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………5 

 

 

「どうして泣くの? 失敗したっていいんだよ? 上手く行かないのはね、もっと頑張れるってことだもん。それはとても素敵なことだと思うけどな…。ね、悟史?」

 

◇◇◇


 レモン色のワンピース。

 彼女がそれを身にまとった時、とても不思議な光景を見た。ひとりの女の子が真新しい服を着ているだけなのに、彼女の後ろにもうひとりの影が見えたのだ。それはそれ以来、決して現れることのない一度きりの出来事だったが、悟史にとってあまりにも幻想的な瞬間で。

「唯子」という存在が、風景を飛び出して目の前に現れた…最初の出来事だったのかも知れない。


 あの日、偶然街角で見かけた唯子とファーストフードで軽くランチして別れた。ぽつりぽつりと他愛のない話をした気がする。学校の行事のこと、名物になっている先生や生徒の話。

「校長って、いつも作業着を着て、庭いじりをしてるよね?」

 悟史がそう言うと、唯子は大きく頷いて、コロコロと軽い笑い声を上げた。最初に声をかけた時は少し堅い感じだったが、徐々に表情がほぐれていく。そうなってくると彼女の瞳の輝きが際だった。

「そうなんですよね、私は校長室掃除だったんですけど。どろどろな格好のまんま入っていらっしゃるから、業者の方かと思っちゃって。コーヒーをいれてくれないかと言われて、どうしてですかと聞いちゃったんですよ〜あとから、担任の先生にすごく叱られました」
 そう言いながら、ぺろっと舌を出す。何が楽しいのか、彼女の話し方は弾んでいた。

「それは…」

 厳格で知られる校長だ、そんな風に扱ったら運の悪い者は停学処分かも知れない。しかし、唯子の言葉には少しの憂いもなく、続いた。

「でもね、私、また気がついたら校長室当番なんですよ? 何なんでしょうね? 校長先生は色々と用事を押しつけるから困るんですけど。毎日昼休みにはお花を活けたり、お茶をいれたりしにいくんですよ」

 短いやり取りの中で、彼女が通常どんな感じで過ごしているのか、悟史の中で明確なイメージが出来ていた。友達も多い、話に上がってくる名前がとても多い。教科担任ではない先生のこともよく知っている。まあ、同居している従兄の翔太が美術コース専攻だからというのもあるんだろうが、悟史たちの教科担当の教師の名前もみんな知っていた。

 どちらかというと、アウトロー的な存在で付き合う人間を選んでしまう翔太に対して、唯子はどこまでもオープンに生きているようだった。

「どうして、あんな時間にひとりでいたの?」

 と言う問いにも、あっけなく返事が戻ってきた。何か深い理由があるのかと思ったが、聞いてみれば簡単なことであった。

「別に、毎日じゃないんですよ?」
 悪びれる様子もなく、唯子はにっこりと微笑んだ。

 伯母、すなわち翔太の母親になるのだが、その人が倒れた舅の世話をしに週に3回ほど家を空けると言う。そのために一家の夕食の時間が遅くなり、だんだん皆がその日は各自で買い物したり、食べてきたりするようになった。

「去年までは、お友達が一緒に付き合ってくれたんですよ。でも春から予備校に通い出しちゃって…」
 唯子はそう言うと首をすくめた。

 自分たちの通う高校はそれなりの進学校だ。自由な校風で奔放に見えるが、毎年の進学率は地元の高校の中でも優秀な方だ。皆、それなりに塾や予備校、家庭教師などの世話になっている。

「唯子ちゃんは? …予備校に一緒に行けばいいじゃない」

 何気ない感じでそう訊ねると、大きな目を見開いた彼女が不思議そうに答えた。

「え? だって、…私、進学しませんから。必要ないですもの、そんなの。勉強なんて、もう十分だし。早く社会に出たいんです」
 きっぱりと言い切るその言葉に、何と言えばいいのだろう。

「そんな…」

 この不況下、高卒で就職するのは進学するよりも難しい気がする。翔太の話を聞いていても、経済的に困っている家庭ではないはずだ。翔太の父ひとりの稼ぎで生活出来て、さらに美術予備校に通うゆとりもある。芸術方面への進学は入学するまでにも金銭的な負担が大きい。どこの家でも悲鳴を上げているらしいが、翔太は高校生にはまだ贅沢だと思われる画材もあっさりと購入していた。

「高校だってね、本当は商業高校とか行きたかったんです。でも伯父や伯母が反対するから」
 もちろんこのままで就職は出来ないと思う。高校を出たあとは、実務系の専門学校に進んで技能を身につけたいと彼女は言った。

