの?」 「はあ……」
まあ、いいかって思っちゃった。何か、本当に私も荒んでいたんだろうな。 あれから、携帯の電源を入れるのも億劫で、週末もぼんやりしていた。で、月曜日が来てチェックしたら、ばばばーっと着信履歴があって。春さんからのも10件くらいあって。そして、最後にぽつんとメールが届いていた。 「大学の時の仲間で飲んでました。あれはただの友達です」 角張った液晶画面の文字からは、冷たい事実しか浮かんでこない。何か、春さんがすごく怒っている気がした。そりゃ、そうかもね。こっちから電話したのに、あんな風にいきなり切っちゃって。その後もずっと通信不可になっていて。何て礼儀知らずなんだと思われたかな。 ……でもっ、びっくりしたんだもん。すごく、心臓が止まるくらい、怖かったんだもん。 「現地妻」って、変な言葉だなとか思った。でもっ、関西に年の何分の一か行ってる春さんだもん、向こうに恋人がいたっておかしくない。そりゃ、こっちでは私が一応の彼女と言うことになってる。でも、そんなの見かけだけかも知れないし。 私が一生懸命働きかけて、だからようやく春さんは気づいてくれた。もしもあの日、私が春さんに声を掛けなかったら、私たちは出会うこともなかったんだ。 だいたいさ、春さんって。こんなに離れていて、私に会いたいなとか思ってくれないのかな。 声が聞きたくて、電話したいなとか。そんな風に思わないのかな。私がメールしたときだけ、型どおりに返信してくる。それだけなんだもん。最初の数日は必死で連絡を取ろうと思ったけど、だんだん面倒になっちゃった。春さんも二三回、タイミングがずれて私が出なかったら、もうそれ以来掛けてこなくなったし。 何かもう。春さんがこっちに戻ってきたら、私たちって他人に戻るんじゃないのかな。とりあえず「そうですか、分かりました」って、メールを返して。それからも、毎朝「春さん、おはよう……」って、打ってるけど。でも、自分でも事務的だなとかそんな風に思っていた。 きっと、私が連絡しなければ、春さんもそれきりなんだ。
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地下鉄の階段を登ってきた私は、きょろきょろと周りを見渡した。同じような建物が並んでいて、よく分からない。桜色の花柄のキャミソールに、半袖の白い上着。そんなにおかしくないはずだ。このドレスも春さんとのデート用に買ったのよね。でも、肩ひもがすごく細くて、胸元も大きく開いていて。誘ってるみたいだから恥ずかしくて、ずっとタンスに下げたままだった。 ――と、携帯が音を立てる。慌てて開くと、……ああ、今日の幹事さんだ。小塚くんに言われたから、ナンバーを教えておいたんだっけ。 「あ、真雪ちゃん? ええとね、会場が変更になったんだ。今どこ? ……そうか、じゃあすぐそこにある信号を渡ってくれる?」 え、そうなんだ……とか。どっちにしろ、お店の場所がよく分からなかったから、ナビをして貰えて助かったかも。今日のメンバーには顔見知りの女の子もいなくて、ひとりで行くことになったから困っていたんだ。 ――何だか、春さんとは全然別のタイプかも。 春さんって、いつもきちっとしていて。そこが素敵なんだけど、ちょっと疲れることもある。話をしていても背筋がぴっと伸びる感じで、知らないうちに言葉遣いが丁寧になって。もしもお行儀悪くしたら、嫌われちゃうかなって心配になるのよね。
