TopNovel世界が俺を*扉>世界が俺を聴いている!・15




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 足の速さはタイムを計れば一目瞭然、幅跳びやボールスローの飛距離はメジャーで測ればいい。
  でも芸術関係は、そういう明確な物差しがないから難しいのだとも言えよう。
「うん、確かに何カ所か外れた場所はあったね」
  奏斗は聞いたままの感想を正直に述べた。
「ほら、やっぱり。私の言ったとおりだったでしょう?」
  美音の瞳は怒りに溢れている。恥ずかしさのせいか、頬もピンク色に染まっていた。埃っぽいせいか、音のくぐもる狭い部屋。彼女の息づかいまでがダイレクトに伝わってくる。
「だから――」
  やめようって言ったのに、と続けようとしたのだろう。でも奏斗はその声を遮った。
「でも、とても綺麗な声だったよ。ずっと聞いていたいって思った」
「……嘘」
  極力感情を押し殺そうとしている様子だったが、それでも隠しきれない憤りが見え隠れしている。
「ううん、嘘じゃない。これだけ歌えるなら充分じゃない、どうして諦めようとするの?」
  美音は唇を噛みしめたまま、俯いてしまった。人工的なことはなにも施していないのに、透けるように白い肌、桜色の口元。美しさを神から与えられた彼女は、どんな表情をしていても絵になる。
「そんな……慰めなんていらない。駄目なものは駄目、どんなに努力したところで、いまさらどうしようもないもの」
  彼女の頬に掛かった黒髪が小刻みに震えていた。綺麗な指が制服のスカートをぎゅっと握りしめる。
「この世界がなくなっちゃうとか、怖い話もやっぱり信じられない。もしかして、竹本くんも山田先生もグルになって私を騙そうとしているんじゃないの? 私のことを苛めて、そんなに楽しい? こんなの……あまりに悪趣味だと思う……」
  ――二重唱はすなわち、お互いの心をしっかりと結びつけることだ。わかり合えない人間に、成功はあり得ない。
  魔女はきっぱりとそう断言した。しかし、この現状はどうだろうか。あまりにもふたりの置かれた立場が違いすぎ、どんなに手を伸ばしたところで触れあえない距離にある気がする。
  歌うことが得意な奏斗と、歌うことにコンプレックスがある美音。得手不得手とはいうが、あまりにも両極端だ。
  もしも、如月美音に自分の歌声を正しく聞き取る能力がなかったら、ここまで追い詰められることはなかっただろう。事実、奏斗の仲間でもかなり音程を外しながらも本人は意気揚々とマイクを握っている……という奴が数名いる。だいたい、カラオケなんて本人が気持ちよく歌うことができればそれでいいのだ。
  ――本人が気持ちよく歌うことができる……。
  そこで、奏斗はピンと閃いた。
「……あ、そうか。わかったぞ」
  どうして、今までそのことに気付かなかったんだろう。やはり自分は抜けているとしか思えない。
  奏斗の間の抜けた声に、美音はちらと顔を上げた。相変わらず、ムッとした表情のままだ。だけど、奏斗は気にせずに続けた。
「ねえ、如月さん。適当に『ア』で音を取ってみて」
  もちろん、美音は「まだやるの?」とでも言いたげな表情になった。
「いいから、早く早く」
  すると彼女はこちらを向いたままでいるのが嫌だったのか、ふたたびピアノに向かい合った。そして鍵盤をポンとひとつ叩いて、その音を取る。
  奏斗はじっと耳を澄まし、大きく息を吸った。そして、美音の声に合わせて控えめに音を乗せる。
「……え?」
  すぐに歌声は途切れた。美音が驚いた表情でこちらを振り向く。それだけで、もう充分だった。
「――ね、ちゃんとハモるでしょう?」
  思い通りの結果になって、奏斗はとても嬉しかった。
  そうなのだ、楽譜通りに正確に歌う必要なんてどこにもない。大切なのはふたりの歌声を美しく響かせること。そのためには奏斗自身が「合わせれば」いい。
「で、……でも、今のって、ただの偶然かも知れないし」
  そう言いつつも、美音の表情には今までとはまったく違う感情が見えていた。
「いいじゃない、偶然だって。とにかく、如月さんは魔女がくれた楽譜どおりに歌ってみて。俺のことは気にする必要ないから、如月さんが歌いたいようにやってみてよ」
  確かに、音楽の授業では楽譜通りに正しく歌うことが求められる。でも本来、「歌う」とはもっと自由な行為のはずだ。人間は楽器のように、たとえば決まったボタンを押せばいつでも決まった音が出る訳ではない。そもそも、持って生まれた声のトーンもひとりひとりが違っている。
「だけど、……そんなことをしたって、本当に上手くいくかどうかわからないし」
「でも、やってみる価値はあると思うよ?」
  そう言いながら、奏斗は自分の気持ちがだんだん高揚していくのを感じていた。それは今までにない、とてもわくわくする特別の感情。何をやっても結局は中途半端なままで終わる、つまらないばかりの毎日のはずが、急に目の前が明るく、キラキラしたものに見えてきた。
  ――もしかしたら、やればできるのかも知れない。
  それからは、もう夢中だった。今までは楽譜の通りに歌うことしかしてこなかったため、最初からすべてが上手くいった訳ではない。それどころか、失敗の連続。そもそも、与えられた楽曲がつかみどころのない不思議なメロディで、少しでも気を抜くと互いの歌声がバラバラになってしまう。
  奏斗は真剣だった、真剣にならざるを得なかった。何故なら、失敗すれば美音が自信をなくしてしまう。そんなことが度重なれば、いよいよふたりの関係は微妙なものになっていく。
  それを阻止するためには、奏斗が美音に合わせるしかない。彼女の歌声を聞き、そこに自分の音を乗せる。それ以外に方法がなかった。指揮者にでもなく、ピアノにでもなく、相手に合わせる。
  最初はたどたどしいままにひとつの小節を繰り返し、だんだん長く歌い込めるようになっていった。ようやく最後まで辿り着いたら、また最初に戻る。
  初めのうちこそは声も小さく自信なさげだった美音も、次第にはっきりと明瞭な歌声に変わっていった。それと同時に、彼女の表情もどんどん明るくなっていく。
  どれくらい時間が過ぎただろう、彼女はハッとして自分の腕時計を見た。
「……あ、やだ。もうこんな時間、私、帰らなくちゃ!」
「もしかして、ピアノのレッスン?」
「うん、そう」
窓の外は、もう赤く染まりつつあった。いつの間にか、夕方になっている。
  当たり前のように会話をしている自分たちが、未だに信じられなかった。一昨日初めて言葉を交わしたばかりなのに、今では彼女の言葉のリズムに合わせて自分も話を合わせることができる。
  ――やっぱり、これは夢なんじゃないだろうか。だったら、いつまでだって覚めないで欲しい……。 
「途中まで、一緒に帰ろうか?」
「そうだね」
  ふたりが「二番」の小部屋を出ると、音楽室はすでにもぬけの殻だった。突き当たりのステージ奥にある音楽準備室のドアにあるガラス窓には黒い布が掛けられていて、中の様子は見えない。
「……そういえば、今日はあの黒い人が出てこなかったね」
「あ、言われてみれば」
  このまますべてが上手くいくという保証はない。でも、少しは希望の光が見えてきた気もする。昼間とは打って変わって明るくなった美音の表情を見ながら、奏斗はそう思った。

   

つづく♪ (120623)

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