「…はあ」
 悟史はぱきぱきと自分の将来について話す唯子を、呆然と見つめていた。

 自分より年下のあどけない少女。同級生の仲間だって、とりあえず進学してあとのことはその時考えようと言う。まあ、そんな感じにアバウトに考えなければ、芸術系には進めないだろう。就職に関しても、最初からそれを念頭に置いていなかったら難しいと思う。

 それなのに。

 唯子の頭の中には、5年後、10年後の彼女が明確に描かれている気がする。そのみずみずしい未来がまぶしかった。


「――あ、あのさっ…唯子ちゃん」

 別れ際、どうにか切り出した。

「放課後、暇ならさ、ウチに来ない? 母親が手伝ってくれる人を探していたんだ。…毎日じゃなくて、いいから…」

 女の子を、あんな時間にひとりで置いておけない。ずっとそれを考えていた。お節介だとは思ったが、悟史としては何とかしなくてはと思っていたのだ。やはり翔太の妹的存在である彼女に保護者のような想いを抱いていたのかも知れない。

 その突拍子もない問いかけに、唯子はしばらく黙ってこちらを見つめていたが、やがて静かに頷いた。

 

◇◇◇


「あらあらっ! まあ、可愛いっ!」

 予想通り。悟史の母・佳苗は唯子をひと目見るなり、両手放しに喜んだ。子供はいくらでも欲しいと思ったが、生まれたのは悟史ひとり。子供の出来にくい体質だった彼女は娘を持つのが夢だった。だからこうしてままごとのように教室を開いているのかも知れない。

「トール・ペインティング…?」
 唯子にとっては馴染みのない言葉だったらしい。彼女は佳苗の言葉をひとつひとつ丁寧に聞いていた。


「トール・ペインティング」…この数年来、主婦を中心に実益を兼ねた手軽な趣味として浸透しつつある。家の表札などのプレートを始め、木材やブリキ、煉瓦、鉢などの生活雑貨に専用の画材で絵を描いていく。出来上がった作品を見るとかなりの美術的センスを必要とされる気がするが、実はそうでないというのが佳苗の持論だ。

「誰でも描けるようにパターン化された絵柄、決まった筆使いが用意されているのがトールの魅力」

 そう言いきっている。確かに極めるためにはいろいろと必要かも知れない。だが、余暇を楽しむためには自分の好んだ絵柄が上手に描けるように練習すればいい。一度、それに似合った筆遣いを覚えれば、似たような絵柄はサンプルを見ながら容易に描けるようになる。

 佳苗はまず、地域のカルチャースクールでこれを学び、更にそこに教えに来ていた講師に直接指導を受けて、今では近所の若い女性を集めて、週に何度か教室を開いている。主婦対象には昼間の時間を当てるが、夕方から夜にかけて独身のOLを集めているのだ。

 悟史が自分の母親を称して言うのも何だが、佳苗という人は人を惹き付ける魅力のようなものを備えている不思議な女性だと思う。別にトールペイントに対しても、他の講師に比べて数段卓越した技術があるわけではない。生徒となる女性たちは、もっぱら佳苗の人柄に惚れ込んで訪れるらしい。


「みんな、素人だからね。最初は問屋さんから安く仕入れた材料でひとりひとりの希望にあったキットを作っているの。絵の具の種類も色も色々あるんだけど、絵柄にあわせて組んでいくから面倒なのよ〜。今まで手伝ってくれていた人が、ご主人の転勤で引っ越しちゃって…」

 佳苗は手を動かしながらも、口が止まらない。唯子は時々相づちを打ちながら、素直に言われた作業を繰り返していた。

「悟史さんのお母さんって…明るい方なんですね?」

 ふいにぽつんと言葉が落ちて、悟史と佳苗は顔を見合わせていた。それから、何を思ったのか、佳苗はふふっと笑う。傍らの悟史を肘でつんつんとつついた。

「やだっ…、悟史さん、なんて他人行儀ね? もしかして、まだちょっかい出してないの? 悟史はっ! 本当に奥手なんだからっ…」

「かっ…母さんっ…!」
 どうして、そっちの方に話が行くんだ。全くもう。悟史は慌てて言葉を遮った。

「友達のっ…翔太の従妹だって言っただろ? どうして、そんな話になるんだよっ…!」

 必死で説明し直しても、佳苗の態度に変化はない。

「あらあ、照れちゃってっ。こんな可愛い子なら、母さんも大歓迎よっ! 嬉しいわっ、悟史なんて抜きにして、仲良くしましょ? ねえ、あなた、お料理とかは? 私、実は色々免許も持っているの。娘がいたら、一緒にキッチンに立って教えて上げたかったのよっ!」

 佳苗はガンガンと話を進めてしまう。これでは悟史の出る幕もない。彼女が迷惑に感じていたら申し訳ないが、母親の嬉しそうな顔を見ているとあまり強いことは言えない気もする。