いつの間にか人通りも少なくなって、だいぶ寂れた場所になってきた。見ると雑居ビルの地下にバーの看板が出ている。階段も薄暗くて、足元が危ない感じ。でも、そこに降りてきてと言われたので素直に従った。ひとつしかないドアを押すと、からんからんと上でカウベルが鳴る。うわ、中も暗い……目が慣れないとどこに何があるかも分からないわ。 「真雪ちゃん、こっちこっち〜!」 「他の奴ら、まだ来ないんだ。だから、ちょっと待って貰うけど……どうする? ここはカクテルがおいしいんだけど、何かお好みはあるかな?」 矢上さんはもう水割りなんて頼んでる。これから、仕切らなくちゃいけないのにいいのかなあ。髪の毛もぼさぼさしてる。服装もすごくくだけてTシャツに綿シャツを重ねていて。足元なんてサンダルだ。ああ、これが普通の男の人なのかな。でも、春さんと全然違うからいちいち驚くわ。春さんだったら、ラフな格好をしてもどこかきっちりしてるもん。 私はアイスティーでいいって言うと、それをオーダーしてくれる。隣の席にどうぞと言われて座ると、何かじろじろとこちらを観察してる気がして。 「へえ、可愛い服着てるな〜。何? 鴇田と会うときはいつもこんな格好? あ、そのピアスもいいな。髪の毛も綺麗だよね、真雪ちゃん。うわ、柔らかいんだな〜」 きゃあっ! 慌てて飛び退いた。どうして髪に触れるのっ! 酔っぱらってるのかしら、ちょっとっ、やめてよっ……! 私が顔色を変えたことに気づいたのだろうか。矢上さんは冗談冗談、と軽く笑った。ちょうど、グラスも届いたので、それを飲みながら、しばらくは会社の話とかしていた。
「……皆さん、遅いですね?」 私がそう言ったとき、時計はもう7時近かった。確か、6時半に集まるようにと言われたはず。こういうのはぴったりに始まる訳じゃないからいいんだけど、それにしても誰も来ないって言うのは……。 「ちょっと、表を見てきましょうか? 何でしたら、小塚くんに連絡してもいいし……」 気を利かせたつもりなのに、そんなこといいよって言われる。何か年上の人にこれ以上意見するのも悪いかなって気になって、私はまた座り直してしまった。矢上さんは水割りのお代わりを頼んでいる。私がここに着いてから、もう3杯目だ。だいぶお酒臭くなってきてる。 それからまた時間が過ぎて。7時半を回った頃に、私はだんだんおかしいなと気づき始めた。お店にもほとんどお客さんがいない。すごく寂れた感じで、しかも分かりにくい場所。それに合コンって言ったら、お料理とか色々出てくるはずなのに、カウンターの中でそれを作っている感じもない。 「あの〜、ちょっと私やっぱり外を……」 何だかんだと途切れなく話をしてくる矢上さんを振りきって、私は席を立った。おかしいよ、これ。小塚くんもどうして来てくれないの。このお店、何だか空気も悪いし、嫌な感じ。 「いいってっ! 言ってんだろうがっ! 座ってろよ、黙ってっ……!」 いきなり、大声で叫んだ矢上さんが、私の腕をぐいっと掴んだ。ねっとりしたその感触が気持ち悪くてぞっとする。私を見る目が、色を変えて、かなりやばいなと思った。 「何だよっ! あんたまで俺を馬鹿にするのかっ! だから何だって言うんだっ……鴇田の奴っ! ひとりで手柄ばかりたてやがって……! 畜生っ! 許せねえっ……!!」 がたん、とテーブルがひっくり返る。その上のグラスが崩れ落ちて、砕け散った。でも、カウンターの中のバーテンはちらっとそれを見ただけで、またグラスを拭いている。私はそのまま床に崩れ落ちていた。 豹変、というのはこういうことを言うのかしら!? 一瞬のうちに、全く別人になっている。 「ちょっ……、やめてくださいっ! 矢上さんっ……!」 恐ろしくて、声になるか不安だったけど、どうにか叫び声が壁に反響した。でもっ、それなのに店内に数人いる誰もどうにもしてくれないのはどうして!? 矢上さんもどうしたのよっ! いきなり人格変えないでよねっ……! ものすごいうめき声を上げて、ぬっと伸びてきた腕が私の肩を掴む。のしかかってくる体重に身体が自由にならない。もうっ! ちょっと、待ってよっ! 何が何だかっ……でも、この状況、すごくやばい、やばすぎっ!