 …本当に、思いつきで連れてきただけなんだけど。

 芸術に従事する人間は普通とは全く違う感覚を持っていると言われる。今では自分同様、三度の飯よりも絵を描くのが好き、と言うような輩ばかりの中にいるから感覚が鈍っているが、中学までの友達とのつき合いの中で、何とも言えない違和感を覚えることが多かった。

 ただ、ただ。唯子という存在が不思議で、そのまぶしさに惹き付けられていた。

 こんな言い方をするととてもよこしまに聞こえるかも知れない。でも、そうではないのだ。彼女の身体に触れるより、心に触れたい。友人の従妹、と言うポジションから少しだけ抜け出すことが出来たら…無意識のうちにそう願っていたのか。

 実はこうして唯子を家に呼んだことを、翔太には話していない。彼自身も何も言ってこないから、唯子の方も彼には何も話していないらしい。本当の兄妹のように仲良くしていたあの姿を考えると、少し不思議だったが、兄弟のいない悟史にとってはその微妙な関係が読みとれないのかも知れない。

 

◇◇◇


「…ふう」
 軽い吐息が唯子の口元から漏れる。

 早めの夕食を摂って、6時からの教室の手伝いをして。彼女が帰路についたのは8時を回った頃だった。1週間前、駅のロータリーに座っていたあの時間と同じだ。

 ひとりでああやって時間を潰すなら、忙しくてもたくさんの人の中にいた方が楽しいのではないかと思った。…本当に、車のライトが彼女の横顔を照らし出したあの瞬間、この世のものとは思えないようなはかなげな印象を受けたのだ。

「ごめん、いきなり。疲れたでしょう…?」
 正直、佳苗があそこまではしゃぐとは思わなかった。唯子を台所に引っ張って、あれこれと指示しながらふたりで料理をする。合間にささやかな家庭菜園の手入れ、花壇の水やり。嬉しくて嬉しくて仕方ないと言う感じで、そこら中に連れ回していた。

「あ、いいえ。とても楽しかったです」
 そう言って微笑む表情にはかげりもなく、多分彼女が本心からそう言ってくれているのだと思った。

「ウチの母親ね…昔から、いろんなことに興味を持ちまくりで。俺が小学校に上がる前から、手当たり次第にカルチャースクールに通ってさ。更に上の教室に通っては、いろんな師範免許を持ってるんだ。よく話題になることは、一通りやってるよ? 今はトールの他に、ビーズアクセサリーの講座にも通ってるんだ」

「…へえ…」
 唯子は目をぱちぱちさせながら、言う。何かを言いたげな横顔が、やがて微かに動いた。

「なんか、ウチのおばさんとあまりに違うから。女性でも色々な方がいらっしゃるんだなと。お教室に来ていた方も、とても活動的な方々ばかりでしたよね?」

「…そうかな?」
 まあ、類友、と言う奴だと思う。佳苗があんな性格だから、集まる生徒も似たようなタイプになる。

「翔太のお母さんは、何か習ったりとかしてないの? お家にいるなら暇なんじゃない?」

 悟史から見れば、母親というのはみんな佳苗のような感じだと思ってしまう。家族のために家事もこなし、更に自分の楽しみのために時間を作る。でもその一切に手抜きはないし、愚痴もこぼさない。いつも楽しそうだ。

「う…ん、どうかなあ…」
 唯子はくるんと首を回した。

「お兄ちゃんがずっと病気がちだったでしょ? だから、おばさんも病院の付き添いとか、入院すれば介護とか…そう言うのしていたから。本当に、この数年なんですよ、お兄ちゃんがこんなに普通に出来るようになったのって…」

「そうかあ」

 短く答えて、それから考える。


 悟史にとって、唯子という存在はまだ数回しか会っていないのに、何故かとてもイメージの湧きやすい娘だった。たとえば教室で、校長室で、職員室で。彼女がどんな風に周りの人間と接しているか。この人なつっこい微笑みと、素直な受け答えでどこにいても好かれるだろう。

 …小さな頃に親を亡くして、翔太の両親に引き取られた。その生い立ちは普通に考えたら、薄暗くてどこかもの悲しいと思う。でも彼女にはそんな影は微塵もなく、いつでも爽やかな風の中に立っているみたいだった。

 でも、実は。分からないことがひとつあった。

 どうして、彼女は家にまっすぐに戻らないのだろう? そりゃ、翔太の母親がいなくて、食事の用意が出来ていないと言うこともあるだろう。しかし、翔太だって、唯子だって、もう高校生だ。親がいなくたって簡単な料理を作ればいいじゃないか。
 今日だったら、翔太も予備校がない。悟史と同じ時間割で通っているのだから、彼が不在なのは週に2日だ。実力テストも近いから、家で勉強しているかも知れない。それでも、悟史がこうして誘わなかったとしたら、唯子は多分、家には戻らずどこかを彷徨っていたのだ。