――両手と両足、必死でバタバタして。そして、びりっと布が裂ける音がして。
「……うげっ……、舐めんじゃねえぞっ……」 足元にうずくまる黒い影。私はバッグを手にすると、必死で飛び出していた。
…**…***…**…
まるで生まれたての雛のように、それは私に何かを訴えてくる。手探りでバッグを探りながら、でも気持ちは後ろを気にして必死に走った。 「あっ……まゆちゃんっ!? まゆちゃんっ、大丈夫かっ、どこにいるんだっ……!!」 驚きのあまり、半開きになった口の中で血の味がする。いつの間に、切ったんだろうか。身体の震えが止まらなくて、でも立ち止まったら追いつかれそうで。もう、私は足を止めることはなかった。 「はっ……春さんっ……!」 そう言った途端に、どっと涙が溢れてくる。 「春さんっ、春さんっ、……春さん……っ!」 ようやく賑やかな表通りに出る。ここまで来ればもう大丈夫。呼吸を整えながら、シャッターの降りた銀行の壁にもたれかかった。 「春っ……さぁん……!」 すごいすごい、怖かった。もう、どうしていいのか分からないくらい。駄目かも知れないって、思った。多分矢上さんは本気だったと思う。 しばらくは涙があとからあとから出てきて、それが止まらないから言葉が出なかった。耳元で春さんの息づかいが聞こえて。でも私の落ち着くのを必死で待ってくれてるみたいで。確かに繋がっているって、それだけが心の支えだった。 「ごめん、まゆちゃん。小塚から連絡貰って……でも、まゆちゃんの携帯ずっと通じないから。ほんとっ、口惜しいよ、俺っ……!」 あれ、……春さんの声が少し震えてる。悲しそうな瞳の色も見えるみたいだ。そんなはずないのに、何百キロも離れているのに。今、春さんがすぐ傍にいてくれる気がする。 「矢上さ、この頃なんかおかしくて。でも、俺に対して突っかかってるだけなら平気かなって……まさか、君のことどうするとは思わなかったから。迂闊だった……」 「うっ……、春さんっ……!」 また、涙が溢れてくる。止まらないよ、もう。でも、怖いからじゃないんだ、すごく嬉しいの。春さんの声が聞けて、ふたりで一緒にいるみたいな気分になって。春さんが、こうして私のことを心配してくれるのも……すごく、嬉しい。不謹慎だけど、ごめんね。
合コンの席に、私と矢上さんだけ来なくて連絡も付かないから、小塚くんはすぐにおかしいって気づいたんだって。でも、どこにいるかも分からない人間を捜すことなんて出来ない。困り果てて、矢上さんが行きそうな所を知らないかって、春さんに連絡したって。 春さん、びっくりして。私に、何度も何度も電話してくれてた。着信履歴が春さんで埋まるくらい。ずっとずっと。きっと、春さんの想いが私に届いたんだよね? そうじゃなかったら、駄目だったかも知れない。
「……大丈夫、逃げられたから。すごいところ、蹴り上げちゃった」 「え……?」 春さんの声が、唖然としてる。そうよ、びっくりすると思うよ。矢上さんの頬、きっと当分消えないくらいのあざになったと思う。もしかしたら切れたかも。自分の足があんなに高く上がるとは思わなかったわ。そう言えば、中学時代は体操部にいたんだった。結構身体も柔らかかったのよね、私。 ……ドレスの脇は、ちょっと切れちゃったけど。 「そっ……そうかぁ。それは……」 あれ、伝わったのかな? 春さんは何だか妙に納得してる。うんうんと何度も頷いて。何笑ってるの? 笑わなくたって、いいじゃない。 「まあ、この電話切ったら、すぐに小塚に連絡してやって。あいつ、責任感じて、ぼろぼろになっていたから。でも、ちょっと軽はずみだよな……俺も戻ったらボコボコにしてやるから。まゆちゃんも一発入れておいていいからね?」 「……えっ……?」 何で? 春さんが、そんな。大人しくてクールな春さんが、そんなことするなんて、絶対に変。ボコボコなんてそんな単語が出てくるなんて、すごいおかしい。そう思ったら、おかしくて。私もくすくすと笑っていた。 ――泣き笑いの顔で見上げたら、空にまあるいお月様。 「あ……春さん、月が」 「ああ、……本当だ」 一呼吸おいて、春さんも答える。 やっぱり。空はどこまでも続いてるから、春さんの上にも私の上にも、同じかたちのお月様。そうだね、離れていたってこんな風に同じものを見られるんだ。心、繋がったね。もう大丈夫だね。 「……来週末には戻れるから」 「ねえ、まゆちゃん。ちょっと、目を閉じてくれる? ……一瞬で、いいからさ」 「え……?」 お月様、見えなくなっちゃう。……でも。きゅっと、瞳を閉じたら。その瞬間、何かが口元に一瞬触れた気がした。びっくりして目を開けたら、また、さっきと同じお月様。 「……分かった?」 くすくすって。いつもより子供っぽくてやんちゃな春さんが、すごく近い。どきどきしちゃうよ、もう。 「う、ううん、分からない。……何したの?」 頬のほてりをおさえながら答えると、春さんは「じゃ、またあとでね」って、言った。私を見下ろすお月様、何だか春さんに見えてくる。春さんの声がまだ耳に残ってるみたい。何だかすごく幸せ。
……でもっ、こんな風に見つめられたら恥ずかしくて。今夜はもう眠れないかも……?
…おわり…(040302)
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