 

◇◇◇


 その夜。悟史はスケッチブックを広げて、何の気なしに落書きをしていた。そんな風にして仕上がったモチーフがいくつもある。何かを写生するのも勉強のひとつだが、パソコンの画面に立体的なかたちを形成するためには、自分の中にも確かなイメージを形成する必要がある。それがもしも独特な人と違う視点であれば、それだけ個性になるのだ。

 …自分に、足りないもの。

 いつかの教師の言葉を思い出す。自分のことを「器用だ」と言ったあの男の言った台詞。あのときは反発したが、でも心のどこかで思っていたことを言い当てられたような気もしていた。


 子供の頃から。

 悟史は言われたままに目の前の風景や物をそれらしく綺麗に描くことが好きだった。出来上がった絵はどこから見てもそのものをはっきりと表現していて、狂いがなくて。自分でもとても正確に描けていると思っていた。周りの教師も友達もみんな誉めてくれた。
 両親に連れられて出かけた美術展で、リアルなCGイラストをたくさん見る機会があった。その写実性の高い作品に心を奪われ、自分もいつかあんなイラストが描きたいと思った。だから、コンピューターグラフィックスを学ぶことを目指したのだ。

 綺麗な物を、綺麗に描く。そのものがあるべき姿をそのまま表現する。

 それでいいのだと思っていた。それが一番いいと思っていた。でも、そうやって来て、今壁にぶち当たっている。ここ数年、いくら描いても気に入った作品にならない。周りの友人たちと比べても技術的にも劣っているとは思えないのに、自分の絵には何か足りないものがあるのだ。


 すすす、と鉛筆が走る。そこに描き出されたのは、いつか見た唯子の横顔だった。


「…あれ?」
 その時、ふと気付いた。確か、明日の油絵の授業で何か特別な持ち物があったはずだ。先週の時間の終わりに教師がそれを言ったはずで、その時は覚えていた。なのに、思い出せない。慌てて手帳を取り出してみたが、そこには何も書かれていなかった。

「う〜んっ…」

 少し悩んで、クラス名簿を取り出す。翔太は自分と同じ教科を選択しているから、彼なら知ってるかも知れない。聞いてみようと思った。名簿には自宅と携帯とふたつの番号が載っている。ちょっと考えてから、自宅の電話の方にかけてみた。

 みっつ、よっつとベルが鳴り、かちゃんと受話器の上がる音がした。

「…もしもし…?」

 最初は留守電かと思った。だから恐る恐る、声をかけていた。 はい、生野です、と言う言葉があまりにも低くて、それが生の声とは思えなかったのだ。

「ええと…あの、翔太さんと同じクラスの木暮悟史と申しますが…」

 そこまで告げると、電話の向こうで息を飲む声がした。

「はい、木暮さんですね? 翔太さんにご用でしょうか、…しばらくお待ち下さい。今、呼んで参ります」

「あっ…あの――?」
 慌てて声をかけたが、当たり前のように保留音が流れ出した。

 …嘘だろ?

 悟史は信じられなかった。何故なら、受話器を取って自分と話をしたのが唯子だと分かったからだ。微かな吐息の漏れる音で、確かに彼女だと判別出来る。だが…どうして、あんなに他人行儀に? さっきまで、駅の改札口まで送るその道のりでは、普通に話していたじゃないか。

「あ〜、悟史? 何だよっ!? いきなり電話して来るなんて…」
 やがて、翔太の声が耳元に響いた。でもその時、悟史は自分がどうして電話をしたのか、その理由をもはや忘れていた。

 

◇◇◇


「木暮さんですね?」「翔太さんにご用でしょうか、…」

 何度も何度も。同じ言葉が頭を回る。あれは唯子だ。自分でもそう思ったし、翔太にも確認した。間違いない、彼女だ。

 でもおかしい。どうして、唯子は「翔太さん」なんて、呼んだんだ? 自分のことだって、「木暮さん」…いつもは翔太と同じように、名前で呼んでくれているのに。


 机に戻ると、先ほど描きかけたスケッチがそのまま置いてあった。悟史はイラスト用のマーカーを取り出すとその上に色を乗せる。ラフ・スケッチのように。

 悟史の中の唯子は、初めて出会ったあの階段の踊り場から見たイメージだった。辺りがぱっと輝くような飴色。はちみつか梅酒のような深くて甘い色合いだと思っていた。

 しかし。その時、悟史が彼女の横顔に乗せていたのは、紫陽花の色よりも深い、海のような青だった。


 

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